小柄な編入生
ベルフォート家の夜会は、予定よりもずっと早く終わることになった。
人間であるミアが瀕死の重傷を負い、その場でヴァンパイアへ転化した。いくら招待客の多くがヴァンパイアとはいえ、ベルフォート家が何事もなかったように宴を続けられる状況ではない。
レティシア・ドラクロワはその場に留め置かれ、ベルフォート家の者たちによる事情聴取を受けた。
ミアが先にレティシアへ詰め寄り、手を伸ばしたところまでは、付近にいた者も目撃していた。
しかし、二人が物陰へ入ったあとの決定的な瞬間を見た者はいない。
人間だったミアとヴァンパイアであるレティシアでは、そもそもの身体能力が違いすぎる。腕を掴まれたからといって、複数の肋骨が折れ、肺や血管が損傷するほどの力で振り払う必要があったのか。
ルイスが追及しても、レティシアは困ったように眉を下げるだけだった。
「突然でしたから、びっくりして力が入ってしまったんですのよ」
「結果として、人間一人が死にかけた」
「ですから、それについては申し訳なく思っていますわ。殺すつもりなんてありませんでしたもの」
悪びれていないようにも見える。
しかし、故意だったと証明するものもない。
さらに厄介だったのは、ミア自身の記憶だった。
転化したばかりで身体の再生も終わっていないミアから、無理のない範囲で話を聞いたものの、彼女は死にかける直前のことを覚えていなかった。
レティシアを見つけたこと。
以前の夜会で自分を利用したことや、ルシアに何をするつもりなのかと問い詰めたこと。
そこまでは、ぼんやりと覚えている。
しかし、その先がない。
「……私、どうなったんだっけ」
ミアは困惑したように眉を寄せた。
「レティシアを見つけて……腹が立って。それで、ルシアにまた何かするつもりなのって聞いて……」
必死に記憶を辿ろうとしている。
「それから……」
止まる。
「……分かんない」
「何も?」
ルイスが尋ねる。
「うん……」
ミアは自分の胸元を見る。
そこには先ほどまで致命傷があった。
「気づいたら、ルシアたちがいて……身体がすっごく痛くて……それから私、ヴァンパイアになってた」
死の直前。
激痛と失血。
意識が途切れるほどの損傷。
その影響なのか、転化そのものによるものなのかは分からない。
ただ、ミアの記憶は肝心な部分だけが抜け落ちていた。
自分がレティシアへどのように手を出したのか。
レティシアがどんな動きをしたのか。
どの瞬間に致命傷を負ったのか。
ミア本人には証言できない。
レティシアはそれを聞いても、表情を変えなかった。
「先ほど申し上げた通りですわ。ミアさんが突然わたくしへ掴みかかってきたものですから、驚いて振り払ってしまったんですの」
ミアが先にレティシアへ手を伸ばしたことまでは目撃されている。
しかし、そのあとの決定的な瞬間を見た者はいない。
そして被害者であるミア自身にも、その部分だけ記憶がない。
レティシアが咄嗟に加減を誤っただけなのか。
それとも、意図的に人間一人を死に至らせるほどの力を込めたのか。
それを証明するものがなかった。
「過剰防衛だった可能性は高い」
ルイスは冷静に言った。
「だが、この件だけで故意を立証するのは難しい」
ルシアには納得できなかった。
「でも、この人は前にも……!」
「ああ。分かっている」
ルイスがレティシアを見る。
以前、彼女はゼノンの姿へ化け、ルシアへエドモンドの血を飲ませようとしている。
今回だけなら、不幸な事故。
けれど、過去の行動まで合わせれば話は違う。
「偽物のゼノンとしてルシアへ接触した件もある。今回の件とは分けて考える必要はあるが、警戒対象から外す理由もない」
アルベルトも頷いた。
「学院でも動向を見る。ルシアには二度と一人で近づけさせない」
ゼノンだけは黙っていた。
視線の先にいるのはレティシア。
帰り際、彼女はルシアたちへ振り返った。
「ミアさんが助かって、本当によかったですわ」
その笑顔を見た瞬間、ゼノンの目が僅かに細くなる。
あの部屋で。
ミアがヴァンパイアとして息を吹き返したとき。
レティシアは笑っていた。
――偶然なのか?
ゼノンの中に、その疑問だけが残った。
けれど今は、答えを出せる材料がない。
何より今夜は、転化したばかりのミアを安全な場所へ連れて帰ることの方が先だった。
夜会を出たあと、ミアは自宅ではなくアルベルトの屋敷へ連れていかれることになった。
「おばあちゃんには、ルシアの家に泊まるって言う」
馬車の中で、ミアはそう言った。
まだ身体の再生が終わっていないため、座席には身体を預けるようにして座っている。その手には、ベルフォート家から用意してもらった血液パックがあった。
袋の上部にストローを刺し、少しずつ吸っている。
「大丈夫なの?」
ルシアが尋ねる。
「うん。ルシアのこと知ってるし」
ちゅ、とストローを吸う。
「たぶん『迷惑かけないようにね』って言われるくらい」
「迷惑じゃないよ。好きなだけ泊まって」
「ありがと」
ミアが笑う。
それから少しだけ声を落とした。
「それに……今帰ったら、絶対バレると思う」
赤い瞳。
牙。
以前とは違う体温。
そして、転化したばかりで本人すら自分の身体を完全には把握できていない。
何より問題なのは血だった。
祖母と二人きりの家へ戻し、突然強い渇きに襲われたらどうなるのか。
ミア本人にそのつもりがなくても、人間である祖母の血の匂いへ身体が反応する可能性がある。
「しばらくはうちにいた方がいい」
アルベルトが言った。
「少なくとも、自分の身体と血への欲求をある程度把握できるようになるまではな」
「はーい」
ミアは素直に答えた。
そしてまた、
ちゅー……。
クレイドが横目で見る。
「さっきからずっと飲んでんな」
「だって飲みたいんだもん」
「それ何個目だ」
「……二個?」
「三個目だろ」
「あれ?」
ミアが足元を見る。
空のパックが二つ。
手元に三つ目。
「あ、本当だ」
「飲みすぎじゃねぇのか」
「転化したばっかりだし!」
「だからって三つも飲むのかよ」
「傷を治すのにも血を使うんだよね?」
ミアがゼノンを見る。
「使うよ」
「ほら!」
得意げになった。
けれどゼノンは少し考えてから続ける。
「ただ、身体が欲しがるだけ飲めばいいわけじゃないよ」
「そうなの?」
「今は転化したばかりだし、身体を作り変えながらあれだけの傷を再生してる。普段よりたくさん欲しがるのはおかしくない。でも、自分がどれくらい飲んだのかは覚えておいて」
「はーい」
返事をしながら、またストローを吸う。
ゼノンはそれ以上言わなかった。
今の段階では、本当に異常なのかどうか判断できない。
ミアは瀕死だった。
潰れた肺も、傷ついた血管も、折れた骨も、今まさにヴァンパイアの身体へ作り直されながら再生している。
それだけでも相当な血を必要とする。
さらに、人間からヴァンパイアへ転化した直後だ。
血を欲しがって当然だった。
アルベルトの屋敷へ着いた頃には、ミアの三つ目の血液パックも空になっていた。
翌朝。
「ルシアー!!」
廊下から大声がした。
「どうしたの!?」
驚いて部屋を飛び出す。
ミアが鏡の前に立っていた。
寝間着姿。
そして手には、当然のように血液パック。
ストローを咥えたまま鏡を凝視している。
「見て!」
「何を!?」
ミアがにっと笑った。
牙が見える。
「昨日より牙伸びてない!?」
「分かんないよ!」
「見てよ!」
「見てる!」
「ほら!」
「近い近い!」
ミアは楽しそうに鏡へ戻る。
横を向く。
口を開ける。
牙を見る。
反対を向く。
また見る。
「本当にヴァンパイアなんだ……」
何度目か分からないその言葉を、今日も嬉しそうに呟く。
「目も赤いし」
「うん」
「牙もあるし」
「うん」
「夜もめちゃくちゃ見える!」
「私も最初びっくりした」
「あと音!」
ミアが振り返る。
「ルシアが部屋から起き上がった音、聞こえた!」
「そんなところまで?」
「うん!」
興奮して一歩踏み出す。
「すご――」
「いったぁ!!」
胸を押さえて蹲った。
「ミア!」
「忘れてた……」
「昨日も言ったでしょ!」
「起きたら元気だったから、もう治ったのかと思った……」
「まだ昨日の今日だよ!」
「ヴァンパイアなら一晩で治るかなって」
「もう少しだよ」
後ろからゼノンの声がした。
いつの間にか廊下にいる。
「おはようございます、ゼノン先輩」
「おはよう。で、また動いたの?」
「ちょっとだけ」
「胸押さえてるけど」
「……ちょっとじゃなかったかも」
ゼノンが呆れながら近づく。
けれど状態を確認する目は真剣だった。
胸元や背中の状態を確かめ、呼吸や脈を順番に確認していく。
「かなり再生してる」
「本当!?」
「うん。肺も戻ってきてるし、骨もほとんど繋がってる」
「じゃあ、あとどれくらい?」
「転化から二十四時間くらい経てば、全部治ってると思うよ」
「二十四時間!?」
ミアの顔が輝く。
「今日じゃん!」
「だから、それまでは大人しくしてて」
「はーい!」
両手を上げようとして、
「いっ……!」
「だから!」
ルシアが慌てて止める。
ゼノンまで笑ってしまった。
朝食のあと。
ミアの今後について話すことになった。
「夜間部に移る」
アルベルトが言った瞬間、ミアの顔が輝いた。
「本当に!?」
「人間じゃなくなったんだから、昼間部へ通わせるわけにはいかないだろ」
「やった!!」
立ち上がりかける。
「まだ駄目!」
ルシアに止められた。
「ごめん!」
それでも嬉しさは隠せない。
「夜間部! 私も夜間部!」
「よかったね」
「ルシアと一緒!」
「うん」
「エリーゼとも一緒!」
「うん」
「クレイドとも!」
ソファで本を読んでいたクレイドが顔を上げる。
「何で俺でそんな喜ぶんだよ」
「だってみんなと一緒じゃん!」
「俺は別に嬉しくねぇ」
「またまた」
「本気だ」
「クレイドも嬉しいんだよ」
ルシアが笑う。
「お前まで言うな」
「それで」
アルベルトが続ける。
「当面はルシアとクレイドが受けている特別学級へ入れる」
「三人で!?」
「そうだ」
「最高!」
「遊びじゃねぇぞ」
「分かってるよ!」
分かっている顔には見えなかった。
「ミアは普通の夜間部生より覚えることが多い。身体能力の調整、血の管理、人間との接触、咬傷時の注意、ヴァンパイア社会の法律。全部一からだ」
「はい!」
それでも元気よく返事をする。
「制服も黒になるんだよね?」
「当然だ」
突然、ミアの表情が止まった。
「どうしたの?」
ルシアが尋ねる。
「……制服」
「うん」
「買い直すんだよね?」
「そうなるな」
アルベルトが答える。
ミアが恐る恐る尋ねた。
「……いくら?」
金額を聞いた。
沈黙。
「……無理」
今度だけは、即答だった。
「え?」
ルシアが瞬きをする。
「無理無理。絶対無理」
「どうして?」
「高いよ!」
ミアは血液パックをテーブルへ置く。
「うち、おばあちゃんしかいないんだよ?」
その言葉で、ルシアは気づいた。
ミアは普段、家庭の金銭事情についてほとんど話さない。
明るくて、欲しいものがあれば欲しいと言って、可愛いものを見れば喜ぶ。
けれど実際には、祖母と二人暮らし。
決して裕福な家庭ではない。
「おばあちゃんに言えば、たぶん買ってくれる」
ミアが小さな声で言う。
「でも絶対、無理するもん」
「じゃあ私が買うよ」
ルシアが当然のように言った。
「駄目!」
「え?」
「それは駄目」
「でも私なら――」
「ルシアがお金持ちなのは知ってる!」
「私がというか……」
ルシアはゼノンを見る。
「ヴァルディエが?」
「そこはどっちでもいい!」
ミアは首を振った。
「制服まで友達に買ってもらうのは嫌なの」
「でも夜間部に行くには必要だよ」
「だから困ってるの!」
「ミア」
アルベルトが口を挟んだ。
「買わなくていい」
「……え?」
「学院から支給する」
ミアが固まる。
「そんな制度あるんですか?」
「通常の転籍なら買い直してもらう。ただ、お前は事情が違う」
人間として昼間部へ入学した生徒が、在学中に突然ヴァンパイアへ転化した。
本人の希望による通常の転籍ではない。
「今回のような特例の場合、学院側で用意できる備品を使わせることができる。卒業や転校の際に寄付された制服が、予備として何着か保管されている」
「本当に!?」
「ああ」
「無料!?」
「学院の貸与品だ。卒業したら返却するんだぞ」
「無料!!」
「そこが一番嬉しいのかよ」
クレイドが呆れる。
「だって大事でしょ!」
「まあな」
「おばあちゃんに負担かけなくていい……」
ミアがほっと息を吐いた。
その顔を見て、ルシアも安心した。
しかし、問題はもう一つあった。
その日の午後。
学院から届けられた予備制服を着て、ミアが部屋から出てきた。
「……」
全員が黙った。
黒い夜間部の制服。
確かに似合っている。
ただし、袖が長い。
手がほとんど隠れている。
裾も微妙に長く、スカート丈も本来の位置よりかなり下まで来ていた。
「……大きいね」
ルシアが言った。
「言わないで!」
「うーん……」
ミアはルシアより小柄だ。
予備として保管されていた制服の中で最小のものを選んでも、まだ合わなかった。
袖を持ち上げる。
手を離す。
するり。
指先まで隠れる。
「……」
仕方なく袖を折り返してみる。
今度は、まるで子供が年上の制服を借りて着ているように見えた。
「駄目だこれ!」
クレイドが吹き出した。
「笑った!」
「笑ってねぇ」
「絶対笑った!」
クレイドがミアを上から下まで眺める。
「お前、ちびだな」
「むきー!! ちびって言った!!!」
「事実だろ」
「クレイドだって大きくないくせに!」
「お前よりはでけぇよ」
「比べる相手が私なのずるい!」
ルシアはミアの横に並んだ。
「私より結構小さいもんね」
「ルシアまで!」
「可愛いって意味だよ」
「なら許す!」
「単純だな」
そこへエリーゼがやって来た。
制服姿のミアを見るなり、状況を理解する。
「仕立て直しが必要ですね」
「どれくらいかかりますか?」
ミアが不安そうに尋ねる。
エリーゼは袖と肩、腰回り、裾を確認する。
「袖だけなら早いのですが、肩幅も合っていません。全体を直した方が綺麗でしょう」
「じゃあ……」
「最短でも三日です」
「三日!?」
「十分早いですよ。三日後には受け取れるよう手配します」
「今日から夜間部行きたかったのに!」
「そもそも転化してまだ一日も経っていないでしょう?」
「それは……そうですけど」
「制服が完成するまでの三日間で、まず新しい身体に慣れてください」
「はい……」
しょんぼりする。
「三日なんてすぐだよ」
ルシアが励ます。
「その間ずっとここに泊まって、一緒にいよう」
「……うん」
「制服ができたら、一緒に学校行こう?」
その言葉で、ミアの顔が戻る。
「うん!」
仕立て直しは、グランヴェール家が長年付き合っている仕立屋へ依頼することになった。
新品を贈るわけではない。
学院の貸与品を、ミアの身体へ合わせて調整するだけ。
それならミアも素直に受け入れた。
こうして、ミアの三日間の居候生活が始まった。
最初の二十四時間。
ミアはまだ負傷者だった。
「ねえルシア」
「なに?」
「ヴァンパイアってお風呂どうするの?」
「普通だよ」
「寝るのは?」
「普通」
「食べ物は?」
「普通に食べられるよ」
「ニンニクは?」
「食べられる」
「十字架!」
「何も起きない」
「鏡!」
「映る」
「流水!」
「渡れる」
「棺桶!」
「寝なくていい!」
「夢がない!」
「何を期待してたの!?」
そんな質問をしている間も。
ちゅー……。
血液パック。
ミアは寝台でもソファでも、ずっとストローを咥えていた。
そして転化から、およそ二十四時間。
ゼノンがミアの状態を確認する。
「深く息を吸って」
「すー……」
「痛い?」
「全然」
「もう一回」
「すー……はー……」
ゼノンが胸や背中の状態を確かめる。
それから肋骨、脈、呼吸を順番に確認し、最後に少し離れてミアを見る。
「うん」
「どう?」
「全部治ってるよ」
ミアが目を見開いた。
「……全部?」
「全部」
「肺も?」
「治ってる」
「骨も?」
「全部繋がってる」
「血管も?」
「問題ないよ」
数秒。
ミアは固まった。
次の瞬間。
「やったぁ!!」
ソファから飛び上がった。
「ミア!?」
「痛くない!」
その場で跳ねる。
「本当に痛くない!」
「ちょっと待って!」
ルシアは慌てて追いかける。
「本当に全部治ってるの!?」
「治ってるよ」
ゼノンが笑う。
「ヴァンパイアの再生ってすごい!」
ミアは自分の胸を触る。
身体を捻る。
腕を回す。
しゃがむ。
立つ。
「すごい! 何にも痛くない!」
「よかった……」
ルシアはようやく安心した。
昨日まで、この身体の中では肺が潰れ、骨が折れ、命が消えかけていた。
それが二十四時間で完全に元へ戻った。
いや。
人間だった頃よりも遥かに強い身体へ作り変えられている。
「ルシア!」
ミアが抱きついた。
「ありがとう!」
「わっ」
「私、本当に生きてる!」
「うん」
「しかもヴァンパイア!」
「うん」
「最高!」
ルシアも笑って抱き返した。
「本当によかった」
クレイドが少し離れたところから二人を見る。
「はしゃぎすぎんなよ」
「もう治ったもん!」
「身体が治っただけだ。ヴァンパイアとしては生まれたてだろ」
「そうだけど!」
ミアは振り返る。
その手には、まだ血液パックがあった。
ちゅー……。
クレイドが眉を寄せる。
「……お前」
「なに?」
「もう傷治ったんだよな」
「うん!」
「じゃあ何でまだそんな飲んでんだよ」
ミアが止まった。
ストローを咥えたまま考える。
「……美味しいから?」
「知らねぇよ」
「あと、飲みたい」
「腹減ってんのか?」
「ううん」
即答だった。
「お腹いっぱい」
「じゃあ喉渇いてんのか」
「それとも違う」
「じゃあ何だよ」
「だから、飲みたいの!」
ミアは笑った。
それだけ。
クレイドは少しだけ眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。
転化して、まだ一日。
血への欲求が安定していないだけかもしれない。
ゼノンもそう考えた。
「転化直後は個人差も大きいからね」
「じゃあ飲んでいい?」
「量は記録しよう」
「はーい」
ちゅー……。
また飲む。
傷が治ったからといって、すぐに祖母のもとへ帰すことはしなかった。
むしろ身体が自由になった今からが大切だった。
人間だった頃とは違う力。
違う速さ。
違う感覚。
そして血への欲求。
それらを制御できるようになるまで、ミアはアルベルトの屋敷に滞在することになった。
二日目。
庭に出たミアは、自分の身体能力を試した。
「ルシア見て!」
「なに?」
「跳ぶよ!」
「気をつけてね!」
膝を曲げる。
軽く跳ぶつもりだった。
次の瞬間。
「えっ!?」
想像以上に身体が浮いた。
「高っ!?」
着地。
その勢いを殺しきれず、前へ数歩よろける。
「危なっ!」
ルシアが慌てて支える。
「今、何メートル跳んだ!?」
「私に聞かれても!」
「もう一回!」
「待て」
クレイドが止める。
「今ので分かっただろ。人間の感覚で力入れんな」
「ちょっと跳んだだけなのに」
「その『ちょっと』がもう違ぇんだよ」
今度は走る。
最初の一歩で勢いがつきすぎる。
物を持てば、強く握りすぎる。
音は遠くまで聞こえる。
匂いも、人間だった頃とは比べものにならない。
「すごい……」
ミアは庭に立って目を閉じた。
「家の中の音まで聞こえる」
「慣れるまでは意識して聞かないようにした方がいいよ」
ルシアが教える。
「私も最初、全部聞こえて大変だったから」
「ルシアも?」
「うん」
「じゃあ同じだ!」
ミアが嬉しそうに笑う。
その手には、血液パック。
ちゅー……。
三日目。
身体の扱いにも少し慣れてきた。
それでも血液パックだけは変わらなかった。
話しているとき。
本を読んでいるとき。
テレビを見ているとき。
庭を歩いているとき。
いつ見ても、ミアの手には血がある。
「ミア」
ルシアが隣へ座る。
「今日何個飲んだ?」
「……四個?」
「五個だ」
向かいからクレイドが言う。
「え?」
「朝から五個」
「数えてたの?」
「目につくんだよ」
ミアが自分の手を見る。
「そんなに飲んだかな」
「飲んでたよ」
ルシアも少し気になってきた。
「足りないの?」
「うーん……」
ミアが考える。
「足りないって感じじゃないんだよね」
「じゃあ、お腹空いてる?」
「全然」
「喉が渇いてる?」
「それも違う」
「じゃあ何?」
ミアは少し考えてから笑った。
「飲みたいだけ?」
クレイドの眉が僅かに動いた。
そのとき、ルシアは別のことを思いついた。
「じゃあ、私の血も飲む?」
「えっ」
ミアの目が輝いた。
「いいの!?」
「ルシア」
ゼノンの声が飛んだ。
「少しだけ」
「……」
「転化させたときに私の血をいっぱい飲んでるし、まだ身体も完全に安定したとは限らないでしょ?」
ゼノンは少し考える。
ルシアの言うことは間違っていない。
傷そのものは完治した。
けれど、人間からヴァンパイアへ作り変えられた身体が完全に安定したとは限らない。
何より、転化そのものを成立させたのがルシアの血だ。
純血の血には強い力がある。
「量は僕が決める」
「うん」
「飲ませすぎない」
「分かった」
ミアは嬉しそうだ。
ルシアが自分の手首へ牙を立てる。
小さな傷から血が滲む。
ミアへ差し出した。
「どうぞ」
「……いただきます」
恐る恐る口をつける。
一口。
その瞬間。
ミアの目が大きくなった。
「……!」
ルシアが心配そうに顔を覗き込む。
ミアは首を振った。
もう一口。
「なにこれ……」
「美味しくない?」
「逆!」
顔を上げる。
「めちゃくちゃ美味しい!」
「本当?」
「血液パックと全然違う!」
「よかった」
ルシアが嬉しそうに笑う。
「もうちょっと――」
「そこまで」
ゼノンがすぐに止めた。
「えー!」
「えーじゃないよ」
ゼノンがルシアの腕をそっと引き戻し、傷口を確認する。
「ルシアの血は王家ヴァルディエの純血だよ。力が強いんだから、必要以上に飲むものじゃない」
「美味しかったのに……」
ミアが名残惜しそうにルシアの手首を見る。
ゼノンはそんなミアへ静かに続けた。
「勘違いしないでね。ルシアの血を飲んだからって、そのせいで余計に血が欲しくなるわけじゃないよ」
「そうなの?」
「むしろ逆。純血の血は力が強いから、少ない量でも身体は十分満たされる」
「じゃあ、いっぱい飲んだら?」
「必要がない。身体が満たされてるのに飲み続ける理由はないでしょ?」
「美味しいから飲みたい、とか?」
ミアが笑う。
ゼノンも今はまだ、軽く笑った。
「美味しくても我慢する。それができないと困るから」
「はーい」
ミアは素直に返事をする。
「また必要になったらね」
ルシアが言う。
ゼノンが即座に振り返った。
「ルシア」
「必要になったらだよ?」
「……僕に相談して」
「うん。でも、私の血で転化したんだし、身体がちゃんと安定するまでは必要なときにあげた方がいいんじゃない?」
「必要かどうかは僕かアルベルトが見るよ。ルシアはすぐ自分の血をあげようとするから」
「そんなにあげてないよ」
「僕から見たら十分あげてる」
クレイドが呆れたように口を挟む。
「お前が一番飲みたそうな顔してんぞ」
ゼノンが一瞬黙った。
「……確かに飲みたい」
「認めんのかよ」
「ルシアの血はいつでも飲みたい……!」
「ほらな」
「でも僕は我慢できるから」
「聞いてねぇ」
ミアが声を上げて笑った。
ルシアもつられて笑う。
同じ血を欲しがっていても。
飲みたいと思うことと、実際に飲むことは違う。
このときのミアには、その違いがまだそれほど重要なものには思えなかった。
その夜。
仕立屋から制服が戻ってきた。
依頼してから三日。
エリーゼが言った通り、最短で仕上げてもらったものだった。
「できた!」
ミアは箱を抱えて部屋へ駆け込む。
今度は誰も止めない。
身体はもう完全に治っている。
数分後、扉が開いた。
今度はぴったりだった。
肩。
袖。
腰。
裾。
すべて小柄なミアに合わせて仕立て直されている。
白い昼間部制服しか見たことがなかったせいか、黒を纏ったミアは少しだけ大人びて見えた。
本人は鏡の前でくるりと回る。
「見て!」
「似合ってる!」
「本当!?」
「うん。可愛い!」
「やった!」
もう一度回る。
「私、今日から夜間部!」
「登校するのは明日からね」
「今日から気持ちは夜間部!」
クレイドが壁にもたれている。
「制服でそんなテンション上がるか?」
「上がるよ!」
「ただ色が変わって黒くなっただけだろ」
「分かってないなぁ」
ミアは腰へ手を当てた。
「これでルシアとクレイドと一緒に学校行けるんだよ?」
クレイドが黙る。
ルシアは笑った。
「明日から三人だね」
「うん!」
翌夜。
四人は並んでアストリア共生学園へ向かった。
ルシアの隣にはゼノン。
その少し後ろを、クレイドとミアが歩いている。
同じ黒い制服を着ていても、ミアはルシアよりさらに小柄で、昨日までの白い制服姿とは随分印象が違って見えた。
「……なんか変な感じ」
ミアが学院を見上げる。
「何回来たことあるのに」
「生徒として夜に来るのは初めてだからね」
ルシアが答える。
「そっか」
「うん」
ミアは自分の黒い袖を見る。
嬉しそうに握る。
「やっと一緒だ」
その言葉に、ルシアも嬉しくなった。
「行こう」
「うん!」
校舎へ入ったあと、ゼノンと別れ、三人が向かったのは通常の夜間部教室ではない。
特別学級。
ルシアとクレイドが使っていた教室へ。
扉を開ける。
ミアが中を見る。
三つの机。
「……本当に三人だ」
「今日からね」
「やった!」
一番前へ座る。
鞄を置く。
教科書を出す。
筆記具を出す。
そして最後に、血液パックを出した。
ストローを刺す。
ちゅー……。
クレイドが隣を見る。
「学校でも飲むのかよ」
「だって飲みたい」
「さっき家で一本飲んだだろ」
「これは授業用!」
「何だよ授業用って」
「集中するため!」
「適当言うな」
ルシアが笑う。
「でも転化したばかりだから、しばらくは仕方ないんじゃない?」
「ルシアは甘やかしすぎだ」
「そうかな?」
「そうだ」
「クレイドも心配してるくせに」
「してねぇ」
「してるよ」
「してねぇ」
「二人とも!」
ミアが二人の会話へ割って入る。
「先生来た!」
三人が前を向く。
新しい特別学級。
純血でありながら、人間として育ったルシア。
人間から無理やりヴァンパイアへ変えられたクレイド。
そして、つい三日前まで人間だったミア。
あまりにも違う三人が、同じ教室で、同じ夜を生き始めた。
ミアは嬉しそうに教科書を開く。
その横には、飲みかけの血液パック。
傷はもう治っている。
空腹でもない。
ルシアの血によって身体も十分に満たされている。
それでもミアは、当たり前のようにストローへ口をつけた。
ちゅー……。
このとき、それを本当の意味で危険だと考えている者は、まだ誰もいなかった。




