指先がもどるまで
その日の夜。
ルシアはベッドの上で、再生途中の左手をじっと見つめていた。
肩から腕、肘、手首まではすでに元通りになっている。手のひらもほとんど完成していた。
けれど、指先だけがまだ戻りきっていなかった。
薄い皮膚の下で少しずつ形が作られているのが分かる。痛みはもうほとんどないものの、むずむずするような妙な感覚が残っていた。
「……遅い」
右手で左手を持ち上げる。
純血なら腕くらい再生できる。
そう聞いていたから、もっと簡単に元へ戻るのだと思っていた。
実際には違った。
封印を解かれて間もない身体にとって、失った腕一本を作り直すことはかなりの負担らしい。
それに、目を閉じるとまだ思い出す。
こちらへ向かってくる拳。
避けなければならないと分かっていたのに動かなかった身体。
地面へ落ちた自分の腕。
「……」
ルシアは布団を引き上げた。
眠ろう。
そう思って目を閉じたところで、扉が小さく叩かれた。
「ルシア?」
聞き慣れた声だった。
「お兄様?」
「まだ起きてる?」
「うん」
「入っていい?」
「いいよ」
扉が開き、ゼノンが入ってくる。
ベッドまで来たゼノンは、ルシアの顔を見るより先に布団から出ていた左手へ視線を落とした。
「まだ終わってないね」
「うん。指だけ」
ゼノンがベッドの端へ腰掛け、左手を取る。
傷口らしいものはもうない。
それでも指先は完全には形成されておらず、ゼノンはしばらく無言でそこを見つめていた。
「痛い?」
「もうほとんど痛くないよ。変な感じはするけど」
「血が足りないね」
「えー……」
「何、その反応」
「だって今日いっぱい飲んだもん」
「いっぱい飲んだから、ここまで戻ったんだよ」
ゼノンが指先を示す。
「最後まで戻ってないなら、まだ必要ってこと」
「でも、もう血液パックでいいよ」
「またそれ?」
「……うん」
先ほどまでより弱い返事だった。
ゼノンがルシアの顔を見る。
「どうしてそんなに僕の血を飲みたくないの?」
「飲みたくないわけじゃないよ」
「じゃあ、どうして?」
ルシアはすぐには答えなかった。
再生途中の左手を見つめてから、ゼノンへ視線を戻す。
「……これ以上血をもらうのは、お兄様が心配なの……」
ゼノンが僅かに目を見開いた。
「私、今日すごくいっぱい飲んだでしょ?」
「うん」
「帰ってきてからずっと飲ませてもらってたし、腕一本作り直すくらい飲んだんだよ? 私はお兄様の血が好きだし、本当は血液パックよりお兄様の血がいいけど……」
そこで言葉を切る。
「そのせいでお兄様が具合悪くなったら嫌だもん」
ゼノンは何も言わなかった。
「だから、残りは血液パックでいいの。私の指先が戻るのに少し時間がかかるくらいなら、その方がいい」
「……ルシア」
「なに?」
ゼノンの表情が、ふっと柔らかくなった。
「僕のこと心配してたんだ」
「するよ。当たり前でしょ?」
「そっか」
なぜか嬉しそうだ。
「何で笑うの?」
「嬉しかったから」
「心配してるのに?」
「ルシアが僕のことを心配して、自分が欲しいものを我慢してたって分かったから」
ゼノンは再生途中の左手を両手で包んだ。
「でも大丈夫。本当に何ともないよ」
「でも――」
「僕は純血だよ。それに、ルシアが今日飲んだくらいで倒れるほど弱くない」
「本当?」
「本当」
「無理してない?」
「してない」
「私に飲ませたいから嘘ついてない?」
「それは少し疑われても仕方ないけど」
「やっぱり!」
「でも今回は本当だよ」
ゼノンが笑う。
「もし僕の身体に影響が出る量になったら、ちゃんと止める。だからルシアが僕の分まで心配して我慢しなくていいよ」
それでもルシアは迷っていた。
するとゼノンは自分の首元へ手をかけた。
「おいで」
「……首から?」
「うん」
「手首じゃなくて?」
「こっちの方が好きでしょ?」
「好きっていうか……」
否定しようとして、やめた。
好きだ。
ゼノンの血はどこから飲んでも同じはずなのに、首から直接飲むと、不思議なくらい安心する。
血の温度も、匂いも、すぐそばで聞こえる心音も。
全部がゼノンだと分かるから。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫」
「少しでも変だったら言ってね」
「分かった」
「絶対だよ?」
「うん」
それでもルシアが動かないので、ゼノンは少し首を傾げた。
「まだ心配?」
「……ちょっと」
ゼノンはそんなルシアを見つめたあと、優しく頭を撫でた。
「じゃあ約束する。僕が少しでも辛いと思ったら、そこで終わり」
「ほんと?」
「ほんと」
ようやくルシアは身体を起こした。
ゼノンの肩へ右手を置き、首筋へ顔を近づける。
すぐに分かる。
大好きな血の匂い。
「……飲むよ?」
「うん」
「痛かったら言ってね」
「たぶん言わないと思う」
「なんで?」
ゼノンが少し笑った。
「ルシアに吸われるの、気持ちいいから」
ルシアがぴたりと止まる。
「……気持ちいいの?」
「うん」
「牙刺さってるのに?」
「痛みはあるよ。でも嫌じゃない。それより、ルシアが僕の血を飲んでるって分かるのが心地いい」
ゼノンは首筋を見せたまま、ルシアの髪を撫でた。
「血を飲んで、ルシアの身体が満たされていくのも分かるしね」
「変なの」
「そうかな」
「血を吸われるの嫌じゃない?」
「誰に吸われるかによるよ。逆に僕に血吸われるの嫌?」
「嫌じゃない」
ゼノンは迷いなく答えた。
「僕はルシアになら何度でも吸われたい」
「何度でも?」
「うん。だから遠慮しないで。今日みたいに必要なときだけじゃなくても、ルシアが僕の血を欲しいと思ったら何度でも吸っていいよ」
「……そんなこと言ったら、本当に飲むよ?」
「飲んで」
即答だった。
ルシアは思わず笑う。
「エリーゼに怒られるよ」
「そのときは僕が怒られる」
「昨日せっかく血液パックの飲み方教えてもらったのに」
「血液パックも飲めればいいでしょ。僕がいるときは僕ので」
「絶対そういう授業じゃなかったよ」
「僕はこっちの方がいい」
本当に頑固だ。
けれど、ゼノンの顔色はいつもと変わらない。
無理をしているようにも見えなかった。
ルシアはようやく決心して、首筋へ牙を立てた。
皮膚を破る。
温かな血が口の中へ流れ込んできた。
「……んぅ」
やっぱり、おいしい。
今日何度も飲んだはずなのに、身体がまだ求めていたことが分かる。
一口飲むたびに、左手のむずむずした感覚が強くなる。
身体が受け取った血を使って、残っている指先を作ろうとしているのだ。
ゼノンはルシアの背中へ腕を回した。
「ゆっくりでいいよ」
その声がすぐ耳元から聞こえる。
ルシアは血を飲みながら、ときどきゼノンの様子を窺った。
苦しそうではない。
心音も乱れていない。
それが分かって、ようやく少し安心した。
しばらく飲んだところで、ルシアは自分から牙を抜いた。
「……終わり」
「もういいの?」
「うん」
「まだ飲んでもいいよ」
「駄目。今度は私が決めるの」
「そっか」
ゼノンは少し残念そうだった。
「何でお兄様が残念そうなの?」
「もう少し吸ってほしかったから」
「そんなに?」
「言ったでしょ。ルシアに吸われるの、好きなんだよ」
「……変なお兄様」
「ルシア限定だからいいでしょ」
「限定ならいいのかな……」
よく分からない。
ゼノンが左手を持ち上げる。
「見て」
「え?」
最後まで残っていた指先が、ゆっくり形を取り戻していた。
爪まで元通りになる。
ルシアは恐る恐る五本の指を曲げた。
握る。
開く。
もう一度握る。
全部動く。
「戻った!」
嬉しくなって左手をゼノンの前へ突き出した。
「ほら!」
「よかった」
ゼノンもようやく安心したように笑った。
ルシアは何度も指を動かしたあと、ほっと息を吐く。
これで本当に元通りだ。
けれど安心した途端、急に身体が重くなった。
「……眠い」
「今日は身体がずっと再生してたからね」
ゼノンが布団を直してくれる。
ルシアは横になったものの、ゼノンが立ち上がろうとすると、反射的に服の裾を掴んだ。
「お兄様」
「なに?」
「……今日、一緒に寝てくれる?」
ゼノンが動きを止める。
「一人で寝たら、また思い出しそう」
それだけで十分だった。
「いいよ」
ゼノンは迷わず答えた。
ルシアの隣へ横になる。
一人なら余裕のあるベッドも、二人になると距離が近い。
ルシアが身体を向けると、ゼノンが自然に腕を広げた。
「おいで」
そのまま胸元へ入る。
背中へ腕が回り、優しく抱きしめられた。
「左手、痛くない?」
「もう全部戻ったよ」
「分かってるけど」
「過保護」
「今日くらいいいでしょ」
「いつも過保護じゃん」
「じゃあ、いつも通りだね」
言い返せなかった。
ルシアはゼノンの胸へ頬をつける。
すぐそばから心音が聞こえた。
規則正しい音。
さっきまで飲んでいた血が、この身体の中を流れている。
そう思うと、ルシアはふと心配になって顔を上げた。
「……本当に平気?」
「まだ心配してるの?」
「だって、お兄様の血だもん」
「平気だよ」
ゼノンは笑って、ルシアの頭を胸元へ戻した。
「それより僕は、ルシアが自分の血が足りないのに、僕を心配して我慢する方が嫌だな」
「でも、お兄様も大事だもん」
その言葉に、ゼノンの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐにまた、ゆっくりと髪を撫で始める。
「……うん」
声が少しだけ柔らかくなる。
「ありがとう」
ルシアはゼノンの服を掴んだ。
「私、もっと強くなる」
「うん」
「今度はちゃんと避ける」
「その前に、一人で突っ込まない」
「……はい」
「ラビの言うことも聞く」
「はい」
「無茶しない」
「それは……」
「ルシア?」
「はい」
ゼノンが小さく笑った。
「急がなくていいよ。ルシアはまだ始まったばかりなんだから」
「でも早くみんなみたいになりたい」
「なれるよ」
「ほんと?」
「ルシアは純血だから、じゃないよ」
ルシアが顔を上げる。
「ちゃんと覚えようとしてるから」
ゼノンはそう言って、再生した左手を握った。
「今日できなかったことを覚えてるなら、次は今日より上手くできる」
「……うん」
再び胸元へ顔を戻す。
しばらくすると、ゼノンの手が一定の速度で背中を撫で始めた。
それが心地よくて、瞼が重くなっていく。
「お兄様」
「なに?」
「朝までいる?」
「いるよ」
「起きても?」
「いる」
「絶対?」
「絶対」
ルシアは安心して目を閉じた。
腕を失った瞬間の光景が、一瞬だけ頭を過ぎる。
けれど今度は、その記憶に引きずられなかった。
左手を動かせば、ちゃんとゼノンの服を掴める。
全部戻っている。
そしてすぐそばには、ゼノンがいる。
「……おやすみ、お兄様」
「おやすみ、ルシア」
ゼノンの腕が少しだけ強くなる。
六歳までなら当たり前だった距離。
十年間、失われていた距離。
ルシアはその腕の中で、ほどなく眠りへ落ちていった。
どれくらい眠ったのだろう。
ふと、ルシアは目を覚ました。
部屋はまだ暗い。
身体を動かそうとして、自分がまだゼノンの腕の中にいることに気づいた。
昨夜とほとんど同じ体勢だった。背中にはゼノンの腕が回っていて、ルシアが少し身体を動かしても離れる気配がない。
顔を上げると、ゼノンは眠っていた。
「……お兄様」
小さく呼んでみても返事はない。
いつもなら、ルシアが近づいただけでもすぐ気づきそうなのに珍しい。昨日かなり血をくれたから、いつもより深く眠っているのだろうか。
そう考えた途端、また少し心配になった。
けれど耳を澄ませれば、心臓は規則正しく動いている。呼吸も穏やかで、苦しそうな様子はない。
「よかった……」
安心すると、今度はじっと顔を見てしまった。
起きているゼノンをこんなに近くから見つめ続けたら、きっとすぐに「どうしたの?」と笑われる。でも今は目を閉じている。
長い睫毛。普段は赤い瞳に隠れてあまり意識しない目元も、眠っているとよく見える。
いつも浮かべている穏やかな笑みもない。ルシアのことになると時々見せる、何を考えているのか分からない怖いくらい静かな表情もない。
ただ眠っているだけだった。
「……綺麗な顔」
思わず呟く。
六歳までの記憶を辿ってみる。
自分よりずっと大きくて、何でもできて、どこへ行っても後ろをついて回っていた兄。あの頃のルシアにとって、ゼノンは今よりずっと大人に見えていた。
けれど、こうして眠っている顔を見ると不思議だった。
普段より少し幼く見える。
六十年生きているヴァンパイアで、夜間部の誰もが一目置く純血で、かつての王家の息子。
それなのに今は、ただ自分の隣で眠っている兄だった。
「……本当に、お兄様なんだ」
十年間。
何も知らなかった。
毎日のように会っていたのに、兄だと知らなかった。自分を見つめる赤い瞳の意味も、なぜあれほど過保護なのかも、どうして血を飲まないのかも。
全部知らなかった。
ルシアはそっと手を伸ばした。
頬へ触れようとして、途中で止まる。
起こしてしまうかもしれない。
けれど少し迷ったあと、指先で黒い前髪に触れた。さらりとした髪が指の間を抜ける。
昨日なくなった左手で、ちゃんと触れられる。
それがなんだか嬉しくて、ルシアは少しだけ笑った。
「……いっぱい血くれて、ありがとう」
眠っているから聞こえていないだろう。だから言えた。
「心配してくれて、ありがとう」
ゼノンの髪をそっと撫でる。
いつもは自分がされていることを、そのまま返すように。
あの日、父と母を失ったあと。
ゼノンはまだ幼かったルシアを守るため、自分の手でその記憶も、血も、ヴァンパイアとしての性質も封じた。
人間として生きられるように。
何も知らず、穏やかに暮らせるように。
そしてアルベルトへ託したあとも、ゼノンはルシアがどこにいるのかを知っていた。
離れて消えたわけではない。
むしろ、ずっとそばにいた。
兄だと名乗れないまま。
本当の両親のことも、自分たちの血のことも言えないまま。
ルシアが何も知らずに笑うすぐ近くで、十年間ずっと見守っていた。
「……ずっと、そばにいてくれたんだもんね」
兄なのに、兄だと言えなかった。
婚約者なのに、そのことも言えなかった。
自分だけがすべてを覚えているのに、ルシアからはただ昔から知っているヴァンパイアとして見られていた。
それでもゼノンは、ルシアが人間として生きることを選べるように、無理に封印を解こうとはしなかった。
ルシアは眠るゼノンを見つめた。
胸の奥が少しだけ苦しくなる。
「……寂しかったよね」
そのとき、背中に回っていた腕が動いた。
「え?」
ぐっと引き寄せられる。
気づけば、先ほどよりさらにゼノンの胸元へ近づいていた。
「お、お兄様?」
返事はない。
目も閉じたままだ。
寝ぼけているらしい。
「……もう」
ルシアは小さく笑った。
離れるつもりはないので、そのまま胸元へ収まる。
するとゼノンの腕が満足したように少し緩んだ。
「寝てても過保護」
聞こえていないのをいいことに呟く。
それでも、もう一度顔を上げた。
眠るゼノンの顔を見る。
昨日、自分へ何度でも血を吸っていいと言った人。
自分が血を失えば迷わず腕を差し出し、それでも足りなければ首まで差し出してしまう人。
「……次は、私がお兄様を守れるくらい強くなろ」
今はまだ無理だ。
目で追えても身体がついていかない。たった一撃すら避けられず、腕を失った。
それでも、いつまでも守られているだけではいたくなかった。
ルシアはもう一度ゼノンの髪を撫でる。
「だから、もう少し待っててね」
もちろん返事はなかった。
ルシアは満足して、もう一度ゼノンの胸元へ頬を寄せた。
聞こえる心音は変わらず穏やかだった。その音を聞いているうちに、再び眠気が戻ってくる。
ルシアが目を閉じてしばらくした頃。
ゼノンの赤い瞳が、ほんの少しだけ開いた。
実は途中から起きていた。
髪を撫でられたときには、もう意識は戻っていた。
けれどルシアがあまりにも珍しいことをするから、起きていると言えなかった。
――いっぱい血くれて、ありがとう。
――心配してくれて、ありがとう。
――ずっと、そばにいてくれたんだもんね。
――次は、私がお兄様を守れるくらい強くなろ。
全部聞いていた。
ゼノンは腕の中で再び眠り始めたルシアを見下ろした。
それから、起こさないように小さく笑う。
「……僕を守る必要なんてないのに」
小さな声だった。
けれど、その言葉とは裏腹に、ルシアが自分を守りたいと思ってくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。
ゼノンは再生したばかりの左手をそっと取り、自分の胸元へ包み込む。
「でも、ありがとう」
今度はルシアが聞いていない。
お互い、眠っていると思っているときにしか言えない言葉を残して。
ゼノンはもう一度ルシアを抱き寄せ、静かに目を閉じた。
その夜、二人は朝まで離れることなく眠った。




