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一日に必要な量だけ

その日の夕方。


 全員が起きてきた頃、アルベルトの家のリビングには妙な空気が流れていた。


「……なんで?」


 ソファに座ったミアが、きょとんとする。


 正面にはアルベルト。


 その隣にゼノン。


 少し離れた場所にルシアとクレイドもいた。


 まるで何かの話し合いでも始まりそうな配置だ。


「なんでみんなそんな顔してるの?」


「ミア」


 アルベルトが腕を組む。


「お前、昼間に冷蔵庫の血飲んだだろ」


「……」


 ミアの目が泳いだ。


「ルシアぁ……」


「ご、ごめん。でも……」


「裏切り者!」


「そういう話じゃねぇ」


 アルベルトが遮った。


「で、何本飲んだ?」


「……分かりません」


「数えたか?」


「……数えてません」


「空のパックは?」


「捨てました」


「何本あった?」


「だから数えてないってば!」


「威張るな」


「威張ってないもん!」


 アルベルトがため息をつく。


「昨日、大食いチャンピオンかって言ったばっかだろ」


「でも全部私が飲んだとは限らないじゃん!」


「お前以外の誰が昼間に冷蔵庫の前に座って飲むんだよ」


「……クレイド?」


「巻き込むな」


 即答だった。


「俺寝てたわ」


「じゃあアル?」


「俺は学園にいた」


「ゼノン先輩」


「僕もアルと一緒」


「ルシア……」


「ミアが飲んでるところ見たよ」


「逃げ道がない!」


「最初からねぇよ」


 クレイドが呆れた。


 ミアがソファの背もたれへ身体を預ける。


「でもさぁ」


「ん?」


「別に具合悪くなってないよ?」


 自分の胸を叩く。


「ほら。元気!」


「それは分かってる」


 アルベルトが答える。


「問題はそこじゃない」


「じゃあ何?」


 ミアが首を傾げる。


 ゼノンが静かに口を開いた。


「ミア。昨日僕が聞いたこと覚えてる?」


「昨日?」


「血が足りない感じがするかって」


「あー」


「なんて答えた?」


「しない」


「お腹は?」


「空いてない」


「身体が重かったり、力が出なかったりは?」


「ないです」


「じゃあ昼間は?」


「……」


 ミアが少し考える。


「別に何ともなかった」


「それでも起きて、血を飲みに行ったんだよね」


「……うん」


「何本も」


「うん」


「ルシアにやめようって言われたとき、すぐやめられた?」


 ミアが黙った。


 ルシアは何も言わずにミアを見る。


「……最後はやめたよ」


「うん」


 ゼノンは責めなかった。


「でも、一度隠した」


「……」


「取られると思ったから?」


「……うん」


「どうして取られたくなかったの?」


「どうしてって……」


 ミアが困った顔をする。


「飲みたかったから」


「身体が必要としてなくても?」


「……うん」


 少しだけ、リビングが静かになった。


 ミアは皆の顔を見回す。


「なに?」


 笑う。


「そんな深刻なこと?」


「深刻かどうかを決めるために、今話してる」


 アルベルトが答えた。


「別に血を飲むなとは言わねぇよ。お前はヴァンパイアなんだからな」


「じゃあいいじゃん」


「必要な分はな」


「……必要な分?」


 ミアの笑顔が少しだけ薄くなる。


 ゼノンが頷いた。


「しばらく、一日に飲む量を決めようと思う」


「えっ」


「ミアの身体に必要な量はちゃんと確保する。それを我慢させるつもりはないよ」


「でも……」


「ミア」


 ルシアが隣へ座った。


「お兄様たちも、ミアに血を飲ませたくないわけじゃないよ」


「……分かってるけど」


 ミアが口を尖らせる。


「なんか私だけ子供みたい」


「実際、ヴァンパイアとしては生まれたてみたいなもんだろ」


 クレイドが言う。


「クレイドだって人間からヴァンパイアになったくせに!」


「何年前の話だと思ってんだ」


「じゃあ私も何年かしたら好きなだけ飲んでいいの?」


「そういう意味じゃねぇ」


「じゃあ何!」


「お前が自分で加減できるようになったらって話だ」


「加減できるもん!」


「昨日できてねぇだろ」


「……」


 言い返せなかった。


 ミアがむっとしたまま膝を抱える。


 エリーゼがここにいたなら、きっと先日の授業と同じことを言っただろう。


 必要以上に奪わない。


 あのときミア自身も、ちゃんと答えられていた。


 ゼノンが静かに続ける。


「我慢するのは、血そのものじゃないよ」


 ミアが顔を上げる。


「必要以上に飲むこと」


「……」


「血を必要とすることは悪くない。美味しいと思うことも悪くない。でも、自分の身体がもう十分だって言ってるのに、それでも欲しくて仕方なくなるなら……少し気をつけた方がいい」


「私、そんなに変?」


「変だとは言ってない」


「でもみんな、私がおかしくなったみたいな顔してる」


「ミア」


 ルシアが手を伸ばし、ミアの手を握った。


「私はそう思ってないよ」


「……ほんと?」


「うん」


「怖かった?」


 不意に聞かれて、ルシアの動きが止まった。


「昼間」


 ミアがルシアを見る。


「私のこと、怖かった?」


「……」


 嘘をつこうとして。


 やめた。


「……ちょっとだけ」


 ミアの顔が曇った。


「でも、ミアだから怖かったんじゃないよ」


「……」


「何本飲んだか分からないのに、まだ飲もうとしてたから。いつものミアと少し違って見えて……それが怖かったの」


「そっか……」


 ミアは俯いた。


 しばらくして。


「……ごめん」


「謝らなくていいよ」


「でもルシア怖がらせた」


「もう大丈夫」


「ほんと?」


「うん」


 ルシアが笑う。


 ミアも少しだけ笑った。


「じゃあ……分かった」


 アルベルトを見る。


「しばらく決められた分だけにする」


「できるか?」


「できる!」


 今度は強く答えた。


「私だって馬鹿じゃないもん!」


「それはどうだろうな」


「アル!」


「冗談だ」


「今の絶対本気だった!」


「半分くらいな」


「ほぼ本気じゃん!」


 クレイドが鼻で笑う。


「大食いチャンピオン卒業だな」


「まだチャンピオンになってない!」


「世界記録挑戦は?」


「しない!」


「じゃあ冷蔵庫の血勝手に飲むなよ」


「分かってるってば!」


 いつものミアだった。


 ルシアはほっとした。


     *


 その日から。


 ミアの血液パックは、一日に必要な量だけ渡されることになった。


 完全に取り上げたわけではない。


 必要な血は飲める。


 身体が飢えることもない。


 最初の一日は、何の問題もなかった。


「いただきまーす」


 ミアが一本目を飲む。


「美味しい!」


 いつも通りだった。


 二本目も。


「んー!」


 幸せそうだった。


 必要な量を飲み終える。


「ごちそうさまでした!」


 それだけ。


 ルシアは安心した。


「大丈夫そうだね」


「だから言ったじゃん!」


 ミアが胸を張る。


「私、我慢できるもん!」


「偉い偉い」


「子供扱いしないで!」


 その日は終わった。


 次の日も。


 ミアは決められた量だけ飲んだ。


 ただ。


 休み時間。


 ミアが鞄を開けた。


 手を入れる。


 何かを探して。


 止まった。


「あ」


「どうしたの?」


 ルシアが尋ねる。


「……なんでもない」


 鞄を閉める。


 少しして。


「ねえ、次の血飲んでいいの何時?」


「さっき飲んだばかりでしょう」


 エリーゼが答える。


「聞いただけ!」


「まだです」


「分かってるってば」


 ミアは頬杖をついた。


 数分後。


「あと何分?」


「ミア」


「冗談!」


 笑う。


 皆も笑った。


 その次の日。


 合同授業の休憩中。


 ラビが血液パックを取り出した。


「あー、喉渇いた」


 ストローを刺す。


 その瞬間。


 ミアの視線が動いた。


「……」


 ラビの手元。


 血液パック。


 赤い液体。


「ん?」


 ラビが気づく。


「いる?」


「えっ」


 ミアの顔がぱっと明るくなる。


「いいの!?」


「ラビ」


 ゼノンが呼んだ。


「ん?」


「ミアは今日の分、もう飲んでる」


「あ」


 ラビが止まる。


「ごめんごめん。知らなかった」


「……」


 ミアの笑顔が消えた。


 ほんの一瞬。


「別にいいですよ」


 すぐに戻った。


「私、いらないし!」


「ごめんね」


「全然!」


 ラビが飲み始める。


 ちゅう。


 ミアは顔を逸らした。


 机の上の教科書を見る。


 一行読む。


 次の行。


 また次。


 ――ちゅう。


「……」


 ページをめくる。


 ――ちゅう。


 指先が止まる。


「……ミア?」


 エリーゼに呼ばれる。


「なに?」


「同じページを先ほどから三回めくっていますよ」


「え?」


 見る。


「あはは……ほんとだ」


「大丈夫ですか?」


「大丈夫!」


 笑った。


「ちょっとぼーっとしてただけ」


 その向こうで、ラビが飲み終わった。


 空のパックを片付ける。


 ミアはそれを目で追っていた。


     *


 さらに数日。


 身体には何も起こらなかった。


 ミアは元気だった。


 授業にも普通に出る。


 ルシアと笑う。


 クレイドと喧嘩する。


 エリーゼに叱られる。


 ラビと騒ぐ。


 ヴァンパイア生活を楽しんでいる。


 ただ一つ。


 血を飲める時間を、以前より正確に覚えるようになった。


「あと十分」


 休憩時間。


 ミアが時計を見る。


「何が?」


 ルシアが聞く。


「次の血」


「……時間決めてるの?」


「だって忘れないように!」


「忘れてもいいんじゃない?」


「なんで?」


「必要なら身体が教えてくれるでしょ?」


「でも時間になったら飲めるんだよ?」


「そうだけど……」


 ミアは時計を見る。


「あと九分」


「一分しか経ってないよ」


「長い」


「昨日までそんなに気にしてなかったじゃない」


「今日は飲みたい気分なの!」


 明るく言う。


 それ以上、ルシアも何も言えなかった。


 やがて時間になる。


「なった!」


 ミアが立ち上がる。


 鞄から血液パックを取り出す。


 ストローを刺す。


 ちゅう。


「……おいしい」


 目を細める。


 その表情を。


 少し離れた場所からゼノンが見ていた。


「……」


 クレイドが気づく。


「まだ気になんのか」


「うん」


「決めた量しか飲んでねぇぞ」


「そうだね」


「なら問題ねぇだろ」


「だといいけど」


 ゼノンの視線の先。


 ミアはもう半分ほど飲んでいる。


「血が足りないんじゃない」


「前も言ってたな」


「うん」


「じゃあ何だよ」


 ゼノンは少し考える。


「満たされても、欲しがってる」


「……」


「それが気になる」


 クレイドがミアを見る。


 笑っている。


 いつものミアにしか見えない。


「考えすぎじゃねぇの」


「そうかもしれない」


 ゼノンは否定しなかった。


「そうなら、それが一番いいよ」


     *


 数日後。


 学園へ向かう前。


 ルシアは自室で髪をまとめていた。


 いつもは下ろしている黒髪を、高い位置で一つに束ねる。


「よし」


 鏡を見る。


 少し曲がっている気がする。


「……まあいいか」


 部屋を出る。


 階段を下りる。


「お待たせ!」


 リビングにはミアとクレイドがいた。


「遅ぇ」


「ごめん」


「ルシア!」


 ミアが振り返る。


「今日髪――」


 言葉が止まった。


「……」


「ミア?」


 ルシアが首を傾げる。


 黒髪が揺れる。


 いつも髪に隠れている首筋が、今日ははっきりと見えていた。


「どうしたの?」


「……髪」


「ん?」


「結んだんだ」


「うん」


 ルシアが笑う。


「変?」


「……ううん」


 ミアも笑った。


「可愛い」


「ほんと?」


「うん」


 そう答えながら。


 ミアの視線が、もう一度落ちた。


 白い首筋。


 その皮膚の下を流れる血。


 人間だった頃には、意識したことなどなかった。


 今は。


 分かる。


 聞こえる。


 とくん。


 とくん。


 心臓の音。


「……」


 喉が鳴った。


 ルシアの血を、ミアは知っている。


 転化して間もない頃。


 ルシアが自分から分けてくれた。


 ほんの少し。


 けれど。


 忘れていない。


 濃くて。


 身体の奥まで満たされるような。


 あの味。


「ミア?」


「……っ」


 ミアが顔を上げる。


「なに?」


「ぼーっとしてる」


「あはは」


 笑う。


「まだ眠いのかも!」


「さっき起きたばっかだろ」


 クレイドが言う。


「だからだよ!」


「意味分かんねぇ」


「うるさい!」


 いつものやり取り。


 いつもの声。


 いつもの笑顔。


 それでも。


 ルシアが何気なく横を向くたび。


 ポニーテールが揺れるたび。


 その下にある首筋が見える。


 とくん。


 とくん。


 ミアは一度、強く目を閉じた。


 ――見ない。


 そう思った。


 別に飲まなくても平気だ。


 今日の分の血だって、ちゃんと飲んだ。


 お腹も空いていない。


 身体も満たされている。


 だから。


 これは必要じゃない。


「行こ、ミア」


 ルシアが笑う。


「遅刻しちゃうよ」


「……うん!」


 ミアも笑って立ち上がった。


 ルシアの隣へ並ぶ。


 玄関へ向かう。


 けれど。


 歩きながら。


 ミアは無意識に自分の唇を舐めていた。


 ――飲みたい。


 その日初めて。


 血液パックではなく。


 誰かの身体を流れている血を見て。


 そう思った。

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