やっぱり最高!
ミアが夜間部へ編入してから、数日が過ぎた。
最初こそ貸し出されたぶかぶかの制服で袖に手を埋め、クレイドに「お前、ちびだな」と笑われて大騒ぎしていたミアだったが、今では身体に合わせて直された黒い制服にもすっかり馴染んでいた。
そして何より――本人が夜間部生活を誰よりも楽しんでいた。
「ルシア! 見て見て!」
「なに?」
「黒板の端っこの文字、ここからでも読める!」
「……それ普通じゃない?」
「違うよ! あそこ!」
ミアが指差したのは、教室の黒板ではなかった。
開いた窓の向こう。
中庭を挟んだ、別棟の掲示板。
「……あれ?」
「『来週より図書室の閉館時間を――』」
「待って待って。見えるの?」
「見える!」
得意げに胸を張るミアに、隣の席のクレイドが呆れた顔を向けた。
「授業中に何見てんだよ」
「だって見えるんだもん!」
「黒板見ろ」
「黒板は近すぎる!」
「意味分かんねぇ」
ルシアが吹き出す。
教師がこちらを見たため、三人揃って慌てて前を向いた。
けれど数分後。
今度はミアがぴくりと耳を動かした。
「……あ」
「今度は何?」
ルシアが小声で尋ねる。
「廊下の向こうでラビ先生が転んだ」
「え?」
直後。
かなり離れた廊下から、
「いったぁぁ……!」
という声が聞こえてきた。
ルシアとクレイドが同時にミアを見る。
「ほら!」
「なんで嬉しそうなんだよ」
「聞こえたから!」
「人が転んだことを喜ぶな」
「違うってば!」
また教師に睨まれた。
三人で口を閉じる。
ミアは笑いを堪えながら机の下で小さく拳を握った。
ヴァンパイアになってから、世界が変わった。
暗闇でもよく見える。
遠くの音まで聞こえる。
身体は軽く、少しくらい走ったところで息も切れない。
以前なら持ち上げられなかったような物だって簡単に持てる。
傷ができても、驚くほど早く治ってしまう。
何もかもが新鮮だった。
何もかもが楽しかった。
授業終了を告げる鐘が鳴る。
「終わったぁ!」
教師が出ていった途端、ミアが机に突っ伏した。
「勉強だけは人間でもヴァンパイアでも変わんない!」
「当たり前でしょ」
エリーゼが教科書を閉じながら苦笑する。
「ヴァンパイアになったからといって、頭まで急によくなるわけではありません」
「そこも強化してほしかった!」
「諦めて勉強しろ」
「クレイドに言われたくない!」
「俺はお前よりマシだ」
「絶対嘘!」
「じゃあ次の試験勝負するか?」
「やる!」
「後悔すんなよ」
「クレイドこそ!」
「二人とも」
エリーゼが静かに割って入る。
「次の授業の予習は?」
「……」
「……」
二人が同時に黙った。
ルシアが堪えきれず笑った。
「二人とも同じじゃない」
「一緒にすんな」
「一緒にしないで!」
「そこだけ息ぴったりですね」
「エリーゼまで!」
そんなやり取りをしているうちに、ミアは鞄へ手を伸ばした。
ごそごそと中を探り、一つの血液パックを取り出す。
ストローを刺す。
「いただきまーす」
ちゅう、と吸う。
クレイドが横目で見る。
「……お前、また飲んでんのか」
「うん」
「さっき飲んでただろ」
「さっき?」
「授業始まる前」
「あれは授業前の一本」
「同じ血だろ」
「これは休み時間の一本!」
「だから何が違ぇんだよ」
「気分」
「ジュースじゃねぇんだぞ」
ミアがストローを咥えたまま頬を膨らませた。
「いいじゃん。美味しいんだから」
「そういやアルが言ってたぞ」
「なにを?」
ミアが血を飲みながらクレイドを見る。
「『ミア、血液パック飲みすぎだ。そろそろ金取るぞ』って」
「ええっ!?」
ミアが勢いよくストローから口を離した。
「お金取るの!?」
「そりゃあんだけ飲んでりゃ言われるだろ」
「居候に厳しくない!?」
「お前が飲みすぎなんだよ」
「だって血ってご飯でしょ!? ご飯代請求するの!?」
「一日三食の奴が一日十食食ってりゃ請求したくもなるだろ」
「十本も飲んでないもん!」
「昨日何本飲んだ?」
「……」
「ほら」
「……数えてない」
「じゃあ十本飲んでても分かんねぇだろ」
「飲んでない!」
「何で言い切れんだよ」
「多分!」
「多分じゃねぇか」
ルシアが笑いながらミアを見る。
「でも本当にすごい勢いでなくなってるよ。アル、この前も冷蔵庫に補充してなかった?」
「してた」
クレイドが答える。
「今朝開けたら半分くらいになってたぞ」
「……誰か他にも飲んだんじゃない?」
「ほぼお前だろ」
「証拠は!?」
「毎回ストロー咥えて歩いてる奴が何言ってんだ」
「むきー!」
エリーゼが小さくため息をついた。
「クレイドの言い方はともかく、必要以上に飲む癖はつけない方がいいですよ」
「はーい!」
素直に返事をする。
そして。
ちゅう。
再びストローを咥えた。
「今言ったばかりでしょう」
「これはもう開けちゃったから!」
「……そうですか」
エリーゼが諦めたように目を伏せる。
ルシアはとうとう声を上げて笑った。
「ミア、本当に血好きだね」
「好き!」
即答だった。
「人間だった頃は知らなかったよ。血ってこんなに美味しいんだね」
「その感想を人間の前では言わないでくださいね」
「分かってるよぉ」
「本当に?」
「本当!」
「先日の授業で教えたことは?」
「必要以上に奪わない!」
「よろしいです」
「これは奪ってないよ。パックだから!」
「そういう問題ではありません」
「えー?」
ミアが笑う。
その声につられてルシアも笑った。
少し前まで、この場所にミアはいなかった。
昼間部と夜間部。
活動する時間そのものが違ってしまって、これから少しずつ会えなくなっていくのだと思っていた。
それが今では、同じ黒い制服を着て、同じ教室でくだらないことで笑っている。
あの日、ミアをヴァンパイアにしたこと。
その選択を思い返すたびに迷いが完全になくなるわけではない。
それでも。
こんなに楽しそうなミアを見ていると、やっぱり助けられてよかったと思えた。
「ルシア?」
「ん?」
「何笑ってるの?」
「ミアが楽しそうだなって思って」
「楽しいよ!」
ミアは迷うことなく答えた。
「だって、ずっと一緒にいられるし!」
ルシアの腕に抱きつく。
「ルシアとも、エリーゼとも、クレイドとも同じ時間に学校来れるし!」
「俺まで入れんな」
「入ってるよ!」
「勝手に入れんな」
「もう入れた!」
「出せ」
「やだ!」
「うるせぇ!」
「ふふっ」
エリーゼまで笑っていた。
そこへ教室の扉が開く。
「お、楽しそうじゃん」
クロードだった。
その後ろからセドリック、ラビ、ノエルが入ってくる。
「次、合同授業だぞ」
セドリックが言う。
「あれ? ゼノンは?」
ルシアが尋ねると、ノエルが答えた。
「先生に呼ばれてる。すぐ来ると思う」
「ねえねえ!」
ミアが突然ラビを見る。
「ラビ先生!」
「はいはい、なんですか新人ちゃん」
「さっき廊下で転びました?」
「……なんで知ってるの?」
「聞こえました!」
「嘘ぉ!?」
「『いったぁぁ』って!」
「やだ! 聞かなかったことにして!」
「無理です!」
「忘れて!」
「無理です!」
「新人ちゃんの聴力嫌い!」
「ヴァンパイア最高!」
ミアが両手を上げる。
その拍子に持っていた血液パックが揺れた。
クロードがそれを見る。
「また飲んでんの?」
「またって何ですか」
「さっき廊下ですれ違ったときも飲んでなかった?」
「……あれ?」
「飲んでたよね?」
「飲んでたかも」
「お前何本飲んだかも覚えてねぇのかよ」
クレイドが呆れる。
「別にいいじゃん!」
ミアは最後の一口を吸い切ると、空になったパックを片付けた。
「美味しいし、元気だし、傷もすぐ治るし、夜もよく見えるし、足も速くなったし!」
指を一本ずつ折って数えていく。
「しかもみんなと一緒にいられる!」
最後に両手を広げた。
「ヴァンパイア最高!」
「楽しそうで何よりだな」
クロードが笑う。
「転化したばかりですから、何もかも新鮮なのでしょう」
エリーゼも穏やかだった。
「そのうち慣れるよ」
セドリックが言う。
「えー! 慣れたくない!」
「そこ?」
「ずっと楽しい方がいい!」
「ミアなら百年後も同じこと言ってそう」
ルシアが笑う。
「言うよ! 百年後も『ヴァンパイア最高!』って!」
「うるさそうだな、百年後も」
「クレイドも一緒だからね!」
「嫌だ」
「逃がさない!」
「何でだよ」
教室に笑い声が広がった。
そのとき、ゼノンが入ってきた。
「ずいぶん賑やかだね」
「お兄様」
ルシアが振り返る。
「ミアが百年後も今のままらしいよ」
「やめてくれ」
クレイドが即座に言った。
「いいじゃん!」
ミアが笑う。
ゼノンも小さく笑いながら、ルシアの隣へ来た。
けれど。
ふと、視線が止まる。
ミアの机の横。
片付けきれていなかった空の血液パックが一つ。
そのままゼノンの視線がミアの鞄へ移る。
口が少し開いていて、中にはまだ何本か入っている。
「……ミア」
「はい?」
「それ、今日何本目?」
「え?」
ミアが瞬きをする。
「血」
「今日ですか?」
「うん」
「えーっと……」
指を折る。
「家出る前に一本でしょ?」
「うん」
「学校着いてから……一本?」
「一本飲んでたよ」
ルシアが教える。
「あ、そうだった!」
「それ忘れる?」
「で、授業前に一本」
クレイドが言った。
「さっき一本」
クロードが追加する。
「じゃあ四本!」
「いや」
クレイドが眉を寄せる。
「お前、最初の授業の途中にも飲んでなかったか?」
「……飲んだっけ?」
「飲んでた」
エリーゼが答える。
「じゃあ五本!」
ミアがにこっと笑った。
「多分!」
「多分って」
ルシアが笑う。
「自分で分からなくなってるじゃん」
「だっていちいち数えてないもん!」
「少しは数えろ。アルに金取られるぞ」
「それは困る!」
「だったら減らせ」
「それとこれとは別!」
「別じゃねぇよ」
また笑いが起きた。
ゼノンだけが笑わなかった。
「ミア」
「はい?」
「今、身体が重い?」
「え?」
「怠いとか、力が入りにくいとか」
「全然!」
ミアが腕を曲げてみせる。
「めちゃくちゃ元気です!」
「喉が焼けるような感じは?」
「ないです」
「空腹は?」
「ないですよ?」
「血が足りない感じは?」
「全然!」
全部即答だった。
ゼノンは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、今から今日一日、もう血を飲まなくても身体は平気そう?」
「平気だと思います!」
「……そう」
ルシアがゼノンを見る。
「どうしたの、お兄様?」
「ううん」
ゼノンは穏やかに答えた。
「ちょっと気になっただけ」
「ゼノン先輩、心配性!」
ミアが笑った。
「私、こんなに元気ですよ?」
「そうだね」
「ほら!」
その場でぴょん、と跳ねる。
「元気!」
「教室で跳ぶな」
セドリックが注意する。
「はーい」
ゼノンはもう一度ミアを見た。
「じゃあもう一つだけ」
「なんですか?」
「今持ってる血」
ミアの鞄を指す。
「飲まなくても平気なんだよね?」
「はい」
「それでも飲みたい?」
「はい!」
迷いのない返事だった。
「だって美味しいですもん!」
ミアが笑う。
「人間だって、お腹いっぱいでもデザート食べるじゃないですか!」
「血とケーキ一緒にすんな」
クレイドが即座に突っ込む。
「一緒だよ!」
「どこがだよ」
「美味しい!」
「雑すぎんだろ」
「じゃあクレイドは、お腹いっぱいだったら一生お菓子食べないの?」
「一生の話してねぇ」
「ほら!」
「何が『ほら』だ!」
ミアが笑う。
ルシアも笑う。
ラビもクロードも笑っている。
ノエルでさえ僅かに口元を緩めていた。
ゼノンも最後には小さく笑った。
けれど、その赤い瞳だけは少し考えるようにミアを見ていた。
*
その日の実技授業でも、ミアは絶好調だった。
「速っ!」
ルシアの前を小さな影が横切る。
次の瞬間には、離れた場所に置かれた目印をミアが抱えていた。
「取ったー!」
「ミア、すごい!」
「でしょ!?」
「調子乗んな。今の動き無駄多すぎだ」
クレイドが言う。
「取れたんだからいいじゃん!」
「実戦ならその無駄で死ぬんだよ」
「むぅ……」
「クレイドの言う通りですよ」
エリーゼが容赦なく追撃する。
「ええっ!? エリーゼまで!」
「速度に頼りすぎです。急停止の際にも体勢が崩れています」
「厳しい!」
「授業ですから」
「褒めてから注意して!」
「では、速かったです」
「やった!」
「ですが――」
「もういい!」
ルシアが笑いながら見ている横で、白狼が尻尾を振った。
「ルナも応援してるよ」
「ルナぁ!」
ミアがしゃがみ込む。
「私頑張ったよ!」
ルナが近づき、ミアの頬へ鼻先を寄せる。
「可愛い!」
抱きつこうとすると、ルナがするりと逃げた。
「あっ!」
少し離れた場所で振り返る。
「待てー!」
ミアが追いかける。
ルナが走る。
「授業中ですよ!」
「すぐ戻るー!」
「ミア!」
「元気だねぇ」
ラビが笑う。
その隣ではガルが伏せていた。
ルナに追いつけず走り回るミアを、黒狼は静かに眺めている。
「ガルも行ってきたら?」
ゼノンが言う。
ガルが顔を上げた。
次の瞬間、黒い身体が駆け出す。
「うわっ、ガルまで来た!」
ミアが方向転換する。
「待って! 二匹は無理!」
「逃げろミアー!」
ルシアが笑う。
「ルシア助けて!」
「頑張って!」
「裏切り者ー!」
白と黒の狼。
その間を逃げ回る小柄なミア。
クレイドは呆れ、エリーゼは注意しながらも笑っている。
少し離れたところでは、クロードたちまで面白がって見ていた。
ごく普通の夜間部の一日だった。
楽しくて。
騒がしくて。
ルシアがずっと欲しかった日常そのものだった。
*
休憩時間。
「あー、走った走った!」
ミアが椅子へ座る。
そして当然のように鞄を開けた。
血液パックを取り出す。
ストローを刺す。
ちゅう。
「……」
ゼノンの視線が止まった。
ルシアは気づかなかった。
クレイドも、もう何も言わなかった。
さっき散々走ったのだから、喉でも渇いたのだろう。
誰もがその程度に思った。
ミア自身も。
「生き返るー!」
「もう死なねぇだろ」
「気分の話!」
クレイドに返しながら、ミアは楽しそうに血を飲む。
ゼノンだけが黙って見ていた。
さっき本人が言っていた。
身体は重くない。
喉も焼けていない。
空腹でもない。
血が足りない感覚もない。
飲まなくても平気。
それなのに。
――飲みたい。
「……お兄様?」
ルシアに呼ばれ、ゼノンが視線を外した。
「なに?」
「ぼーっとしてた」
「少し考え事」
「珍しい」
「僕だって考え事くらいするよ」
「何考えてたの?」
ゼノンは一瞬だけミアを見る。
けれど。
「秘密」
「えー」
「そんな顔しないで」
笑ってルシアの頭を撫でる。
その向こうでは、空になったパックを振っていたミアが鞄の中を覗き込んでいた。
「あれ?」
「どうした」
「あと一本しかない」
「まだ飲む気かよ」
「だって帰るまで長いじゃん」
「今日何本飲んでんだ、お前」
「分かんない!」
「威張るな!」
「じゃあ帰りに追加でもらおーっと」
「だからアルが金取るって言ってんだろ」
「その話はもう終わったの!」
「終わってねぇよ」
「クレイドが言わなかったらアルも忘れるかもしれないじゃん!」
「本人から聞いたっつってんだろ」
「じゃあクレイドが『ミアは反省してました』って言っといて!」
「してねぇだろ」
「今した!」
「嘘つけ」
明るい声だった。
いつものミアだった。
誰も困っていない。
誰も傷ついていない。
保存された血を飲んでいるだけ。
それでも。
ゼノンの胸に、小さな違和感だけが残った。
血を欲しがること自体は、ヴァンパイアにとっておかしなことではない。
生きるために必要なものなのだから。
美味しいと感じることだって普通だ。
問題なのは――。
必要だから欲しいのか。
それとも。
必要ではないのに、欲しいのか。
「ゼノン先輩!」
ミアの声に、ゼノンが顔を上げる。
「なんですか、その顔!」
「どんな顔?」
「私の血、没収しようとしてる顔!」
「そんな顔してないよ」
「してます!」
ミアは最後の一本を胸元へ隠した。
「これは私のです!」
「取らないよ」
「本当に?」
「うん」
「よかった!」
すぐに笑顔へ戻る。
「やっぱりヴァンパイア最高!」
またみんなが笑った。
ゼノンも今度は笑った。
まだ、止めるほどではない。
転化して間もない。
血を美味しいと感じる程度には個人差もある。
ただ少し注意して見ておこう。
このときのゼノンも、それ以上には考えていなかった。
ミア自身はなおさらだった。
身体は満たされている。
お腹も空いていない。
喉も渇いていない。
飲まなくても平気。
ただ。
血が美味しい。
だから飲みたい。
今はまだ、それだけだった。




