↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
27/92

心配過ぎて

次にルシアが目を覚ましたとき、隣にゼノンはいなかった。


けれど、枕元には小さな紙が置かれていた。


『先に起きてるね。起きたら下においで。左手、ちゃんと動くか確認してからね』


「……過保護」


そう呟きながらも、自然と笑ってしまう。


ルシアは布団から左手を出した。


握る。


開く。


一本ずつ指を曲げてみる。


昨夜まで再生途中だったとは思えないほど、何の違和感もなかった。爪まで綺麗に元通りで、触った感覚にも左右差はない。


「よし」


ベッドを出て着替え、階下へ向かう。


居間へ入ると、アルベルトが書類を読んでいた。クレイドはソファに座り、ゼノンはその向かいで優雅に血の入ったグラスを傾けている。


ルシアが入ってきた瞬間、三人の視線が一斉に左腕へ向いた。


「……何?」


「動く?」


真っ先に聞いたのはゼノンだった。


「動くよ」


「痛みは?」


「ない」


「違和感は?」


「ないってば」


「痺れは?」


「お兄様」


「なに?」


「質問多い」


ゼノンは少し考えてから、「そう?」と首を傾げた。


その横でクレイドが鼻で笑う。


「腕一本生えただけで大騒ぎだな」


「クレイドだって昨日めちゃくちゃ怒ってたじゃん」


「怒ってねぇ」


「怒ってたよ。ラビ先輩に」


「馬鹿なことした奴に馬鹿っつっただけだ」


「私にも言ったじゃん」


「お前が一番馬鹿だったからだろ」


「ひどい!」


いつもの調子で言い返しながら、ルシアはクレイドの向かいへ座った。


するとクレイドの目が、もう一度左腕へ落ちた。


ほんの一瞬。


本当に元通りなのか確かめるような視線だった。


ルシアがそれに気づいて左手をひらひら振ってみせる。


「ほら。ちゃんと五本あるよ」


「見りゃ分かる」


「触ってみる?」


「いらねぇ」


「本物だよ?」


「知るか」


相変わらずだった。


けれど、それで十分だった。


アルベルトが書類から顔を上げる。


「ルシア。昨日の件だが」


「……はい」


声の調子だけで説教だと分かり、ルシアは姿勢を正した。


「人を助けようとしたことを責めるつもりはない。だが、指示を無視したことは別だ」


「はい」


「ラビが止まれと言ったんだろう?」


「……言いました」


「一人で突っ込むなとも?」


「言われました」


「何度?」


ルシアは視線を逸らした。


「……何回か」


「何回か言われて、全部無視したのか」


「全部っていうか、最後の一回だけ……」


「同じだ」


逃げ道を塞がれた。


「ごめんなさい……」


アルベルトは深く息を吐いた。


「お前はもう人間じゃない。身体能力も回復力も、人間だった頃とは比べものにならない。それで、自分なら何とかできると思ったんだろう」


図星だった。


あの瞬間、確かにそう思った。


自分なら間に合う。


自分は純血だから。


あの男より速く動けるかもしれない。


結果は、まるで違った。


「力があることと、それを使えることは別だ。昨日それを身をもって知ったはずだ」


「……うん」


「なら忘れるな」


「分かった」


アルベルトの声が少しだけ柔らかくなる。


「腕が戻ってよかった」


ルシアは顔を上げた。


「アル……」


「次は持って帰ってくるなよ」


「持って帰ったのエリーゼだけどね」


「そういう意味じゃない!」


怒鳴られた。


ゼノンが横で笑っている。


「笑わないでよ、お兄様!」


「ごめん。でもルシアらしいなと思って」


「昨日あんなに心配してたくせに!」


「今は腕があるからね」


そう言って、ゼノンはルシアの左手を取った。


指先を軽く握り、やはり動きに問題がないか確かめている。


それを見ていたクレイドが、突然口を開いた。


「アル」


「ん?」


「俺も夜間部に移る」


居間が静かになった。


ルシアが瞬きをする。


「……え?」


聞き間違えたかと思った。


「クレイド、今なんて言った?」


「聞こえただろ」


「夜間部に移るって言った?」


「ああ」


「なんで!?」


声が大きくなる。


クレイドが眉を寄せた。


「うるせぇな」


「だって前に聞いたとき、嫌だって言ってたじゃん! ヴァンパイアばっかりのところなんか行きたくないって!」


「気が変わった」


「一日で!?」


「悪ぃかよ」


怪しい。


ものすごく怪しい。


ルシアはじっとクレイドを見つめた。


クレイドも睨み返してくる。


「……何だよ」


「もしかして」


「何だ」


「私が昨日――」


「違ぇ」


まだ何も言っていない。


「まだ最後まで言ってないよ!」


「言わなくても分かる」


「じゃあやっぱりそうなんじゃん!」


「違うっつってんだろ!」


アルベルトが口元を押さえた。


明らかに笑いを堪えている。


クレイドが睨む。


「何笑ってんだ、アル」


「いや。何でもない」


「笑ってんだろ」


「気のせいだ」


絶対に気のせいではない。


ゼノンまで楽しそうにクレイドを見ていた。


「ルシアが心配なんだね」


「違ぇよ」


「昨日腕なくして帰ってきたから?」


「違う」


「じゃあ、どうして急に?」


クレイドの眉間に皺が寄る。


「……こいつ、放っとくと何するか分かんねぇだろ」


「それを心配って言うんじゃないの?」


「言わねぇ」


ゼノンが笑う。


クレイドの額に青筋が浮かんだ。


「てめぇ、さっきから何笑ってんだ」


「いや、素直じゃないなと思って」


「殺すぞ」


「ほら、怖い」


「お兄様、煽らないで」


ルシアが止めると、クレイドはますます機嫌を悪くした。


「とにかく移る。手続きしろ」


今度はアルベルトが真面目な表情になる。


「本気か?」


「ああ」


「夜間部は授業だけじゃないぞ。実働にも関わる。お前が嫌っているヴァンパイア社会そのものに、今まで以上に深く関わることになる」


「分かってる」


「周囲はほぼ全員ヴァンパイアだ。昼間部から移ってきたエリーゼもいるが、彼女は例外だ」


「それも分かってる」


「お前の過去を知らない奴も多い。人間から変わったお前を快く思わない者もいるかもしれない」


クレイドは鼻で笑った。


「知るかよ」


迷いはなかった。


「俺は馴れ合いに行くんじゃねぇ」


アルベルトはしばらくクレイドを見つめた。


やがて静かに頷く。


「分かった。手続きはしておく」


「今日から行く」


「今日!?」


またルシアの声が響く。


「何だよ」


「制服ないじゃん!」


「服なんか何でもいいだろ」


「よくないよ! 夜間部は黒い制服だよ!」


「黒なら持ってる」


「そういう意味じゃないと思う」


アルベルトが額を押さえた。


「正式な編入は早くても明日だ。制服も手配する」


「今日行く」


「クレイド」


「見学でいい」


妙に頑固だ。


その理由が分かっているだけに、ルシアは少し嬉しくなってしまう。


「クレイド」


「何だよ」


「ありがとう」


「は?」


「私が心配だから来てくれるんでしょ?」


「違ぇ」


「でも――」


「勘違いすんな」


クレイドは立ち上がった。


「昨日みてぇに勝手に突っ込んで腕なくす馬鹿が近くにいたら、迷惑なんだよ」


「……やっぱり心配じゃん」


「次言ったら殴る」


「はい」


それ以上言うのはやめた。


けれど顔が笑ってしまう。


「笑うな」


「笑ってないよ」


「笑ってんだろ」


「笑ってないって」


「口元見りゃ分かんだよ」


「クレイドも私のことよく見てるね」


「……うるせぇ」


今度こそ黙った。


その日の夜。


ルシアはゼノンと一緒に学園へ向かった。


クレイドは正式な手続きが済んでいないため、アルベルトと後から来るらしい。


昨日までなら、夜道を歩くこと自体が楽しかった。


身体が軽い。


暗闇がよく見える。


遠くの音まで聞こえる。


けれど今日は少し違った。


学園へ近づくにつれて、昨日の光景が頭を過ぎる。


飛んでくる拳。


衝撃。


落ちた腕。


ルシアは無意識に左手を握った。


「怖い?」


隣から声がした。


顔を上げると、ゼノンがこちらを見ていた。


「……ちょっとだけ」


「今日は外には出ないよ」


「うん」


「ラビの授業も教室でやる」


「ラビ先輩、怒られてる?」


「怒ったというより、話はしたよ」


「私のせいなのに」


「ルシアだけのせいじゃない」


ゼノンは歩調を緩めた。


「ルシアは指示を無視した。それはルシアの責任。でも、経験のないルシアを現場へ連れていったのはラビの判断だし、ラビに特別授業を任せたのは僕だからね」


「お兄様まで?」


「僕は夜間部総代だよ」


ゼノンは穏やかに言った。


「何かあったときに、自分は知らなかったで済ませるための立場じゃない」


ルシアは少し黙った。


昨日、眠るゼノンを見ながら思ったことを思い出す。


守られているだけではいたくない。


「私、ちゃんと強くなる」


「うん」


「でも今度は、ちゃんと言うこと聞く」


「それは絶対にそうして」


即答だった。


「そこはもう少し優しく言ってよ」


「昨日腕なくした子に優しく『できたら聞いてね』なんて言わないよ」


「……はい」


学園へ到着すると、ルシアは真っ先にラビを探した。


特別教室へ向かう途中、廊下の向こうから桃色の髪が現れる。


「ラビ先輩!」


「お、ルシアちゃん」


いつも通りの明るい声だった。


けれどラビの目はすぐにルシアの左腕へ向かった。


「腕!」


「戻りました!」


ルシアは左腕を上げ、五本の指を動かしてみせた。


「指も全部!」


「よかったぁ……」


ラビが大きく息を吐いた。


「昨日の夜も気になってたんだよ。純血なら戻るとは分かってたけど、あんなに再生遅いとは思ってなかったからさ」


「封印が解けたばかりだからだって、お兄様が」


「うん。そこも僕の読みが甘かった」


ラビは軽く笑ったが、その言葉にはいつもの冗談っぽさがなかった。


ルシアは姿勢を正す。


「ラビ先輩」


「ん?」


「ごめんなさい」


頭を下げた。


「一人で突っ込まないでって、ちゃんと言われたのに。私、聞かなかった」


ラビはすぐには答えなかった。


「止まれって言われたのも聞こえてました。でも、あの人が襲われそうなの見たら、助けなきゃって思って……自分なら間に合うって勝手に思いました」


「うん」


「本当にごめんなさい」


「顔上げて」


ルシアが顔を上げる。


ラビは怒っていなかった。


かといって、いつものように笑って流そうともしていない。


「ルシアちゃんが悪くないとは言わないよ」


「……はい」


「僕、何回も言ったからね。一人で行かない。止まれって言われたら止まる。近づかない」


「はい……」


「そこはちゃんと反省して」


「します」


「でも」


ラビが自分の首筋を軽く掻いた。


昨日ルシアが噛みつきかけた場所だ。


傷はもう残っていない。


「僕にも責任あるから」


「でも私が勝手に――」


「それを止めるところまで含めて、僕の仕事だったんだよ」


ラビの声は穏やかだった。


「僕はもう四十四年生きてる。現場だって昨日が初めてじゃないし、暴走したヴァンパイアを相手にしたことも何度もある」


普段の軽さのせいで忘れそうになるが、ラビはルシアより遥かに長くヴァンパイアとして生きている。


「だからこそ、あれは僕の判断ミス」


「判断ミス?」


「ルシアちゃんが純血だからって、ちょっと期待値上げすぎた」


ラビは苦笑する。


「目で追えてる。相手の動きも見えてる。速度も出る。力もある。だったら僕が横についてれば、現場を見せるくらいなら大丈夫だろうって思った」


「……私も、自分ならできると思ってました」


「でしょ?」


「はい」


「二人揃って間違えたね」


ラビが笑う。


「力があるのと、その力を使えるのは別だった」


その言葉は昨日、ゼノンからも聞いた。


ルシアは左手を見る。


今は綺麗に戻っている。


けれど、あのとき何もできなかった事実は消えない。


「だから次は、そこから練習しよう」


「……次も教えてくれるんですか?」


「え?」


ラビがきょとんとする。


「当たり前じゃん」


「でも私、言うこと聞かなかったし……」


「それで放り出したら先生失格でしょ」


ラビはいつもの調子に戻って笑った。


「ただし、しばらく実戦は禁止」


「えー」


「えーじゃない!」


「やっぱり?」


「やっぱりも何もないよ! 腕一本なくした翌日にまた外連れてったら、今度こそゼノンさんに僕が殺されるからね!?」


「お兄様そんなことしないよ」


「昨日の帰り道で僕の首噛みそうになったこと、エリーゼさんに全部報告された僕の前でもう一回言える?」


「……しないと思う」


「自信なくなってるじゃん!」


ルシアは笑った。


ようやく昨日までのラビに戻った気がした。


「でも、ラビ先輩」


「ん?」


「昨日は背負って帰ってくれて、ありがとうございました」


「そこはどういたしまして」


「あと、噛みそうになってごめんなさい」


「ほんとだよ」


ラビは自分の首を押さえた。


「ルシアちゃん、途中から完全に僕の首しか見てなかったからね」


「だって血が……」


「『ラビ先輩の血も、たぶんおいしいよ』じゃないんだよ。怖かったんだから」


「飲んでないじゃん」


「僕が必死に止めたからね!」


「一口くらいならよかった?」


「駄目です」


背後から声がした。


二人が振り返る。


エリーゼが立っていた。


「ルシアさん。昨日お教えしたばかりですよね?」


「……はい」


「血が足りないときほど、自制が必要です」


「はい……」


「ラビさんも煽らないでください」


「僕!?」


「『ゼノン先輩の血なら好きなだけ飲める』などと話していましたよね」


「だってあの場でルシアちゃん止めるには一番効いたんだもん!」


「結果として正しかったのが腹立たしいですね」


「エリーゼさん、僕にだけ厳しくない?」


三人で話していると、廊下の奥からゼノンが歩いてきた。


「何の話?」


ラビの顔が引きつった。


「何でもないです」


「ラビ先輩の血がおいしいかどうかの話」


「ルシアちゃん!?」


ゼノンが足を止めた。


にこりと笑う。


「へえ」


「違いますゼノンさん。飲まれてません」


「知ってるよ。昨日聞いたから」


「その笑顔怖いんですけど」


「気のせいだよ」


「絶対違う」


ルシアが笑っていると、少し離れたところから低い声が飛んできた。


「何笑ってんだ、馬鹿」


「え?」


振り返る。


廊下の向こうにアルベルトがいた。


その隣。


黒いシャツに黒い上着を着たクレイドが、酷く不機嫌そうな顔で立っている。


制服ではない。


けれど白い昼間部の制服でもなかった。


「クレイド!」


「でけぇ声出すな」


ルシアは駆け寄る。


「本当に来たの!?」


「来るっつっただろ」


「でも今日は見学だけじゃ――」


「見学だよ」


アルベルトが答えた。


「正式な編入は明日からだ。制服もそれまでに用意する」


クレイドは廊下の奥を見た。


そこを歩く生徒たちは、ほとんどがヴァンパイアだ。


クレイドの表情が僅かに険しくなる。


すれ違った生徒の何人かも、彼に気づいて振り返った。


知らない顔。


それも、昼間部から移ってきたエリーゼを除けば、ヴァンパイアでありながら昼間部に通っていた者はいない。


「……見んな」


クレイドが低く吐き捨てる。


「クレイド、初日から喧嘩しないでね」


「まだ初日じゃねぇ」


「じゃあ見学日から喧嘩しないで」


「向こうが何もしなきゃな」


「不安しかない……」


ラビが興味津々で近づいてくる。


「へえ。クレイド君、夜間部来るんだ?」


「……あ?」


クレイドの視線がラビへ向く。


一瞬で空気が変わった。


「あ」


ルシアが気づく。


ラビも気づいた。


「……もしかして僕、怒られてる?」


「当たり前だろ」


クレイドが近づく。


「お前だろ。こいつ連れ出したの」


「はい」


ラビは逃げなかった。


「僕です」


「止められなかったのも?」


「それも僕」


「クレイド」


ルシアが間に入ろうとすると、クレイドが睨む。


「お前は黙ってろ」


「でも私が勝手に――」


「それはさっき聞いた」


「聞いてたの!?」


「声でけぇんだよ、お前ら」


かなり離れていたはずなのに。


そうだった。


ここにいるのは全員ヴァンパイアだ。


小声のつもりでも大抵聞こえている。


クレイドはラビを見る。


「四十四にもなって、十七の新人に腕ふっ飛ばせて帰らせてんじゃねぇよ」


ラビの眉が僅かに上がった。


けれど怒らなかった。


「ごもっともです」


「……」


素直に認められたせいで、クレイドの方が言葉に詰まる。


「僕の判断ミスだった。次は同じことしないよ」


「次?」


「僕、まだルシアちゃんの先生だから」


クレイドの顔がさらに険しくなった。


「……次また腕なくして帰ってきたら、お前の腕も一本もらうからな」


「怖っ」


「クレイド!」


「治るだろ」


「そういう問題じゃない!」


ラビは少しだけクレイドを見たあと、ふっと笑った。


「分かった」


「何がだよ」


「ルシアちゃん心配なんだね」


「殺すぞ」


「僕、何も言ってないことにする」


「今言っただろ!」


いつものラビだった。


険悪になりかけた空気が、少しだけ緩む。


その様子を見ていたゼノンが、クレイドへ声をかけた。


「クレイド」


「何だよ」


「夜間部に来るなら、一つだけ約束して」


「は?」


「任務中は指示に従うこと」


クレイドの目が細くなる。


「誰の」


「基本的には現場責任者。僕がいるなら僕」


「私生活でてめぇの言うこと聞く気はねぇぞ」


「僕もそこまでは求めてないよ」


「本当かよ」


「ルシアに近づくな、とかは言うかもしれないけど」


「やっぱ求めてんじゃねぇか」


「でも任務中は別」


ゼノンの声が少しだけ変わった。


穏やかではある。


けれど、先ほどまでの冗談とは違う。


「勝手に動かない。感情で命令を無視しない。仲間が気に入らなくても、必要なら協力する」


クレイドは黙って聞いていた。


「できる?」


「……任務ならな」


「ならいいよ」


ゼノンはあっさり頷いた。


「夜間部へようこそ、クレイド」


「まだ見学だっつってんだろ」


「明日には同じでしょ」


「勝手に決めんな」


「自分で編入希望出したんじゃん」


ルシアが言うと、クレイドが舌打ちした。


そんなやり取りの少し離れた場所で、一人の男が立ち止まっていた。


灰色の髪。


ルイス・ベルフォート。


彼は騒がしい一団を一瞥したあと、手に持っていた書類へ視線を落とした。


昨日の実働報告書。


そこには、出動した者の名と経緯、負傷者、現場での判断が記されている。


ラビ・フローレンス。


ルシア・ヴァルディエ。


エリーゼ・ローレンツ。


そして――夜間部総代、ゼノン・ヴァルディエの管理下にある特別課程。


ルイスは静かに書類を閉じた。


昨日から考えていたことに、迷いはもうなかった。


失策の責任を一人の教師へ押しつけるだけなら、組織として三流だ。


新人を誰に預けるのか。


どこまでの実地経験を許すのか。


事故が起きたとき、誰が責任を負うのか。


それらを決めるために、総代という席がある。


元王族だからといって、失策まで許されるわけではない。


そして今のヴァンパイア社会を実際に支えているのは、ベルフォート家だ。


だからといって、その名だけで席を寄越せと言うつもりもない。


そんなものに価値はない。


「……ゼノン」


小さく名を呼ぶ。


廊下の向こうでは、ゼノンがルシアに何か言われて笑っていた。


ルイスの目が静かに細くなる。


自分の方が上手くやれる。


それを証明すればいいだけだ。


夜間部の生徒をまとめる力も。


実働を指揮する判断力も。


純血としての実力も。


すべて。


「話をしようか」


もちろん、その声はまだゼノンには届いていない。


ルイスは報告書を片手に歩き出す。


話すべきことは決まっていた。


――夜間部総代の座について。


クレイドが自ら足を踏み入れた夜間部で、新たな火種が同時に動き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。