もう、あんなことしたくない
ミアがルシアを襲った翌日。
アストリア共存学園の夜間部では、一つの噂が広がっていた。
「ルシア様が怪我をされたらしい」
「純血種なのに?」
「昨日から学園を休んでいらっしゃるそうよ」
「ゼノン様も今日は授業に出られないとか……」
廊下のあちこちで囁かれる声。
けれど、何があったのかを正確に知っている者はほとんどいなかった。
ルシアが重傷を負ったこと。
その原因がミアであること。
そして、ミア自身も一時的に登校を見合わせていること。
それらは、まだ一部の人間にしか知らされていなかった。
「……ルシアが?」
教室で事情を聞いたエリーゼは、珍しく声を失った。
目の前にはセドリックとクレイドがいる。
「命に別状はない。アルベルト先生が処置して、今は家で休んでいる」
セドリックが説明した。
「ですが……どうして?」
エリーゼの問いに、クレイドが顔を背けた。
「ミアが噛んだ」
「……え?」
「ルシアの首を。何回もな」
エリーゼの表情が強張る。
「ミアが……?」
「ああ」
「吸血の最中に加減を間違えた、ということですか?」
「そんな生易しいもんじゃねぇ」
クレイドの声が低くなる。
「俺が見つけたとき、あいつはルシアに馬乗りになって噛みついてた。引き剥がしても離さねぇし、押さえ込んでも、まだ血を飲もうとしてやがった」
「……」
「ルシアがやめろって言っても、聞こえてなかった」
エリーゼが口元へ手を当てる。
自分がミアへ教えた言葉を思い出していた。
『必要以上に奪わない』
あのときミアは、元気よく答えていた。
『私、三日前まで人間だったんだよ? そんなことしないって!』
「……ミアは今、どこに?」
「アルの家だ。ルシアとは別の部屋にいる」
「そうですか……」
エリーゼは目を伏せた。
「私も会いに行きます」
*
アルベルトの家では、ミアが客間のベッドへ腰掛けていた。
昨夜からほとんど眠れていない。
何度目か分からないほど、自分の手を見つめる。
もう血はついていなかった。
ゼノンに連れ戻されたあと、何度も洗った。
服も着替えた。
顔も洗った。
それでも、ふとした瞬間に赤い色が見える気がする。
「……」
扉がノックされた。
「ミア、起きてるか?」
「……はい」
アルベルトが入ってくる。
手には血液パックが一本。
ミアの視線が、反射的にそれを追った。
「……」
アルベルトはその動きを見逃さなかった。
「体調は?」
「普通です」
「身体が重いとか、喉が焼けるとかは?」
「ないです」
「空腹は?」
「……ない」
「血は欲しいか?」
ミアは少しだけ黙った。
それから、小さく頷いた。
「……欲しいです」
「どのくらい?」
「……すごく」
「そうか」
アルベルトは椅子を引いて座った。
「今日の分を持ってきた。身体に必要な血まで我慢する必要はねぇからな」
「……はい」
「ただし、飲み終わったら追加はしない。まずは飲んだあとにどう感じるか、確認する」
ミアが血液パックを見る。
以前だったら、飛びついていただろう。
何も考えずストローを刺して、美味しいと笑っていたはずだった。
「……アル」
「ん?」
「私、飲んでいいの?」
「何言ってんだ?」
「だって……」
ミアは俯いた。
「私、血を飲んだからルシアにあんなこと……」
「違う」
アルベルトが遮る。
「お前は血を必要とする身体になった。それ自体は悪いことじゃない」
「……」
「問題なのは、必要以上に欲しくなったとき、自分で抑えられなくなったことだ」
「……はい」
「だから、血そのものを禁止するつもりはない」
ミアの前へパックを置く。
「必要なものは飲め。そのうえで、飲みたいって気持ちがどう変わるか教えろ」
ミアはしばらく動かなかった。
やがて手を伸ばす。
ストローを刺した。
一口。
「……」
血が喉を通る。
身体が満たされる。
安心する。
美味しい。
やっぱり美味しい。
それが、怖かった。
ミアは一度ストローから口を離した。
「……アル」
「どうした」
「美味しいです」
「そうだろうな」
「……すっごく、美味しい」
声が震える。
「昨日、ルシアをあんなに傷つけたのに……」
ぽたり。
血液パックを握った手へ涙が落ちた。
「私、まだ美味しいって思っちゃう……」
アルベルトはしばらく黙っていた。
「ミア」
「……はい」
「美味しいと思ったことと、ルシアを傷つけたことは別だ」
「……」
「大事なのは、お前がその気持ちをどう扱うかだろ」
「……私、できるかな」
「今は一人でやろうとするな」
アルベルトが言った。
「隠される方が困る。欲しくなったら正直に言え」
ミアは涙を拭った。
「……はい」
そして、少しずつ血を飲み始めた。
一本を飲み終えるまで、いつもよりずっと時間がかかった。
「……ごちそうさまでした」
「身体は?」
「もう十分です」
「まだ飲みたいか?」
ミアは空のパックを見つめた。
「……はい」
「そうか」
「……もう一本欲しいです」
アルベルトは頷いた。
「今の身体には必要ない。それでも欲しいんだな?」
「……うん」
「分かった。言ってくれてありがとな」
ミアが顔を上げる。
「……怒らないの?」
「何を?」
「飲みたいって言ったから」
「欲しいと思うだけで怒ってたら、話し合いにならねぇだろ」
ミアの唇が震えた。
「……じゃあ、我慢します」
「つらくなったら言えよ」
「うん」
ミアは空の血液パックをアルベルトへ渡した。
指が離れる瞬間、少しだけ名残惜しかった。
それでも、手放せた。
*
ルシアの部屋を訪れたエリーゼは、ベッドで身体を起こしている友人を見て足を止めた。
「……ルシア」
「あ、エリーゼ!」
ルシアが笑う。
「来てくれたんだ!」
いつもと変わらない声だった。
けれど。
首には厚い包帯。
腕にも包帯。
顔色は青白く、長い黒髪は下ろしたままだった。
「……酷い怪我をされたと聞きました」
「うん。でも大丈夫だよ」
「大丈夫そうには見えません」
「みんなそれ言う……」
ルシアが困ったように笑った。
エリーゼはベッドの傍へ座る。
「痛みは?」
「昨日より全然ましになったよ」
「傷は?」
「塞がってきてるって。さすがにすぐには治らないみたい」
純血種の再生力は高い。
けれど深く裂かれた傷と、大量の失血。
普通の吸血痕とは違い、完全に元へ戻るまでには時間が必要だった。
「……怖かったでしょう」
エリーゼが小さく尋ねた。
ルシアの笑顔が止まる。
「……うん」
少しの沈黙。
「怖かった」
正直な声だった。
「ミアが何回も噛みついてきて……私の声、全然聞こえてないみたいで」
「……」
「私だって純血種なのに、あのときは上手く力を使えなくて……」
包帯へ触れようとして、手を止める。
「痛かったし……本当に、怖かった」
エリーゼがルシアの手を握った。
「それでも、ミアのことが心配なんですね」
「……うん」
「ルシア」
「なに?」
「ミアを心配することと、自分が傷ついたことをなかったことにするのは、違いますよ」
ルシアが瞬きをする。
「……」
「怖かったなら、怖かったままでいいんです」
エリーゼの声は優しかった。
「すぐに以前と同じように接する必要もありません」
「でも……ミア、すごく後悔してる」
「そうでしょうね」
「ミアも怖がってるんだよ。自分がまた誰かを襲うんじゃないかって」
「それでもです」
エリーゼは手を離さなかった。
「ルシアが安心して過ごせることも、大切です」
ルシアは俯いた。
「……うん」
しばらくして。
「ねえ、エリーゼ」
「はい」
「ミア、治ると思う?」
エリーゼはすぐには答えなかった。
「分かりません」
「……そっか」
「ですが、本人に治そうという気持ちがあるなら、できることはあると思います」
ルシアが顔を上げる。
「ほんと?」
「はい。ただ、簡単ではないでしょうね」
「……」
「今までミアは、血を欲しがる自分を疑ったことがありませんでした。だからこそ、ここからは本人にも努力してもらわなければ」
「うん」
「私も協力します」
「……ありがとう」
エリーゼは少しだけ微笑んだ。
「それに、まだ授業で教えたいことがたくさんありますから」
「ミア、エリーゼの授業好きだもんね」
「……本当にそうでしょうか」
「好きだよ! 怖いって言ってるけど!」
「そうですか」
エリーゼが小さく笑った。
ルシアも笑う。
ほんの少しだけ。
部屋の空気が和らいだ。
*
夕方。
ゼノンがルシアの部屋へ入ったとき、エリーゼはすでに帰ったあとだった。
「ルシア」
「お兄様!」
ルシアが嬉しそうに手を伸ばす。
ゼノンはベッドの端へ座り、その手を握った。
「身体はどう?」
「だいぶよくなったよ」
「嘘つかない」
「……ちょっと痛い」
「うん」
「でも本当に昨日よりはよくなってる」
「それならよかった」
ゼノンは静かにルシアの髪を撫でた。
包帯を見たとき、一瞬だけ表情が硬くなる。
「……」
「お兄様?」
「ん?」
「怒ってる?」
ゼノンは少し考えた。
「まだ怒ってるよ」
「……ミアに?」
「ミアにも。僕自身にも」
「どうしてお兄様が?」
「もっと早く、危険な状態だって気づくべきだったから」
ルシアは首を横に振ろうとして、痛みに顔をしかめた。
「……っ」
「ほら、動かさないで」
「だって……お兄様のせいじゃないよ」
「分かってる」
ゼノンが答える。
「でも、僕が心配していたことが現実になった。しかも、一番傷ついてほしくない人が傷ついた」
「……」
「正直に言えば、今すぐミアをこの家から遠ざけたい気持ちもある」
ルシアがゼノンを見る。
「でも、そうしないんだね」
「うん」
「どうして?」
「今のミアを一人にする方が危険だから。それに、本人が助けを求めてる」
ゼノンの赤い瞳がルシアへ向いた。
「だけど、勘違いしないでね。ミアを助けることと、ルシアを危険に晒すことは別だよ」
「……うん」
「もう二人きりにはさせない。少なくとも、ミアが自分を制御できると確認できるまでは」
「分かった」
「それから」
「なに?」
「ルシアは、ミアのために血を分けようとしないこと」
ルシアが目を逸らした。
「……まだ何も言ってないよ」
「考えたでしょう」
「……ちょっとだけ」
ゼノンがため息をつく。
「駄目だよ」
「分かってる」
「本当に?」
「……うん」
少しの沈黙。
「お兄様」
「なに?」
「ミアのこと、嫌いになった?」
ゼノンはルシアを見つめた。
「嫌いかどうかより、今は危険かどうかを考えてる」
「……」
「ルシアをあそこまで傷つけた事実は消えない。でも、ミアが助けを求めていることも事実だ」
「うん」
「だから僕は、総代としても、君のお兄様としても、両方を守れる方法を探す」
ルシアは少しだけ笑った。
「……ありがとう」
「ただし」
ゼノンが額を寄せる。
「もう僕に、あんな怪我を見せないで」
「……私がしたわけじゃないもん」
「そうだね」
ゼノンは苦笑した。
「でも、君が傷ついているのを見るのは嫌なんだ」
ルシアは握られた手に、そっと力を込めた。
*
その日の夜。
ミアの部屋には、エリーゼが訪れていた。
「……エリーゼ」
「こんばんは、ミア」
「……怒りに来た?」
「お話をしに来ました」
「……そっか」
エリーゼが椅子に座る。
ミアはベッドの上で膝を抱えたままだった。
「ルシアには会いました」
その言葉に、ミアの肩が跳ねた。
「……どうだった?」
「傷は回復し始めています。ですが、まだ安静が必要です」
「……」
「かなり怖かったそうです」
ミアの目に涙が浮かぶ。
「……うん」
「ミア」
「……ごめん」
「私は謝罪を聞きに来たのではありません」
エリーゼが静かに言った。
「あなたがこれからどうしたいのか、聞きに来たんです」
ミアが顔を上げる。
「……治したい」
即答だった。
「もう、あんなことしたくない」
「はい」
「ルシアを傷つけたくない。誰のことも傷つけたくない」
「……」
「私、人間だったんだよ?」
ミアの声が震える。
「ちょっと前まで、人間だったんだよ……」
涙が落ちる。
「血を飲まれるの、怖いって分かるはずなのに……」
エリーゼは黙って聞いていた。
「ルシアが痛いって言ってたのに、全然止まれなかった……」
「……はい」
「私、あのとき何考えてたんだろう」
ミアは自分の手を見る。
「ルシアなのに……友達なのに……」
声が小さくなる。
「血しか見えなかった」
エリーゼがゆっくり頷く。
「では、まず一つだけ約束しましょう」
「……なに?」
「血を飲みたくなったら、誰かに伝えること」
「……うん」
「誰かの心臓の音や血の匂いが気になったときもです」
「……うん」
「そして、自分で危ないと思ったら、その人から離れる。決して近づかない」
ミアが頷いた。
「……分かった」
「必要なら、私たちが距離を取ります。あなた一人に判断を任せることはしません」
「うん」
「それから」
エリーゼは少しだけ声を強めた。
「あなたは今まで、血を飲むこと自体が悪いわけではないと学びましたね」
「……うん」
「覚えていますか? 共存のために必要なこと」
ミアは目を伏せた。
「……必要以上に奪わない」
「はい」
「私……全然守れなかった」
「そうですね」
エリーゼは否定しなかった。
「でも、だからこそ、これから守らなければなりません」
ミアが涙を拭った。
「……私、頑張る」
「はい」
「絶対、頑張るから」
エリーゼが微笑んだ。
「では明日から、少しずつ始めましょう」
*
翌日から、ミアの生活は大きく変わった。
学園はしばらく休む。
血液パックはアルベルトが管理し、必要な分を渡す。
体調と欲求を毎日確認する。
ルシアとは距離を置く。
血の匂いや心臓の音が気になった場合は、必ず誰かに伝える。
そして、できるだけ一人きりにならない。
最初の数日。
ミアは驚くほど真面目だった。
「アル」
「ん?」
「……血、飲みたい」
「体調は?」
「元気。お腹も空いてない」
「そうか。じゃあ少し別のことしようか」
「……うん」
ミアは頷いた。
クレイドが持ってきた本を読む。
ラビが貸してくれたゲームで遊ぶ。
エリーゼが用意した課題に取り組む。
血が欲しくなるたび、誰かに話す。
それを繰り返した。
ある日、クレイドがミアの部屋へ顔を出した。
「おい」
「なに?」
「これ」
小さな包みを投げてよこす。
「……お菓子?」
「アルが買ってきた」
「クレイドが買ってきたんじゃないの?」
「うるせぇ」
「絶対クレイドじゃん」
「いらねぇなら返せ」
「いる!」
ミアが慌てて包みを抱える。
中には小さな焼き菓子が入っていた。
「……ありがと」
「別に」
クレイドは扉にもたれる。
ミアが一つ口へ入れた。
「……美味しい」
「そりゃよかったな」
少しの沈黙。
「……クレイド」
「あ?」
「私のこと、嫌いになった?」
クレイドが眉を寄せる。
「なんでそうなる」
「だって……」
ミアは俯いた。
「ルシアにあんなことしたし」
「……」
「クレイド、すっごく怒ってた」
「そりゃ怒るだろ」
「……うん」
「俺がもう少し遅かったら、どうなってたと思う」
ミアの顔が強張る。
「……」
「お前が何回も噛みついて、ルシアがやめろって言ってんのに、まだ血を飲んでたんだぞ」
「……ごめん」
「俺に謝るな」
「……うん」
クレイドはため息をついた。
「でもな」
ミアが顔を上げる。
「だからって、お前が消えればいいとは思ってねぇよ」
「……」
「自分で怖いと思ってんなら、ちゃんと相談しろ」
「……うん」
「次は俺でもアルでもエリーゼでもアイツでもいい。ルシア以外にな」
「……うん」
「もう一人で抱え込むな」
ミアの目に涙が浮かぶ。
「……クレイド」
「あ?」
「優しいね」
「は?」
「なんか、優しい」
「気持ち悪ぃこと言うな」
「照れてる?」
「照れてねぇ」
「絶対照れてる!」
「菓子返せ」
「やだ!」
ミアが笑った。
久しぶりに。
声を出して笑った。
クレイドはそれを見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。
*
さらに数日が過ぎた。
ルシアの傷は目に見えて回復していた。
腕の包帯は外れ、首の傷も少しずつ塞がってきた。
まだ身体を大きく動かすことは許されていなかったが、ベッドの上で過ごす時間は減っていた。
ミアはその間も、決められた血液パックだけを飲んでいた。
欲しいときは伝える。
飲めないときは別のことをする。
誰かに近づきたくなったら、距離を置く。
小さな約束を、一つずつ守っていた。
そして、ある夜。
アルベルトがミアへ告げた。
「今日はよく頑張ったな」
ミアが顔を上げる。
「……ほんと?」
「ああ」
「私、ちゃんとできてる?」
「少しずつな」
その言葉に、ミアの顔が明るくなった。
「やった!」
「だからって油断すんなよ」
「分かってる!」
「本当か?」
「もう前みたいに調子乗らないもん!」
「それならいい」
アルベルトが笑う。
ミアも笑った。
その笑顔は、転化したばかりの頃と変わらなかった。
元気で。
明るくて。
少し騒がしくて。
誰よりもヴァンパイアになったことを喜んでいた少女。
その姿が戻ってきたように見えた。
*
その夜。
ミアは自室で一人になったあと、机の上に置かれた空の血液パックを見つめた。
今日の分。
もう飲み終わっている。
身体は満たされている。
追加も欲しいとは言わなかった。
ちゃんと我慢できた。
「……」
ミアは少しだけ笑った。
「……私、頑張ってる」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「ちゃんとできてる」
そう言って、自分を励ました。
けれど。
ふと。
目を閉じると。
思い出す。
あの日。
ルシアの首。
流れた血。
忘れたくて仕方ない光景。
なのに。
その記憶の中に、どうしても一つだけ。
消せないものがあった。
味。
「……っ」
ミアが目を開けた。
「……違う」
小さく呟く。
「もう、考えない」
空のパックを手に取り、ゴミ箱へ捨てる。
ベッドへ潜り込む。
布団を頭まで被る。
けれど。
暗闇の中でも。
思い出してしまう。
ルシアの血は。
今まで飲んだどんな血よりも。
美味しかった。
ミアは目を強く閉じた。
そのことだけは。
まだ誰にも話せていなかった。




