心配過ぎて
次にルシアが目を覚ましたとき、隣にゼノンはいなかった。
けれど、枕元には小さな紙が置かれていた。
『先に起きてるね。起きたら下においで。左手、ちゃんと動くか確認してからね』
「……過保護」
そう呟きながらも、自然と笑ってしまう。
ルシアは布団から左手を出した。
握る。
開く。
一本ずつ指を曲げてみる。
昨夜まで再生途中だったとは思えないほど、何の違和感もなかった。爪まで綺麗に元通りで、触った感覚にも左右差はない。
「よし」
ベッドを出て着替え、階下へ向かう。
居間へ入ると、アルベルトが書類を読んでいた。クレイドはソファに座り、ゼノンはその向かいで優雅に血の入ったグラスを傾けている。
ルシアが入ってきた瞬間、三人の視線が一斉に左腕へ向いた。
「……何?」
「動く?」
真っ先に聞いたのはゼノンだった。
「動くよ」
「痛みは?」
「ない」
「違和感は?」
「ないってば」
「痺れは?」
「お兄様」
「なに?」
「質問多い」
ゼノンは少し考えてから、「そう?」と首を傾げた。
その横でクレイドが鼻で笑う。
「腕一本生えただけで大騒ぎだな」
「クレイドだって昨日めちゃくちゃ怒ってたじゃん」
「怒ってねぇ」
「怒ってたよ。ラビ先輩に」
「馬鹿なことした奴に馬鹿っつっただけだ」
「私にも言ったじゃん」
「お前が一番馬鹿だったからだろ」
「ひどい!」
いつもの調子で言い返しながら、ルシアはクレイドの向かいへ座った。
するとクレイドの目が、もう一度左腕へ落ちた。
ほんの一瞬。
本当に元通りなのか確かめるような視線だった。
ルシアがそれに気づいて左手をひらひら振ってみせる。
「ほら。ちゃんと五本あるよ」
「見りゃ分かる」
「触ってみる?」
「いらねぇ」
「本物だよ?」
「知るか」
相変わらずだった。
けれど、それで十分だった。
アルベルトが書類から顔を上げる。
「ルシア。昨日の件だが」
「……はい」
声の調子だけで説教だと分かり、ルシアは姿勢を正した。
「人を助けようとしたことを責めるつもりはない。だが、指示を無視したことは別だ」
「はい」
「ラビが止まれと言ったんだろう?」
「……言いました」
「一人で突っ込むなとも?」
「言われました」
「何度?」
ルシアは視線を逸らした。
「……何回か」
「何回か言われて、全部無視したのか」
「全部っていうか、最後の一回だけ……」
「同じだ」
逃げ道を塞がれた。
「ごめんなさい……」
アルベルトは深く息を吐いた。
「お前はもう人間じゃない。身体能力も回復力も、人間だった頃とは比べものにならない。それで、自分なら何とかできると思ったんだろう」
図星だった。
あの瞬間、確かにそう思った。
自分なら間に合う。
自分は純血だから。
あの男より速く動けるかもしれない。
結果は、まるで違った。
「力があることと、それを使えることは別だ。昨日それを身をもって知ったはずだ」
「……うん」
「なら忘れるな」
「分かった」
アルベルトの声が少しだけ柔らかくなる。
「腕が戻ってよかった」
ルシアは顔を上げた。
「アル……」
「次は持って帰ってくるなよ」
「持って帰ったのエリーゼだけどね」
「そういう意味じゃない!」
怒鳴られた。
ゼノンが横で笑っている。
「笑わないでよ、お兄様!」
「ごめん。でもルシアらしいなと思って」
「昨日あんなに心配してたくせに!」
「今は腕があるからね」
そう言って、ゼノンはルシアの左手を取った。
指先を軽く握り、やはり動きに問題がないか確かめている。
それを見ていたクレイドが、突然口を開いた。
「アル」
「ん?」
「俺も夜間部に移る」
居間が静かになった。
ルシアが瞬きをする。
「……え?」
聞き間違えたかと思った。
「クレイド、今なんて言った?」
「聞こえただろ」
「夜間部に移るって言った?」
「ああ」
「なんで!?」
声が大きくなる。
クレイドが眉を寄せた。
「うるせぇな」
「だって前に聞いたとき、嫌だって言ってたじゃん! ヴァンパイアばっかりのところなんか行きたくないって!」
「気が変わった」
「一日で!?」
「悪ぃかよ」
怪しい。
ものすごく怪しい。
ルシアはじっとクレイドを見つめた。
クレイドも睨み返してくる。
「……何だよ」
「もしかして」
「何だ」
「私が昨日――」
「違ぇ」
まだ何も言っていない。
「まだ最後まで言ってないよ!」
「言わなくても分かる」
「じゃあやっぱりそうなんじゃん!」
「違うっつってんだろ!」
アルベルトが口元を押さえた。
明らかに笑いを堪えている。
クレイドが睨む。
「何笑ってんだ、アル」
「いや。何でもない」
「笑ってんだろ」
「気のせいだ」
絶対に気のせいではない。
ゼノンまで楽しそうにクレイドを見ていた。
「ルシアが心配なんだね」
「違ぇよ」
「昨日腕なくして帰ってきたから?」
「違う」
「じゃあ、どうして急に?」
クレイドの眉間に皺が寄る。
「……こいつ、放っとくと何するか分かんねぇだろ」
「それを心配って言うんじゃないの?」
「言わねぇ」
ゼノンが笑う。
クレイドの額に青筋が浮かんだ。
「てめぇ、さっきから何笑ってんだ」
「いや、素直じゃないなと思って」
「殺すぞ」
「ほら、怖い」
「お兄様、煽らないで」
ルシアが止めると、クレイドはますます機嫌を悪くした。
「とにかく移る。手続きしろ」
今度はアルベルトが真面目な表情になる。
「本気か?」
「ああ」
「夜間部は授業だけじゃないぞ。実働にも関わる。お前が嫌っているヴァンパイア社会そのものに、今まで以上に深く関わることになる」
「分かってる」
「周囲はほぼ全員ヴァンパイアだ。昼間部から移ってきたエリーゼもいるが、彼女は例外だ」
「それも分かってる」
「お前の過去を知らない奴も多い。人間から変わったお前を快く思わない者もいるかもしれない」
クレイドは鼻で笑った。
「知るかよ」
迷いはなかった。
「俺は馴れ合いに行くんじゃねぇ」
アルベルトはしばらくクレイドを見つめた。
やがて静かに頷く。
「分かった。手続きはしておく」
「今日から行く」
「今日!?」
またルシアの声が響く。
「何だよ」
「制服ないじゃん!」
「服なんか何でもいいだろ」
「よくないよ! 夜間部は黒い制服だよ!」
「黒なら持ってる」
「そういう意味じゃないと思う」
アルベルトが額を押さえた。
「正式な編入は早くても明日だ。制服も手配する」
「今日行く」
「クレイド」
「見学でいい」
妙に頑固だ。
その理由が分かっているだけに、ルシアは少し嬉しくなってしまう。
「クレイド」
「何だよ」
「ありがとう」
「は?」
「私が心配だから来てくれるんでしょ?」
「違ぇ」
「でも――」
「勘違いすんな」
クレイドは立ち上がった。
「昨日みてぇに勝手に突っ込んで腕なくす馬鹿が近くにいたら、迷惑なんだよ」
「……やっぱり心配じゃん」
「次言ったら殴る」
「はい」
それ以上言うのはやめた。
けれど顔が笑ってしまう。
「笑うな」
「笑ってないよ」
「笑ってんだろ」
「笑ってないって」
「口元見りゃ分かんだよ」
「クレイドも私のことよく見てるね」
「……うるせぇ」
今度こそ黙った。
その日の夜。
ルシアはゼノンと一緒に学園へ向かった。
クレイドは正式な手続きが済んでいないため、アルベルトと後から来るらしい。
昨日までなら、夜道を歩くこと自体が楽しかった。
身体が軽い。
暗闇がよく見える。
遠くの音まで聞こえる。
けれど今日は少し違った。
学園へ近づくにつれて、昨日の光景が頭を過ぎる。
飛んでくる拳。
衝撃。
落ちた腕。
ルシアは無意識に左手を握った。
「怖い?」
隣から声がした。
顔を上げると、ゼノンがこちらを見ていた。
「……ちょっとだけ」
「今日は外には出ないよ」
「うん」
「ラビの授業も教室でやる」
「ラビ先輩、怒られてる?」
「怒ったというより、話はしたよ」
「私のせいなのに」
「ルシアだけのせいじゃない」
ゼノンは歩調を緩めた。
「ルシアは指示を無視した。それはルシアの責任。でも、経験のないルシアを現場へ連れていったのはラビの判断だし、ラビに特別授業を任せたのは僕だからね」
「お兄様まで?」
「僕は夜間部総代だよ」
ゼノンは穏やかに言った。
「何かあったときに、自分は知らなかったで済ませるための立場じゃない」
ルシアは少し黙った。
昨日、眠るゼノンを見ながら思ったことを思い出す。
守られているだけではいたくない。
「私、ちゃんと強くなる」
「うん」
「でも今度は、ちゃんと言うこと聞く」
「それは絶対にそうして」
即答だった。
「そこはもう少し優しく言ってよ」
「昨日腕なくした子に優しく『できたら聞いてね』なんて言わないよ」
「……はい」
学園へ到着すると、ルシアは真っ先にラビを探した。
特別教室へ向かう途中、廊下の向こうから桃色の髪が現れる。
「ラビ先輩!」
「お、ルシアちゃん」
いつも通りの明るい声だった。
けれどラビの目はすぐにルシアの左腕へ向かった。
「腕!」
「戻りました!」
ルシアは左腕を上げ、五本の指を動かしてみせた。
「指も全部!」
「よかったぁ……」
ラビが大きく息を吐いた。
「昨日の夜も気になってたんだよ。純血なら戻るとは分かってたけど、あんなに再生遅いとは思ってなかったからさ」
「封印が解けたばかりだからだって、お兄様が」
「うん。そこも僕の読みが甘かった」
ラビは軽く笑ったが、その言葉にはいつもの冗談っぽさがなかった。
ルシアは姿勢を正す。
「ラビ先輩」
「ん?」
「ごめんなさい」
頭を下げた。
「一人で突っ込まないでって、ちゃんと言われたのに。私、聞かなかった」
ラビはすぐには答えなかった。
「止まれって言われたのも聞こえてました。でも、あの人が襲われそうなの見たら、助けなきゃって思って……自分なら間に合うって勝手に思いました」
「うん」
「本当にごめんなさい」
「顔上げて」
ルシアが顔を上げる。
ラビは怒っていなかった。
かといって、いつものように笑って流そうともしていない。
「ルシアちゃんが悪くないとは言わないよ」
「……はい」
「僕、何回も言ったからね。一人で行かない。止まれって言われたら止まる。近づかない」
「はい……」
「そこはちゃんと反省して」
「します」
「でも」
ラビが自分の首筋を軽く掻いた。
昨日ルシアが噛みつきかけた場所だ。
傷はもう残っていない。
「僕にも責任あるから」
「でも私が勝手に――」
「それを止めるところまで含めて、僕の仕事だったんだよ」
ラビの声は穏やかだった。
「僕はもう四十四年生きてる。現場だって昨日が初めてじゃないし、暴走したヴァンパイアを相手にしたことも何度もある」
普段の軽さのせいで忘れそうになるが、ラビはルシアより遥かに長くヴァンパイアとして生きている。
「だからこそ、あれは僕の判断ミス」
「判断ミス?」
「ルシアちゃんが純血だからって、ちょっと期待値上げすぎた」
ラビは苦笑する。
「目で追えてる。相手の動きも見えてる。速度も出る。力もある。だったら僕が横についてれば、現場を見せるくらいなら大丈夫だろうって思った」
「……私も、自分ならできると思ってました」
「でしょ?」
「はい」
「二人揃って間違えたね」
ラビが笑う。
「力があるのと、その力を使えるのは別だった」
その言葉は昨日、ゼノンからも聞いた。
ルシアは左手を見る。
今は綺麗に戻っている。
けれど、あのとき何もできなかった事実は消えない。
「だから次は、そこから練習しよう」
「……次も教えてくれるんですか?」
「え?」
ラビがきょとんとする。
「当たり前じゃん」
「でも私、言うこと聞かなかったし……」
「それで放り出したら先生失格でしょ」
ラビはいつもの調子に戻って笑った。
「ただし、しばらく実戦は禁止」
「えー」
「えーじゃない!」
「やっぱり?」
「やっぱりも何もないよ! 腕一本なくした翌日にまた外連れてったら、今度こそゼノンさんに僕が殺されるからね!?」
「お兄様そんなことしないよ」
「昨日の帰り道で僕の首噛みそうになったこと、エリーゼさんに全部報告された僕の前でもう一回言える?」
「……しないと思う」
「自信なくなってるじゃん!」
ルシアは笑った。
ようやく昨日までのラビに戻った気がした。
「でも、ラビ先輩」
「ん?」
「昨日は背負って帰ってくれて、ありがとうございました」
「そこはどういたしまして」
「あと、噛みそうになってごめんなさい」
「ほんとだよ」
ラビは自分の首を押さえた。
「ルシアちゃん、途中から完全に僕の首しか見てなかったからね」
「だって血が……」
「『ラビ先輩の血も、たぶんおいしいよ』じゃないんだよ。怖かったんだから」
「飲んでないじゃん」
「僕が必死に止めたからね!」
「一口くらいならよかった?」
「駄目です」
背後から声がした。
二人が振り返る。
エリーゼが立っていた。
「ルシアさん。昨日お教えしたばかりですよね?」
「……はい」
「血が足りないときほど、自制が必要です」
「はい……」
「ラビさんも煽らないでください」
「僕!?」
「『ゼノン先輩の血なら好きなだけ飲める』などと話していましたよね」
「だってあの場でルシアちゃん止めるには一番効いたんだもん!」
「結果として正しかったのが腹立たしいですね」
「エリーゼさん、僕にだけ厳しくない?」
三人で話していると、廊下の奥からゼノンが歩いてきた。
「何の話?」
ラビの顔が引きつった。
「何でもないです」
「ラビ先輩の血がおいしいかどうかの話」
「ルシアちゃん!?」
ゼノンが足を止めた。
にこりと笑う。
「へえ」
「違いますゼノンさん。飲まれてません」
「知ってるよ。昨日聞いたから」
「その笑顔怖いんですけど」
「気のせいだよ」
「絶対違う」
ルシアが笑っていると、少し離れたところから低い声が飛んできた。
「何笑ってんだ、馬鹿」
「え?」
振り返る。
廊下の向こうにアルベルトがいた。
その隣。
黒いシャツに黒い上着を着たクレイドが、酷く不機嫌そうな顔で立っている。
制服ではない。
けれど白い昼間部の制服でもなかった。
「クレイド!」
「でけぇ声出すな」
ルシアは駆け寄る。
「本当に来たの!?」
「来るっつっただろ」
「でも今日は見学だけじゃ――」
「見学だよ」
アルベルトが答えた。
「正式な編入は明日からだ。制服もそれまでに用意する」
クレイドは廊下の奥を見た。
そこを歩く生徒たちは、ほとんどがヴァンパイアだ。
クレイドの表情が僅かに険しくなる。
すれ違った生徒の何人かも、彼に気づいて振り返った。
知らない顔。
それも、昼間部から移ってきたエリーゼを除けば、ヴァンパイアでありながら昼間部に通っていた者はいない。
「……見んな」
クレイドが低く吐き捨てる。
「クレイド、初日から喧嘩しないでね」
「まだ初日じゃねぇ」
「じゃあ見学日から喧嘩しないで」
「向こうが何もしなきゃな」
「不安しかない……」
ラビが興味津々で近づいてくる。
「へえ。クレイド君、夜間部来るんだ?」
「……あ?」
クレイドの視線がラビへ向く。
一瞬で空気が変わった。
「あ」
ルシアが気づく。
ラビも気づいた。
「……もしかして僕、怒られてる?」
「当たり前だろ」
クレイドが近づく。
「お前だろ。こいつ連れ出したの」
「はい」
ラビは逃げなかった。
「僕です」
「止められなかったのも?」
「それも僕」
「クレイド」
ルシアが間に入ろうとすると、クレイドが睨む。
「お前は黙ってろ」
「でも私が勝手に――」
「それはさっき聞いた」
「聞いてたの!?」
「声でけぇんだよ、お前ら」
かなり離れていたはずなのに。
そうだった。
ここにいるのは全員ヴァンパイアだ。
小声のつもりでも大抵聞こえている。
クレイドはラビを見る。
「四十四にもなって、十七の新人に腕ふっ飛ばせて帰らせてんじゃねぇよ」
ラビの眉が僅かに上がった。
けれど怒らなかった。
「ごもっともです」
「……」
素直に認められたせいで、クレイドの方が言葉に詰まる。
「僕の判断ミスだった。次は同じことしないよ」
「次?」
「僕、まだルシアちゃんの先生だから」
クレイドの顔がさらに険しくなった。
「……次また腕なくして帰ってきたら、お前の腕も一本もらうからな」
「怖っ」
「クレイド!」
「治るだろ」
「そういう問題じゃない!」
ラビは少しだけクレイドを見たあと、ふっと笑った。
「分かった」
「何がだよ」
「ルシアちゃん心配なんだね」
「殺すぞ」
「僕、何も言ってないことにする」
「今言っただろ!」
いつものラビだった。
険悪になりかけた空気が、少しだけ緩む。
その様子を見ていたゼノンが、クレイドへ声をかけた。
「クレイド」
「何だよ」
「夜間部に来るなら、一つだけ約束して」
「は?」
「任務中は指示に従うこと」
クレイドの目が細くなる。
「誰の」
「基本的には現場責任者。僕がいるなら僕」
「私生活でてめぇの言うこと聞く気はねぇぞ」
「僕もそこまでは求めてないよ」
「本当かよ」
「ルシアに近づくな、とかは言うかもしれないけど」
「やっぱ求めてんじゃねぇか」
「でも任務中は別」
ゼノンの声が少しだけ変わった。
穏やかではある。
けれど、先ほどまでの冗談とは違う。
「勝手に動かない。感情で命令を無視しない。仲間が気に入らなくても、必要なら協力する」
クレイドは黙って聞いていた。
「できる?」
「……任務ならな」
「ならいいよ」
ゼノンはあっさり頷いた。
「夜間部へようこそ、クレイド」
「まだ見学だっつってんだろ」
「明日には同じでしょ」
「勝手に決めんな」
「自分で編入希望出したんじゃん」
ルシアが言うと、クレイドが舌打ちした。
そんなやり取りの少し離れた場所で、一人の男が立ち止まっていた。
灰色の髪。
ルイス・ベルフォート。
彼は騒がしい一団を一瞥したあと、手に持っていた書類へ視線を落とした。
昨日の実働報告書。
そこには、出動した者の名と経緯、負傷者、現場での判断が記されている。
ラビ・フローレンス。
ルシア・ヴァルディエ。
エリーゼ・ローレンツ。
そして――夜間部総代、ゼノン・ヴァルディエの管理下にある特別課程。
ルイスは静かに書類を閉じた。
昨日から考えていたことに、迷いはもうなかった。
失策の責任を一人の教師へ押しつけるだけなら、組織として三流だ。
新人を誰に預けるのか。
どこまでの実地経験を許すのか。
事故が起きたとき、誰が責任を負うのか。
それらを決めるために、総代という席がある。
元王族だからといって、失策まで許されるわけではない。
そして今のヴァンパイア社会を実際に支えているのは、ベルフォート家だ。
だからといって、その名だけで席を寄越せと言うつもりもない。
そんなものに価値はない。
「……ゼノン」
小さく名を呼ぶ。
廊下の向こうでは、ゼノンがルシアに何か言われて笑っていた。
ルイスの目が静かに細くなる。
自分の方が上手くやれる。
それを証明すればいいだけだ。
夜間部の生徒をまとめる力も。
実働を指揮する判断力も。
純血としての実力も。
すべて。
「話をしようか」
もちろん、その声はまだゼノンには届いていない。
ルイスは報告書を片手に歩き出す。
話すべきことは決まっていた。
――夜間部総代の座について。
クレイドが自ら足を踏み入れた夜間部で、新たな火種が同時に動き始めていた。




