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友達なんだから

三ヶ月という時間は、ミアに多くのものを取り戻させた。


 学園へ戻るための希望。


 アルベルトやエリーゼからの信頼。


 クレイドと冗談を言い合える日常。


 そして何より、ルシアと再び笑い合える時間。


 だからこそ、ミアは不思議だった。


 こんなに頑張ったのに、どうしてまだ我慢しなければならないのだろう。


     *


「ミア、今日は調子がよさそうですね」


 エリーゼが微笑んだ。


 アルベルトの自宅にある書斎。


 学園への復帰に向けた特別学習を終えたミアは、机いっぱいに広げた教科書を閉じた。


 ミアはまだ、学園へ戻ることを許されていない。


 そのため、エリーゼが定期的にアルベルトの家を訪れ、授業の遅れを補うための勉強と、吸血に関する指導を行っていた。


「うん! 今日は全然平気!」


「血への欲求は?」


「ないよ!」


「本当に?」


「もう、エリーゼったら! 毎回聞くんだから!」


 ミアは頬を膨らませた。


 エリーゼは苦笑する。


「大切なことですから」


「分かってるってば!」


 ミアは笑った。


「欲しくなったらちゃんと言う。隠さない。勝手に飲まない!」


「はい。よく覚えていますね」


「三ヶ月も言われたら覚えるよ〜!」


 エリーゼは安心したように頷いた。


 その姿を見て、ミアは胸の奥が温かくなった。


 褒められた。


 今日も、ちゃんとできた。


 以前の自分なら、誰かの血の匂いを感じただけで落ち着かなくなっていた。


 今は違う。


 血液パックだけで生活できる。


 人の近くにいても平気。


 誰かを襲いたいとも思わない。


 だから、自分はもう大丈夫なのだ。


 ただ、一つだけ。


 どうしても忘れられない味があるだけで。


「……ねえ、エリーゼ」


「何でしょう?」


「ヴァンパイアってさ、友達同士で血を分けたりすることもあるの?」


 エリーゼの手が止まった。


「……なぜ、そんなことを?」


「え? 気になっただけ!」


 ミアは笑う。


「だって、血ってヴァンパイアにとって大事なものでしょ? 仲のいい子同士なら、ちょっと分けたりするのかなぁって」


 エリーゼは少し考え、教科書を開き直した。


「そうですね。では、今日は吸血行為そのものについて、もう少し詳しくお話ししましょう」


「えっ、まだ授業続くの?」


「あなたが質問したのでしょう?」


「あはは、そうだった!」


 エリーゼは小さく笑い、ページをめくった。


「ヴァンパイアにとって、吸血には大きく分けて二つの意味があります。一つは、生命を維持するための吸血です」


「うん。それは分かる!」


「血液パックでも十分に満たせる、身体的な欲求ですね。ですが、もう一つ、空腹とはまったく異なる理由で血を求めることがあります」


「……空腹じゃないのに?」


「ええ」


 エリーゼは優しく微笑んだ。


「ヴァンパイアは、本能的に愛する者の血を求めることがあるのです」


 ミアが瞬きをした。


「……愛する者?」


「恋人や夫婦など、深く愛し合う相手ですね。そうした相手の血は、普通の血とは比べものにならないほど甘美に感じられることがあります」


「……へえ」


「ですが、それは単に美味しいというだけではありません」


 エリーゼは胸元に手を当てた。


「愛する者の血を飲むと、身体の奥から温かさが広がり、深い幸福感や安心感に包まれるのです。孤独や寂しさが薄れ、まるで心に空いていた隙間が埋まっていくような……そんな感覚ですね」


「……心の隙間が?」


「はい。身体はすでに満たされていても、愛しい相手の血を欲することは珍しくありません。恋人同士では、互いの同意のもとで血を分かち合い、愛情を確かめることもあるんですよ」


 ミアは頬杖をついた。


「じゃあ、好きな人の血って、普通の血よりずっと美味しいんだ?」


「そう感じるヴァンパイアは多いですね。愛情が深いほど、得られる充足感も強くなるといわれています」


「……ふうん」


 ミアの脳裏に、ルシアの姿が浮かんだ。


 優しく笑う顔。


 自分の話を楽しそうに聞いてくれる声。


 人間だった頃から、変わらず友達でいてくれた少女。


 そして、あの日。


 初めてルシアの血を飲んだときの感覚。


 あれは、空腹が満たされる感覚とはまったく違っていた。


 身体中に温かさが広がり、胸の奥が幸福でいっぱいになった。


 ずっと足りなかった何かが、ようやく埋まったような気がした。


 もっと飲みたい。


 ずっと飲んでいたい。


 あのときの自分は、そう思った。


「……ねえ、エリーゼ」


「何でしょう?」


「恋人じゃなくても、そういうことってあるの?」


「親しい友人や家族に深い愛情を抱くことはありますから、必ずしも恋愛感情だけとは限りません」


「……そうなんだ!」


 ミアの顔が明るくなった。


「ただし、ミア」


 エリーゼの声が真剣になる。


「ここからが大切です」


「……?」


「愛する者の血を求めることと、その血を飲む権利があることは、まったく別の話です」


 ミアは首を傾げた。


「……どういうこと?」


「たとえどれほど相手を愛していても、相手が望まない吸血は決して許されません。愛情を交わすための吸血は、互いが望んで初めて成立する、とても親密な行為なのです」


「……うん」


「それに、血を飲んで幸福を感じたからといって、相手も同じ気持ちでいる証明にはなりません」


「……」


「あなたは以前、ルシアの血を飲んで自制を失いました。今は誰かから直接血を貰うことよりも、自分の欲求を理解し、制御できるようになることが先です」


 ミアは少し黙った。


 それから、にっこり笑う。


「うん! 分かった!」


 エリーゼも微笑み返した。


 けれど、ミアの胸には、別の言葉が強く残っていた。


 愛しい人の血は、特別に美味しい。


 飲むことで、心の隙間が埋まる。


 身体が満たされていても、欲しくなることがある。


 ミアはそっと胸に手を当てた。


 自分はルシアが大好きだ。


 ルシアも、自分のことを大切な友達だと言ってくれた。


 だったら、あの血があんなに美味しかったのも、きっとそのせいなのだろう。


「……そっかぁ」


 ミアは小さく笑った。


 エリーゼは、その笑顔に気づかなかった。


 ミアが教わったことを、まったく違う意味で受け取ってしまったことにも。


     *


 数日後。


「ルシアー!」


 ミアが大きく手を振った。


 アルベルトの家の庭。


 花壇のそばに置かれたベンチで本を読んでいたルシアが、嬉しそうに顔を上げる。


「ミア!」


「何読んでるの?」


「歴史の本だよ。お兄様に借りたの」


「えー、難しそう!」


 ミアは笑いながら隣へ腰を下ろした。


 少し離れたテラスにはエリーゼが座っている。


 監督付きの面会。


 それは今も変わらなかった。


 同じ家で暮らしていても、ミアがルシアと二人きりになることは、まだ認められていない。


「ねえ、ルシア」


「なあに?」


「この前、首の傷が全部治ったって言ってたよね?」


「うん」


「腕も?」


「うん。全部治ったよ」


「へえ……」


 ミアは感心したように頷いた。


「純血種って、本当にすごいんだね」


「私もびっくりしたよ」


 ルシアは少し照れたように笑う。


「アルにも、もう完全に回復したって言われたの」


「じゃあ、痛いところもない?」


「うん。どこも痛くないよ」


「そっかぁ」


 ミアは嬉しそうに笑った。


「よかった!」


「心配してくれてありがとう」


「当たり前でしょ!」


 ミアは胸を張った。


「私たち、友達なんだから!」


 その言葉に、ルシアも笑った。


 けれど次の瞬間。


「……ねえ、ルシア」


 ミアの声が、少しだけ小さくなった。


「お願いがあるんだけど」


「なあに?」


「……血、少しだけ分けてくれない?」


 ルシアの笑顔が止まった。


「……え?」


「ほんのちょっとでいいの!」


 ミアは指先で小さな隙間を作ってみせた。


「ほら、私、三ヶ月も頑張ったでしょ?」


「……ミア」


「もう誰も襲ってないし、血液パックもちゃんと飲んでるし!」


 明るい声。


 いつもの笑顔。


「だから、一回だけ!」


 ルシアは膝の上の本を握りしめた。


「……ごめんね」


「……え?」


「それは、できないよ」


 ミアが瞬きをする。


「……どうして?」


「だって、ミアはまだ……」


「まだ?」


 ルシアは言葉を探した。


「……前に、私の血を飲んだとき、止まれなくなっちゃったでしょ?」


「……」


「だから、また同じことになったら怖いし……」


「でも、今は大丈夫だよ?」


 ミアが笑う。


「三ヶ月も練習したんだもん!」


「……うん。頑張ってるのは知ってるよ」


「じゃあ、いいじゃん!」


「……ごめん」


 ミアの笑顔が、ほんの少しだけ固まった。


「……また、ごめん?」


「ミア……」


「……そっか」


 ミアは俯いた。


 ルシアが慌てて手を伸ばす。


「ミア、あのね――」


「ううん!」


 ミアはぱっと顔を上げた。


「大丈夫! 無理言ってごめんね!」


 その声は明るかった。


 けれど、ルシアの胸には小さな不安が残った。


「……ミア」


「なあに?」


「欲しくなったら、アルやエリーゼに相談しよう?」


「うん!」


 ミアは元気よく頷いた。


「もちろん!」


 そして、話題を変えた。


「ねえ、それよりさ! 今度、一緒にお菓子作ろうよ!」


 ルシアは少し迷ってから微笑んだ。


「……うん。いいよ」


 ミアも笑った。


 まるで、何事もなかったかのように。


     *


 その夜。


 ミアは記録帳を開いていた。


『今日の血への欲求』


 いつもと同じ欄。


 いつもと同じ鉛筆。


 けれど、今日はなかなか書き始められなかった。


「……なんで?」


 ミアはぽつりと呟いた。


「……なんで、くれないの?」


 ルシアは元気だった。


 傷も治っていた。


 痛いところもないと言っていた。


 自分だって、三ヶ月間ずっと頑張ってきた。


 それなのに。


『それは、できないよ』


 ルシアの声が蘇る。


「……私、ちゃんとお願いしたのに」


 以前のように、いきなり噛みついたわけじゃない。


 ちゃんと聞いた。


 少しだけでいいと言った。


 なのに、断られた。


「……友達なのに」


 ミアはペンを置いた。


 胸の奥に、重たいものが溜まっていく。


 悲しみ。


 寂しさ。


 そして、ほんの少しの怒り。


「……私が悪いの?」


 誰も答えない。


 ミアはしばらく考えた。


 そして、小さく首を横に振った。


「……違うよね」


 だって、自分は頑張った。


 ちゃんと我慢した。


 ちゃんと謝った。


 ちゃんと約束を守った。


 それなのに。


「……ルシアが、くれないんだもん」


 ミアは記録帳へ視線を落とした。


 今日の欄に、丁寧な文字を書き込む。


『血が欲しくなった回数――〇回』


 書き終えると、満足そうに笑った。


 嘘を書いているつもりはなかった。


 血液パックは、もう欲しくなかったから。


 ただ、ルシアの血だけが欲しい。


 それはミアの中で、いつの間にか別のものになっていた。


     *


 それから数日。


 ミアは、何度かルシアに血をねだった。


 最初は冗談のように。


「ねえ、ルシア! ほんの一口だけ!」


 次は、甘えるように。


「お願い! 私たち、親友でしょ?」


 その次は、少し不満そうに。


「……そんなに嫌なの?」


 ルシアは、そのたびに断った。


 優しく。


 けれど、はっきりと。


「ごめんね、ミア。それだけはできない」


 その言葉を聞くたびに、ミアの胸には何かが積もっていった。


 ある日の夕方。


 ルシアがアルベルトの家の廊下を歩いていると、後ろから声がした。


「ルシア!」


 振り返る。


 ミアだった。


「……ミア」


「ねえ、今日も一緒にお部屋で遊ぼうよ!」


「うん。でも、エリーゼが来てからね」


 この日は、エリーゼが夕方からミアの様子を確認しに来る予定だった。


 ルシアとミアが一緒に過ごすときは、アルベルトやクレイド、エリーゼなど、誰かが必ず近くにいることになっていた。


「……また?」


 ミアが唇を尖らせた。


「もう三ヶ月以上経つのに」


「……」


「私、そんなに信用ない?」


「そんなことないよ」


「じゃあ、二人で遊んでもいいじゃん!」


 ルシアは困ったように眉を下げた。


「……それは、まだ駄目だと思う」


 ミアが黙った。


「……ねえ、ルシア」


「なあに?」


「私たち、友達だよね?」


「……もちろん」


「じゃあ、どうして?」


 ミアが一歩近づく。


「どうして、そんなに私を避けるの?」


「避けてないよ……」


「血もくれないし、二人きりにもなってくれない」


「……ミア」


「私、こんなに頑張ってるのに」


 ルシアの胸が痛んだ。


「……分かってるよ」


「分かってないよ」


 ミアが小さく呟いた。


「……全然、分かってない」


 そのとき。


「ミア」


 背後から声がした。


 ゼノンだった。


 ルシアの様子を見に来ていたゼノンは、廊下の向こうから二人の会話を耳にしていた。


 ミアの肩が跳ねる。


「……ゼノン先輩」


 ゼノンはルシアの隣へ立った。


「何の話をしていたの?」


「……別に」


「別に?」


「ちょっと、おしゃべりしてただけです」


 ゼノンはミアを見つめた。


「……ルシアに、血をねだった?」


 ミアの顔が強張った。


「……」


「答えて」


「……ちょっとだけ」


 ゼノンの表情が冷たくなる。


「……ミア」


「でも、ちゃんとお願いしました!」


 ミアが慌てて言う。


「無理やりじゃないです! ちゃんと聞いただけです!」


「断られたんだね?」


「……はい」


「だったら、それで終わりだよ」


「……」


「二度と同じお願いをしないで」


 ミアが唇を噛んだ。


「……どうしてですか?」


「……何?」


「どうして、そんなに駄目なんですか?」


 ゼノンは静かに答えた。


「君は以前、ルシアを襲ったからだよ」


「……」


「そして今も、ルシアの血を欲しがっている」


「でも、私、三ヶ月も頑張ったんですよ!」


「努力していることは知っている」


「だったら!」


「努力したからといって、ルシアの血を貰う権利が生まれるわけじゃない」


 ミアの顔から笑みが消えた。


「……」


「君がどれだけ頑張っても、ルシアが嫌だと言ったら、それまでだよ」


 ミアは俯いた。


 ルシアがゼノンの袖を引く。


「……お兄様」


 ゼノンはルシアを見た。


「ルシア。君は何も悪くない」


「……でも」


「謝る必要もないよ」


 その言葉に、ミアの胸が痛んだ。


 何も悪くない。


 ルシアは、何も悪くない。


 じゃあ。


 悪いのは、誰?


「……分かりました」


 ミアが小さく答えた。


 顔を上げる。


 いつもの笑顔。


「もう言いません!」


 ゼノンはしばらくミアを見つめていた。


「……約束だよ」


「はい!」


 ミアは元気よく返事をした。


 そして、二人に手を振る。


「じゃあ、またね!」


 足早に去っていく背中。


 ルシアは心配そうに見つめた。


「……お兄様」


「うん」


「ミア、怒っちゃったかな……」


「……怒っていたとしても、君が責任を感じることじゃない」


「……」


「ルシア」


 ゼノンは彼女の頬に触れた。


「もう、ミアと二人きりにならないで」


 ルシアは小さく頷いた。


「……うん」


     *


 その夜。


 ミアはベッドに座り、膝を抱えていた。


『努力したからといって、ルシアの血を貰う権利が生まれるわけじゃない』


 ゼノンの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


「……そんなの」


 ミアは唇を尖らせた。


「……分かってるもん」


 分かっている。


 無理やり飲んではいけない。


 嫌がる相手から血を奪ってはいけない。


 それは、この三ヶ月間、何度も教わった。


 でも。


「……ちょっとだけなのに」


 ルシアは純血種だ。


 あんなに深い傷だって、綺麗に治った。


 血をたくさん失っても、元気になった。


 だから、少しくらい分けてくれてもいいはずなのに。


「……私、友達なのに」


 ミアは枕を抱きしめた。


「……ルシアのこと、大好きなのに」


 なのに、ルシアはくれない。


 何度お願いしても。


 どれだけ頑張っても。


 どんなに欲しいと伝えても。


「……ひどいよ」


 ミアの目から涙が落ちた。


「……そんなの、ひどいよ……」


 しばらく泣いていたミアは、やがて顔を上げた。


 机の上には、いつもの記録帳。


 三ヶ月間、一日も欠かさず書いてきたノート。


 ミアはそれを手に取った。


 ページをめくる。


 努力の記録。


 我慢の記録。


 誰にも迷惑をかけなかった証拠。


「……私、ちゃんと頑張った」


 小さく呟く。


「……もう、十分だよね?」


 そして、ふと思った。


 ルシアがくれないなら。


 どうすればいいのだろう。


 何度お願いしても、答えは同じ。


 ゼノン先輩も、エリーゼも、アルも、きっと許してくれない。


 誰も、自分の気持ちを分かってくれない。


 ミアはしばらく考えた。


 そして。


「……あ」


 小さく声を漏らした。


 簡単なことだった。


 どうして、今まで気づかなかったのだろう。


「……そっか」


 ミアの顔に、ゆっくりと笑みが広がった。


「……分けてくれないなら」


 窓の外では、月が静かに輝いていた。


「……貰うしかないよね?」


 ミアは笑った。


 まるで、難しい問題の答えを見つけた子供のように。


「……うん」


 自分に言い聞かせる。


「そうだよね」


 ルシアは純血種だから。


 すぐに治るから。


 死んだりしないから。


 それに。


 自分たちは、友達だから。


「……私、何も間違ってないよね?」


 ミアは、机の上の記録帳を閉じた。


 その日の欄には、いつもと同じ文字が並んでいた。


『今日も血液パックだけで過ごせた。吸血衝動なし。明日も頑張る!』


 嘘を書いているつもりはなかった。


 ミアにとって、ルシアの血を欲しがることは、もう吸血衝動ではなくなっていた。


 それは、友達にお願いしたいこと。


 頑張った自分が、少しくらい貰ってもいいもの。


 そして、ルシアが意地悪をしているから、まだ手に入らないもの。


 そんなふうに、変わってしまっていた。


 ミアは立ち上がり、部屋の扉を開けた。


 廊下は静かだった。


 階下から、アルベルトとクレイドの話し声が聞こえる。


 ミアはそっと階段を下りた。


 途中、台所の前で足を止める。


 扉の向こうには、夕食の片づけを終えたばかりの台所があった。


 ミアは何気なく、その中を覗いた。


 棚。


 食器。


 調理台。


 そこに置かれた、一本の長い包丁。


「……」


 ミアは、しばらくそれを見つめていた。


 そして、小さく笑った。


「……ルシア、きっと大丈夫だよね」


 その声には、迷いも恐怖もなかった。


 ただ、友達を信じているような、無邪気な響きだけがあった。


 ミアは台所の明かりを消した。


 今夜は、まだ何もしない。


 だって、もうすぐ学園に戻れるのだから。


 もう少しだけ、いい子でいよう。


 みんなが安心してくれたら。


 ルシアと二人きりになれる日も、きっと来る。


 そのときこそ。


 今度は、ちゃんと血を貰おう。


 ミアは鼻歌を歌いながら、自分の部屋へ戻っていった。


 その足取りは、驚くほど軽かった。

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