血が欲しい
過激な表現を含みます。
苦手な方は飛ばしてください( ߹ㅁ߹)
その日は、いつもと何も変わらない一日になるはずだった。
夜間部の授業を終えて家へ戻り、空が明るくなり始める頃には、それぞれが眠る準備を始めていた。
アルベルトは学園から連絡を受け、そのまま戻らず仕事を片付けてくることになった。
ゼノンも用事があるらしく、アルベルトとともに学園へ残っている。
家にいるのは、ルシアとミア、それからクレイドだけだった。
「眠い……」
リビングのソファに沈み込んだミアが呟く。
「今日、エリーゼ厳しくなかった?」
「いつも通りじゃない?」
「絶対いつもより厳しかった!」
「ミアが授業中に喋るからだよ」
「ルシアだって喋ってたじゃん!」
「私はミアに返事しただけだもん」
「共犯!」
「巻き込まないでよ」
二人で顔を見合わせて笑う。
クレイドはそんな二人を横目に水を飲むと、グラスをテーブルに置いた。
「俺、もう寝るぞ」
「早っ」
「お前らが元気すぎんだよ」
「おやすみ、クレイド」
「おやすみー!」
「ああ。お前らも早く寝ろよ」
クレイドが二階へ上がっていく。
足音が遠ざかり、やがて扉が閉まった。
リビングには、ルシアとミアだけが残された。
「私たちも寝よっか」
「うん」
ルシアが立ち上がる。
今日も髪はポニーテールだった。
その瞬間、ミアの視線が動いた。
白い首筋。
薄い皮膚の下を流れる血。
その奥から聞こえる、規則正しい心臓の音。
とくん。
とくん。
人間だった頃には聞こえなかった音が、今は嫌になるほど鮮明に耳へ届く。
「……」
「ミア?」
「え?」
「どうしたの?」
「なんでもない!」
慌てて笑う。
「ちょっとぼーっとしてた」
「眠いんじゃない?」
「多分!」
ルシアがキッチンへ向かう。
「お水飲んでから寝ようかな」
ミアは動かなかった。
見ない。
そう決めていた。
数日前から。
ルシアが髪を結ぶようになってから、どうしても目が行ってしまう。
首。
血。
心臓の音。
気づけば、そればかりを意識していた。
でも、大丈夫だった。
今までは。
ちゃんと我慢できていた。
血液パックも決められた量しか飲んでいない。
今日の分だって、もう飲んだ。
身体は満たされている。
空腹ではない。
喉も渇いていない。
だから、必要ない。
分かっている。
「ミアも飲む?」
ルシアが水の入ったグラスを持って振り返った。
「……いらない」
「そっか」
首が動く。
とくん。
ミアの喉が小さく鳴った。
「ミア?」
「……ルシア」
「なに?」
「今日の血……もう飲んだよね、私」
「うん」
「全部?」
「うん。今日の分はもう飲んだでしょ?」
「……そっか」
「どうしたの?」
「ううん」
ミアは自分の膝を握った。
指に力を込める。
「先に寝ていいよ」
「え?」
「私、もうちょっとここにいる」
「でも、眠いって言ってなかった?」
「なんか目が覚めちゃった」
「そう?」
「うん」
ルシアが不思議そうに見つめる。
ミアは無理に笑顔を作った。
「大丈夫だから」
けれど、ルシアはその場を動かなかった。
「……なに?」
「ミア」
ルシアがグラスを置いた。
「最近、ちょっと変だよ」
「……」
「血のこと、気にしてる?」
「気にしてないよ」
すぐに答えた。
あまりにも早い返事だった。
「ほんと?」
「ほんと!」
「でも――」
「ルシア」
ミアの声が少しだけ強くなった。
ルシアが言葉を止める。
「あ……ごめん」
ミアが俯いた。
「ちょっと、一人にして」
「ミア?」
「大丈夫だから」
「でも……」
「お願い」
小さな声だった。
ルシアは迷った。
けれど、ミアが本当に苦しそうに見えた。
「……何かあったら言ってね」
「うん」
「絶対だよ?」
「うん」
ルシアが階段へ向かう。
一歩。
二歩。
離れていく。
ミアは顔を上げなかった。
行って。
早く。
見えなくなって。
そう思っていた。
ルシアがいなくなれば、きっと落ち着く。
目を閉じて、朝が過ぎるのを待てばいい。
それだけで済むはずだった。
なのに。
「……やっぱり」
ルシアの足音が止まった。
ミアの身体が強張る。
「放っておけないよ」
足音が戻ってくる。
「ミア」
「来ないで」
ルシアが止まった。
「え?」
「……来ないで」
ミアは俯いたままだった。
「どうしたの?」
「いいから」
「でも――」
「ルシア」
顔を上げる。
赤い瞳が、不安定に揺れていた。
「そこにいて」
「……ミア?」
「お願いだから」
その声に、ルシアはようやく何かがおかしいと気づいた。
「血……欲しいの?」
ミアは答えなかった。
「ミア」
「大丈夫」
「でも――」
「大丈夫だから!」
強い声。
ルシアがびくりと肩を揺らす。
「あ……」
ミアの顔が歪んだ。
「ごめん」
「ううん」
「ごめん……」
「ミア、大丈夫だよ」
ルシアはそう言って、近づいてしまった。
「来ないで!」
「大丈夫だから」
「ルシア!」
「一人で我慢しなくていいよ」
あと数歩。
「お兄様が帰ってきたら相談しよ? それまで私――」
とくん。
心臓の音。
血の匂い。
目の前の白い首筋。
以前飲んだ血の味。
すべてが一度に、ミアの中へ押し寄せた。
「……っ」
ミアの瞳が大きく開く。
「ミア?」
次の瞬間。
ミアの身体が跳ねた。
「え――」
視界が揺れる。
肩を掴まれた。
ルシアの身体が床へ叩き倒される。
「ミア――」
首に衝撃が走った。
「っ……!」
牙が食い込んだ。
「ミア!?」
最初に感じたのは驚きだった。
次に。
「痛っ……!」
鋭い痛み。
今まで経験した吸血とは、まるで違った。
血を飲むためにそっと牙を立てているのではない。
まるで獲物を逃がすまいとするように、強く噛みついている。
「ミア、痛い……!」
返事がない。
首へ回された腕に力がこもる。
「や、待って……!」
ルシアがミアの肩を押す。
離れない。
「ミア……やめて!」
その言葉に、ミアの喉から低い音が漏れた。
「……うるさい」
「……え?」
ルシアが固まる。
聞いたことのない声だった。
「ミア?」
「うるさい……!」
さらに強く噛みつく。
「っ……!」
ルシアの顔が歪む。
首筋から溢れた血が襟元を伝い、みるみる服へ染み込んでいく。
「痛い! ミア、やめて!」
両手で押す。
それでも離れない。
その間にも血は止まらず、白かった服の胸元まで赤く染まり始めていた。
「やめてってば!」
今度は力を込めた。
純血種としての力を使い、必死に押し返す。
ミアの身体が弾かれた。
二人の身体が離れる。
「はっ……はぁ……!」
ルシアが首を押さえる。
手のひらが瞬く間に赤く染まった。
「ミア……」
数歩先。
ミアが立っている。
口元に血。
赤い瞳。
荒い呼吸。
「……血」
「……」
「もっと……」
ルシアの背筋が冷えた。
「ミア?」
届いていない。
目の前にいるのがルシアだと、分かっていないようだった。
「ミア、私だよ」
「……」
「ルシアだよ」
ミアの身体が低く沈む。
「待って――」
飛びかかってきた。
「ミア!」
再び床へ押し倒される。
今度は反対側の首へ牙が食い込んだ。
「っあ……!」
「ミア! やめて!」
肩を押す。
ミアは唸るような声を出し、離れない。
「痛い……!」
無理に引き剥がそうとするたび、深く食い込んだ牙に皮膚が引っ張られ、傷口がさらに裂けていく。
ルシアが身を捩るほど、首に鋭い痛みが走った。
血が次々と溢れ、床へ落ちていく。
さっきまでとは明らかに量が違う。
「お願い……やめて……!」
ルシアが必死に身体を押し返した。
ようやく牙が抜ける。
傷口から新たに血が溢れた。
血で滑ったミアが床に手をつき、間を置かずに起き上がる。
「ミア、もうやめて!」
ルシアは首を押さえながら後退した。
「お願いだから……!」
ミアがルシアを見る。
血。
それしか見えていなかった。
再び距離を詰める。
「来ないで!」
ルシアが腕で防ぐ。
ミアがその腕へ噛みついた。
「っ……!」
深く牙が食い込む。
「やめて!」
振り払う。
血が飛び散った。
「ミア!」
テーブルへ身体がぶつかった。
大きな音を立てて椅子が倒れる。
それでもミアは止まらない。
もう一度。
今度は、最初に噛まれた首筋へ。
「やっ――!」
すでに傷ついている場所へ、再び牙が食い込んだ。
「っ……!」
ルシアの膝から力が抜けた。
何度も噛みつかれ、そのたびに押し返し、また食らいつかれた。
深く刺さった牙のまま互いの身体が動いたせいで、首元の傷は単なる二つの牙痕ではなく、大きく裂けた酷い傷へ変わっていた。
「ミ……ア……!」
声が震える。
血を失いすぎたせいか、指先から力が抜けていく。
着ていた服は大量の血を吸い込み、肌へ冷たく張りついていた。
「やめて……!」
それでも、ミアは離れない。
「痛いよ……!」
血を飲む。
ただそれだけ。
「ミア……お願い……!」
何度名前を呼んでも。
何度やめてと言っても。
ミアには届かなかった。
*
二階。
眠っていたクレイドの目が開いた。
「……」
何かが倒れる音。
続いて、鼻をつく匂い。
「……血?」
身体を起こす。
濃い。
しかも、この匂いは。
「……ルシア?」
次の瞬間にはベッドを飛び降りていた。
扉を開ける。
階段を駆け下りる。
「ルシア!」
リビングへ飛び込む。
目に入った光景に、クレイドの表情が凍りついた。
「――ミア!!」
倒れた椅子。
床へ点々と落ちた血。
血まみれになったルシア。
その身体に覆いかぶさり、首へ食らいついているミア。
「何してんだ!」
駆け寄る。
ミアの身体を掴む。
「離れろ!」
引く。
離れない。
「ミア!」
「……っ!」
「離せ!」
力任せに引き剥がそうとする。
だが、牙はまだ深く食い込んでいる。
ミアの身体だけが後ろへ引かれ、噛みつかれたルシアの首まで一緒に引っ張られた。
「ぁあっ……!」
「くそっ……!」
傷口がさらに裂け、溢れた血がルシアの肩から胸元へ流れ落ちる。
苦痛に耐えきれない声が漏れた。
「やめろミア! お前が噛みついてんのは友達だぞ!!」
それでも力は緩まず、ミアは強く噛みついたままだった。
クレイドはルシアの首がこれ以上引っ張られないよう身体を支えながら、ミアを引き離そうとした。
「ミア!!」
さらに力を込める。
ようやく牙が抜けた。
その瞬間、傷口からまた血が溢れ出す。
クレイドはそのままミアを後ろから押さえ込んだ。
「離して!」
「落ち着け!」
「離して!」
「ミア!」
「血……!」
ミアが暴れる。
「まだ……!」
「いい加減にしろ!」
「もっと……!」
ルシアが息を呑む。
クレイドに押さえられているのに。
ミアはまだ、自分へ手を伸ばしていた。
「血……!」
「ミア!!」
クレイドの怒鳴り声が響いた。
びくり。
ミアの身体が止まった。
「……」
「俺を見ろ!」
「……クレ……イド……?」
「そうだ」
赤い瞳が揺れる。
「……え?」
呼吸を一度。
二度。
ミアの視線がゆっくり動いた。
自分を押さえているクレイド。
倒れた椅子。
異常な量の血が散らばった床。
そして。
ルシア。
壁際に座り込んでいる。
ポニーテールは崩れ、黒髪が乱れていた。
首を押さえる手も、腕も、服も赤く染まっている。
首には一つではない傷。
左右に何度も牙を立てられ、さらに同じ場所へ繰り返し噛みつかれたせいで、傷口は大きく裂け、今も血が流れ続けていた。
普通の吸血で残る小さな牙痕とは、まるで違う。
「……え」
ミアの顔から血の気が引く。
「……私……」
自分の手を見る。
血。
口元にも。
「私……何やって……」
「ミア」
ルシアが呼ぶ。
ミアの肩が跳ねた。
「ルシア……?」
「うん」
記憶が戻る。
首。
血。
噛んだ。
押し返された。
また飛びかかった。
腕にも噛みついた。
それでも足りなくて。
もう一度。
もう一度。
「私……ルシアに……?」
声が震える。
「ミア、大丈夫だから」
「違う……」
「私は――」
「違うの……」
ミアの目に涙が溜まる。
「こんなことするつもりじゃ……」
「分かってるよ」
「私……」
ルシアが手を伸ばした。
「ミア」
「来ないで!」
叫び声。
ルシアの手が止まった。
「……ミア?」
「来ないで……!」
ミアが後退しようとする。
クレイドの腕の中で震える。
「また……」
「……」
「また飲みたくなったら……」
言葉が詰まる。
「私、またルシアに……」
涙が落ちた。
自分の口元を拭う。
手の甲に赤い跡が伸びる。
「ルシア、ごめん……!」
「ミア」
「ごめん……こんなつもりじゃ……!」
「分かってるから」
「ごめん……!」
ミアが突然、クレイドの腕を振りほどいた。
「おい!」
「ルシア、ごめんっ!!」
走る。
「ミア!」
玄関へ向かい、扉を開ける。
外から朝の強い光が差し込んだ。
「待て!」
クレイドが叫ぶ。
けれど、ミアは止まらなかった。
ルシアの血で口元を汚したまま、そのまま陽の光の下へ飛び出していった。
「ミア!」
ルシアが立ち上がろうとする。
足元が揺れた。
「お前は動くな!」
クレイドが身体を支える。
「でも、ミアが!」
「お前が先だ!」
「私は大丈夫!」
「どこがだ!」
クレイドがルシアの首を見る。
その表情が険しくなる。
「これ……普通の噛み傷じゃねぇぞ」
「でも……」
「何回噛まれた?」
「……分かんない」
首の左右には深い傷が残り、血はまだ流れている。
腕にも、ミアに噛みつかれた傷があった。
「くそ……」
クレイドが手を伸ばしかける。
止まった。
自分にはできない。
傷を舐めても。
自分の唾液では、ルシアの傷を治すことができない。
「……俺じゃ治せねぇ」
「クレイド」
「ゼノンを呼ぶ」
「でも、ミアを――」
「アルにも連絡する! お前はここにいろ!」
「クレイド!」
「今のお前が外に出たら、何のために俺が止めてんだ!」
ルシアが黙る。
クレイドはすぐに通信機を取り出した。
*
『――何?』
ゼノンの声。
いつもより短い。
「ルシアが怪我した」
一瞬の沈黙。
『何があった』
「噛まれた」
『誰に』
「……ミアだ」
通信機の向こうの空気が変わった。
『ルシアは?』
「意識ある。喋れる。でも首がかなり酷ぇ」
『ミアは』
「外に逃げた」
『今、昼だよね』
「ああ」
『クレイド』
「分かってる」
『ルシアから離れないで』
「でも、ミアが――」
『僕が探す』
低い声だった。
『アルにも連絡しとくから。ミアを探すのは、ガルを出す。必ず見つけるから、ルシアには心配しないで休んでてと伝えて。』
「……分かった」
『ルシアの傷を押さえて、すぐに手当てを頼む。僕も向かう』
連絡が切れる。
クレイドは急いで清潔な布を取りに行き、ルシアの首元を慎重に押さえた。
ルシアは壁へ身体を預けていた。
「クレイド」
「駄目だ」
「まだ何も言ってない」
「ミアを探しに行くって言う気だろ」
「……」
「駄目だ」
「でも」
「ゼノンに殺されてぇのか、俺は」
「お兄様、そんなことしないよ」
「今のお前を見たら分かんねぇぞ」
「でも、ミア一人だよ」
「分かってる。ゼノンが必ず見つけるから休んでろって」
「でも、まだ昼なのに……」
「分かってるって」
ルシアが唇を噛む。
そのとき。
「……私が行かなくても...ルナなら....」
「は?」
クレイドが目を見開く。
ルシアは目を閉じた。
意識を集中する。
自分の内側。
そこにいる白い存在。
「……ルナ」
足元の影が揺れた。
白。
月のような毛並み。
白狼が静かに姿を現す。
「ミアを探して」
ルナがルシアを見る。
「お願い」
白狼は一度だけ鼻先をルシアの手へ寄せた。
そして、走り出した。
玄関から外へ。
太陽の下へ。
*
同じ頃。
学園を出たゼノンの足元から、黒い影が伸びていた。
「ガル」
黒狼が現れる。
「ミアを探せ」
ガルが駆け出す。
ゼノンとは別方向へ。
黒い狼。
白い狼。
二匹が、それぞれ違う道を走る。
逃げた小さな少女を探して。
ルシアは家の中からルナの感覚を追っていた。
首が痛む。
傷が熱を持っている。
失った血の量が多すぎる。
座っているだけなのに視界が揺れ、身体から力が抜けていく。
クレイドが当ててくれた布も、少しずつ赤く染まっていた。
「ルシア、無理すんな」
「……うん」
「もうすぐアルたちが来る。だから、じっとしてろ」
ルシアは小さく頷いた。
それでも、頭にあるのはミアのことばかりだった。
「……ミア」
数時間前まで、普通に笑っていた。
学校で騒いで。
クレイドと言い合って。
ヴァンパイアになってよかったと笑っていた。
血が好き。
美味しい。
もっと飲みたい。
最初は、それだけだったはずなのに。
今日。
ルシアは確かに言った。
痛い。
やめて。
何度も。
それでも、ミアは止まれなかった。
ルシアは震える手をそっと握りしめた。
首に残る痛みよりも、親友が自分を傷つけたという事実が、胸の奥に重く沈んでいた。
それでも、今はミアが無事でいてほしかった。
もう一度会えたら、ちゃんと話をしたかった。
どうして、あんなことになってしまったのか。
ミア自身の口から、聞きたかった。
ルシアは目を閉じ、遠くを走る白狼の気配を追い続けた。




