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ラビ先生の特別授業

夜間部へ編入して三日目。


昨日までと同じように夕方に目を覚ましたルシアは、身支度を済ませるとゼノンと一緒に学園へ向かった。


今日の特別授業を担当するのはラビだ。


昨日の帰り際に「明日は実践的にいこう」と楽しそうに言っていたのを思い出しながら、ルシアは特別教室の扉を開いた。


「おはようございまーす!」


「お、来た来た。おはよ、ルシアちゃん」


教室にはすでにラビがいた。


いつもの制服姿ではあるものの、腰には銃がある。机の上にも教科書ではなく、街の地図や数枚の資料が広げられていた。


「今日は何するんですか?」


「今日はね、危険なヴァンパイアについて」


ラビが一枚の資料を持ち上げる。


「ゼノンさんからも少し習ったでしょ? ヴァンパイアだからって、みんな仲良く平和に暮らしてるわけじゃない。人間を襲う奴もいれば、血に飢えて理性をなくす奴もいる。異能を使って犯罪する奴もいる」


「うん」


「そういう奴が出たとき、警備隊だけじゃ手に負えないことがあるんだよね。だから夜間部にも要請が来る」


「夜間部に?」


「そ。ここって学校だけじゃないから」


ラビは地図の上を指で叩いた。


「若いヴァンパイアを育てる場所でもあるし、研究機関でもある。それに、危険なヴァンパイアが出たときは実働部隊として動くこともある。もちろん全員が任務に出られるわけじゃないよ。実力も経験も必要だからね」


「ラビ先輩も行くんですか?」


「行く行く。僕、こう見えて外仕事は得意なんだから」


「こう見えてって自分で言うんだ」


「今ちょっと疑ったでしょ?」


「疑ってないです」


「目が疑ってた!」


ルシアが笑うと、ラビも笑いながら椅子へ腰を下ろした。


「僕はクロードみたいに正面からドーンって戦うより、見つからないように近づいたり、相手を追跡する方が得意。透明になれるからね」


「あ、見たい!」


「いいよ」


言った直後、目の前からラビが消えた。


「わっ!」


姿だけではない。そこにいると分かっていても、目ではまったく捉えられない。


「どこ?」


「ここ」


真横から声がして、ルシアが勢いよく振り向く。


何もいない。


次の瞬間、肩を軽く叩かれた。


「こっち」


「もう!」


ラビが姿を現して笑った。


「こういうのを使って偵察したり、相手の背後に回ったりするわけ」


「便利……」


「便利だよ。だから僕、戦わなくても結構仕事できるの」


「じゃあ今日は透明になる練習?」


「ルシアちゃんはなれないでしょ」


「あ、そっか」


「でも、透明になれたら覗きし放題ですね!」


ルシアが何気なく言うと、ラビは一瞬だけ黙った。


次の瞬間、口元をにやりと歪める。


「おっ、ルシアちゃん。なかなか悪いこと考えるねえ」


「え?」


「透明になったら、誰にも見つからずにどこへでも行ける。誰にも気づかれずに、いろんな場所を覗ける。アハハ、確かに覗きし放題だ!」


「ラビ先輩?」


「いやあ、透明って便利だなあ。授業中に先生の後ろへ立っても気づかれないし、職員室に忍び込んでもばれないし、誰かが秘密の話をしてるところへこっそり近づくこともできる」


ラビは楽しそうに指を折っていく。


「それに、誰もいないと思って油断してる人の背後に立って、耳元で『こんにちは』って囁くのもいいよね。絶対びっくりする。アハハ!」


「それ、覗きというより悪戯じゃないですか?」


「まあまあ、細かいことは気にしない」


「ラビ先輩、覗いたことあるんですか?」


「ないよ!」


今度は即答だった。


「……」


「いや、ないない。今のはあくまで異能の悪用例を分かりやすく説明しただけだからね?」


「でも、すごく楽しそうでした」


「そりゃあ、想像するだけなら楽しいでしょ。透明になって、誰にも気づかれずにあちこち入り込んで、みんなを驚かせて……アハハ、考えるだけなら最高だよ」


「やっぱり覗きし放題なんですね」


「だから、そこだけ拾わないで!」


ラビが机を叩く。


けれど、怒っているというより、完全に自分で話を広げすぎたことを誤魔化している顔だった。


「とにかく、異能は使い方を間違えると犯罪にもなる。透明だから何をしてもいい、じゃないからね」


「分かりました」


「本当に?」


「はい。覗くなら、ばれないように――」


「違う!」


教室にラビの声が響いた。


ルシアは楽しそうに笑う。


「冗談です」


「冗談にしては具体的なんだよ……」


ラビは頭を抱えたあと、すぐに顔を上げた。


「でも、透明になってゼノンさんのところへ行って驚かせるのは楽しそうだよね」


「お兄様なら、気配で分かりそう」


「うん。たぶん僕が近づく前に倒される」


「じゃあ、ラビ先輩が透明になっても意味ないですね」


「僕の異能を何だと思ってるの?」


「覗きと悪戯用?」


「違います!」


ラビが机を叩いた。


「今日は追跡の基本。匂いとか音とか、せっかく人間よりいい感覚持ってるんだから、それをどう使うか――」


そこまで話したところで、教室の扉が勢いよく開いた。


「ラビ・フローレンス!」


教師の一人だった。


表情が険しい。


ラビの顔から笑みが消える。


「どうしました?」


「西区でヴァンパイアが暴れている。警備隊から応援要請だ。すでに人間二名が負傷している」


「異能は?」


「不明。だが警備隊員が一人、建物の壁まで吹き飛ばされた」


ラビは立ち上がると、机の地図を畳んだ。


「了解。すぐ行きます」


「ラビ先輩?」


「ごめん、ルシアちゃん。授業ちょっと――」


そこでラビの動きが止まった。


ルシアを見る。


そのまま数秒考え込んだあと、ぱっと顔を明るくした。


「あ、今回はルシアちゃんとオレが行きますわ!」


「え?」


教師まで目を見開いた。


「ルシア様を?」


「僕がついてるし、見るだけならいいでしょ。ちょうど危険なヴァンパイアについて教えてたところだし。実戦が一番!」


「え、私も行っていいの!?」


ルシアの顔が一気に明るくなる。


「ただし」


ラビが人差し指を立てた。


先ほどまでの軽い調子とは少し違う。


「僕の言うことを絶対に聞くこと」


「はい」


「勝手に動かない」


「はい」


「相手に近づかない」


「はい」


「僕が止まれって言ったら止まる」


「はい!」


「それと一番大事なこと」


ラビがルシアの目を見る。


「絶対、一人で突っ込まないでね」


「分かりました!」


「……返事だけは百点なんだけどなあ」


「ちゃんと守ります!」


「じゃ、行こっか」


二人が教室を出ていく。


その少し後。


廊下の角からエリーゼが姿を現した。


「……」


ラビが一緒なら大丈夫だとは思う。


それでも昨日まで血の飲み方を教わっていたルシアが、翌日には実戦現場へ向かう。


どうしても胸騒ぎが消えなかった。


エリーゼはしばらく二人が消えた方向を見つめたあと、静かにその後を追った。


西区へ到着したときには、すでに騒ぎは広がっていた。


割れた窓。倒れた街灯。壁の一部が崩れた建物。


警備隊が人間を避難させている。


その向こうから怒鳴り声と、何かが砕ける音が聞こえた。


ルシアの表情から笑顔が消える。


「……本当に暴れてる」


「うん」


ラビもすでに普段の軽い雰囲気ではなかった。


「ルシアちゃん、僕の後ろ」


言われた通り、ルシアはラビの後ろへ回る。


路地の奥に、一人の男がいた。


ヴァンパイアだ。


衣服は血で汚れ、瞳は赤く濁っている。


足元には警備隊員が倒れていた。


「血の匂い……」


思わず呟く。


「そっちに集中しない」


すぐにラビから注意が飛ぶ。


「昨日エリーゼに習ったでしょ?」


「……うん」


ルシアは意識して呼吸を整えた。


ラビが男の様子を観察する。


「話、通じそう?」


警備隊員が首を振った。


「無理だ。呼びかけにも反応しない」


「そっか」


ラビは腰の銃へ手を伸ばした。


「ルシアちゃん。ここにいて」


「ラビ先輩は?」


「僕はちょっと行ってくる」


「一人で?」


「僕は先生だからいいの」


「ずるい」


「そういう問題じゃないって」


ラビの姿が消えた。


ルシアは言われた場所に残った。


目には見えない。


けれど今の耳なら分かる。


微かな靴音。


空気の動き。


ラビが男の横へ回っている。


次の瞬間、乾いた銃声が響いた。


男の身体が傾く。


警備隊が一斉に動いた。


速い。


けれどルシアの目には見える。


覚醒してから、ヴァンパイアの動きそのものは追えるようになっていた。


ラビが男の背後へ回る。


男が振り向く。


その腕が振り上げられ――地面が砕けた。


「……!」


ものすごい力。


けれどラビはすでにそこにはいない。


また姿を消している。


すごい。


ルシアが目を凝らしていた、そのときだった。


「きゃあっ!」


背後から悲鳴が聞こえた。


振り返る。


避難し損ねたらしい人間の女性が、崩れた店の前で転んでいた。


その脚から血が流れている。


男の顔がそちらを向いた。


「……まずい!」


ラビの声が響く。


男が女性へ向かって走り出した。


「待って!」


ルシアの身体が動いた。


「ルシアちゃん、行くな!」


聞こえた。


はっきり聞こえた。


それでも女性との距離を見た瞬間、間に合わないと思った。


「危ない!」


ルシアは地面を蹴った。


一瞬で女性の前へ出る。


「え……?」


「逃げて!」


女性を背中へ庇う。


そこまではよかった。


男の拳が見えた。


右から来る。


分かる。


避けなければならない。


頭では完全に理解していた。


なのに。


身体が追いつかなかった。


「ルシアちゃん!!」


衝撃。


何が起こったのか、一瞬分からなかった。


身体が吹き飛ばされ、背中から地面へ叩きつけられる。


痛い。


けれど、それより先に感じたのは妙な軽さだった。


左側が。


「……え?」


身体を起こす。


左手がない。


手首から先が、消えていた。


数メートル離れた場所に、私の手らしきものが落ちている。


自分の腕だった。


「……え」


理解した途端、腕から遅れて激痛が走った。


「っ……あああっ!!」


血が噴き出す。


「ルシア!」


聞き慣れた声が響いた。


次の瞬間、男の足元が凍りついた。


氷が一気に這い上がり、両脚を完全に固定する。


「エリーゼ……!?」


「動かないで!」


エリーゼがルシアへ駆け寄る。


その間にラビが姿を現した。


普段の笑顔は完全に消えていた。


「……僕、一人で突っ込むなって言ったよね」


「……ごめ……」


「説教は後」


ラビが男へ向き直る。


男が氷を砕こうともがいた。


その瞬間、銃声が連続して響く。


男の肩と脚が撃ち抜かれた。


体勢が崩れたところへラビが一気に距離を詰め、エリーゼの氷がさらに広がって男の身体を壁へ縫い止めるように固定した。


「警備隊!」


ラビの声で隊員たちが動く。


拘束具がかけられ、男が完全に動けなくなるまで、ラビは一度もルシアを見なかった。


すべてが終わってから、ようやく振り返る。


「……ルシアちゃん」


エリーゼが肩口を強く押さえていた。


「血が止まりません」


「腕は?」


「あります。向こうに」


ラビが拾い上げる。


ルシアは青ざめた顔で自分の腕を見た。


不思議な感覚だった。


自分のものなのに、自分のものではないように見える。


「……これ、戻るんだよね?」


声が震えた。


エリーゼが頷く。


「戻ります。純血ですから」


「じゃあ……大丈夫」


「大丈夫ではありません」


エリーゼの声が強くなる。


「普通の純血なら再生はもっと早いはずです。でも、ルシアは――」


肩を見る。


出血そのものは少しずつ治まり始めている。


けれど腕が再生する気配は、まだほとんどなかった。


「封印が解けたばかりで、身体が完全に安定していないんです」


ラビの表情が固まった。


「……そこまで考えてなかった」


エリーゼは何も言わなかった。


ラビ自身が一番分かっている。


ルシアには巨大な力がある。


純血としての圧力も、感覚も、再生力もある。


だから、見るだけなら大丈夫だと思った。


自分がそばにいれば守れると思った。


けれどルシアには、その力を扱う経験がなかった。


「帰ろう」


ラビが静かに言った。


「ゼノンさんのところへ」


ルシアは立ち上がろうとした。


けれど、足に力が入らない。


大量に血を失ったせいか、視界が揺れる。


「……歩ける?」


ラビが屈み込む。


「うん……たぶん」


一歩踏み出した瞬間、身体が傾いた。


ラビがすぐに支える。


「たぶんは歩けない人の返事だね」


「歩けるもん」


「はいはい。じゃあ、僕の背中に乗って」


「え?」


「おぶって帰る。腕もないし、血も足りない。無理して歩いたら途中で倒れるでしょ」


「でも……」


「遠慮しないの。僕が運ぶから」


ラビはルシアに背を向けてしゃがんだ。


ルシアは少し迷ったあと、残った右腕をラビの肩へ回した。


「重くない?」


「全然。むしろ軽すぎて心配になるくらい」


ラビが立ち上がる。


背中に乗せられた瞬間、ルシアの視界が少し高くなった。


ラビの首が近い。


近すぎる。


血の匂いがした。


戦闘で少し傷ついたのか、首筋に細い切り傷がある。


そこから、ほんの僅かに血が滲んでいた。


「……」


どくん。


ラビの心音が聞こえる。


どくん。


首筋を流れる血の音まで聞こえる気がした。


「ルシアちゃん?」


「……ラビ先輩」


「ん?」


「首……」


「首がどうしたの?」


「血の匂いがする」


ラビの足が一瞬だけ止まった。


「……ああ、これ? ちょっと掠っただけだよ」


「飲んでもいい?」


背中から、ルシアの声が落ちる。


ラビは数秒黙った。


「……えーっと」


ルシアの牙が、首筋へ近づく。


ラビは慌てて少しだけ顔を横へ向けた。


「ルシアちゃんに吸ってもらえるのは光栄なんだけどさ」


「うん」


「ゼノン先輩にあとから殺されちゃうから、今回は遠慮してもらえるかな?」


「お兄様、怒る?」


「怒ると思うよ。たぶん、すごく静かに怒る」


「静かに?」


「うん。僕のことを笑顔で見ながら、二度とルシアちゃんを背負わせてくれなくなるくらいには」


「それは困る」


「でしょ?」


ルシアは首筋から顔を離した。


けれど、血の匂いは消えない。


「でも、血が欲しい」


「うん。分かってる」


ラビの声が少しだけ優しくなる。


「だから急いで帰ろう。ゼノン先輩なら、僕より安全に飲ませてくれるから」


「ラビ先輩の血も、たぶんおいしいよ」


「それは嬉しいんだけどねえ」


ラビは苦笑した。


「僕の命が惜しいんだよ」


「お兄様、そんなに怖い?」


「怖いよ。ルシアちゃんのことになると、ゼノン先輩は本当に容赦ないから」


「……お兄様、過保護」


「それは僕も同意」


ラビは歩き出した。


けれど、ルシアの呼吸は次第に荒くなっていく。


血の匂いが近い。


ラビの首筋が近い。


理性では我慢しようとしているのに、身体が勝手に反応する。


「ルシアちゃん?」


「……ごめんなさい」


「何が?」


「ちょっとだけ……」


ルシアが首を傾ける。


牙がラビの首筋へ触れた。


「わっ、待って待って!」


ラビが慌てて首を反対側へ逃がす。


「本当に駄目! 僕、ゼノン先輩に殺される!」


「でも……」


「あと少しだから! 家に着いたら、ゼノン先輩の血を好きなだけ飲めるから!」


「好きなだけ?」


「たぶん。いや、ゼノン先輩なら絶対そう言うと思う」


「じゃあ、我慢する」


「えらい!」


ラビは背中のルシアを少し持ち上げ直した。


「でも、僕の首を狙うのは家に着くまで禁止ね」


「分かった」


「本当に?」


「はい」


「……その返事、さっきも聞いたなあ」


ラビは苦笑しながら歩き続けた。


その後ろから、エリーゼが静かについてくる。


「ラビ」


「はい?」


「今の会話、ゼノンさんには報告します」


「えっ」


「ルシア様があなたの首へ噛みつこうとしたことも」


「いやいや、未遂だから! 未遂!」


「未遂でも、報告はします」


「エリーゼさん、そこを何とか――」


「ゼノンさんに殺されるのが怖いなら、最初から首を近づけなければよかったのでは?」


「背負ってるんだから近いんですよ!」


「それはそうですね」


エリーゼは淡々と答えた。


「ですが、ルシア様を背負った判断は正しいです。歩かせていたら、途中で倒れていたでしょうから」


「でしょ? 僕はちゃんと先生してるんだから」


「ただし、首を噛まれそうになったことは別問題です」


「そこは忘れてくれないかなあ……」


ルシアはラビの背中で目を閉じた。


血が欲しい。


喉が渇いている。


けれど、ラビの首に噛みつくのは我慢できた。


お兄様の血を飲める。


そう思えば、なんとか耐えられる。


家へ戻ったとき、ゼノンは居間にいた。


扉が開く。


最初に、エリーゼが切断された手を持って入ってくる。


次に、ルシアを背負ったラビ。


ゼノンは二人を見た瞬間、表情を止めた。


「……ルシア?」


左手がない。


制服の袖口は血で真っ赤に染まっている。


そしてルシアは、ラビの背中に乗っていた。


ゼノンがゆっくり立ち上がった。


笑っていない。


怒鳴りもしない。


ただ、それまで穏やかだった部屋の空気が一瞬で変わった。


ラビは慎重にルシアを下ろした。


「ゼノンさん、まずは落ち着いて聞いてほしいんだけど――」


「ラビ」


「はい」


「どうしてルシアを背負ってるの」


「歩けなかったからです」


「そう」


ゼノンの視線が、ラビの首筋へ移る。


そこには、戦闘でできた細い傷があった。


ラビは反射的に首を隠した。


「これは僕の傷です。ルシアちゃんがつけたものじゃないです」


「そう」


「本当に」


「そう」


「ルシアちゃんは噛んでません」


「……そう」


「噛まれそうにはなりましたけど」


エリーゼが淡々と付け加えた。


「エリーゼさん!」


ゼノンの笑顔が、ほんの少しだけ深くなった。


「噛まれそうに?」


「はい。帰路、ルシア様がラビの首へ噛みつこうとしました」


「ルシア」


「ごめんなさい」


ルシアがすぐに謝る。


「血が欲しくて……でも、噛んでないよ」


「うん」


ゼノンはルシアへ近づいた。


「噛んでないなら、今はそれでいい」


ラビがほっと息を吐く。


「よかった……」


「ラビ」


「はい」


「あとで話そうか」


「はい……」


ラビの顔から血の気が引いた。


ゼノンはルシアの残っている右腕を取った。


「痛い?」


「……痛い」


「再生は?」


エリーゼが答える。


「始まってはいると思います。ただ、かなり遅いです。やはり封印が解けて日が浅いせいかと」


ゼノンは傷口を確認する。


「それもある。でも血が足りてない。これだけ失ったうえに、手を作り直そうとしてるんだから」


血。


その言葉だけで喉が焼けるように疼いた。


ルシアは無意識にゼノンの首へ目を向け、慌てて逸らした。


「……血液パック」


「ん?」


「血液パック飲む。いっぱい飲めば治るんでしょ?」


エリーゼが頷く。


「用意します」


そう言って動こうとしたエリーゼを、ゼノンが止めた。


「いらないよ」


「え?」


ルシアも顔を上げる。


ゼノンは自分の袖を捲いていた。


「僕のを飲ませるから」


「いいよ!」


反射的に声が出た。


「血液パックでいい!」


「駄目」


「なんで!?」


「なんで血液パックにする必要があるの?」


本気で分からないという顔をされ、ルシアの方が困ってしまう。


「だって、いっぱい飲まなきゃいけないんでしょ? お兄様の血がいっぱいなくなっちゃうよ」


「それが何?」


「何って……」


ゼノンは純血だ。


普通のヴァンパイアより遥かに強いことも知っている。


それでも血を失えば何の影響もないわけではない。


「血液パックで治るなら、それでいいよ」


「僕はよくない」


「お兄様」


「ルシア」


ゼノンが少し屈み、目線を合わせる。


「今、自分がどんな顔してるか分かってる?」


「……どんな顔?」


「僕の首を見ないように必死になってる顔」


「……」


気づかれていた。


「大丈夫だもん」


「大丈夫な子は、帰ってくる途中で人間の心音にあんなに反応しません」


エリーゼにまで言われ、ルシアは言葉に詰まった。


「でも……」


「もういいから」


ゼノンは自分の手首へ牙を立てた。


皮膚が裂け、赤い血が滲む。


その瞬間。


濃い香りが広がった。


「……っ」


喉が鳴った。


さっきまで必死に我慢していた渇きが、一気に膨れ上がる。


「お兄様、いいって……」


「よくないよ」


ゼノンは血の滲む手首をルシアの口元へ押し当てた。


「ん……!」


反射的に顔を逸らそうとした。


けれど唇へ血が触れた。


舌先に、一滴。


それだけだった。


次の瞬間、身体の方がルシアの意思を無視した。


「……っ」


ゼノンの腕を右手で掴む。


もっと。


自分から手首へ口をつけ、流れてくる血を飲み込んだ。


一口飲んだだけで、身体の奥が熱くなる。


二口。


三口。


止まれない。


さっきまで「血液パックでいい」と言っていたことすら頭から消えていく。


「ほら」


ゼノンがルシアの髪を撫でる。


「全然大丈夫じゃない」


返事をする余裕はなかった。


ルシアは夢中で血を飲み続ける。


身体が欲しがっている。


失った血を補うため。


腕を再生するため。


それだけではない。


やっぱり、おいしい。


昨日エリーゼの授業で飲んだ血液パックとは全然違う。


ゼノンの血が身体へ入ってくるたび、焼けるようだった喉が満たされ、痛みまで少しずつ遠のいていく。


腕が熱を持った。


「再生が進んでいます」


エリーゼの声がした。


傷口から骨が形成され、肉が覆い始める。


ゆっくりと。


本来の純血ならもっと速いはずなのに、今のルシアの身体では時間がかかる。


それでもゼノンの血を飲むにつれ、確実に腕が作り直されていった。


ゼノンはそれを見ながら、どこか満足そうに言った。


「やっぱり血液パックより僕の血の方がいいでしょ」


「ゼノンさん」


エリーゼの声が低くなった。


「昨日、血液パックでもきちんと飲めるように教えたばかりなんです」


「でもルシア、僕の方がおいしいって言ってたよ」


「そういう問題ではありません」


「事実でしょ?」


「ゼノンさん」


「はい」


怒られた。


それでもゼノンはまったく反省していない。


ルシアは血を飲みながら二人の会話を聞いていたが、否定できないので黙っていた。


やがて一度口を離したところで、ゼノンが傷口を見る。


「まだだね」


「でも、もう結構飲んだよ」


「足りない」


「お兄様も血なくなっちゃうよ」


「僕を誰だと思ってるの?」


「……お兄様」


「そうじゃなくて」


エリーゼが思わず小さく吹き出した。


ゼノンは少し困ったように笑う。


「純血だよ。これくらいでどうにかならない」


「でも……」


「ルシアの腕が戻るまで」


そう言って、また手首を差し出される。


「飲んで」


今度は拒まなかった。


ルシアが再び血を飲み始めた、そのときだった。


階段から足音が聞こえる。


「……何だよ、この血の臭い」


クレイドだった。


居間へ入ってきたところで足が止まる。


ゼノンの腕を掴み、血を飲んでいるルシア。


血だらけになった黒い制服。


そして、まだ完全には戻っていない左腕。


クレイドの顔から表情が消えた。


「……おい」


ルシアが口を離した。


「クレイド」


「腕どうした」


「ちょっと……」


「ちょっとで腕なくなるかよ」


低い声だった。


「実戦に行ったの」


「は?」


「ラビ先輩の授業中に要請が来て……」


「三日目だぞ」


誰も答えない。


「夜間部入って、三日目だぞ」


クレイドの視線がラビへ向く。


「てめぇが連れてったのか」


「僕だよ」


ラビは逃げなかった。


「クレイド、でも私が――」


「うるせぇ」


ぴしゃりと遮られる。


「今お前に聞いてねぇ」


ルシアが口を閉じる。


ラビはクレイドから目を逸らさなかった。


「僕の判断ミス。ルシアちゃんには一人で行くなって何度も言ったけど、結果的にこうなったのは僕にも責任がある」


「……」


クレイドの拳が強く握られる。


今にもラビへ殴りかかるのではないかと思った。


けれど。


「……馬鹿じゃねぇの」


それだけ吐き捨てた。


誰に向けた言葉なのか分からない。


ラビか。


ルシアか。


それとも両方か。


クレイドは踵を返す。


「クレイド?」


「知らねぇ」


「どこ行くの?」


「部屋」


「怒ってる?」


足が止まった。


振り返らないまま答える。


「腕生えてから喋れ、馬鹿」


そのまま階段を上がっていった。


ルシアはしばらくその背中が消えた場所を見つめていた。


「……怒ってる」


「怒っていますね」


エリーゼが静かに答えた。


ゼノンは再びルシアへ腕を差し出す。


「続き」


「まだ飲むの?」


「まだ手ないでしょ」


見ると、肘より少し下までしか再生していない。


「……お兄様、過保護」


「知ってる」


「血液パックでもいいのに」


「嫌」


「なんでお兄様が嫌なの?」


「僕の血で治せるのに、他の血を飲ませる理由がないから」


当たり前のように言われた。


ルシアは少し呆れながら、それでも差し出された腕へもう一度口をつけた。


ゼノンは満足そうにその頭を撫でる。


「……やっぱり、ルシアに実戦はまだ早かったね」


その言葉に、ラビが視線を落とした。


「ごめん、ゼノンさん」


「ラビ」


「うん」


「ルシアが勝手に動いたのは分かってる」


静かな声だった。


「でも、勝手に動く可能性まで考えて連れていくべきだった」


「……うん」


ラビは言い訳しなかった。


「僕が見誤った。ルシアちゃんの力がどれくらいあるかじゃなくて、その力をどれくらい使えるのかを」


ゼノンは何も答えなかった。


ラビ自身が理解しているなら、それ以上責めても意味がない。


ルシアも分かっていた。


悪いのはラビだけではない。


「一人で突っ込むな」と言われたのに、自分が破った。


見えるから避けられると思った。


速く走れるから戦えると思った。


純血だから強いと思った。


けれど、実際は違った。


力を持っていることと、使えることは同じではない。


その夜、ルシアの左腕が完全に元へ戻るまでには、かなりの時間がかかった。


同じ頃。


夜間部ではすでに今日の実働報告が回り始めていた。


実働要請に、編入三日目のヴァルディエ王女が同行したこと。


命令を無視して単独で対象へ接近したこと。


そして左腕を失うほどの重傷を負ったこと。


報告書を最後まで読み終えたルイス・ベルフォートは、紙を机へ置いた。


向かいにいた夜間部の教師が言う。


「幸い、ルシア様の命に別状はありません。純血ですから、腕もすぐ完全に再生するでしょう」


「そういう話をしているんじゃない」


冷たい声に、教師が口を閉じる。


ルイスはもう一度報告書へ視線を落とした。


「実戦経験のない者を現場へ同行させた。本人が命令を無視したとはいえ、それを想定せず連れていったフローレンスにも責任はある」


「……はい」


「だが」


ルイスの指が、報告書の端を軽く叩く。


「ラビ一人の責任にして終わらせるなら、夜間部の組織としては三流だな」


教師が僅かに眉を寄せた。


「どういう意味でしょう」


「ルシア・ヴァルディエの特別課程を決め、その教育担当を選び、夜間部の実働を統括しているのは誰だ?」


答えは一人しかいない。


ゼノン・ヴァルディエ。


ルイスは椅子の背へ身体を預けた。


その灰色の瞳には、同じ純血でありながらゼノンとはまるで違う、冷たい光が宿っている。


「元王族だからといって、失策まで許されるわけじゃない」


静かな声が落ちた。


「まして今のヴァンパイア社会を実際に支えているのが、どの家なのか――忘れてもらっては困る」


教師は何も言わなかった。


ヴァルディエ王家が崩壊してから、その空席を支えてきたのはベルフォート家だ。


そして今。


死んだと思われていたヴァルディエの王女が戻り、ゼノンとともに夜間部へいる。


ルイスは報告書を閉じた。


「……ちょうどいい」


「ルイス様?」


「近いうちにゼノンと話す」


「何を?」


その問いに、ルイスは表情一つ変えなかった。


「夜間部総代の座についてだ」


それだけ告げると、ルイスは席を立った。


ヴァルディエだから上に立つのか。


ベルフォートだから代わるのか。


そんな単純な話ではない。


上に立つ者には、それに相応しい能力と責任が必要だ。


そしてルイスは、自分ならゼノンより上手くやれると、本気で思っていた。

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