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優しい怪物



 ミアがルシアを襲ったあの日から、アルベルトの家には新しい決まりができた。


 血液パックはアルベルトが管理すること。


 決められた量以上は飲まないこと。


 血が欲しくなったら、必ず誰かに伝えること。


 そして、ルシアとは二人きりにならないこと。


 ミアは、そのすべてを守ると約束した。


 最初の一週間は、決して簡単ではなかった。


「……アル」


「ん?」


「血、飲みたい」


 夕方。


 ミアは客間のベッドに腰掛け、膝を抱えていた。


 アルベルトは手元の書類から顔を上げる。


「身体の調子は?」


「元気」


「喉が渇くとか、身体が重いとかは?」


「ない」


「今日の分はもう飲んだよな」


「……うん」


「それでも欲しいか?」


 ミアは俯いた。


「……欲しい」


 以前なら、追加の血液パックをねだっていただろう。


 冗談を言い、笑って、アルベルトが折れるまで騒いでいたかもしれない。


 けれど今は違った。


「……でも、我慢する」


「無理に一人で我慢しなくていい」


「……え?」


「欲しくなったら言えって約束しただろ。ちゃんと言えたんだから、次は別のことをして気を紛らわせよう」


 アルベルトが椅子から立ち上がる。


「散歩でもするか?」


「……外、出てもいいの?」


「俺と一緒ならな」


 ミアの顔が少し明るくなった。


「……行く!」


 その日、二人は夕暮れの庭を歩いた。


 ミアは何度も、遠くから聞こえる心臓の音に気を取られた。


 けれど、そのたびに立ち止まった。


「……アル」


「どうした」


「今、ちょっと血が欲しくなった」


「そうか。じゃあ、こっちを歩こう」


「……うん」


 アルベルトは怒らなかった。


 ミアも隠さなかった。


 小さな約束を、何度も繰り返した。


     *


 翌週から、エリーゼが定期的に訪れるようになった。


「今日は、吸血衝動についてお勉強しましょう」


「……また授業?」


 ミアが机に突っ伏す。


「学校休んでるのに、ここでも授業なの〜?」


「当然です」


「エリーゼ、厳しい!」


「あなたがきちんと理解するまで、何度でも説明します」


 エリーゼは分厚い本を開いた。


「ヴァンパイアにとって血は必要なものです。しかし、必要だからといって、他人から好きなだけ奪ってよいわけではありません」


「……うん」


「特に、血への欲求が強くなったときは、自分の判断を過信してはいけません」


 ミアが小さく頷く。


「……私、あのとき、自分なら大丈夫だと思ってた」


「そうですね」


「でも、全然大丈夫じゃなかった」


 エリーゼは本を閉じた。


「だからこそ、今こうして学んでいるんです」


「……」


「ミア。あなたがヴァンパイアになったこと自体を、私は責めていません」


 ミアが顔を上げる。


「……ほんと?」


「はい」


「でも、ルシアを襲ったことは?」


「許されることではありません」


 即答だった。


 ミアは俯いた。


「……うん」


「だから、二度と繰り返さないために努力する必要があります」


「……分かった」


 ミアはゆっくりと姿勢を正した。


「私、ちゃんと勉強する」


 エリーゼが微笑む。


「では、続けましょう」


「……やっぱり続くんだ」


「当然です」


「厳しい〜!」


 久しぶりに、ミアの明るい声が部屋へ響いた。


     *


 二週間が過ぎた頃。


 ミアは、自分から血液パックの管理表をつけ始めた。


 何時に飲んだか。


 どのくらい欲しくなったか。


 飲んだあと、欲求がどう変わったか。


 そして、誰かの血が気になったか。


 小さなノートに、毎日書き込んでいく。


「……今日は三回」


 ミアは鉛筆を動かした。


「血が欲しくなったの、三回……」


 昨日は五回だった。


 一昨日は六回。


 少しずつ減っている。


「……やった」


 ミアは嬉しそうに笑った。


 そこへクレイドが顔を出した。


「何やってんだ?」


「記録!」


「……へえ」


「見て! 昨日より減った!」


 クレイドはノートを覗き込む。


「……ちゃんと書いてんだな」


「当たり前でしょ!」


「三日坊主になると思ってた」


「ひどい!」


 ミアが頬を膨らませる。


 クレイドは小さく笑った。


「まあ、続けろよ」


「……うん!」


 ミアは嬉しそうに頷いた。


 その笑顔を見て、クレイドも少しだけ安心した。


     *


 一ヶ月が経った。


 ルシアの傷は、ほとんど治っていた。


 首や腕に残っていた傷痕も薄くなり、日常生活に支障はなかった。


 それでも、ミアとの面会には必ず誰かが同席した。


 最初の面会の日。


 ミアは扉の前で、何度も深呼吸をした。


「……大丈夫かな」


 隣にいたエリーゼが尋ねる。


「何がですか?」


「ルシア……私のこと、怖いかな」


「怖いと思う気持ちは、まだあるでしょうね」


「……そっか」


「ですが、会いたいと言ったのはルシアです」


 ミアが顔を上げた。


「……ほんと?」


「はい」


 ミアの目に涙が浮かぶ。


「……よかった」


 扉が開く。


 居間のソファには、ルシアが座っていた。


「……ミア」


「……ルシア」


 二人は、しばらく見つめ合った。


 以前なら、ミアは真っ先に駆け寄っていただろう。


 ルシアも笑って抱きついたはずだった。


 けれど今は。


 ミアは、その場から動かなかった。


「……あのね」


 ミアが小さく口を開く。


「私、頑張ってるよ」


「……うん」


「毎日、ちゃんと血の量も守ってる」


「聞いてるよ」


「エリーゼの授業も受けてるし、アルにもちゃんと報告してる」


 ミアの声が震えた。


「……だから」


 少しの沈黙。


「いつか、また前みたいに仲良くしてくれる?」


 ルシアの瞳が揺れた。


「……うん」


 小さく頷く。


「私も、そうなりたい」


 ミアの目から涙が落ちた。


「……ありがとう」


 二人は近づかなかった。


 けれど、その日。


 久しぶりに同じ部屋で笑うことができた。


     *


 二ヶ月が経った。


 ミアは、学園への復帰に向けた準備を始めていた。


 まだ通常授業には参加できない。


 けれど、エリーゼが持ってくる課題をこなし、アルベルトの監督のもとで外出する時間も増えていた。


「ミア、今日はどうだった?」


 ある夜。


 アルベルトが尋ねる。


「今日はね、血が欲しくなったの二回だけ!」


「そうか」


「しかも、ちゃんと我慢できた!」


「我慢しただけじゃなくて、誰かに言えたか?」


「言ったよ!」


 ミアが胸を張る。


「エリーゼに一回、クレイドに一回!」


「よし」


 アルベルトが笑う。


「よく頑張ったな」


「えへへ!」


 ミアは嬉しそうに笑った。


 その姿は、以前の明るい少女そのものだった。


 誰もが少しずつ、希望を感じ始めていた。


 クレイドも、以前ほど険しい顔をしなくなった。


 エリーゼも、ミアの努力を認めていた。


 アルベルトは、学園への段階的な復帰を検討し始めた。


 ただ一人。


 ゼノンだけは、最後まで慎重だった。


「……本当に大丈夫だと思う?」


 ある夜、アルベルトに尋ねた。


「少なくとも、最初の頃よりはずっと落ち着いてる」


「それは分かる」


「じゃあ何が気になる?」


 ゼノンは少し黙った。


「……ルシアの血のことを、一度も話していない」


 アルベルトの表情が変わる。


「……」


「他の血が欲しくなったことは、正直に話している。でも、ルシアの血については何も言わない」


「……単に、もう欲しくないのかもしれねぇだろ」


「そうならいいけど」


 ゼノンは窓の外を見た。


「僕は、まだ安心できない」


     *


 三ヶ月が経った。


 ルシアの傷は、完全に治っていた。


 首にも腕にも、傷痕は一つも残っていない。


 失った血も戻り、体力も以前と変わらなかった。


 鏡の前で髪を持ち上げても、そこには滑らかな白い肌があるだけだった。


「……本当に、全部治ったんだ」


 ルシアは小さく呟いた。


 あんなに痛かったのに。


 あんなに怖かったのに。


 身体だけは、何事もなかったように元へ戻っていた。


 その日の午後。


 エリーゼの付き添いで、ミアがルシアの部屋を訪れた。


「ルシア!」


「ミア!」


 ミアは嬉しそうに笑った。


「今日ね、アルに褒められたんだ!」


「ほんと?」


「うん! もうすぐ学校にも戻れるかもしれないって!」


「よかったね!」


 二人は笑い合った。


 エリーゼも、少しだけ表情を緩める。


 ミアはルシアの顔を見つめた。


 そして、ふと視線を下げる。


「……あれ?」


「どうしたの?」


「ルシア、首の傷……」


「ああ!」


 ルシアは髪を持ち上げた。


「見て! もう全部治ったの!」


 白い首筋。


 傷跡は、どこにもない。


 ミアの瞳が大きく見開かれた。


「……わあ!」


 嬉しそうな声。


「本当に傷跡がなくなってる!」


「うん!」


「すごーい!」


 ミアは目を輝かせた。


「やっぱり純血種ってすごいね!」


「そうかな?」


「そうだよ!」


 ミアは笑った。


「だって、あんなにいっぱい噛んじゃったのに、もう何も残ってないんだもん!」


 ルシアの笑顔が、ほんの少しだけ止まった。


「……うん」


 ミアは気づかなかった。


 ただ、嬉しそうにルシアの首を見つめていた。


「……本当に、すごいなぁ」


 その声は、純粋な感心に満ちていた。


 けれど。


 ミアの胸の奥で。


 別の考えが、静かに芽生えていた。


 あんなに傷つけても。


 こんなに綺麗に治るんだ。


 だったら。


 少しくらいなら。


 また、血を貰っても大丈夫なんじゃないかな。


     *


 その夜。


 ミアは自室のベッドに座っていた。


 机の上には、三ヶ月間つけ続けた記録帳。


 毎日の血液パックの量。


 欲求の回数。


 誰に相談したか。


 どれだけ我慢できたか。


 ページをめくれば、自分がどれほど努力してきたかが分かる。


「……私、頑張ったよね」


 ミアは小さく笑った。


「ちゃんと、頑張った」


 誰かを襲ったりしていない。


 血液パックも、決められた量だけ。


 欲しくなったら、ちゃんと報告した。


 エリーゼの授業も真面目に受けた。


 アルにも褒められた。


 クレイドだって、最近は普通に話してくれる。


 ルシアも笑ってくれた。


 全部、元に戻り始めている。


「……」


 ミアは、ふと目を閉じた。


 思い出す。


 今日見た、ルシアの首。


 真っ白で。


 綺麗で。


 傷跡ひとつ残っていなかった。


「……すごいなぁ」


 もう一度、呟く。


 そして。


 あの日の味が蘇った。


 ルシアの血。


 温かくて。


 甘くて。


 今まで飲んだどんな血よりも、美味しかった。


「……っ」


 ミアは目を開けた。


 以前なら、ここで自分を責めていただろう。


 考えちゃ駄目。


 忘れなきゃ。


 もう二度と、あんなことしちゃいけない。


 そう言い聞かせていたはずだった。


 けれど。


 今夜は、少し違った。


「……でも」


 ミアは首を傾げた。


「……もう、治ってたよね?」


 ルシアは元気だった。


 笑っていた。


 傷跡もなかった。


 痛がっている様子もなかった。


「……だったら」


 ミアは、机の上の記録帳を見つめた。


 三ヶ月間。


 自分はこんなに頑張った。


 ちゃんと我慢した。


 誰にも迷惑をかけなかった。


 だから。


「……ほんの少しだけなら」


 小さな声が、部屋に落ちた。


「……いいよね?」


 ミアは笑った。


 いつもの、明るい笑顔だった。


 そして、記録帳を閉じた。


 その日の記録には、こう書かれていた。


『今日は血が欲しくならなかった。とってもいい一日だった!』


 けれど、その下には書かれていないことがあった。


 ルシアの血が欲しい。


 もう一度、あの味を確かめたい。


 三ヶ月間。


 ミアは一度も、その気持ちを誰にも話していなかった。


 そして今夜。


 その秘密は、後悔ではなく。


 小さな期待へと変わり始めていた。

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