お披露目
ベルフォート家から招待状が届いたのは、夜間部総代の座を巡る一件から数日が経った頃だった。
その日の夕方、食堂へ下りてきたルシアは、いつもの席の前に置かれた見慣れない封筒に気づいた。
厚みのある黒い紙に銀色の封蝋。中央には、学院でルイスが持っていた書類や装飾品で何度か目にしたことのある紋章が刻まれている。
「これ、誰宛て?」
椅子へ座りながら尋ねると、向かいで新聞を読んでいたアルベルトが顔を上げた。
「お前とゼノン宛てだ」
「私にも?」
隣にいたクレイドが封蝋を一瞥する。
「ベルフォートじゃねぇか」
「ベルフォート……あ、ルイス先輩の家?」
「そうだ。来週、ベルフォート家の本邸で夜会が開かれる」
アルベルトが封を切り、中の招待状を広げた。
ベルフォート家は、ヴァルディエ王家が事実上崩壊したあと、空席となった王座に代わってヴァンパイア社会の統治を支えてきた純血の名門だ。その家が主催する夜会となれば、招待客も当然、並の顔触れではない。
古くから続くヴァンパイアの名家。
政治や研究に関わる者。
人間社会との共存政策に携わる有力者。
そして一部の人間側の貴族や著名人。
「すごい夜会なんだね……」
ルシアは招待状を覗き込みながら、少し不安そうに呟いた。
アルベルトが頷く。
「お前も行くんだぞ」
ルシアは顔を上げた。
「私も?」
「お前もだ」
「そうなんだ……」
驚きはしたものの、すぐに理由を察した。
その隣では、先ほどから招待状を眺めていたゼノンが嬉しそうにしている。
「ルシア」
「なに?」
「君はもう、ヴァルディエの王女だからね」
「前からそうだったんでしょ?」
「でも公には存在していなかった」
「あ……」
そこでようやく意味を理解した。
封印され、人間として過ごしていた十年間。
世間にとって、ヴァルディエ王家で生き残った者はゼノンだけだった。
ルシアという少女は存在していても、ルシア・ヴァルディエという王女は存在していなかったのだ。
けれど、今は違う。
封印は解けた。
純血の力も戻った。
学院でもヴァルディエの名を隠してはいない。
かつて滅びたと思われていた王家に、もう一人の純血――アルフォンスとロザリアの娘が生き残っていた。
当然、その噂はヴァンパイア社会へ瞬く間に広がっている。
「……もしかして」
ルシアは招待状を見つめた。
「私のお披露目みたいになる?」
「なるよ」
ゼノンがにっこり笑った。
ルシアは少しだけ肩を落とした。
「そういうことなら、ちゃんとしないといけないね。でも、私にできるかな……」
クレイドが鼻で笑う。
「行ってこいよ、王女様」
「その呼び方は、まだ少し慣れないよ」
「事実だろ」
「うん……それは分かってるけど」
ルシアが困ったように笑うと、ゼノンが隣から口を挟んだ。
「クレイドも来てくれるよ」
「は?」
今度はクレイドが固まった。
ゼノンが招待状の一文を指で示す。
「僕の同伴者として」
「……俺もかよ」
「今のクレイドは僕の眷属だから」
その言葉に、ルシアは瞬きをした。
クレイドの身体を安定させるため、ゼノンの純血の血を何度も受けた結果として生まれた血の繋がり。
それはクレイド自身が望んで結んだ主従ではない。
必要だったから、そうなった。
だからなのか、クレイドは「眷属」と呼ばれるたび、いつも僅かに不機嫌になる。
今回も眉間に皺が寄った。
「……好きでなったわけじゃねぇ」
「知ってるよ」
ゼノンは気を悪くした様子もない。
「だから僕も、クレイドに主として振る舞うつもりはないよ。命令もしてないだろ? でも外から見れば、君は僕の血を受けた眷属だ。こういう場では無関係とは言えない」
「そういうものかよ」
「うん。できれば君に無理はさせたくないけど……一緒に来てもらえると助かる」
クレイドは少し黙った。
ルシアがそっと彼を見る。
「私も、クレイドがいてくれたら心強いな」
「……お前まで言うのか」
「うん。私、初めて行く場所だし。クレイドがいてくれたら安心する」
クレイドはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……分かった。行くだけ行く」
「ありがとう!」
ルシアが嬉しそうに笑う。
「ただし、俺は端にいるからな」
「うん。それでもいてくれるだけで嬉しい」
「……そうかよ」
その様子をゼノンが眺めていた。
笑顔だった。
ただし、目だけはあまり笑っていなかった。
「クレイド」
「あ?」
「やっぱり来なくてもいいよ」
「何で変わったんだよ」
「今決めた」
「お兄様!」
「冗談」
絶対に半分くらい本気だった。
アルベルトが頭を抱える。
「夜会に行く前から疲れるな、お前ら……」
けれど、本当の意味でルシアが疲れるのは翌日からだった。
「違います」
ぴしゃりとした声が広間へ響く。
ルシアの肩が跳ねた。
「ご、ごめんなさい。今度はどこが違うの?」
「歩幅です」
「歩幅……」
アルベルトの屋敷の広間を、ルシアは頭の上に一冊の本を乗せて歩いていた。
正面にはエリーゼ。
普段の穏やかな友人とは思えないほど容赦がない。
夜空のような紺色の髪が肩から流れ、歩くたびに深い青の光を帯びて揺れている。その色は、静かな夜の底に星明かりを溶かしたようだった。
「もう少し小さく。背筋を伸ばしてください」
「はい」
ルシアは意識して歩幅を狭め、背筋を伸ばした。
「そうです。今の方が綺麗です」
「本当?」
「はい。ただ、視線が少し下がっています」
「分かった。気をつけるね」
「今まで必要がなかったので教えてこなかっただけです。ルシア様は本来、幼い頃から身につけていらっしゃるはずだったことを、今から覚えなければならないんですよ」
「様やめて!」
「今は練習中ですので」
「そうだったね……」
ルシアは小さく頷いた。
「頑張ります」
「はい。では続けましょう」
立ち方。
歩き方。
座り方。
挨拶。
グラスの持ち方。
話しかけられた際の受け答え。
相手の家格によって変わる礼。
知らない家名が次々と出てくる。
「グランヴェール家は?」
突然エリーゼに尋ねられた。
「エリーゼの家!」
「そうではなくて」
「ヴァルディエに昔から仕えてくれてる!」
「それは合っています」
「よかった!」
「では現当主は?」
「ユリウスさん!」
「兄様をさん付け……」
「だって会ったことないもん!」
エリーゼが額を押さえた。
「兄のユリウス・グランヴェールです。現在の当主であり、今回の夜会にも出席します」
「エリーゼのお兄さんかぁ。どんな人なの?」
「余計なことを聞かないでくださいね」
「分かった。気をつける」
「……本当に分かっていますか?」
「たぶん」
「ルシアなら聞くからです」
「何を?」
「私の昔の話など」
「それは聞きたい……」
「駄目です」
「分かった。今日は我慢する」
「ルシア」
「はい!」
鋭い声だけで姿勢を正した。
少し離れたソファでは、クレイドが退屈そうに本を読んでいる。
「今、少し笑った?」
「笑ってねぇ」
「口元が動いた気がしたんだけど」
「気のせいだ」
「クレイドも練習すればいいのに」
「俺は王女じゃねぇ」
「でも夜会には行くんだよね?」
「端にいる」
「それでも、挨拶くらいは必要かもしれないよ」
「アイツの為に礼儀正しくなんてしない。普段通りだ」
「そうだね。クレイドらしくしてくれた方が、私も安心する」
「……お前は甘いな」
二時間後。
ルシアはソファへ腰を下ろしていた。
「少し休んでもいい?」
頭から落ちた本が床を滑る。
「まだ二時間です」
「少しだけ頭を整理したくて……」
「そうですね。では十分休憩にしましょう」
「ありがとう、エリーゼ」
「ただし、その後は再開します」
「うん。頑張る」
そこへ扉が開いた。
「休憩中?」
ゼノンだった。
「エリーゼが十分だけ休ませてくれるって」
ルシアが答える。
エリーゼも同時に頷いた。
「はい。十分後には再開します」
「分かった。じゃあ少し休もうか」
ゼノンが笑いながら近づく。
ルシアが起き上がると、ゼノンは当然のように隣へ座り、乱れていた髪を指先で整えた。
「頑張ったね」
「ありがとう。でも、まだ全然覚えられてなくて……」
「必要なことを教えているだけです」
「聞こえてる!」
「聞こえるように言いました」
ゼノンがくすくす笑う。
「でも、覚えなくても僕の隣にいればいいよ」
「ゼノンさん」
今度はエリーゼの冷たい声が飛ぶ。
「甘やかさないでください」
「だって一生懸命やってるから」
「夜会で恥をかくのはルシアです」
「僕が全部対応するよ」
「それではルシアのためになりません」
「……はい」
ゼノンが素直に引いた。
ルシアは目を見開く。
「お兄様が負けた」
「エリーゼには昔から怒られてるからね」
「えっ」
「ゼノンさん」
「言わないよ」
「何!? 今の何!?」
「練習を再開しましょう」
「気になるけど……分かった」
「立ってください」
「はい!」
夜会当日。
ルシアの部屋は、朝から戦場だった。
ドレス、靴、髪飾り、宝石箱、化粧道具。
その中心で一番生き生きしているのは、夜会の主役であるルシアではない。
ゼノンだった。
「こっち」
「また変えたの?」
「さっきのも似合うけど、こっちの方がいい」
「何着目?」
「まだ四着目」
「そんなに考えてくれたんだ……」
最終的にゼノンが選んだのは、黒を基調として深紅を重ねたドレスだった。
漆黒の生地は光を受けるたびに僅かな艶を帯び、その下から覗く深紅が歩くたびに揺れる。裾には細かな刺繍が施され、胸元には真紅の薔薇を思わせる装飾が添えられていた。華やかでありながら甘すぎず、夜の中に咲く一輪の花のようだった。
「……綺麗」
思わず呟いた。
「でしょ?」
ゼノンが嬉しそうに笑う。
けれどルシアはすぐ、隣に掛けられた男性用の正装へ気づいた。
黒。
深紅。
「……お兄様」
「何?」
「これ、お揃いだよね?」
「うん」
「やっぱりそうなんだ」
ゼノンの正装は、ルシアのドレスと同じ生地と意匠を使って仕立てられていた。
並べば、誰が見ても一対だと分かる。
「ヴァルディエとしてのお披露目だからね」
「兄妹だから、同じ色にしたの?」
「それもあるよ」
「それも?」
「婚約者だから」
ルシアは少し頬を赤くした。
「……そういう理由もあるんだね」
ゼノンは答えず、ただ嬉しそうに笑った。
「僕と同じ色、嫌?」
そう聞かれると弱い。
ルシアはドレスをもう一度見る。
「ううん。嬉しいよ」
「よかった」
たったそれだけで、ゼノンの顔が本当に嬉しそうになる。
その顔を見たら、ルシアも自然に笑った。
髪型にも当然、ゼノンは口を出した。
「アップヘアにいたしましょうか?」
「ハーフアップでもいいけど、今回のドレスは大人っぽいからアップヘアにしようか。編み込んで左に寄せて」
「お兄様、細かいね」
「ルシアの髪型だからね」
「そう言われると、何も言えないよ」
長い髪を生かし、一部だけを柔らかく編み込み、黒と深紅のレースが付いたハットピンを挿す。
アクセサリーもゼノンが一つずつ選んだ。
靴まで。
「これ」
「歩きやすそうだね」
「こっちの方がドレスに合う」
「でも、少し踵が高いね。ピンヒールだ」
「転んだら僕が抱くよ」
「それは心強いけど、できれば転ばないようにしたいな」
結局、歩きやすさを考慮した別の一足へ変更された。
最後はネイル。
これだけは専門の者に任せるのだと思っていた。
「手、貸して」
「え?」
ゼノンがルシアの正面へ座った。
「お兄様がやるの?」
「うん」
「ネイルできるの?」
「やったことはないけど、やってみたい」
「大丈夫かな……」
「ルシアの手だから、丁寧にするよ」
それでもゼノンはルシアの左手を取った。
その扱いが妙に丁寧だった。
指先を一つずつ確認し、爪の形を整え、深紅を基調に色を重ねていく。
細い筆が動く。
黒い線が入る。
小さな装飾が置かれる。
ルシアは最初こそ不安そうに見ていたものの、一本目が終わったあたりで首を傾げた。
二本目。
三本目。
「……え?」
綺麗だった。
普通に、ものすごく上手い。
「お兄様」
「ん?」
「手先器用すぎない?」
「そう?」
「うん。初めてなんだよね?」
「うん」
「どうしてこんなに綺麗にできるの?」
「ルシアの手だから失敗したくないし」
「気持ちだけでこんなに上手くなるものなの?」
そこへ最終確認に来たエリーゼとアルベルトが入ってきた。
「ルシア、そろそろ――」
エリーゼが止まる。
「……ゼノンさん?」
「ネイルしてる」
「それは見れば分かります」
エリーゼが近づき、完成した左手を確認した。
黙る。
ルシアが不安になる。
「変かな?」
「いえ」
エリーゼが真顔で言った。
「私より上手いです」
「えっ!?」
ルシアの声が裏返った。
「エリーゼより!?」
「はい」
「本当に?」
「お世辞ではありません」
エリーゼは指先を持ち上げる。
「色の配置も綺麗ですし、装飾の置き方にも無駄がありません。指が長く見えるよう縦の線を意識していますね。ドレスとの統一感もあります」
「そこまで考えてたの?」
「うん」
ゼノンが平然と答える。
エリーゼは改めて仕上がりを見る。
「お世辞抜きでセンスがいいです」
太鼓判まで押された。
アルベルトが呆れる。
「お前、何でもできるな」
「ルシアのことならね」
「意味分かんねぇよ」
「僕には分かるよ」
「私にも分からないよ!」
ゼノンは気にせず右手へ移った。
「動かないでね」
「はいはい」
「返事は一回だよ」
「お兄様がお母さんみたいなこと言う」
「じゃあ夫?」
「うっ」
「婚約者」
「それは……そうだけど!」
言ってから自分で恥ずかしくなった。
ゼノンが嬉しそうに顔を上げる。
「今、自分で認めたね」
「ネイルに集中して!」
「はい」
上機嫌になった。
仕上げにゼノンが選んだネックレスをつける。
赤い宝石。
それを手にしたときだけ、ゼノンの表情が少し変わった。
「これは母上のもの」
「お母様の?」
「うん」
ゼノンがルシアの後ろへ回り、首元へネックレスを置く。
「ずっと取ってたんだ」
留め具をつける指が、髪に触れないよう丁寧に動く。
「いつか君に付けてあげたかったから」
ルシアは鏡に映る宝石を見た。
自分は覚えていない。
母がこれを身につけていた姿を。
けれどゼノンは覚えている。
「……ありがとう、お兄様」
「うん」
鏡越しに目が合う。
ゼノンが微笑んだ。
その目があまりにも優しくて、ルシアは少し照れて視線を逸らした。
やがて全ての支度が終わる。
鏡の前に立ったルシアは、自分の姿を見て言葉を失った。
黒と深紅。
母の宝石。
整えられた髪。
同じ色で彩られた爪。
赤い瞳。
人間として学院へ通っていた頃の自分とはまるで違う。
その隣へ、同じ黒と深紅を纏ったゼノンが立つ。
「……似てる」
顔立ちではない。
色。
雰囲気。
纏う空気。
並んで初めて分かる。
同じ血。
ヴァルディエ。
ゼノンは鏡の中のルシアを、しばらく何も言わず見つめていた。
「……お兄様?」
「綺麗だなと思って」
「自分で全部選んだのに?」
「だから嬉しい」
「変なの」
「十年待ったからね」
その言葉だけで、ルシアは何も言えなくなった。
ゼノンにとって今日は、ただの夜会ではない。
六歳で失った妹が戻り。
封印が解け。
ヴァルディエの名を取り戻し。
ようやく自分の隣へ、同じ家の者として立つ。
そんな日なのだ。
「ルシア」
ゼノンが手を差し出した。
「今日は僕の隣にいてね」
「うん」
「ずっと」
「できるだけ一緒にいるね」
「……お手洗いのときも?」
「そこは一人で行かせてよ」
「分かった」
そこへ扉が開いた。
「まだか」
クレイドだった。
黒を基調とした正装を着ている。
普段とはまるで違う。
「……クレイド!」
ルシアの目が輝く。
「似合う!」
「うるせぇ」
「すごい。いつもと雰囲気が違うね」
「普段がちゃんとしてねぇみたいに言うな」
「そんなつもりじゃないよ。ただ、すごく格好いいと思ったの」
クレイドは一瞬黙った。
「……そうかよ」
ルシアが近づこうとすると。
すっとゼノンの腕が前に出た。
「触らないでね」
「何でだよ」
「せっかく整えたルシアが崩れるから」
「俺何もしてねぇだろ」
「念のため」
「お兄様、過保護すぎ!」
クレイドは呆れた顔で二人を見た。
「さっさと行くぞ」
こうして三人は、ベルフォート家へ向かった。
本邸へ到着した瞬間。
ルシアは思わず息を呑んだ。
「……大きい」
夜の中に浮かぶ巨大な屋敷。
正面には何台もの馬車が止まり、着飾った人々が次々と中へ入っていく。
「緊張してるか?」
クレイドが聞く。
「うん。少しだけ」
「帰る?」
「できれば、最後まで頑張りたい」
「そうかよ」
「無理はしなくていいよ」
ゼノンが手を差し出した。
「僕がいる」
反対側からクレイドが言う。
「転びそうになったら引っ張ってやる」
「ありがとう。二人がいてくれるなら大丈夫そう」
「素直すぎるだろ」
「本当にそう思ってるんだもん」
ルシアはゼノンの手を取った。
大扉が開く。
その瞬間。
広間の空気が変わった。
会話が止まったわけではない。
音楽も続いている。
けれど無数の視線が、一斉にこちらへ集まった。
――ヴァルディエ。
覚醒した耳が囁きを拾う。
――本当に王女が生きていた。
――アルフォンス陛下の娘。
――ロザリア様にも似ている。
――ゼノン殿下と同じ色を。
――あれが婚約者でもある妹君か。
「……全部聞こえる」
ルシアが小声で呟く。
ゼノンの指が手を包む。
「聞かなくていいよ」
「聞こえちゃうけど……できるだけ気にしないようにするね」
「じゃあ僕だけ見てれば?」
「それだと前が見えなくなるよ」
「僕が受け止める」
「でも、前も見る」
「うん。それがいいね」
少し後ろを歩いていたクレイドが呟く。
「馬鹿二人」
「聞こえてるよ!」
「聞こえるように言った」
最初に迎えたのはルイスだった。
学院とは違う正装。
その両隣には、灰色の髪を持つ男女がいる。
ベルフォート家の現当主夫妻。
ルイスの両親だった。
「ようこそ、ベルフォート家へ」
父親が穏やかに一礼する。
「ゼノン殿下。お久しぶりです」
「久しぶり」
「そして――」
その視線がルシアへ移った。
「ルシア殿下。こうしてお迎えできる日を、心より嬉しく思います」
頭の中にエリーゼの声が響く。
背筋。
視線。
手。
礼。
「お招きいただき、ありがとうございます」
顔を上げる。
少し離れた場所にいたエリーゼが、小さく頷いた。
合格。
それだけで嬉しくなった。
ルイスの母が柔らかく笑う。
「本当に可愛らしい方。ゼノン殿下が熱心に準備をなさっていたと聞きました」
「え?」
ルシアがゼノンを見る。
「なんで知ってるの!?」
ルイスが無表情で答えた。
「昨日、ドレスの話を二十分聞かされた」
「お兄様!」
「二十分くらいなら短いでしょ」
「長いよ!」
「ネイルの話は聞いていない」
「今日やったからね」
「自分で?」
「うん」
ルイスがルシアの手を見る。
一瞬だけ黙った。
「……何を目指しているんだ、お前は」
「ルシアを可愛くすること」
「もういい」
会話を打ち切られた。
そこから先は、目が回るほど多くの人物に紹介された。
「ルシアちゃん!」
人混みの向こうからラビが手を振る。
「ラビ先輩!」
隣にはセドリック。
さらに二人とよく似た桃色の髪を持つ男女がいる。
「僕の父さんと母さん」
「えっ」
ルシアは両親を見る。
ラビを見る。
セドリックを見る。
もう一度両親を見る。
セドリックが眉を寄せた。
「何だ、その顔」
「ごめんなさい。家族関係を整理してた」
「整理しなくていい」
「だってラビ先輩四十四歳で、セドリック先輩が叔父さんで――」
「人前で叔父さんを強調するな」
「ごめん。でも、ちょっと驚いて……」
ラビが笑う。
「お前も言うな」
ラビの母まで笑い始める。
「学院でも仲がいいのね」
「はい。とても仲がいいです」
「普通です」
「普通だよ」
叔父と甥の声が重なった。
「息ぴったり」
ルシアが言うと、セドリックがますます嫌そうな顔をした。
次に現れたのはクロードだった。
「お、姫様」
「その呼び方は、まだ少し恥ずかしいです」
「今日くらいいいだろ。似合ってるぞ」
「ありがとうございます」
その隣には、銀の混じった髪を後ろへ撫でつけた男性がいる。
「うちの爺さん」
「紹介が雑!」
祖父は豪快に笑った。
「クロードから聞いておるぞ。随分と賑やかな王女様らしいな」
「何を話したんですか!?」
「腕取れた話」
「なんでみんなそれを話すんですか!?」
「印象強ぇから」
「そうですか……でも、できれば他の話もしてほしいです」
「最近なら禿げ――」
「それ以上は言わなくていいです!」
祖父がまた大笑いする。
「こいつの両親は今、長い眠りについておる。代わりに儂が顔を出した」
長い生を持つヴァンパイアにとって、数年、時には数十年の眠りは珍しくない。
クロードの祖父と話していると、別の方向からエリーゼが歩いてきた。
隣にはアルベルト。
さらにもう一人、見覚えのない男性がいる。
夜空のような紺色の髪。
エリーゼと同じ色だが、彼の髪は肩に触れるほど長く、後ろでゆるく束ねられていた。深い紺色の中に淡い光が混じり、静かな夜のような落ち着きを感じさせる。
エリーゼと似た顔立ちだが、彼女より柔らかな印象だった。
「ルシア、ご紹介します」
エリーゼが男性を見る。
「兄のユリウス・グランヴェールです。現在、グランヴェール家の当主を務めています」
ユリウスは優雅に一礼した。
「お久しぶりでございます、ルシア様」
「……お久しぶり?」
ルシアは瞬きをする。
「初めましてではなくて?」
「私にとっては」
ユリウスが微笑む。
「幼い頃のルシア様を存じ上げています」
ルシアの表情が変わった。
「私を?」
「はい。まだ随分小さくていらっしゃいましたが」
「どんな子だったの?」
「兄様」
エリーゼが止める。
「ごめんなさい。気になってしまって」
「そうですね……」
ユリウスは楽しそうに考える。
「ゼノン殿下の後ろをどこへでもついて歩いておられました」
「今と変わってない」
クレイドが言った。
「そうかな。少しは成長したと思うけど」
「今日も横にいるだろ」
「今日は夜会だから!」
ユリウスが笑う。
「それから、ゼノン殿下が他の子供と遊んでいると、よく間へ入って――」
「ユリウス」
ゼノンが止めた。
「それ以上はいいよ」
「お兄様、何で?」
「必要ないから」
「私は聞いてみたいな」
「僕があとで話す」
「本当? 都合よく変えないでね」
エリーゼが小さく笑っていた。
その後も、何人ものヴァンパイアと挨拶を交わした。
若い者。
五百年以上生きている者。
研究者。
軍務に就く者。
人間社会で商会を営む者。
見た目だけでは年齢も立場も分からない。
そして、ひときわ人だかりのできている一家の前で、ルシアは足を止めた。
「あの人……見たことある」
「あるだろうね」
ゼノンが答える。
「有名な俳優だから」
「え!?」
その隣に立つ女性を見て、さらに驚く。
「こっちの人も知ってる!」
「モデルだよ」
「ええ!?」
そして二人の前には。
「……ノエル先輩?」
「うん」
いつもの無表情。
「何で!?」
「親だから」
「そういう意味じゃないです!」
父は有名俳優。
母は有名モデル。
そして息子も、学院で知らない者がいないほど目立つ容姿。
「芸能一家なんですね!」
「よく言われる」
さらに母親のドレスの陰から、小さな女の子が顔を覗かせた。
ノエルと似た色の髪。
まだ幼い。
「妹」
ノエルが言う。
少女がルシアを見た。
目を輝かせる。
「お姫様?」
「えっ」
「お兄ちゃん、お姫様いる」
「いる」
「本物?」
「本物」
「ノエル先輩、説明が簡潔すぎます!」
少女が近づく。
「ドレス、きれい」
「ありがとう」
ルシアが目線を合わせるよう少し腰を落とす。
少女は今度はルシアの爪を見た。
「これもきれい」
「これはね、お兄様がやってくれたの」
「お兄様?」
ルシアがゼノンを指す。
少女がゼノンを見る。
「お兄ちゃんが爪やったの?」
「うん」
「すごい」
ゼノンが少し得意そうになる。
「でしょ?」
「お兄様、子供相手に得意げにならないで」
「私のお兄様も出来る?」
「練習必要」
ノエルの父が声を上げて笑った。
「ノエルが学院の人間を家族に紹介してくれる日が来るとはな」
「僕が紹介したわけじゃない」
「そういうところだぞ」
母親も笑う。
「お友達が増えてよかったわね」
「友達……」
ノエルがルシアを見る。
ルシアも見る。
「友達ですよね?」
少し間があった。
「うん」
短い。
けれど、ちゃんと答えてくれた。
「嬉しいです」
ルシアが笑う。
妹まで嬉しそうに、
「お友達だあ!」
と言った。
「君の友達ではない」
「でも、仲良くなれたら嬉しいです」
広間には笑い声が絶えなかった。
ルシアは少しずつ、この場所が怖くなくなっていった。
学院で一緒に過ごす人たちにも、それぞれ家族がいる。
長い眠りについている親。
今も現役で家を率いる兄。
何十年生きても親の前では息子のままの者。
小さな妹に困らされる兄。
人間とは全く違う時間を生きているのに、家族というものは意外なほど変わらない。
そしてルシア自身にも。
隣には兄がいる。
少し後ろには、ずっと一緒に育ったクレイド。
少し離れれば、エリーゼやアルベルト。
知らない者ばかりだと思っていた夜会の中にも、自分の居場所はちゃんとあった。
やがて楽団の曲が変わり、夜会はさらに賑わいを増した。
問題はそこからだった。
「ヴァルディエ王女殿下にお会いできるとは」
「お父上によく似ておられます」
「いや、目元はロザリア様でしょう」
「我が家にもぜひ――」
次から次へと声をかけられる。
笑う。
礼をする。
名前を聞く。
返事をする。
また名前を聞く。
途中から全部混ざった。
ようやく人の少ない壁際へ移動できた頃には、ルシアはぐったりしていた。
「少し疲れた……」
「頑張ったね」
ゼノンがすぐに飲み物を渡してくる。
「ありがとう。少し休んだら、また戻れると思う」
「無理しなくていいよ」
「でも、せっかく招いてもらったから。もう少しだけ頑張りたい」
「分かった。僕も一緒にいる」
ゼノンはルシアの髪が崩れていないか確認し、頬にかかりかけた一房をそっと直す。
飲み物を飲んで、少し薄くなった口紅まで、柱の陰でさりげなく直してくれる。
「お兄様、今日ずっと私を見てない?」
「見てるよ」
「なんで?」
「見たいから」
「答えになってないよ」
「十年間できなかったことだからね」
ルシアが黙る。
ゼノンは広間を見る。
「君と同じ色を着て、ヴァルディエとして一緒に人前へ出るなんて、もうできないと思ってた」
穏やかな声だった。
「だから今日は、何回見ても足りない」
ルシアの頬が少し熱くなる。
「……そんなこと言われたら、疲れたって言いにくくなるよ」
「疲れたら言っていいんだよ」
「うん。ありがとう」
「可愛い」
「それは、少し恥ずかしい」
「思ったことを言っただけだよ」
「もう……」
クレイドが少し離れた場所で呆れていた。
「いつまでやってんだ」
「クレイドも疲れた?」
「俺は人が多くてうぜぇ」
「それは疲れてるんじゃない?」
「違ぇ」
「でも、少し休んでいこうよ」
「……好きにしろ」
そんな他愛のない会話をしていた、そのときだった。
ルシアの耳に、聞き慣れた声が届いた。
「――そうなんですね!」
身体が止まる。
「……え?」
人混みの向こう。
金色の灯りの下。
白いドレスを着た少女がいる。
「……ミア?」
間違えるはずがない。
けれど。
どうして。
ここに。
ミアは貴族ではない。
ヴァンパイアでもない。
ベルフォート家と個人的な付き合いがあるわけでもない。
そして、その疑問は。
隣に立っている人物を見た瞬間、別のものへ変わった。
金色の髪。
美しく整えられた顔。
柔らかな笑み。
「……レティシア」
ゼノンの表情から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
クレイドもすぐに気づく。
「何であいつがミアといる」
レティシア・ドラクロワ。
以前、ゼノンの姿に化けてルシアにエドモンドの血を飲ませようとした女。
そして、それより前の夜会では。
ミアに何らかの影響を与え、本人の記憶すら曖昧にしている。
「ミア!」
ルシアが歩き出す。
「待って」
ゼノンが腕を取った。
「でも!」
「僕も行く」
声が違う。
もう先ほどまでの兄ではない。
三人で近づくと、先にミアがこちらへ気づいた。
「あ」
目が合った瞬間。
ミアの顔が固まった。
明らかに。
――まずい。
そう思った顔だった。
「ミア」
「ル、ルシア……」
「どうしてここにいるの?」
「えっと……」
「それより」
ルシアはレティシアを見る。
「どうしてこの人と一緒にいるの?」
レティシアは優雅に微笑む。
「お久しぶりですわ、ルシア様」
「ミアから離れて」
「まあ、怖いお顔」
「ごめんなさい。でも、あなたを信用できないから」
レティシアがわざとらしく困ったように眉を下げる。
「お友達としてお招きしただけですわ」
「友達?」
ルシアの声が低くなる。
「一度操った相手を?」
ミアの表情が変わった。
レティシアは笑顔のままだ。
「何のことかしら」
「とぼけないで!」
「ルシア」
ゼノンが静かに名前を呼んだ。
それだけで、ルシアは口を閉じる。
周囲には人がいる。
ここで騒ぎを起こしても証拠がない。
ゼノンはレティシアではなくミアを見る。
「どうして来たの?」
「……招待状をもらったから」
「レティシアから?」
「うん」
「どうして僕たちに言わなかったの?」
ミアが視線を逸らす。
その態度で分かった。
「ミア……まさか」
ルシアが目を見開く。
「言ったら止めたでしょ?」
「心配だから、止めたと思う」
「だから言わなかったの!」
「どうして一人で決めたの?」
「私だってやり返したかったから!」
思っていなかった答えだった。
「やり返すって……」
「殴るとかじゃないよ!」
ミアは慌てて声を落とす。
「私、前の夜会で何をされたのか覚えてない。でも絶対、この人が何かしたから私がルシアを傷付けたんだよね?」
レティシアを睨む。
「だから招待状が来たとき、逆に利用してやろうと思ったの。近づいて、何を企んでるのか探ってやろうって」
「一人で?」
「だって言ったら、絶対に連れてきてもらえないじゃん!」
「うん。危険だから、止めたと思う」
「でも私だって何かしたい!」
ミアの声が少しだけ震えた。
「ルシアもエリーゼ先輩も夜間部。クレイドまで夜間部。私だけずっと昼間部にいて、何かあっても後から聞くだけ」
ルシアは何も言えなくなる。
「ミア……」
「だから今度は私が何か掴んで、みんなに教えてやろうって思って。」
クレイドが低い声で言った。
「馬鹿か」
「クレイド!」
「相手はお前を一回操ってる奴だぞ」
「分かってるよ!」
「分かってねぇから来てんだろ」
言葉はきつい。
けれど。
心配しているのだと、ルシアには分かった。
ゼノンはレティシアへ視線を戻す。
「招待した目的は?」
「ですから」
レティシアが微笑む。
「仲良くなりたかっただけですわ」
「信用すると思う?」
「信用していただかなくても構いません」
「ならミアにはもう近づかないで」
一瞬。
レティシアの笑みが僅かに深くなった。
「それは、ミアさんがお決めになることでしょう?」
「ミア」
ルシアが振り返る。
「今日はもう帰ろう」
「うん……」
ミアは少し迷ったあと、頷いた。
「分かった。もうこの人には近づかない」
「約束してくれる?」
「うん。約束する」
レティシアが小さく笑った。
「残念ですわ」
その声が、妙に耳に残った。
それから一時間ほど経った頃。
ミアの姿が消えた。
最初に気づいたのはルシアだった。
「……ミアは?」
先ほどまで飲み物を持っていた場所にいない。
「お手洗いでは?」
エリーゼが答える。
けれど。
嫌な感じがした。
「探してくる」
「ルシア?」
「なんだか、嫌な感じがするの」
ゼノンがすぐに立ち上がる。
「僕も行く」
クレイドも無言で続いた。
エリーゼとアルベルト。
異変に気づいたルイスも来る。
「どうした」
「ミアがいない」
「お前たちがいつも一緒にいる人間か? いつからだ」
「分からない」
ルイスの表情が変わった。
「手分けする」
広間。
廊下。
庭。
客室。
その途中。
遠くで、何かが激しく壁へ叩きつけられる音がした。
ゼノンが最初に反応した。
「こっち!」
全員が走る。
長い廊下の先。
半開きになった扉。
その向こうへ飛び込んだ瞬間、ルシアの呼吸が止まった。
「――ミア!」
床に人が倒れている。
白いドレス。
胸元が赤く染まり始めていた。
「ミア!!」
駆け寄る。
「ミア! ねえ!」
返事がない。
呼吸がヒューヒューと浅い。
苦しそうに喉が鳴る。
唇から血が流れている。
そして少し離れた場所に、レティシアが立っていた。
「……何をしたの」
ルシアの声が震える。
レティシアは困ったように眉を下げた。
「わたくしは何も」
「嘘!」
「本当ですわ」
レティシアが頬を示す。
赤い痕。
「突然、彼女が襲いかかってきたんですもの」
「……え?」
「お話をしていただけですのよ?」
レティシアは悲しそうな顔を作る。
「以前のことを随分誤解していらっしゃるようでしたから、説明して差し上げていたの。でも突然、ルシアに何をする気なの! と怒り出して」
ルシアがミアを見る。
「それで?」
ルイスが尋ねた。
「平手打ちをされそうになって、腕まで掴まれました。ですから振り払っただけですわ」
「振り払っただけでこんなことになるわけない!」
「人間がこんなに脆いなんて、思いませんでしたの」
その言葉に、ルシアの中で何かが切れた。
「お前――!」
立ち上がろうとする。
「ルシア!」
ゼノンの声が飛ぶ。
「ミアを見て!」
止まった。
床を見る。
ミアの呼吸が、さらに弱くなっている。
「……ミア」
「ルイス」
ゼノンが立ち上がらないまま言う。
「レティシアをここから動かさないで」
「ああ」
ルイスがすぐに扉側へ移動する。
「会場も一時閉鎖する。ここへ来る途中で二人を見た者、会話を聞いた者を確認する」
「正当防衛ですわ」
レティシアが言う。
ルイスの灰色の瞳が冷たく向く。
「それを決めるのはお前ではない」
「先に襲われたのはわたくしです」
「人間の少女一人を止めるために必要な力だったかどうかは別の問題だ」
「びっくりして加減を間違えただけですわ」
レティシアは肩をすくめた。
「わたくし、本当に仲良くなりたかっただけなのに」
小さく息を吐く。
「残念だわぁ」
ルシアが睨みつける。
今すぐ殴りかかりたい。
けれど、ゼノンが言った通りだった。
今見るべきなのはレティシアではない。
ミアだ。
「エリーゼ」
「はい」
エリーゼがミアの隣へ膝をつく。
アルベルトも状態を見る。
ゼノンが胸元へ手を当てた。
表情が変わる。
「……肋骨が何本も折れてる」
「治せるよね?」
ルシアは縋るように兄を見る。
「お兄様、人間の傷を治せるんだよね?」
ゼノンはすぐには答えなかった。
「表面の傷なら」
静かな声だった。
「僕たちの唾液には、人間の傷を治す力がある。切り傷や裂けた皮膚、浅い傷ならかなり早く塞げる。僕なら痕が残らないところまで治せる」
「じゃあ――」
「でも、これは違う」
ゼノンがミアの胸元を見る。
「肺が潰れてる」
ルシアの顔から血の気が引く。
「折れた肋骨が内部を傷つけてる。血管損傷も酷い」
「だったら……そこも治せないの?」
ゼノンが首を横に振った。
「傷を塞ぐ力は、壊れた臓器を一から作り直す力じゃないんだ。表面の傷は治せる。でも、命そのものを維持できなくなるほど身体の内側が壊れてしまったら、僕たちにも治せない」
「……そんな」
「病院は!?」
アルベルトが低い声で答えた。
「間に合わない」
「でも!」
「運んでいる途中で死ぬ可能性が高い」
ミアが小さく息を吐く。
苦しそうな音だった。
「嫌……」
ルシアはその手を握った。
冷たい。
「ミア」
返事がない。
「ミア、起きて」
目を開けない。
「死んじゃうの……?」
誰も答えなかった。
その沈黙が答えだった。
けれど。
ゼノンがルシアを見る。
「一つだけある」
「……何?」
「助かる可能性がある方法」
その目を見た瞬間、ルシアは分かってしまった。
「……ヴァンパイアにする」
ゼノンが頷く。
「人間の身体のままでは、この傷には耐えられない。でも転化すれば、身体そのものがヴァンパイアへ作り変えられる。潰れた肺も損傷した臓器も再構築する」
「じゃあ、お願い。やって」
「ルシア」
「早く!」
「僕が変えることもできる」
ルシアが止まる。
「でも」
ゼノンの赤い瞳が、真っ直ぐこちらを見る。
「ミアが頼んだのは君だよ」
思い出した。
――ルシア。
――私をヴァンパイアにしてくれない?
あの日。
ミアは確かにそう言った。
自分だけが人間として歳を取っていくのが嫌だと。
大好きな友人たちと違う時間を生きるのが寂しいと。
けれど。
ルシアは断った。
一度変えれば戻れない。
ミアは血への欲求を抑えることに向いていないかもしれない。
クレイドも言った。
――向いてねぇよ、お前。
そしてゼノンとも約束した。
次にミアから頼まれても、一人で決めない。
「でも……」
涙が落ちた。
「今は本人に聞けないよ」
ミアは意識を失っている。
「本当にまだヴァンパイアになりたいのか……今のミアに聞けない」
「うん」
ゼノンは否定しなかった。
「だから、ルシアが決めるしかない」
「そんなの……」
「時間がない」
優しくはなかった。
優しく言える状況ではなかった。
ミアの呼吸が弱くなる。
ルシアは手を握った。
あの日のミアの顔を思い出す。
断ったとき。
寂しそうだった。
それでも笑って帰った。
――また明日。
そう言った。
「……死なせたくない」
声が震える。
「私、ミアを死なせたくない」
ゼノンが頷いた。
「分かった」
「私がやる」
レティシアが僅かに目を細めた。
それに気づいたのは、ゼノンだけだった。
けれど今は何も言わない。
ルシアの前へ膝をつく。
「転化には、ヴァンパイアの血を人間の身体へ入れる必要がある」
「私の血で?」
「うん。ルシアは純血だから、血の力は十分にある」
ゼノンがルシアの手首を取る。
「ただし、少し飲ませればいいわけじゃない。転化を始められるだけの量を、心臓が止まる前に身体へ巡らせる必要がある」
ルシアが震える。
「失敗したら?」
「……助からない」
息を呑む。
ゼノンの手が重なる。
「僕がいる」
顔を上げる。
「僕が全部教える。だから焦らないで」
「……うん」
ルシアは自分の手首へ牙を立てた。
痛み。
すぐに血が溢れる。
「ミアの口へ」
言われた通りにする。
赤い血が、ミアの唇へ流れる。
「飲んで……」
反応がない。
「ミア、お願い」
「少し喉へ流して。ゆっくり」
ゼノンの指示に従う。
「そう。それでいい」
血が入る。
一口。
二口。
「まだ?」
「まだ」
「私の血、大丈夫?」
「ルシアは平気。僕が止めるまで続けて」
ルシアは血を与え続けた。
やがて、ミアの身体が小さく震えた。
「お兄様!」
「続けて」
「でも!」
「始まってる」
ミアの指先が痙攣する。
呼吸が止まりかける。
そして、完全に止まった。
「……え?」
ルシアの顔が真っ白になる。
「ミア?」
胸が動かない。
「ミア!」
「ルシア、待って」
「心臓が!」
「分かってる」
「死んじゃった!」
「待って!」
ゼノンがルシアの肩を掴む。
「転化の途中では、一度人間としての身体が死ぬ」
「でも……!」
「ルシアの血は入った」
ゼノンはミアの胸へ手を置く。
「今、身体が作り変わってる」
時間が止まったようだった。
一秒。
二秒。
三秒。
長い。
あまりにも長い。
「お願い……」
ルシアはミアの手を握る。
「お願いだから……」
クレイドも何も言わない。
エリーゼは唇を結んでいる。
アルベルトが見守る。
ルイスはレティシアを警戒しながらも、何度もこちらへ視線を向けていた。
ゼノンだけが、ミアの胸へ手を当てている。
「……来る」
「え?」
その瞬間。
どくん。
小さな鼓動。
ルシアが息を止める。
どくん。
もう一度。
「……ミア?」
どくん。
どくん。
鼓動が強くなっていく。
ミアの身体が大きく息を吸った。
「っ……!」
胸が上下する。
「ミア!」
ルシアが顔を覗き込む。
閉じていた瞼が、ゆっくりと開く。
その瞳は、もう人間の色ではなかった。
鮮やかな赤。
ヴァンパイアの瞳だった。
「……ル……シア……?」
掠れた声。
「ミア!」
涙が溢れた。
「よかった……!」
抱きつこうとする。
「待って」
ゼノンがすぐに止めた。
「まだ身体が再生中」
「ご、ごめん!」
ミアは何度か瞬きをした。
ぼんやりと天井を見つめ、それから自分を覗き込んでいるルシア、ゼノン、クレイド、エリーゼ、アルベルトへ順番に視線を向ける。
「……私……どうなったの?」
声はまだ掠れている。
「レティシアにやられて……」
そこまで言って、ミアが自分の胸へ手を当てた。
先ほどまで呼吸をすることすらできなかったはずなのに、今は息ができる。
ゆっくり吸う。
吐く。
「……息、できる」
「まだ全部は治りきってないから、動かないでね」
ルシアが言う。
「治る……?」
ミアが不思議そうに呟いた。
そのとき、舌先が何かに触れた。
「ん?」
もう一度。
口の中を確かめる。
ミアの目が大きくなった。
「……え?」
指で唇を触る。
「ちょっと待って」
牙。
さっきまでなかったもの。
「これ……牙?」
ルシアは少し迷ってから頷いた。
「うん」
「え?」
ミアの視線が一気にルシアへ戻る。
「牙?」
「うん」
「私に?」
「うん」
「なんで?」
そこまで言ったところで。
ミアの表情が止まった。
ルシアの赤い瞳を見る。
ゼノンを見る。
クレイドを見る。
そして自分の身体を見る。
「……まさか」
ルシアは静かに答えた。
「ミアを助けるには、それしかなかったの」
「……」
「私の血を飲ませた」
数秒。
ミアは固まっていた。
ルシアは不安になった。
「ミア……?」
次の瞬間。
「えええええっ!?」
「ミア!?」
勢いよく起き上がった。
「私、ヴァンパイアになったの!?」
「そうだけど、起きちゃ駄目!」
「本当に!? 本当に本当に!?」
「ミア、身体――」
「うそ! 待って! ちょっと待って! 鏡ない!?」
「だから動かないでって――」
「いたたたたたっ!!」
ミアが胸を押さえ、そのまま身体を丸めた。
「ほら!」
ルシアが慌てて支える。
「痛い! 何これ、めちゃくちゃ痛い!」
「傷がまだ治りきってないの!」
ゼノンが呆れたように言う。
「転化したからって、一瞬で全部元通りになるわけじゃないよ。肺は再生し始めてるし、骨も繋がり始めてる。でもまだ途中」
「先に言ってください!」
「言う前に起きたのはミアだよ」
「そうだった!」
「横になって!」
「はい!」
素直に寝た。
けれど、じっとしていたのは三秒ほどだった。
「ねえルシア」
「なに?」
「目、赤い?」
「赤いよ」
「どんな赤?」
「どんなって……綺麗な赤」
「ルシアと同じ?」
「似てるけど、私とは少し違うかな」
「見たい!」
「鏡はあと!」
「えー!」
「えーじゃない!」
「牙は!? ちゃんとヴァンパイアっぽい!?」
「さっき自分で触ってたでしょ!」
「触るのと見るのは違うの!」
つい数分前まで死にかけていた人間とは思えない。
エリーゼが思わず息を吐いた。
「ミアらしいですね……」
アルベルトも額を押さえる。
「こっちは寿命が縮むかと思ったぞ」
「ごめんなさい……でも!」
ミアは横になったまま、両手を口元へ持っていく。
牙を指で確かめる。
触る。
また触る。
「ある……」
嬉しそうに呟いた。
「本当にある……!」
今度は自分の耳を触る。
髪を見る。
手を見る。
「何か変わった? 肌白くなった? 髪は? 爪は? 力強くなった?」
「一気に聞かないで!」
「だって気になる!」
「まだ転化したばっかりだよ!」
「そうだった!」
ミアが笑う。
その拍子に胸が動いたらしい。
「いっ……たたた!」
「もう!」
ルシアは困りながらも、さっきまで流していた涙とは違う涙を拭った。
「本当にじっとしててよ……」
「ごめん。でも嬉しくて」
ミアが笑う。
今度は少しだけ静かに。
「私、本当にヴァンパイアになれたんだ」
「……うん」
「ずっと憧れてたんだよ?」
知っている。
誰よりも知っている。
「ルシアにお願いしたとき、断られたから……もう無理なんだと思ってた」
「ミア……」
「怒ってないよ」
ミアはすぐに言った。
「だって、ルシアが私のこと考えて断ったのも分かってたから」
赤く変わった瞳が細められる。
「でも、やっぱり嬉しい」
「……怖くない?」
「全然!」
即答だった。
「だってこれから、ルシアたちと同じ時間を生きられるんでしょ?」
ルシアの胸が詰まる。
「おばあちゃんになって、私だけ先にいなくならなくていいんでしょ?」
「……うん」
「エリーゼとも、クレイドとも、ルシアともずっと一緒にいられる?」
今度はエリーゼが微笑んだ。
「そうですね」
「やった……」
ミアは天井を見上げた。
本当に幸せそうだった。
「すごいなぁ……私、ヴァンパイアなんだ」
それから何かに気づいたように、ぱっとルシアを見る。
「ねえ! じゃあ私も夜間部に行ける!?」
「そこ!?」
「だって行けるよね!?」
「身体が治ってから考えようよ!」
「やったぁ!」
「まだ決まってない!」
また起き上がろうとする。
「いたっ!」
「もう!!」
今度はルシアだけでなく、ゼノンまで肩を押さえて寝かせた。
「ミア」
「はい」
「十分くらいは大人しくできる?」
「十分……」
真剣に悩んでいる。
クレイドが呆れた。
「できねぇのかよ」
「できるよ!」
「じゃあ黙って寝てろ」
「クレイド、私もヴァンパイアになったよ!」
「見りゃ分かる」
「これで一緒だね!」
クレイドの表情が僅かに止まった。
「……一緒じゃねぇよ」
「え?」
「俺はなりたくてなったんじゃねぇ」
ミアが少しだけ黙った。
「……そっか」
「でも」
クレイドは視線を逸らした。
「お前は死なずに済んだ。それでいいだろ」
ミアは少しだけ笑った。
「うん」
ルシアは二人を見つめた。
そして、ようやく大きく息を吐く。
助かった。
本当に助かった。
「ルシア」
クレイドが呼ぶ。
振り返る。
その表情は、喜んでいるようには見えなかった。
クレイド自身も、人間からヴァンパイアへ変えられた者だ。
ただし、ミアとは違う。
七歳だったクレイドには選択肢すらなかった。
「私……間違ってないよね?」
思わず尋ねていた。
クレイドは少し黙った。
「お前が変えなきゃ死んでたんだろ」
「……うん」
「だったら仕方ねぇだろ」
「……うん」
短い。
でも。
今はそれで十分だった。
「ルシア」
今度はミアが呼んだ。
「なに?」
「ありがとう」
「……」
「助けてくれて」
ミアは自分の牙へそっと触れた。
「それに……私のお願い、覚えててくれたんだね」
ルシアは泣きそうになって笑った。
「忘れるわけないよ」
「へへ」
ミアも笑う。
「じゃあ傷が治ったら、一番最初に鏡見せてね」
「うん」
「あと夜間部の制服も――」
「それはまだ!」
「えー!」
その声に、エリーゼまで小さく笑った。
少なくとも。
その瞬間だけは。
誰もが、助かってよかったと思えた。
ミアは死ななかった。
本人もヴァンパイアになったことを喜んでいる。
ルシアは友人の命を救った。
それでよかったのだと。
そう思えた。
ただ一人。
部屋の向こうで静かに立つレティシアだけが、違う笑みを浮かべていた。
本当に僅かに。
誰にも気づかれないほど。
けれど。
ゼノンだけは。
その笑みを見逃さなかった。




