編入初日なんだけど
翌日の夕方。
ルシアが階下へ降りると、居間にはすでにクレイドがいた。
いつもの昼間部の白い制服ではない。
黒。
夜間部の制服だった。
ソファに座っている本人は酷く不機嫌そうだったが、赤い髪には黒の方がよく映えている。
ルシアは階段の途中で立ち止まった。
「……クレイド」
「何だよ」
「似合う!」
「うるせぇ」
「まだ何も変なこと言ってないじゃん!」
「声がうるせぇ」
ルシアは残りの階段を下り、クレイドの前まで行った。自分も同じ黒い制服を着ている。並んでみると、本当に同じ夜間部の生徒になったのだと実感した。
「お揃いだね」
「だから何だよ」
「私のことカラス女って言ってたのに、クレイドもカラスじゃん」
「殺すぞ」
「お似合いですよ、カラス男」
「ぶっ飛ばすぞ」
予想通りの反応だった。
ルシアが笑っていると、奥からアルベルトが出てくる。
「初日から問題を起こすなよ、クレイド」
「俺じゃなく向こうに言え」
「まだ何も起きてないだろ」
「先に言っとけ」
「お前は何と戦いに行くつもりなんだ」
アルベルトが頭を抱える。その後ろからゼノンも姿を見せ、クレイドの制服姿を見ると少しだけ目を細めた。
「似合ってるね」
「てめぇに言われても嬉しくねぇ」
「僕は素直に褒めただけなんだけど」
「その顔が気に食わねぇ」
「顔は変えられないな」
「お兄様、煽らないの」
「煽ってないよ」
絶対に少し楽しんでいる。
アルベルトが書類をクレイドへ差し出した。
「正式な編入手続きは済ませた。ただし、お前は通常の夜間部授業だけじゃない」
クレイドが書類へ目を落とす。
「何だこれ」
「特別課程だ」
「は?」
ルシアが横から覗き込む。
「私と同じ?」
「一部はな」
アルベルトは頷いた。
「ルシアは十年間人間として生きていたせいで、ヴァンパイアとして当然身につけているはずの知識が抜けている。クレイド、お前も似たようなものだ」
「俺は十年どころじゃねぇぞ」
「だから必要なんだ」
クレイドは七歳でヴァンパイアへ変えられた。けれど、それは本人が望んだものではない。ヴァンパイアになったあとも、その社会へ馴染もうとはしなかった。血は生きるために必要だから飲む。自分の身体についても、必要最低限しか知ろうとしない。それで今まで生きてきた。
「お前の場合は後天的にヴァンパイアになった身体について、改めて学んでもらう。血の摂取、能力、再生、眷属との血の繋がり、そのほか必要な知識だ」
最後の言葉でクレイドの眉が動いた。
ゼノンの血を繰り返し飲んできたクレイドには、無関係ではない。
「……面倒くせぇ」
「受けろ」
「拒否権は」
「ない」
「クソ学園長」
「退学にするぞ」
「初日に?」
「初日だからこそだ」
ルシアが吹き出した。
「クレイドも特別教室なら、一緒に授業受けられるね!」
「嬉しそうに言うな」
「だって一人より楽しいじゃん」
「俺は楽しくねぇ」
「じゃあ私が二人分楽しむ」
「勝手にしろ」
こうして、クレイドの夜間部生活が始まった。
学園へ着いた途端、予想していた通り視線が集まった。
ルシアが編入したときとは種類が違う。ルシアは純血の王女。十年間存在を隠されていたヴァルディエ家の娘。
対してクレイドは、元人間。しかも、昼間部に在籍しながら自分がヴァンパイアであることを隠していた。そのうえ、ヴァンパイア嫌いであることを隠そうともしない。当然、歓迎一色になるはずがなかった。
廊下を歩けば、あちこちから囁き声が聞こえてくる。
「……あれが?」
「元人間だろ」
「なんで夜間部に?」
「ヴァンパイア嫌いなんじゃなかったのか?」
人間なら聞こえない距離。けれどクレイドには全部聞こえている。
ルシアが隣を見ると、案の定、眉間に皺が寄っていた。
「クレイド」
「何だ」
「無視だよ」
「してる」
「顔が全然してない」
「顔まで指図すんな」
そこへ、前方からラビがやってきた。
「お。今日から正式にこっちなんだ」
「……」
「何その顔。僕、歓迎しに来たんだけど」
「頼んでねぇ」
「知ってる」
ラビはまったく気にしない。
「まあまあ。仲良くしようよ」
「しねぇ」
「即答だ」
その後ろからセドリックもやってきた。
「ラビ。初日から絡むな」
「僕は仲良くしようとしてるだけだよ」
「お前の距離の詰め方が早いんだ」
セドリックはクレイドを見る。
「セドリック・フローレンス。よろしく」
「……クレイド」
それだけ返した。
「十分だ」
セドリックは気にした様子もなく頷く。
さらに教室の方からクロードが顔を出した。
「へえ。本当に来たんだ」
「何だよ」
「いや? 昨日見学に来たって聞いたからさ。てっきり一日で嫌になって逃げるかと思ってた」
「喧嘩売ってんのか」
「半分くらい?」
「クロード」
セドリックの低い声が飛ぶ。
「冗談だって」
クロードは笑って両手を上げた。
クレイドが小さく舌打ちする。
「……やっぱうぜぇ奴しかいねぇ」
「私もいるよ」
「お前も含めて言ってんだよ」
「ひどい!」
最初の授業を終えたあと、ルシアとクレイドは二人揃って特別教室へ向かった。
扉を開けると、エリーゼが待っている。机の上には血液パックと資料が並んでいた。
「お二人とも、座ってください」
「何でこいつと一緒なんだよ」
「本日の内容は二人とも必要だからです」
クレイドが露骨に嫌そうな顔をする。
「クレイド、隣座ろ」
「嫌だ」
「じゃあ私が隣座る」
「同じだろ」
結局、並んで座った。
エリーゼが資料を二人へ配る。
「今日は吸血についてです」
ルシアが資料を見る。
「血の飲み方ならこの前やったよ?」
「前回は主に、飲む側の制御についてでした。今日は飲まれる側に何が起こるのかを含めて説明します」
エリーゼは自分の首筋を指した。
「ヴァンパイアの牙そのものには、当然痛みがあります。皮膚を破りますから」
「うん」
「ですが実際に吸血されている最中、最初の痛みが長く続くことはあまりありません」
「なんで?」
「唾液です」
ルシアが首を傾げる。
「唾液?」
「ヴァンパイアの唾液には、咬傷の痛みを和らげる作用があります。牙を立てた直後から傷口周辺の痛覚を鈍らせ、吸血を続けやすくするんです」
「へえ……」
「それだけではありません」
エリーゼの表情が少し真面目になる。
「身体が温かく感じたり、酔ったように頭がぼんやりしたり、緊張や警戒心が薄れたりすることがあります。人によっては強い心地よさを覚えます」
ルシアは瞬きをした。
「じゃあ、噛まれてるのに嫌じゃなくなるってこと?」
「そうなる場合があります」
「……便利だね」
「便利、で終わらせてはいけません」
ぴしゃりと言われた。
「重要なのはここからです。作用が強く出ると、正常な判断が難しくなります。最初は怖がっていた人が途中から自分で首を差し出したり、もっと吸ってほしいと求めたりすることもあります」
「えっ」
ルシアの目が丸くなる。
「そんなに?」
「特に人間には強く作用します」
エリーゼは資料の一箇所を指した。
「ヴァンパイア同士でも影響はありますが、人間より抵抗性が高い傾向があります。血の濃さや年齢、体質によっても差があります」
ルシアは自分の首へ手を当てた。
ゼノンに噛まれたときのことを思い出す。最初のちくりとした痛み。そのあとに広がる、ぼんやりとした感覚。
確かに、嫌ではなかった。
「……私もあるかも」
「ゼノンさんに吸血されたときですか?」
「うん。なんか、ふわふわするっていうか……眠くなるときある」
「それも作用の一つです」
横で黙っていたクレイドが低く言った。
「……知ってる」
ルシアとエリーゼが同時に彼を見る。
クレイドの顔が険しくなる。
「何だよ」
エリーゼは余計なことを聞かなかった。
「では話は早いですね」
それだけだった。
クレイドも何も続けない。
ルシアも聞かなかった。
クレイドがどんな形でヴァンパイアにされたのかは知っている。軽い好奇心で触れていい記憶ではなかった。
エリーゼは授業を続けた。
「ここで絶対に覚えておいてほしいことがあります」
二人を見る。
「吸血中の言葉を、そのまま相手の正常な意思だと思わないことです」
ルシアの表情から笑みが消えた。
「唾液の作用で判断力が落ちた人間が『もっと吸って』と言ったとしても、それを理由に限界まで吸血していいことにはなりません」
「……そっか」
「相手自身が止められなくなる場合があるからこそ、飲む側が止まらなければならないんです」
クレイドが腕を組んだまま聞いている。
「最初に同意していたとしても同じです。吸血が始まったあと、相手が明らかに正常な判断を失っているなら、飲む側が状態を確認して止める必要があります」
ルシアは資料へ目を落とした。
「人間とヴァンパイアが一緒に暮らすなら、必要なルールなんだね」
「はい」
エリーゼが頷く。
「ヴァンパイアにとっては食事でも、相手にとっては身体へ直接影響を与える行為ですから」
「じゃあ、お兄様も私がぼーっとしてるの分かってるのかな」
「当然分かっています」
即答だった。
「ゼノンさんが何年生きていると思っているんですか」
「六十年」
「そういう意味ではありません」
クレイドが鼻で笑った。
「お前、あいつに吸われてるとき馬鹿みてぇな顔してんじゃねぇの」
「してないよ!」
「どうだかな」
「見たことないくせに!」
「見たくもねぇよ!」
「そこ、喧嘩しないでください」
エリーゼに止められた。
ルシアは頬を膨らませながら資料へ戻る。
そのとき、クレイドがぼそりと言った。
「……吸う側にも効きゃいいのにな」
エリーゼが彼を見る。
「どういう意味ですか?」
「飲みすぎる馬鹿にも、勝手に止まる仕組みがありゃ楽だろって話だ」
「残念ながらありません」
「だろうな」
「だから自制を学ぶんです」
エリーゼは二人を順番に見る。
「血がおいしい。もっと飲みたい。相手ももっと吸ってほしいと言っている。――それでも止まる。それができなければ、人間と共存する資格はありません」
その言葉だけは、ルシアの頭に強く残った。
授業が終わったあと。
ルシアとクレイドは並んで教室を出た。
「結構大事な授業だったね」
「ああ」
珍しく素直な返事だった。
「クレイドも真面目に聞いてたし」
「授業なんだから聞くだろ」
「途中寝るかと思ってた」
「お前じゃねぇんだよ」
「私寝ないよ!」
言い返しながら廊下を曲がる。
そこで、三人の男子生徒と鉢合わせた。
ルシアは顔だけなら見たことがあった。
同じ夜間部。
ただ、話したことはない。
三人のうち一人がクレイドを見る。
「特別教室帰りか」
クレイドは答えず、その横を通り過ぎようとした。
「元人間は大変だな」
足が止まった。
ルシアは嫌な予感がした。
「クレイド」
「……何だよ」
振り返ったクレイドの声は低い。
男子生徒が笑う。
「いや。ヴァンパイアが嫌いなくせに、わざわざ夜間部へ来たって聞いたからさ」
「それが何だ」
「気になっただけだよ。俺たちのこと嫌いなんだろ?」
「ああ」
即答だった。
相手の笑みが消える。
「じゃあ何しに来た?」
「お前に説明する義務あんのか」
「ないけど?」
別の生徒が口を挟む。
「気分悪いんだよ。俺たちを嫌ってる奴が、同じ顔してここ歩いてんの」
クレイドの目が細くなる。
「同じ顔?」
「お前もヴァンパイアだろ」
「……」
「嫌いなのは勝手だけど、自分だけ違うみたいな顔すんなよ」
ルシアが口を開こうとした。
「クレイドは――」
「黙ってろ」
遮られた。
「でも」
「お前は関係ねぇ」
クレイドは一歩前へ出た。
「俺がお前ら嫌いなのと、ここにいることに何の関係があんだよ」
「あるだろ」
「ねぇよ」
「ヴァンパイアが嫌いなら昼間部にいろよ」
「それ決めんのはてめぇか?」
空気が張り詰める。
ルシアは周囲を見る。
少しずつ生徒が立ち止まり始めていた。
まずい。
編入初日。
本当に初日だ。
「クレイド、行こう」
腕へ手を伸ばす。
けれど、その前に相手の一人がクレイドの肩を押した。
「聞いてんだよ」
クレイドの身体が僅かに揺れる。
沈黙。
ルシアは目を閉じたくなった。
「……触んな」
「は?」
「俺に触んなっつったんだよ」
次の瞬間、クレイドが相手の手首を掴んだ。
捻る。
男子生徒の身体が傾いた。
「っ、てめぇ!」
別の一人がクレイドへ掴みかかる。
クレイドはそれを避け、腹へ蹴りを入れた。
男が廊下を滑る。
「クレイド!」
「こいつらが先だ!」
「そうだけど!」
もう一人が能力を使った。
床に影が走る。
何かがクレイドの足へ絡みつく。
クレイドは舌打ちすると腰の剣へ手をかけた。
「待って! 剣は駄目!」
「うるせぇ!」
刃が抜かれる。
周囲が一斉にざわついた。
相手もヴァンパイアだ。
普通の人間なら致命傷になる攻撃でも、彼らなら治る。
だからこそ、喧嘩の加減がおかしくなる。
最初に肩を押した男が再びクレイドへ飛びかかった。
クレイドは身体を捻ってかわす。
だが、足を拘束されている。
完全には避けきれない。
拳が頬へ入った。
クレイドの身体が壁へぶつかる。
「クレイド!」
「来んな!」
口元から血が落ちる。
それでも剣を握ったまま立ち上がった。
三対一。
相手は全員、生まれたときからヴァンパイアだ。
クレイドは違う。
七歳まで人間だった。
正規の訓練も、ヴァンパイアとしての教育もまともに受けていない。
それでも退く気はないらしい。
「……上等だ」
赤い瞳が細くなる。
一人が横から飛び込む。
クレイドが剣を振る。
相手が避ける。
二人目。
後ろ。
クレイドが振り返るより先に蹴りが入る。
体勢が崩れる。
そこへ三人目が迫った。
「クレイド!」
ルシアが動こうとした。
けれど昨日のことが頭を過ぎる。
――一人で突っ込まない。
足を止めた。
「先生呼んで!」
周囲の生徒へ叫ぶ。
その間にもクレイドは床へ手をつき、迫ってきた男の足元を剣で払った。
相手が跳ぶ。
その着地点。
クレイドの剣が突き出された。
「っ!」
刃が腿を貫いた。
男の悲鳴が廊下に響く。
「クレイド!」
「死なねぇよ」
「そういう問題じゃない!」
「治るだろ」
昨日ラビへ言ったのと同じことを、本当にやった。
男子生徒が怒りに任せて能力を放とうとする。
空気が震えた。
その瞬間。
「そこまで」
静かな声だった。
なのに、廊下全体が止まった。
ゼノンが立っている。
その隣にはセドリック。
少し後ろにはルイスもいた。
ゼノンの赤い瞳が、廊下を見渡す。
床へ落ちた血。
剣。
脚を刺された生徒。
口元を切ったクレイド。
「……編入初日なんだけど」
ゼノンが言った。
クレイドは剣を抜く。
刺された生徒が呻いた。
「こいつらが先にやってきた」
「聞くよ。全員から」
ゼノンはクレイドだけを責めなかった。
相手の三人だけを責めることもしない。
「でも先に剣をしまって」
「……」
「クレイド」
先ほどまでとは違う声だった。
夜間部総代としての声。
クレイドは数秒ゼノンを睨んだあと、血のついた剣を振って鞘へ戻した。
「それでいい」
セドリックが負傷した生徒のところへ向かう。
「傷を見る。動くな」
「でもこいつが――」
「話はあとだ」
有無を言わせない。
一方、ルイスは少し離れた場所からすべてを見ていた。
「初日から随分派手だな」
クレイドが睨む。
「誰だ、てめぇ」
「ルイス・ベルフォート」
「知らねぇ」
周囲が僅かにざわつく。
だがルイスの表情は変わらなかった。
「そうか」
それだけ。
怒りもしない。
名乗り直しもしない。
「だが一つだけ教えておく。ここでは、相手が治るから刺していいという理屈は通らない」
「先に三人で来たのはこいつらだ」
「それも調べる」
ルイスの視線が三人へ移る。
「三人で一人を囲んだのなら、それも同様に処分対象だ」
クレイドが僅かに眉を動かした。
てっきり自分だけ責められると思っていたのかもしれない。
ゼノンが周囲へ向き直る。
「見てた人、残って。誰が最初に手を出したのか確認する」
数人が足を止める。
「能力を使った人も全員申告して。黙ってても分かるから、先に言った方がいいよ」
笑っている。
けれど誰も逆らわなかった。
ルシアはその様子を見ていた。
昨日、自分へ血を飲ませてくれたゼノン。同じベッドで眠り、朝まで抱いていてくれた兄。
今はまるで違って見える。
夜間部全体を預かる人だった。
そのゼノンを、ルイスが静かに見ている。
観察するように。
何をするのか。誰を庇うのか。どう判断するのか。一つも見逃さないように。
昨日の自分の事故も、今日のクレイドの喧嘩も、総代であるゼノンにとっては身近な者が起こした問題だけではない。
夜間部全体の問題なのだ。
ルシアは改めてその立場の重さを感じながら、少し前に受けた授業を思い返した。
血がおいしくても。
もっと欲しくても。
相手が拒まなくても。
飲む側が、自分で止まらなければならない。
今はまだ、それが当たり前のことのように思えた。
だからルシアは、その言葉を深く考えることもなく胸の奥へしまった。
いつか、それを思い出さなければならない日が来るなどとは、少しも知らないまま。




