「ガル」と「ルナ」
翌朝。
ルシアは目を覚ました瞬間から、何かがおかしいことに気づいていた。
身体が痛いわけではない。
喉が渇いているわけでもない。
熱があるわけでもない。
けれど――何かがいる。
「……?」
ベッドの上で身体を起こし、自分の手を見る。
何もない。
胸元へ手を当ててみても、心臓はいつも通り動いている。
それなのに、身体の奥にもう一つ、自分ではない何かがあるような気がする。
いや。
自分ではない、というのも違う。
「……私?」
首を傾げる。
自分なのに、自分ではない。
すぐ近くにいるような気がするのに、姿が見えない。
不思議な感覚だった。
ベッドから降りる。
窓から差し込む朝の光に目を細めながら、カーテンを閉める。
ヴァンパイアになってから、朝の光は少し苦手になった。
耐えられないほどではないけれど、眩しい。
肌も僅かにぴりぴりする。
「……やっぱりいる」
呟いて、足元を見る。
自分の影。
そこに何かを感じる。
しばらく見つめてみたけれど、何も起こらない。
ルシアは考えた。
この感覚を、以前どこかで感じたことがある。
完全に同じではない。
けれど、とてもよく似ているものを知っている。
「……ガル?」
思い浮かんだ瞬間。
ルシアは部屋を飛び出した。
廊下を歩き、階段を下りる。
居間へ入ると、ソファにはゼノンがいた。
本を読んでいたらしい。
ルシアに気づき、赤い瞳が上がる。
「おはよう、ルシア」
「お兄様!」
本が閉じられた。
「どうしたの?」
「ちょっと来て!」
「うん」
理由すら聞かない。
ゼノンはすぐに立ち上がった。
ルシアはゼノンの手を引き、そのまま庭へ向かった。
「こっち!」
「そんなに急がなくても逃げないよ」
「でも!」
「何が?」
「分からないの!」
「分からないものを追いかけてるの?」
「そう!」
ゼノンが少し笑った。
庭へ出る。
朝とはいえ、家の裏側は建物の影になっている。
直射日光も届かない。
そこでようやくルシアは立ち止まった。
「お兄様」
「うん」
「変なの」
「どこか具合悪い?」
すぐにゼノンの表情が変わった。
「違うの。身体は何ともないよ」
「本当?」
「うん」
「じゃあ?」
ルシアは自分の胸へ手を当てた。
どう説明すればいいのか分からない。
「何か……いる気がするの」
ゼノンの目が僅かに細くなる。
「いる?」
「うん。でも怖い感じじゃなくて」
少し考える。
「私なの」
「ルシア?」
「私なんだけど、私じゃなくて……」
自分でも意味が分からなくなってくる。
「えっと……」
足元を見る。
「お兄様のガルを見た時は思わなかったけど、今朝は何故か自分にもできる気がするの」
ゼノンの表情が変わった。
驚いたようにルシアを見る。
それから。
「……そっか」
嬉しそうに笑った。
「お兄様?」
「やってみようか」
「できるの?」
「それはルシア次第」
「どうやるの?」
「僕と同じなら、やり方を考えすぎない方がいいよ」
ゼノンはルシアの隣へ立った。
「ガルは、僕がどこかから呼び出しているわけじゃない」
「うん」
それは以前にも聞いた。
ガルは使い魔ではない。
別の生き物でもない。
「僕の力が形になったもの。もっと簡単に言えば――僕の一部だよ」
ゼノンの足元。
影が僅かに揺れた。
そこから黒いものが立ち上がる。
大きな前脚。
漆黒の毛並み。
鋭い耳。
赤い瞳。
黒狼ガルが、音もなく姿を現した。
「ガル!」
ルシアが笑う。
ガルはルシアを見ると、ゆっくり近づいてきた。
その大きな頭をルシアの身体へ擦りつける。
「ふふ、くすぐったい」
撫でる。
ガルの尻尾が一度だけ揺れた。
「今、ガルが何を感じてるか、お兄様にも分かるの?」
「分かるよ」
「私が撫でてるのも?」
「うん」
「どんな感じ?」
ゼノンは少し考えた。
「嬉しい」
ルシアが笑った。
「ガルが?」
「僕が」
「どっち?」
「どっちも」
ガルがもう一度ルシアへ頭を押しつける。
ルシアはその大きな身体をぎゅっと抱きしめた。
「ふふっ、可愛いなぁ」
「僕とガルを完全に分けて考えない方がいい」
「……そっか」
ルシアはガルを見る。
「じゃあ私の中にいる感じがするのも……」
「同じかもしれない」
ゼノンが頷いた。
「だから呼び出そうとしなくていい」
「じゃあどうするの?」
「出たいなら、出してあげる」
「……それだけ?」
「それだけ」
ルシアは目を閉じた。
身体の奥。
今朝からずっと感じていたもの。
どこにいるのか。
何なのか。
考えない。
ただ。
――出てきていいよ。
そう思った。
風が吹いた。
ルシアの髪が揺れる。
足元の影が、僅かに震えた。
「……!」
ゼノンが息を止める。
ルシアはまだ目を閉じていた。
自分の中から、何かが外へ流れていく。
けれど失う感覚ではない。
身体から離れているのに、繋がっている。
もう一つの手を伸ばすような。
もう一つの身体を作るような。
不思議な感覚。
影の中から。
最初に現れたのは、白い前脚だった。
次に頭。
耳。
長い身体。
そして、大きな尻尾。
一頭の狼が、ルシアの影からゆっくりと姿を現した。
初めて見る世界を確かめるように、きょろきょろと辺りを見回している。
朝の薄暗い庭でさえ分かるほど、真っ白な毛並み。
雪のような白。
ガルより少し小柄で、しなやかな身体。
狼は完全に影から抜け出すと、ルシアの前に立った。
ルシアが目を開ける。
「……」
目の前。
真っ白な狼。
「……え?」
狼が首を傾げた。
ルシアも首を傾げる。
狼も反対側へ傾げる。
「……えっ」
一歩近づく。
狼も一歩近づく。
「お兄様」
「うん」
「出た」
「出たね」
「私から?」
「ルシアから」
「これ……私?」
「ルシアの分身だね」
ルシアの顔が一気に明るくなった。
「可愛い……!」
白狼へ飛びつく。
「可愛い!」
ぎゅっと抱きしめた。
ふわふわしている。
「すごい! ふわふわ!」
両手で顔を撫でる。
「可愛い! お兄様、見て!」
「見てるよ」
「真っ白!」
「うん」
「可愛い!」
「うん」
「すっごく可愛い!」
「うん」
返事をしながら。
ゼノンは狼よりルシアを見ていた。
あまりにも嬉しそうだから。
白い狼を抱きしめて、目を輝かせている。
その姿を見ているうちに、ゼノンの表情まで柔らかくなる。
「ルシアの分身は白狼なんだね」
「うん!」
「可愛い」
「でしょ!」
ルシアは白狼を抱きしめたまま笑った。
ゼノンも笑う。
「……どっちも」
「え?」
「何でもない」
白狼がルシアの頬を舐めた。
「きゃっ!」
ルシアが笑う。
その瞬間。
「……あれ?」
自分の頬を触る。
「どうしたの?」
「今、変だった」
「何が?」
「この子に舐められたのに……」
白狼を見る。
「舐められた感じと、私が舐めた感じが一緒にしたの」
ゼノンが小さく笑った。
「感覚が繋がってるんだよ」
「これが?」
「うん」
「じゃあ――」
ルシアは白狼の頭を撫でる。
「……わっ」
自分の頭を触る。
「変!」
「慣れるよ」
「この子を撫でてるのに、私も撫でられてるみたい!」
「不思議でしょ」
「うん!」
ルシアは白狼の顔を覗き込んだ。
白狼も、まっすぐルシアを見返している。
「……名前」
「うん?」
「名前、つけてあげなきゃ」
ルシアは白狼の頬を両手で包んだまま、真剣に考え始めた。
「白いから……シロ?」
ゼノンが僅かに笑う。
「そのままだね」
「じゃあユキ」
「それも白いから?」
「うん」
「ルシアがいいならいいけど」
「……もうちょっと可愛いのがいい」
白狼の耳がぴくりと動く。
まるで自分の名前が決まるのを待っているようだった。
「うーん……」
ルシアはしゃがみ込んだまま考える。
「真っ白で……綺麗で……」
ふわふわの毛を撫でる。
「雪みたいだけど、雪より……」
少し離れて白狼を見る。
薄暗い庭の中。
影の中に立つ真っ白な姿は、不思議なくらい目を引いた。
暗い場所に浮かぶ白。
その姿を見て。
ルシアの目がぱっと輝いた。
「あ!」
「決まった?」
「うん!」
ルシアは白狼の前へ戻る。
両手でその顔を包んで。
満面の笑みを浮かべた。
「ルナにする!」
白狼が瞬きをした。
「ルナ?」
ゼノンが聞き返す。
「うん!」
ルシアは嬉しそうに頷く。
「月って意味!」
もう一度、真っ白な毛並みを見る。
「暗いところにいると、白く浮かんで見えるでしょ? お月様みたいだから」
ゼノンも白狼を見る。
確かに。
黒い影の中に佇む白狼は、そこだけ淡く光っているようにも見える。
「ルナ」
ゼノンが呼ぶ。
白狼の耳がぴくりと動いた。
「あ!」
ルシアが喜ぶ。
「反応した!」
「気に入ったのかもね」
「本当?」
ルシアはもう一度呼んだ。
「ルナ!」
今度は尻尾が大きく揺れた。
「気に入ってる!」
ルシアが笑う。
「今日からあなたはルナ!」
ルナが勢いよくルシアの顔を舐めた。
「きゃっ! ふふっ!」
「よかったね、ルナ」
「うん!」
「いい名前だと思うよ」
「でしょ?」
「ルシアが一生懸命考えたからね」
「最初シロって言ったけど」
「それは忘れてあげる」
「忘れて!」
ルシアは笑いながらルナを抱きしめた。
「よろしくね、ルナ」
ルナも嬉しそうに尻尾を揺らしていた。
ゼノンも呼んでみる。
「ルナ」
ルナがゼノンを見る。
しばらく見つめて。
近づいた。
「お兄様のことも分かるのかな?」
「多分」
ゼノンが手を伸ばす。
ルナはその手の匂いを嗅ぐと、素直に頭を寄せた。
「触らせてくれた」
「ルシアが僕を警戒してないからだと思う」
「じゃあ、私が好きな人のことはルナも好き?」
「その可能性は高いね」
「すごい!」
そのとき。
少し離れたところにいたガルが立ち上がった。
ルシアが振り返る。
「ガル」
漆黒の狼。
純白の狼。
二頭が向かい合う。
「……」
「……」
ガルがルナを見る。
ルナもガルを見る。
動かない。
「お兄様」
「うん」
「喧嘩しない?」
「多分」
「多分!?」
「ガルは喧嘩する気ないよ」
「分かるの?」
「僕だからね」
「そっか」
ガルが一歩進む。
ルナも一歩。
また一歩。
鼻先が触れた。
二頭がお互いの匂いを確かめる。
「……仲良くしてね」
ルシアが小さく言った。
その直後。
ルナが突然、ガルの前脚へじゃれついた。
「えっ」
ガルが避ける。
ルナが追う。
ガルが走る。
ルナも走る。
「わっ!」
二頭が庭を駆け出した。
黒と白。
ガルの後ろをルナが追いかける。
と思ったら、途中でルナが横へ回り込み、今度はガルを追い越す。
ガルが追う。
「お兄様! 遊んでる!」
「遊んでるね」
「すごい!」
ルシアまで走り出しそうになる。
その瞬間。
「わっ……!」
身体が前へ傾いた。
「ルシア」
ゼノンが腰を支える。
「大丈夫?」
「うん。でも今……」
ルナを見る。
庭を走っている。
「私も走ってるみたいだった!」
「慣れるまでは感覚を強く拾うかもね」
「お兄様も?」
「ガルが走れば分かるよ」
「楽しい?」
ゼノンはガルを見る。
「……楽しい」
「ふふ」
ルシアが笑った。
「私も!」
そのとき。
家の扉が開いた。
「ルシアー! 血もう一本飲んでい――」
ミアが止まった。
片手には血液パック。
ストローを咥えたまま。
庭を見る。
ガル。
ルナ。
もう一度ガル。
ルナ。
「……」
ストローが口から落ちた。
「何これ可愛すぎる!!」
叫んだ。
「ルシア! 何あれ!? 白い! 狼!? ガルが白くなった!?」
「違うよ!」
「ガルの子供!?」
「違う!」
「じゃあ何!?」
「私の!」
「ルシアの!?」
ミアが走ってくる。
「何それ! いつ買ったの!?」
「買ってないよ!」
「拾った!?」
「違うってば!」
ルシアは笑いながらルナを呼ぶ。
「ルナ!」
白狼が振り返る。
ガルとの追いかけっこをやめ、ルシアの元へ走ってきた。
「この子、ルナ」
「ルナ!」
「私の分身なの」
「……分身?」
「ガルと同じ」
ミアがゼノンを見る。
「ゼノン先輩のガルみたいな!?」
「そうだよ」
「ルシアも出せるの!?」
「今日初めて出たの!」
「すごい!」
ミアがしゃがみ込む。
「触っていい!?」
「いいよ」
「ルナ!」
両手を広げる。
「おいで!」
ルナはミアを見る。
一度ルシアを見る。
それから近づいた。
「来た!」
ミアが抱きしめる。
「ふわふわ! 可愛い! 何これ! 欲しい!」
「欲しいって言われても」
「私も出す!」
「え?」
ミアが立ち上がった。
「私もやる!」
「ミア?」
「こうでしょ?」
足を開く。
拳を握る。
目を閉じる。
「……」
力む。
「んんんん……!」
「何してるの?」
「分身出してる!」
「そんな力まなくていいと思う」
「出ろぉぉぉ……!」
「朝からうるせぇ」
別の声がした。
全員が振り返る。
クレイドが庭へ出てきた。
眠そうな顔。
髪も少し乱れている。
「何騒いで――」
止まる。
ガルを見る。
ルナを見る。
「……増えてる」
ルシアが嬉しそうに笑った。
「クレイド! 見て!」
「見えてる」
「ルナ!」
「名前までついてんのかよ」
「私の分身!」
「……お前の?」
クレイドが少しだけ目を見開いた。
「ガルと同じだよ」
ゼノンが説明する。
「ルシアの力が形になったもの」
「へぇ」
クレイドはルナを見る。
「白いんだな」
「可愛いでしょ?」
「まあ」
「可愛い?」
「普通」
「絶対可愛いと思ってる!」
「思ってねぇ」
そのとき。
ルナがクレイドへ近づいた。
「……何だよ」
足元へ来る。
匂いを嗅ぐ。
「おい」
さらに近づく。
クレイドの脚へ身体を擦りつけた。
「……」
ルシアの目が輝いた。
「クレイドのこと好きみたい!」
「何でだよ」
「私がクレイド好きだからかな?」
一瞬。
クレイドが止まった。
ゼノンの目も僅かに細くなる。
「……ルシア」
「え?」
「その言い方はちょっと嫌だな」
「どうして?」
「僕が嫌だから」
「お兄様?」
クレイドが即座に口を挟む。
「ふん、妬くなよ」
「分かってるよ」
「じゃあその目やめろ」
「普通に見てるだけだけど」
「嘘つけ」
ミアが笑い出した。
「朝から何やってんの!」
「ミアは黙ってて」
「はーい!」
返事だけはいい。
その間にもルナはクレイドの足元から離れない。
クレイドが一歩動く。
ルナも一歩。
もう一歩。
ルナも。
「……ついてくんな」
ついていく。
「おい」
さらに追う。
「ルシア」
「なに?」
「お前の分身ならお前がどうにかしろ」
「ルナ、クレイド好きなの?」
ルナの尻尾が揺れた。
「好きだって!」
「分かんのかよ」
「なんとなく!」
「じゃあ離れろって言え」
「嫌みたい」
「何でだよ」
「クレイドめっちゃ好かれてるじゃん!」
ミアが笑う。
「うるせぇ」
「ルナ! 私のところにもおいで!」
ミアが呼ぶ。
ルナはクレイドを見る。
ミアを見る。
クレイドを見る。
「何で迷うの!?」
「嫌われてんじゃねぇの」
「さっき抱っこさせてくれたもん!」
「じゃあ来るだろ」
「ルナー!」
ようやくルナがミアへ向かう。
「来た!」
ミアが抱きつく。
「可愛い! 私も欲しい!」
「まだ諦めてなかったの?」
ルシアが笑う。
「どうやって出すの!?」
「さっき教えたでしょ」
ゼノンが言う。
「自分の一部を形にする感覚」
「分かりません!」
「だろうね」
「ゼノン先輩ひどい!」
「そもそも、誰でもできるものじゃないから」
「えっ」
ミアが固まる。
「こういう形で力を外へ顕現させられるヴァンパイアは少ないよ」
「じゃあ私……」
「多分無理」
「そんな!」
「三日前にヴァンパイアになったばっかりだろ」
クレイドが言う。
「でも欲しい!」
「ペットじゃねぇんだぞ」
「分身!」
「もっと無理だろ」
「クレイドは?」
「できねぇ」
「じゃあ仲間!」
「一緒にすんな」
「できない仲間!」
「うるせぇ」
庭が笑い声でいっぱいになる。
ガルが戻ってくる。
ルナがそれに気づき、ミアの腕から抜け出した。
「行っちゃった!」
ガルのところへ走っていく。
今度は二頭並んで庭の端へ向かう。
ガルが立ち止まればルナも止まり。
ルナが走ればガルが追う。
まるでずっと前から一緒だったかのように、自然に遊んでいた。
「仲良しだね」
ルシアが言う。
「そうだね」
ゼノンが隣へ来る。
「ガルも嬉しそう」
「分かる?」
「うん」
「ルナも楽しいよ」
「分かるようになった?」
「少し」
ルシアは胸へ手を当てた。
「変な感じだけど……嬉しいのが分かる」
「そのうちもっと分かるよ」
「お兄様も最初は分からなかった?」
「今ほどはね」
「じゃあ私も練習したら、お兄様みたいになれる?」
「なれるよ」
迷いのない返事だった。
ルシアがゼノンを見る。
「本当?」
「ルシアは僕と同じヴァルディエだから」
ゼノンの手が頭へ触れる。
「それに、ルナを出せたってことは、ルシアの力がちゃんと成長してる証拠だよ」
「……そっか」
嬉しそうに笑う。
その顔を見て、ゼノンも微笑んだ。
少し離れた場所では。
「ねえクレイド」
「何だよ」
「私、やっぱりもう一回やってみる」
「やめろ」
「今度はいける気がする!」
「さっきも言ってただろ」
「見てて!」
「見ねぇ」
「んんんんん……!」
「力むなって言われただろ」
「出ろー!」
「うるせぇ!」
「クレイドもやって!」
「やらねぇ!」
「二人でやったら出るかも!」
「何がだよ!」
ルシアが吹き出した。
ゼノンも小さく笑う。
ガルとルナ。
黒と白。
二頭の狼が庭を駆ける。
その間を、朝の柔らかな風が抜けていく。
しばらくして遊び疲れたのか、ガルが日陰へ伏せた。
ルナもその隣へ行く。
身体を丸めるように伏せ。
少し迷ってから。
ガルの身体へぴったりと寄り添った。
黒い毛並み。
白い毛並み。
二つが重なる。
「……見て」
ルシアが小声になる。
「可愛い……」
ゼノンも二頭を見る。
けれど。
すぐに視線はルシアへ戻った。
嬉しそうに目を細めている。
本当に幸せそうな顔。
ゼノンはその横顔を見つめた。
十年間。
見ることができなかった。
黒い髪も。
赤い瞳も。
ヴァルディエとしての力も。
こうして自分と同じ存在を生み出す姿も。
少しずつ。
一つずつ。
失われていたルシアが戻ってくる。
「お兄様?」
視線に気づいたルシアが振り返った。
「何?」
「……ううん」
ゼノンは笑った。
「嬉しそうだなと思って」
「だって嬉しいよ!」
ルシアは迷いなく答えた。
「ガルを見たとき、ずっと羨ましかったんだもん」
「そうなの?」
「うん。お兄様といつも一緒で、格好よくて」
眠っているルナを見る。
「私にもできた」
「うん」
「ルナがいる」
「いるね」
ルシアがゼノンの腕へ抱きついた。
「嬉しい!」
「僕も嬉しいよ」
ゼノンはその身体を抱き寄せる。
「ルシアが嬉しいなら」
「ふふ」
少し離れたところから。
「ねえ!」
ミアの声が飛んできた。
「私だけ何も出ないんだけど!」
クレイドが呆れた声で返す。
「当たり前だろ!」
「クレイドも出てないじゃん!」
「俺はやってねぇ!」
「じゃあやってよ!」
「嫌だ!」
「二人とも何か出そうよ!」
「何かって何だよ!」
ルシアが笑う。
ゼノンも笑った。
その声に反応したのか。
眠っていたルナが片目を開ける。
ガルも顔を上げた。
黒狼と白狼。
ゼノンとルシア。
クレイドとミア。
朝の庭には、いつまでも賑やかな声が響いていた。
ルシアはまだ知らなかった。
この日のことを。
真っ白な狼が初めて自分の影から現れたことを。
ガルとルナが庭を走り回ったことを。
ミアが何度挑戦しても何も出せず、クレイドに笑われて怒っていたことを。
いつか振り返ったとき。
胸が痛くなるほど、大切な思い出として覚えていることになるなんて。
今はただ。
ルナが生まれたことが嬉しくて。
みんなが笑っていることが嬉しくて。
それだけで十分だった。




