膨らむ不安
夜間部の授業を終えてアルベルトの家へ戻った頃には、空が白み始めていた。
「ただいまぁ……」
玄関へ入った途端、ミアが大きな欠伸をする。
「眠い……」
「学校であんだけ騒いでりゃな」
靴を脱ぎながらクレイドが呆れる。
「クレイドだって走ってたじゃん」
「授業だからな」
「私は授業を全力で楽しんでただけ!」
「だから疲れてんだろ」
「でもヴァンパイアになってから全然疲れなくなったよ!」
「今眠いっつっただろ」
「眠いのと疲れたのは違うもん!」
「はいはい」
「適当!」
その後ろで、ルシアがくすくす笑った。
夜間部へ編入してからというもの、こんなやり取りが毎日のように続いている。
以前は昼間部へ通っていたミアも、今ではすっかり夜型の生活になった。
夕方に目を覚まし、日が沈んでから学園へ行く。
真夜中~明け方に帰宅し、少し話したり食事をしたりしてから、太陽が昇る頃に眠る。
人間だった頃とは正反対だ。
けれどミア本人は、それすら楽しんでいた。
「私、完全にヴァンパイアっぽい!」
「ヴァンパイアなんだから当たり前だろ」
「そうなんだけど! なんかいいじゃん!」
言いながらミアは真っ先にキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける。
「あ」
アルベルトの声が飛んだ。
「ミア」
「はい?」
冷蔵庫の扉から顔だけ出す。
「何を取ろうとしてる?」
「……お水?」
「右手」
ミアがぴたりと止まる。
右手には血液パック。
「……血です」
「昨日言ったよな?」
「何を?」
「そろそろ金取るぞって」
「クレイドから聞いた!」
「本人を前にして堂々と取るのか」
「だって一本くらいいいじゃん!」
「学校でも飲んできたんだろ?」
「飲んだけど」
「何本?」
「……」
「何本?」
「数えてない」
「お前なぁ……どこの大食いチャンピオンだ? 世界記録でも目指してんのか? 血液パックもタダじゃないんだぞ?」
アルベルトが額を押さえる。
ミアは血液パックを抱えたまま、じりじりと冷蔵庫から離れた。
「これだけ!」
「本当に一本だけだぞ」
「やった!」
「喜ぶところじゃない」
ストローを刺す。
ちゅう。
「んー、おいしい!」
「ジュースじゃねぇんだぞ」
ソファに座っていたクレイドが、昨日とまったく同じ台詞を吐いた。
「またそれ!」
「毎回同じことしてる奴が悪い」
「クレイドも飲めば?」
「いらねぇ」
「美味しいのに」
「知ってる」
「じゃあ飲めばいいじゃん」
「今必要ねぇから」
「……ふーん」
ミアは一瞬だけクレイドの顔を見る。
けれどすぐ、またストローへ口をつけた。
その様子を、ゼノンが少し離れたところから見ていた。
ルシアは気づかなかった。
「お兄様、もう寝る?」
「うん。ルシアは?」
「私も眠い」
「じゃあ行こうか」
「うん」
ゼノンがルシアの背へ手を添える。
階段へ向かう途中、一度だけ振り返った。
ミアはまだ血を飲んでいる。
空腹ではない。
身体も満たされている。
昨日、本人がそう答えていた。
それでも飲んでいる。
「……」
「お兄様?」
「なんでもないよ」
ゼノンは微笑み、ルシアとともに二階へ上がった。
*
それから数時間後。
真昼。
外では太陽が高く昇っていた。
けれどアルベルトの家の中に、その光はほとんど入ってこない。
厚い遮光カーテンが閉ざされ、廊下も階段も薄暗い。
夜間部へ通う者たちにとって、今は夜中と変わらない。
家は静まり返っていた。
アルベルトは用事があり、学園へ出ている。
ゼノンもアルベルトに呼ばれ、少し前に家を出ていた。
クレイドは自室。
ルシアも眠っていた。
誰も起きていないはずだった。
――カサ。
「……」
ルシアの瞼が僅かに動いた。
静かになる。
夢だったのだろうか。
寝返りを打つ。
もう一度眠ろうとした。
――ガサ……。
「……?」
今度は聞こえた。
ルシアが薄く目を開ける。
部屋は暗い。
「……何……?」
ぼんやりした頭で身体を起こす。
耳を澄ませる。
何も聞こえない。
「クレイド……?」
起きたのかな。
そう思って、また横になろうとした。
そのとき。
――ちゅう……。
「……?」
小さな音。
何かを吸うような音だった。
ルシアはベッドから降りた。
裸足のまま部屋を出る。
廊下は薄暗い。
クレイドの部屋の前を通る。
中からは何も聞こえない。
眠っているらしい。
階段へ向かう。
――カサ。
下。
ルシアはゆっくり階段を下りた。
リビングは暗い。
誰もいない。
けれど。
キッチンの方から、白い光が漏れていた。
「……?」
電気ではない。
細長く床へ伸びた、冷たい白色。
冷蔵庫。
扉が開いている。
「誰かいるの……?」
返事はない。
一歩。
また一歩。
近づく。
――ちゅう……。
その音が、また聞こえた。
ルシアの足が止まった。
「……ミア?」
返事がない。
キッチンを覗き込む。
冷蔵庫の扉が開け放たれていた。
その白い光の前に。
小さな人影がいた。
「……」
ミアだった。
寝間着姿。
裸足。
髪は寝癖がついたまま。
冷蔵庫の前の床に座り込んでいる。
手には血液パック。
ストローを咥えていた。
――ちゅう。
静まり返った家の中で、その音だけが妙にはっきり聞こえる。
「……ミア?」
もう一度呼ぶ。
それでも振り返らない。
ルシアが一歩近づいた。
そこで気づいた。
「……え?」
ミアの足元。
何かが落ちている。
一つ。
二つ。
三つ。
空になった血液パック。
さらに冷蔵庫の影にも。
「……ミア」
ようやく。
ミアが振り返った。
「あ」
赤い瞳が冷蔵庫の光を反射する。
「ルシア」
いつもの声だった。
「起きたの?」
「……うん」
「珍しいね」
ミアが笑う。
「まだ昼だよ?」
何もおかしなことなどしていないような顔だった。
それが、なぜか怖かった。
ルシアは床を見る。
「……それ」
「ん?」
「全部……ミアが飲んだの?」
ミアも足元を見る。
「あー……」
少し考える。
「うん」
「……今?」
「うん」
「何本飲んだの?」
「え?」
ミアが空のパックを見る。
「……分かんない」
「分かんないって……」
「数えてなかった」
そう言って。
手に持っていた一本を吸い切る。
空になった。
ミアはそれを足元へ置いた。
そして。
何の迷いもなく冷蔵庫へ手を伸ばす。
新しい血液パックを取った。
「ミア」
ルシアの声が少し強くなった。
ミアが振り返る。
「なに?」
「まだ飲むの?」
「うん」
「……もうやめた方がいいんじゃない?」
「なんで?」
即答だった。
怒っているわけではない。
本当に理由が分からないという顔。
「だって……いっぱい飲んでるよ」
「そう?」
「学校でもずっと飲んでたでしょ?」
「うん」
「帰ってきてからも一本飲んだよね?」
「飲んだ」
「それで、今もこんなに……」
ルシアが床を見る。
空のパック。
さっきまで笑いながら「アルにお金取られるよ」なんて話していたものと、まったく同じもの。
なのに今は少しも笑えなかった。
「お腹空いてるの?」
「ううん」
「……え?」
「空いてないよ」
ミアは新しいパックにストローを刺した。
「お腹いっぱい」
「じゃあ、血が足りない感じがするの?」
「しない」
「身体が怠いとか……」
「全然」
「喉が渇いてる?」
「ううん」
「じゃあ……」
ルシアは言葉に詰まった。
「どうして飲んでるの?」
ミアが瞬きをした。
少し考えて。
笑った。
「飲みたいから」
「……」
「美味しいし」
ストローを咥える。
ちゅう。
ルシアはその音を聞きながら、なぜか動けなかった。
「……ミア」
「ん?」
「それ、飲まなくても平気なんだよね?」
「平気だよ」
「だったら――」
「でも飲みたいの」
ルシアの言葉が止まった。
ミアは普通だった。
怒ってもいない。
苦しそうでもない。
飢えてもいない。
ただ血を飲んでいる。
冷蔵庫の前に座り込んで。
みんなが眠っている時間に、一人で。
ちゅう。
ちゅう。
ストローから血を吸っている。
「……」
昨日。
ゼノンがミアに何度も聞いていたことを思い出した。
身体は重くないか。
喉が焼けるような感覚はないか。
空腹ではないか。
血が足りない感じはしないか。
全部、ミアは否定した。
それでも飲みたいのか。
そう聞かれて。
ミアは笑顔で「はい」と答えていた。
――お兄様。
だから、あんな顔してたんだ。
ようやく分かった。
「ミア」
「なに?」
「……一回、それ置こう?」
「え?」
「血」
「なんで?」
「いいから」
ルシアが手を伸ばす。
ミアはパックを胸元へ引いた。
反射的な動きだった。
ルシアの手が止まる。
ミア自身も、一瞬だけ驚いた顔をした。
「……ミア?」
「あ……」
数秒。
沈黙。
それからミアが笑った。
「ごめんごめん」
「……」
「取られると思っちゃった」
笑いながら言う。
けれど。
血液パックは手放さない。
「ミア、それ置いて」
「これ飲み終わったら」
「今」
「あとちょっとだよ?」
「ミア」
「……」
ミアが少し不満そうな顔をする。
「ルシアまでアルみたいなこと言う」
「そういうことじゃないよ」
「じゃあ何?」
「……心配なの」
その言葉に、ミアが瞬きをした。
「私のこと?」
「うん」
「なんで?」
「だって……」
ルシアは床を見る。
「こんなに飲んでるのに、自分でも何本飲んだか分からないんでしょ?」
「でも身体なんともないよ?」
「そうじゃなくて……」
上手く説明できない。
ルシア自身、何が怖いのかまだ分からなかった。
「……とにかく、一回やめよ?」
ミアは手元のパックを見る。
ストローを見る。
少しだけ迷って。
「……分かった」
ようやく床へ置いた。
ルシアがほっと息を吐く。
「冷蔵庫も閉めよう?」
「うん」
ミアが立ち上がる。
扉を閉める。
白い光が消えた。
途端にキッチンが暗くなる。
「……」
「暗っ」
ミアが笑った。
「電気つけよ」
ぱちり。
照明が点く。
いつものキッチンに戻った。
さっきまで感じていた不気味さが嘘のようだった。
ミアは空になったパックを拾い始める。
「アルにバレたら本当にお金取られそう」
「……怒られると思う」
「だよねぇ」
「何本飲んだんだろうね」
「だから分かんないって」
「数えようよ」
「えー、怖い」
「なんで?」
「すごい本数だったらどうする?」
「もうすごい本数なのは分かるよ」
「あはは!」
ミアが笑う。
ルシアもつられて少しだけ笑った。
いつものミアだ。
さっきのも、自分が寝ぼけていたから変に見えただけかもしれない。
「じゃ、寝よっか」
「うん」
二人で階段へ向かう。
途中。
ルシアは振り返った。
閉じられた冷蔵庫。
何もおかしくない。
ただの冷蔵庫だった。
「ルシア?」
「……ううん。なんでもない」
二階へ上がる。
それぞれの部屋へ戻る前に、ミアが欠伸をした。
「おやすみ、ルシア」
「おやすみ」
「起きたら学校だね!」
「うん」
「今日も楽しみ!」
笑顔。
本当にいつものミア。
ルシアは自分の部屋へ戻った。
ベッドへ入る。
目を閉じる。
けれど。
なかなか眠れなかった。
静かになると、耳の奥であの音が蘇る。
――ちゅう。
冷蔵庫の白い光。
床に散らばった空の血液パック。
その真ん中に座っていた、小さなミア。
『お腹空いてるの?』
『ううん』
『じゃあ、どうして飲んでるの?』
『飲みたいから』
「……」
ルシアは布団を胸元まで引き上げた。
少しだけ。
本当に少しだけ。
怖かった。
*
夕方。
ゼノンが帰ってきたとき、ルシアはすぐに彼を捕まえた。
「お兄様」
「ただいま、ルシア」
「おかえりなさい」
いつものように抱きつく。
ゼノンも抱き返した。
「どうしたの?」
「……分かる?」
「いつもより力強いから」
「……あのね」
ルシアは昼間のことを話した。
物音で目が覚めたこと。
冷蔵庫が開いていたこと。
ミアが一人で血を飲んでいたこと。
空のパックがいくつも落ちていたこと。
空腹でもなく、血が足りないわけでもなかったこと。
そして。
「私が取ろうとしたら、一回隠したの」
「……隠した?」
「うん。すぐ『ごめん』って言ったけど」
「それで?」
「置いてって言ったら、最初は『これ飲み終わったら』って」
ゼノンの表情から、少しずつ笑みが消えていった。
「最後は置いてくれたよ」
「……そう」
「お兄様」
「うん」
「昨日、だからミアに色々聞いてたの?」
ゼノンはすぐには答えなかった。
「……少し気になってた」
「やっぱり」
「でも、まだ何とも言えなかったから」
「ミア、おかしいの?」
不安そうに見上げるルシアの頬へ、ゼノンが触れる。
「おかしいって決めつけるのは早いよ」
「でも……」
「転化してまだ日が浅い。血を美味しく感じる程度にも個人差はある」
「うん……」
「ただ」
ゼノンが一度言葉を切った。
「身体が求めてないのに、飲まずにはいられなくなってるなら……少し注意した方がいい」
「飲まずにはいられない……」
「今日、ルシアに言われて置けたんだよね?」
「うん」
「なら、まだ自分で選べてる」
その言葉に、ルシアが少し安心する。
「じゃあ大丈夫?」
「今すぐどうこうって話じゃないよ」
ゼノンは微笑んだ。
「でも、しばらく僕たちで見てよう」
「……うん」
「アルにも話す」
「ミア、怒られない?」
「怒る話じゃない」
「お金取られたり……」
ゼノンが一瞬黙った。
「……それはアル次第かな」
「そこは助けてあげて!」
思わずルシアが笑った。
ゼノンも笑う。
いつもの空気が戻った。
けれど。
ルシアが離れたあと。
ゼノンは一人でキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける。
血液パックが並んでいる棚。
以前より明らかに減っていた。
「……」
昨日のミアの言葉を思い出す。
『飲まなくても平気です!』
『それでも飲みたい?』
『はい!』
今日。
身体が必要としていないのに、皆が眠っている時間に一人で起きてきた。
何本飲んだか分からなくなるまで飲んだ。
取り上げられそうになった瞬間、反射的に隠した。
そして。
――飲みたいから。
「……ミア」
ゼノンは静かに冷蔵庫を閉めた。
まだ、彼女は止められる。
ルシアに言われれば、手放せた。
まだ自分で選べる。
だからこそ。
今のうちに気をつけなければならない。
昨日まで笑い話だった血液パックの減り方が。
この日初めて、ゼノンには少しだけ違うものに見え始めていた。




