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消えない欲求

真昼の街を、小さな影が走っていた。


「はっ……はっ……」


 ミアはどこへ向かっているのか、自分でも分からなかった。


 ただ走った。


 人のいる大通りを避け、細い路地へ入り、また曲がる。


 頭上から降り注ぐ陽射しが肌を刺す。


「っ……」


 眩しい。


 肌がひりつく。


 身体が重い。


 ヴァンパイアになってから、昼間の太陽が苦手になったことは知っていた。


 それでも止まれなかった。


 止まったら。


 思い出してしまう。


『痛い! ミア、やめて!』


「……っ」


 耳を塞ぐ。


「違う……」


 走る。


『お願い……やめて……!』


「違う……!」


『痛いよ……!』


「やめて……!」


 自分の記憶なのに。


 消えてくれない。


 ルシアの声。


 血の匂い。


 牙へ伝わった感触。


 口の中へ流れ込んできた血。


「……うっ」


 足がもつれた。


 壁へ手をつく。


「はっ……はぁ……」


 自分の手を見る。


 乾き始めた赤い血。


 ルシアの血。


「……」


 唇にも残っている。


 舌にも。


「……っ!」


 ミアは乱暴に口元を拭った。


「いや……」


 もう一度。


「いや……!」


 何度拭っても。


 味を覚えている。


「……ルシア……」


 涙が溢れた。


「ごめん……」


 その場にしゃがみ込む。


「ごめん……ごめんなさい……」


 けれど、ここは陽射しが強すぎる。


 身体がだるい。


 ミアは再び立ち上がった。


 ふらふらと歩く。


 やがて見つけたのは、使われていない古い建物だった。


 大通りから外れた細い道。


 建物と塀の間に、深い影が落ちている。


 ミアはそこへ入り込んだ。


 壁を背に座る。


 膝を抱えた。


「……」


 静かだった。


 遠くから人間たちの声が聞こえる。


 車輪の音。


 店の呼び込み。


 人間の街。


 その音の中に。


 聞こえる。


 とくん。


 とくん。


「……っ」


 ミアが耳を塞ぐ。


 近くを歩いている人間の心臓。


 一人。


 二人。


 三人。


 聞こえる。


「やめて……」


 さっきまで、ルシアをあんな目に遭わせたのに。


 血だらけにしたのに。


 やめてと言われたのに。


「……聞きたくない……」


身体に血をおくる心臓の音が鮮明に聞こえてくる。


その音が、とても美味しそうだと思ってしまう。


     *


 白い狼が街を駆けていた。


 ルナ。


 陽射しの中を走り、道を曲がる。


 鼻先が動く。


 ミアの匂い。


 そして。


 微かに混ざる、ルシアの血の匂い。


 ルナが方向を変えた。


     *


「……!」


 アルベルトの家。


 ソファへ横たえられていたルシアが目を開いた。


「どうした」


 傍にいたクレイドが振り返る。


「ルナが……」


「見つけたのか?」


「まだ。でも……何か感じた」


 ルシアは目を閉じる。


 自分の一部。


 遠く離れた白狼の感覚へ意識を向ける。


 足の裏に伝わる石畳。


 陽射し。


 匂い。


「……ミアの匂い」


「どこだ」


「分からない……でも近い」


 ルシアの声は弱かった。


 クレイドが眉を寄せる。


「無理すんな」


「大丈夫」


「大丈夫じゃねぇだろ」


「ルナなら平気」


「お前が平気じゃねぇんだよ」


 首には応急処置として厚く布が当てられていた。


 それでも赤い色が滲んでいる。


 腕にも布が巻かれている。


 クレイドは何度も時計を見る。


「ゼノンまだかよ……」


「お兄様はミアを探してるから」


「お前の治療が先だろ」


「ミアも一人だよ」


「……」


 クレイドが舌打ちする。


「ほんっと、お前ら……」


 そのとき。


 ルシアの身体が僅かに震えた。


「……いた」


「何?」


「ルナが見つけた」


     *


 ミアが顔を上げた。


「……?」


 何かいる。


 路地の入口。


 白。


「……」


 月のような狼が立っていた。


 ミアの瞳が揺れる。


「……ルナ?」


 白狼は動かない。


「……なんで」


 ルナが一歩進む。


「来ないで!」


 ミアが叫んだ。


 ルナが止まる。


「……来ないでよ」


 声が震える。


「私……」


 ルナはただミアを見ている。


 赤い瞳。


 ルシアと同じ気配。


 ミアの目から涙が落ちた。


「ルシアが……探してるの?」


 ルナの耳が僅かに動く。


「……そっか」


 ミアが顔を伏せる。


「馬鹿だなぁ……」


 笑おうとした。


 失敗した。


「私、あんなことしたのに」


 ルナは近づかない。


 逃げもしない。


 その場へ伏せた。


「……」


「なにそれ」


 ミアが涙を拭う。


「待ってるの?」


 ルナは動かない。


「……私、ルシアを襲ったんだよ」


 返事はない。


「噛んだの」


 ミアの唇が震える。


「一回じゃないよ」


 記憶が蘇る。


「何回も……」


 声が掠れる。


「ルシア、やめてって言ってた」


 ルナの赤い瞳がミアを見つめている。


「痛いって……」


 ミアが膝を強く抱いた。


「私の名前、何回も呼んでた」


「……」


「なのに私……」


 涙が膝へ落ちる。


「止まれなかった」


     *


「……ミア」


 ルシアの目から涙が零れた。


「おい?」


 クレイドが顔を覗き込む。


「聞こえるのか?」


「声は……ちゃんとは聞こえない」


 ルナはルシア自身の一部だ。


 同じものを完全に見聞きするわけではない。


 それでも。


 伝わってくる。


 震えている。


 泣いている。


 怖がっている。


「ミアがいる」


「場所は?」


「ルナが分かってる」


「ならゼノンに――」


「もう伝わってると思う」


 黒い狼。


 ガル。


 ルナとは別方向から、近づいてくる気配があった。


     *


 ミアが顔を上げる。


 白い狼の向こう。


 今度は黒い影が現れた。


「……ガル」


 黒狼が路地へ入ってくる。


「……」


 白。


 黒。


 二匹の狼。


 ミアを挟むことはしなかった。


 逃げ道を塞ぐこともしない。


 少し離れた場所で。


 ただ座った。


「……何なの」


 ミアが泣きながら笑った。


「捕まえに来たんじゃないの?」


 ガルが伏せる。


「私……悪いことしたんだよ」


 ルナがミアを見ている。


「すっごく悪いことした」


 自分の服を見る。


 ルシアの血。


「ルシア……死んでない?」


 声が小さくなる。


「大丈夫……?」


 ルナが立ち上がった。


 ゆっくり。


 ミアへ一歩だけ近づく。


「……ほんと?」


 ミアが泣く。


「生きてる?」


 もう一歩。


「……よかった……」


 顔を覆った。


「よかった……!」


 肩が震える。


「私……殺すところだった……」


 その言葉を口にして。


 初めて。


 自分がしたことの重さが、はっきり形になった。


「……」


 しばらく泣いた。


 ルナもガルも動かなかった。


 やがて。


 ミアの嗚咽が少しずつ小さくなる。


「……ルナ」


 白狼が耳を動かす。


「ルシアに……ごめんって伝えて」


 ルナは動かない。


「もう絶対しないって」


 ミアが自分の手を握る。


「もう血なんか……」


 そこで。


 言葉が止まった。


「……」


 ミアの顔が歪んだ。


「……違う」


 震える。


「嘘……」


 ルナが見ている。


「違うの……」


 ミアは自分の頭を抱えた。


「私……」


 言いたくない。


 認めたくない。


 けれど。


 さっきからずっと聞こえている。


 路地の向こう。


 人間の心臓。


 とくん。


 とくん。


「……まだ……」


 涙が落ちる。


「まだ、飲みたい……」


 声が震えた。


「私……」


 口元を押さえる。


「ルシアにあんなことしたのに……」


 息が乱れる。


「ルシアが痛いって言ってたのに……」


「……」


「ごめんって思ってるのに……!」


 壁へ額を押しつける。


「嫌われたくないのに……!」


 涙が止まらない。


「それなのに……」


 小さく。


 消えそうな声で。


「……血、飲みたい……」


     *


 ルシアの胸が締めつけられた。


「……」


「ルシア?」


 クレイドが呼ぶ。


 ルシアは答えられなかった。


 ルナから伝わってきたもの。


 ミアの恐怖。


 後悔。


 それとは別に。


 消えない欲求。


「……ミア……」


     *


「それなら」


 声がした。


 ミアの身体が跳ねた。


 路地の入口。


 ゼノンが立っていた。


「……ゼノン……先輩……」


 息を切らしている。


 昼の陽射しを長時間浴びたせいで、普段より僅かに顔色が悪い。


 それでも赤い瞳は真っ直ぐミアを見ていた。


 ミアが怯えたように後退する。


「来ないで……」


「分かった」


 ゼノンは止まった。


「ここから動かない」


「……」


「だから、ミアもそのままでいて」


「……怒ってますよね」


「怒ってるよ」


 即答だった。


 ミアの顔が歪む。


「……ですよね」


「ルシアをあそこまで傷つけたからね」


「……ごめんなさい」


「でも」


 ゼノンの声は静かだった。


「今、怒ることより先にしなきゃいけないことがある」


「……」


「君を連れて帰る」


「嫌です」


「どうして?」


「ルシアがいるから」


「うん」


「私……また……」


「今のままルシアには近づけない」


 ミアが顔を上げる。


「……」


「それは僕も許さない」


 優しい言葉ではなかった。


 けれど。


 ミアは少しだけ安心した顔をした。


「……よかった」


「何が?」


「ゼノン先輩が止めてくれるなら……」


 ミアが自分の腕を抱く。


「私、ルシアに近づかなくて済む」


「うん」


「……私、自分で止まれなかったから」


「知ってる」


「私……」


 唇を噛む。


「おかしくなったんですか?」


 ゼノンは少し黙った。


「分からない」


「……」


「でも、一つ分かったことはある」


「何ですか」


「足りないんじゃない」


 ミアが瞬きをする。


「君の身体はもう満たされてた」


「……はい」


「それでも欲しかった」


「……」


「必要だからじゃない」


 ゼノンの赤い瞳が細くなる。


「満たされても、欲しがってるんだよ」


 ミアの目から、また涙が落ちた。


「……どうしたらいいですか」


 初めてだった。


 ミアが。


 血を飲みたい、と笑うのではなく。


 その欲求そのものを怖がったのは。


「私……治りますか?」


「治す方法を探す」


「ほんと……?」


「アルもいる。エリーゼもいる。僕もいる」


 ゼノンが答える。


「一人でどうにかしようとしなくていい」


「……」


「ただし」


 声が少し低くなる。


「もう『大丈夫』で済ませるのは禁止」


 ミアが俯く。


「……はい」


「血が欲しくなったら言う」


「はい……」


「誰かの血が気になったら、それも言う」


「……はい」


「隠さない」


「……はい」


「約束できる?」


 ミアは長い間黙っていた。


 やがて。


「……します」


 小さく答えた。


「約束します……」


 ゼノンが一歩進む。


 ミアの身体が僅かに強張った。


 すぐにゼノンが止まる。


「触っても平気?」


「……」


 ミアが頷いた。


 ゼノンが近づく。


 ミアの肩へ手を置いた。


 その瞬間。


「……ゼノン先輩」


「うん」


「ルシア……」


 声が震える。


「私のこと……嫌いになったかな」


「それはルシアに聞いて」


「怖い……」


「うん」


「嫌いって言われたら……」


「それでも聞かなきゃ駄目だよ」


「……」


「でも」


 ゼノンがルナを見る。


「君を探すために、怪我した身体でルナを出したのはルシアだよ」


 ミアが目を見開いた。


「……え」


「自分では追えないからって」


「……」


「それが答えの全部じゃないけどね」


 ミアの顔がぐしゃりと歪んだ。


「……馬鹿……」


「誰が?」


「ルシア……」


 泣きながら。


「私なんか放っとけばいいのに……」


「それをルシアができないことくらい、君も知ってるでしょ」


「……うん」


 ミアが泣いた。


 今度は逃げなかった。


     *


 アルベルトが家へ戻ったのは、それから間もなくだった。


「ルシア!」


 玄関から飛び込んでくる。


「アル……」


 ソファのルシアを見るなり、顔色が変わった。


「お前……」


「大丈夫」


「それ言うな!」


「クレイドにも言われた……」


「当たり前だ!」


 アルベルトが傷を見る。


 首。


 腕。


 血を吸った布。


「……酷いな」


「治る?」


「治す」


 即答だった。


「ちょっと痛むぞ」


「うん」


 応急処置を外す。


 ルシアが小さく息を呑む。


 アルベルトの表情がさらに険しくなった。


「普通の吸血でできる傷じゃねぇ」


「……うん」


「噛みついたまま暴れたのか?」


「何回も噛まれた」


「……そうか」


 アルベルトはそれ以上聞かなかった。


 まず止血。


 傷の確認。


 ルシア自身の再生力もある。


 純血種である以上、普通の人間より遥かに回復は早い。


 けれど失った血までは、一瞬で戻らない。


「しばらく寝てろ」


「でもミア――」


「ゼノンが見つけた」


「ほんと!?」


「ああ。連絡来た」


 ルシアの表情が明るくなる。


「よかった……」


「連れて戻る。ただし、お前とは一旦離す」


「……」


「嫌でもだ」


「嫌とは言わないよ」


 アルベルトが少し驚いた。


「私も……分かってる」


 ルシアが自分の首へ触れようとして。


 やめる。


「今のミアが私の血を見たら、また苦しくなるかもしれないから」


「……そうだな」


「でも」


 ルシアがアルベルトを見る。


「ミアを追い出さないで」


「追い出さねぇよ」


「ほんと?」


「あいつ今一人にしたら、それこそ何するか分からねぇだろ」


「……うん」


「監視はする。血も管理する。しばらくお前とは距離を取らせる」


「うん」


「学校も一旦休ませる」


「……ミア、嫌がりそう」


「嫌がってる場合じゃねぇ」


 アルベルトがため息をつく。


「ここからは『飲みすぎだから金取るぞ』じゃ済まねぇからな」


「……」


 ルシアが黙った。


 数日前。


 笑っていた。


 大食いチャンピオン。


 世界記録。


 血液パックもタダじゃない。


 あんなにくだらない話だった。


 今はもう。


 同じようには笑えなかった。


     *


 しばらくして。


 玄関の扉が開いた。


 ルシアの身体が反応する。


「ミア?」


「動くな」


 アルベルトに止められる。


 足音。


 ゼノン。


 その後ろ。


 小さな足音。


 止まった。


 廊下の向こう。


 ミアがいた。


 ルシアと目が合う。


「……」


「……」


 ミアの顔が真っ青になった。


 ルシアの首には、真っ赤な組織が露出した普通じゃない噛み跡。


 腕にも包帯。


 着替えてはいるけれど、何があったのかは一目瞭然。


「……ルシア」


 声が震える。


「ミア」


「ごめ――」


 ミアが一歩進みかける。


 自分で止まった。


「……」


 後ろへ下がる。


 ルシアの胸が痛んだ。


「ミア」


「近づかない」


「……うん」


「私……近づかないから」


 涙が溢れる。


「もう絶対……」


 そこでミアは言葉を止めた。


 絶対にしない。


 そう言おうとした。


 でも。


 言えなかった。


 自分が止まれなかったことを、もう知っているから。


「……ちゃんと治すから」


 代わりに言った。


「私……ちゃんと治す」


 ルシアの目にも涙が浮かんだ。


「うん」


「ごめん……」


「うん」


「ほんとに、ごめん……」


「……うん」


 それ以上。


 二人は近づかなかった。


 ほんの数メートル。


 昨日までなら簡単に埋められた距離。


 今は。


 誰も、その距離を縮めようとはしなかった。


 ミアはまだルシアが大好きだった。


 ルシアもまだミアが大切だった。


 だからこそ。


 近づけなかった。


 そしてミアの中には。


 あれほど後悔しても。


 あれほど泣いても。


 まだ消えていないものがあった。


 血が欲しい。


 その欲求だけが。


 罪悪感とはまるで別の場所で、静かに息をしていた。

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