エリーゼ先生の特別授業
夜間部への編入、二日目。
夕方、目を覚ました私は、昨日よりも少しだけ落ち着いた気持ちでベッドから起き上がった。
昨日は初日だったこともあり、何もかもが新鮮だった。
黒い制服。
夜の登校。
特別教室。
そして、お兄様による長い授業。
「……今日は、エリーゼが先生だったよね」
そう呟きながら、制服に着替える。
昨日、お兄様は言っていた。
『明日はエリーゼが担当するよ』
エリーゼなら、きっと優しく教えてくれるだろう。
お兄様のように、覚えるまで帰してくれないということもないはずだ。
そんなことを考えながら、私は部屋を出た。
◇
「今日は、エリーゼが先生なんだよね」
リビングへ下りると、ソファに座っていたクレイドが顔を上げた。
「へえ。よかったじゃねえか」
「うん。少し安心してる」
「……そうか?」
クレイドは、面倒そうに肩を竦めた。
「エリーゼは結構真面目だろ。お前が気を抜いてたら、普通に注意されると思うぞ」
「……そうなの?」
「知らねぇけどな」
「エリーゼは優しいから、大丈夫だよ」
「優しいのと甘いのは違うだろ」
そのとき、背後から声がした。
「何の話?」
「お兄様」
振り返ると、お兄様が階段を下りてきたところだった。
「今日の授業は、エリーゼなんでしょう?」
「うん。そうだよ」
「だから、少し気が楽だと思って」
お兄様が、わずかに目を細める。
「……気が楽?」
「だって、エリーゼは優しいから」
「エリーゼは、僕より厳しいところもあるよ」
「……そうなの?」
「特に礼儀作法や生活習慣についてはね」
私は、少しだけ不安になった。
「……聞いてない」
「今言ったよ」
「それ、昨日も聞いた気がする」
お兄様は、楽しそうに笑った。
「大丈夫。ちゃんと勉強しておいで」
「……うん」
クレイドが、隣で小さく吹き出した。
「頑張れよ、カラス女」
「その呼び方は、まだ慣れない」
「慣れろ」
「無理」
◇
夜間部の校舎。
昨日と同じように、お兄様と一緒に登校した私は、特別教室へ向かった。
廊下ですれ違う生徒たちは、相変わらずこちらを見てくる。
けれど、昨日ほど緊張はしなかった。
「ルシア様」
教室の前で、エリーゼが待っていた。
「エリーゼ」
「お待ちしておりました」
エリーゼは、いつものように穏やかに微笑んでいる。
その手には、数冊の教科書と小さな箱が抱えられていた。
「今日はよろしくね」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
教室へ入ると、机の上には教材が綺麗に並べられていた。
その中に、白い布とグラスが置かれている。
「……エリーゼ」
「はい?」
「今日の授業は、何をするの?」
「人間社会での生活と、血の扱い方についてです」
「そうなんだ」
私は、白い布へ視線を向けた。
「それは、授業で使うの?」
「後ほど使います」
「……少し不安になってきた」
エリーゼは、穏やかに微笑んだ。
「まずは、お席へどうぞ」
「うん」
私は大人しく椅子へ座った。
お兄様は、そんな私を見て満足そうに頷く。
「じゃあ、エリーゼ。ルシアをよろしくね」
「はい。お任せください」
「お兄様は?」
「僕は通常の授業に戻るよ」
「……一緒にいないの?」
思わず尋ねると、お兄様は少しだけ目を細めた。
「今日はエリーゼの授業だからね」
「……そっか」
少し寂しかった。
けれど、エリーゼと二人で授業を受けるのも悪くないと思う。
お兄様は、そんな私の頭を撫でた。
「終わったら迎えに来るよ」
「うん」
「それと、ルシア」
「なに?」
「ちゃんと先生の言うことを聞くんだよ」
「分かってる」
お兄様は、楽しそうに笑った。
「いい子だね」
そう言って、私の額へ軽く口づける。
「じゃあ、またあとで」
「いってらっしゃい」
お兄様が教室を出ていく。
扉が閉まると、私はエリーゼへ向き直った。
「……それでは、お願いします」
エリーゼが教科書を開く。
「はい。授業を始めましょう」
◇
「まず、最初の質問です」
エリーゼが黒板へ文字を書いた。
『人間社会におけるヴァンパイアの注意事項』
「ルシア様。人間と一緒に生活するとき、最も気をつけなければならないことは何でしょう?」
「……人間を噛まないこと、でしょうか」
「正解です」
私は、ほっと息をついた。
「ですが、それだけではありません」
「……他にもあるの?」
エリーゼは、黒板へいくつかの項目を書き足した。
「まず、身体能力の違いです」
「身体能力?」
「はい。ヴァンパイアは、人間よりも遥かに強い力を持っています。特にルシア様のような純血種は、力加減を間違えるだけで大きな事故につながります」
「……昨日も、お兄様に似たようなことを言われた」
「例えば、普通に握手をしたつもりでも、人間の手を傷つけてしまうことがあります」
「……気をつけないといけないね」
「ですから、人間と接するときは、常に力加減を意識する必要があります」
「分かった」
「では、試してみましょう」
エリーゼが、机の上へ小さな果物を置いた。
「……りんご?」
「はい」
「これを握るの?」
「人間の手を握るつもりで、優しくお願いします」
私は、りんごを手に取った。
「このくらいでいい?」
「はい。そのまま、少し力を入れてみてください」
「……うん」
そっと指に力を込める。
――ぐしゃっ。
「……」
りんごが潰れた。
赤い果汁が、指の隙間から零れ落ちる。
「……あ」
エリーゼが、静かに目を閉じた。
「……ルシア様」
「……はい」
「今のは、人間の手だったら大変なことになっていましたね」
「……ごめんなさい」
「謝る必要はありません。練習ですから」
エリーゼは、布で私の手を拭いてくれた。
「ですが、もう少し力を抜きましょう」
「うん」
私は、潰れたりんごを見つめた。
「……私、思っていたより力が強いんだね」
「純血種ですから」
「少しずつ、慣れていかないと」
「はい。今はまだ、力の調整が難しいだけです。練習すれば、自然にできるようになりますよ」
「……頑張る」
エリーゼは、優しく頷いた。
◇
「次は、嗅覚についてです」
「嗅覚?」
「はい。ヴァンパイアは、人間よりも遥かに優れた嗅覚を持っています」
「それは、最近よく分かるようになった」
「例えば、どのようなときでしょう?」
「お兄様が近くにいると、すぐに分かるの」
「それは、ゼノン様の血の香りを覚えていらっしゃるからでしょうね」
「血の香りを?」
「はい。普段から血をいただいている相手の香りは、特に分かりやすくなります」
「……そうなんだ」
私は、少し考えた。
「エリーゼも、私の匂いが分かる?」
「もちろんです」
「そうなの?」
「はい。ルシア様の気配も、血の香りも覚えておりますから」
「……すごいね」
エリーゼは、くすりと笑った。
「ですが、ここで注意していただきたいことがあります」
「なに?」
「人間が怪我をして、血を流している場面に遭遇したときです」
私は、少しだけ表情を引き締めた。
「……うん」
「ヴァンパイアにとって、血の香りは本能を刺激するものです。特に空腹時は、普段より強く反応してしまうことがあります」
「……気をつけないといけないね」
「ですが、人間の血を勝手に飲むことは許されません」
エリーゼの声が、少しだけ真剣になる。
「たとえ相手が親しい友人であっても、本人の同意が必要です。血を飲むことは、ヴァンパイアにとって自然な行為ですが、だからといって誰かを傷つけていい理由にはなりません」
「……うん」
私は、少しだけ目を伏せた。
ミアのことを思い出したからだ。
嫌だと伝えても、血を欲しがられたこと。
怖かったこと。
痛かったこと。
「……ルシア様?」
エリーゼが、心配そうに私を見る。
「大丈夫?」
「うん。少し、昔のことを思い出しただけ」
エリーゼは、しばらく私を見つめていた。
それから、私の手へそっと自分の手を重ねる。
「ルシア様が嫌だと思うことは、嫌だと伝えてよいのですよ」
「……うん」
「血を飲むことが自然な行為であっても、相手の同意は必要です。そして、ルシア様自身の気持ちも大切にしてください」
「分かった」
エリーゼは、優しく微笑んだ。
◇
「さて」
エリーゼが、小さな箱を机の中央へ置いた。
「次は、血の扱い方について学びましょう」
私は、箱へ視線を向けた。
「……その箱を使うの?」
「はい」
エリーゼが箱を開く。
中には、小さな瓶が数本入っていた。
どれも赤い液体で満たされている。
「……血?」
「はい。授業用に用意されたものです」
「これを飲むの?」
「その前に、基本的な作法からです」
「作法があるの?」
「ヴァンパイアの貴族社会では、血の飲み方にも礼儀があります」
「……知らなかった」
「でしょうね」
エリーゼは、穏やかに微笑んだ。
「例えば、正式な夜会では、血をグラスでいただくこともあります」
「ワインのように?」
「はい。形としては似ています」
「そうなんだ」
私は、グラスへ視線を落とした。
「ただし、直接吸血することとは意味合いが異なります」
「意味合い?」
「はい。直接血をいただく行為は、相手との距離が非常に近いものですから」
エリーゼは、少しだけ表情を改めた。
「ヴァンパイア同士が互いに血を与え合う行為は、誰とでも行うものではありません」
「……そうなの?」
「はい。家族や恋人など、特別に親しい間柄でのみ許される行為です」
「友達同士では、あまりしない?」
「基本的にはいたしません。血を分け合うことは、単なる食事や水分補給とは意味が違いますから」
エリーゼは、慎重に言葉を選ぶように続けた。
「特に恋人同士で血を与え合う行為は、人間でいうところの性行為に近い意味を持ちます」
「……えっ」
私は、思わず固まった。
「せ、性行為って……?」
「はい。身体だけでなく、心まで深く結びつく行為です」
頬が熱くなる。
「じゃあ……お兄様と私が血を飲ませ合うのも……?」
「ルシア様とゼノン様は、ご家族であり、婚約者でもあります」
「……うん」
「ですから、お二人の間で血を与え合うことは、ヴァンパイアの社会では特別な意味を持ちます」
「……特別」
「はい」
エリーゼは、私の反応を見ながら、さらに説明を続けた。
「ヴァンパイアは、好きな相手ほど血を美味しく感じる傾向があります」
「好きな相手ほど?」
「はい。血の味は、相手の体調や血統だけでなく、飲む側の感情にも左右されます」
「じゃあ、お兄様の血が美味しいのは……」
「ゼノン様を大切に思っていらっしゃるからでしょうね」
「……」
顔が、さらに熱くなった。
「で、でも、お兄様は純血だから美味しいんじゃないの?」
「それも理由の一つでしょう。ですが、それだけではありません」
エリーゼは、穏やかに微笑んだ。
「好きな相手の血は、味だけでなく、飲んだあとの満足感も大きいのです」
「満足感?」
「はい。喉の渇きが癒えるだけではありません。胸の奥に空いていた隙間まで、温かく満たされるような感覚です」
私は、無意識に胸元へ手を当てた。
お兄様の血を飲んだとき。
身体の奥が熱くなって、力が満ちていく。
それだけではなく、離れていた時間まで埋められるような、不思議な安心感があった。
「……分かる気がする」
「そうでしょうね」
「飲むと、すごく安心するの。お兄様のそばにいるみたいな感じがして……」
「それは、血を通して相手の存在を感じているからです」
「血で?」
「はい。ヴァンパイアにとって血は、命を維持するものだけではありません。相手の気配や感情を、より深く感じ取るためのものでもあります」
エリーゼは、静かに説明した。
「ヴァンパイアは、好きになった相手を本能的に求めます。血を分け合い、互いの存在を身体の中へ取り込むことで、心の距離を縮めようとするのです」
「……本能的に?」
「はい。もちろん、誰を好きになるかは本人の意思によります。ですが、好きな相手を求め、その血を欲すること自体は、ヴァンパイアの本能に近いものです」
「だから、好きな人の血ほど美味しく感じるの?」
「その通りです」
私は、黙り込んだ。
お兄様の血を飲むと、いつも嬉しい。
もっと欲しいと思う。
飲み終わったあとも、離れたくなくなる。
それは、ただ美味しいからだと思っていた。
「……私、お兄様のことが好きだから、あんなに美味しく感じるのかな」
「はい。おそらく」
「……そうなんだ」
エリーゼは、私の表情を見つめた。
「ルシア様」
「なに?」
「血を与え合うことは、とても親密な行為です。ですから、相手の気持ちと同意を大切にしてください」
「うん」
「そして、ご自身の気持ちも大切にしてください。血を求めることを、恥ずかしいと思う必要はありません」
「……でも、飲みすぎたら困るよね?」
「はい。相手の身体に負担をかけないよう、量や時間を考える必要があります」
「お兄様は、いつも大丈夫って言うけど……」
「ゼノン様は、ルシア様に血を与えることを喜んでいらっしゃるのでしょう」
「うん」
「ですが、喜んでいるからといって、無理をしていないとは限りません。相手の顔色や呼吸、血の流れを確認することも大切です」
「分かった」
「血をいただいたあとは、必ず感謝を伝えること。そして、相手の様子を確認すること」
「うん」
「それが、血を分け合う者同士の礼儀です」
私は、真剣に頷いた。
◇
「それでは、実践です」
エリーゼが、グラスへ血を注いだ。
赤い液体が、静かに揺れる。
「まずは、これを綺麗に飲んでみてください」
「……うん」
私は、グラスを持ち上げた。
口元へ運び、少しだけ傾ける。
けれど。
――たらっ。
「あ」
口元から、赤い液体が一筋零れた。
「……ルシア様」
「……はい」
「もう少し、ゆっくりです」
「分かった」
私は、口元を拭った。
「……難しいね」
「慣れれば簡単ですよ」
エリーゼは、見本を見せるように別のグラスを手に取った。
その動作は、とても綺麗だった。
グラスを持つ指先。
口元へ運ぶ角度。
飲み終えたあとの仕草。
まるで、貴族の令嬢が紅茶を飲んでいるようだった。
「……綺麗」
「ありがとうございます」
「私も、そんなふうにできるようになりたい」
「では、練習しましょう」
「うん」
私は、もう一度グラスを持った。
今度は、ゆっくりと慎重に。
「……ん」
こくり。
血を飲み込む。
今度は、零れなかった。
「……できた」
「はい。とてもお上手です」
私は、少しだけ笑った。
けれど、エリーゼは続けた。
「では、次です」
「……次?」
「直接吸血するときの作法です」
私は、思わず固まった。
「……直接吸血?」
「はい」
「ルシア様は、ゼノン様から直接血をいただいていらっしゃいますよね?」
「……うん」
「そのとき、血を零してしまうことがあると伺っています」
「……誰から聞いたの?」
「アルベルト様です」
「……アル」
思わず、ため息が漏れた。
エリーゼは、穏やかな笑顔のまま続ける。
「アルベルト様は、ルシア様の練習の様子をよく見ていらっしゃいますから」
「見ていたの?」
「ゼノン様が血を与えていらっしゃるとき、近くにいらしたことも多いのでしょう」
「……そうだけど」
「その際、シャツや襟元に血がついてしまうことがある、と」
「……最初は、仕方なかったの」
「はい。最初は、です」
「……今も、少しだけ」
「少しだけ、ですか?」
「……たまに」
「たまに、ですね」
エリーゼは、白い布を私の前へ置いた。
「では、直接吸血をする際に、どのようにすれば血を零さずに済むかを練習しましょう」
「……どうやって?」
「まず、相手の首元へ近づく前に、呼吸を整えます」
「呼吸?」
「はい。焦ると牙の位置がずれたり、吸う力が強くなりすぎたりしますから」
「……私、焦っているのかな」
「ゼノン様の血を前にすると、少し嬉しそうになっていらっしゃいます」
「……お兄様の血は、美味しいから」
「それは存じております」
「知っているの?」
「はい。ゼノン様が、とても嬉しそうにお話しされますので」
「お兄様、そんなことまで話しているの?」
「ルシア様のことなら、何でもお話しになりますよ」
「……少し恥ずかしい」
私は、視線を落とした。
エリーゼは、そんな私の頭を優しく撫でる。
「恥ずかしがる必要はありません。血を美味しいと思うことは、ヴァンパイアとして自然なことです」
「でも、飲み方が下手だと言われるのは嫌」
「アルベルト様は、下手とはおっしゃっていないのでは?」
「言ったの」
「そうでしたか」
エリーゼは、少しだけ考えるように目を伏せた。
「では、上手になったところを見せて、驚かせて差し上げましょう」
「……そうだね」
私は、白い布へ視線を落とした。
「綺麗に飲めるようになりたい」
「その意気です」
エリーゼは、満足そうに頷いた。
◇
直接吸血の練習は、まず姿勢から始まった。
「相手の身体を無理に押さえつけてはいけません」
「うん」
「首元へ近づくときは、相手の様子を確認してください」
「相手が嫌がっていないか、確認するんだね」
「はい。それも大切です」
「お兄様は嫌がらないけど……」
「ゼノン様は、ルシア様に血を差し上げることを喜んでいらっしゃいますからね」
「うん」
「ですが、相手が誰であっても、確認することは忘れないでください」
「分かった」
「それから、牙を立てる位置です」
エリーゼは、指先で自分の首元を示した。
「血管の位置を意識しすぎると、力が入りすぎます。まずは皮膚へ触れる程度に」
「触れる程度?」
「はい。牙を立てる前に、相手の体温と血の流れを感じ取るのです」
「……難しいね」
「最初から完璧でなくて構いません」
エリーゼは、練習用の柔らかな布を丸め、首元に見立てたものを用意した。
「こちらで練習してみましょう」
「これに噛むの?」
「はい。実際の相手ではありませんので、失敗しても大丈夫です」
私は、布へ顔を近づけた。
牙を出し、そっと触れる。
「……こう?」
「はい。もう少し力を抜いて」
「……こう?」
「はい。今度は、そのまま吸う動作を」
私は、ゆっくりと息を吸った。
けれど、力加減を間違えた。
――ぶちっ。
布が裂けた。
「……」
「……」
「ごめんなさい」
「大丈夫です」
エリーゼは、裂けた布を拾い上げた。
「ですが、もう少し優しくお願いいたします」
「……はい」
「ルシア様」
「なに?」
「ゼノン様の首元で、同じことをなさらないように」
「しないよ」
「念のためです」
「……分かった」
エリーゼは、もう一度布を用意した。
「では、もう一度」
「うん」
何度か練習を繰り返すうちに、少しずつ力加減が分かってきた。
牙を立てる。
吸う。
離れる。
そして、口元を拭う。
「……できた?」
「はい。先ほどより、ずっと綺麗です」
「本当?」
「ええ」
エリーゼは、白い布を私の口元へ当てた。
「ほとんど汚れておりません」
「……よかった」
「実際に血をいただくときは、もう少し落ち着いてください」
「分かった」
「それから、飲み終わったあとに、必ず相手へお礼を伝えること」
「いつも言っているよ」
「何と?」
「ありがとう、お兄様って」
「それなら大丈夫ですね」
エリーゼは、優しく微笑んだ。
「ルシア様は、きちんと感謝を伝えられる方ですから」
「……ありがとう」
◇
授業の途中で、廊下から足音が聞こえた。
私は、すぐに顔を上げる。
「……お兄様?」
「まだ授業中ですよ」
「……そうだね」
耳を澄ます。
けれど、足音は教室の前で止まらなかった。
「違ったみたい」
「ゼノン様の足音は、もう覚えていらっしゃるのですね」
「うん。お兄様の匂いも、足音も分かるよ」
「それは、とても仲がよろしい証拠ですね」
「エリーゼも分かるでしょう?」
「はい。ですが、ルシア様ほど敏感ではないかもしれません」
しばらくすると、また足音が聞こえてきた。
今度は、二人分。
一人は軽く、もう一人は少しゆっくりしている。
「……ラビさんとセドリック」
「正解です」
「よかった」
扉の向こうを、二人が通り過ぎていく。
「よく聞き分けていらっしゃいますね」
「最近、少しずつ分かるようになってきたの」
「それも、ヴァンパイアとしての感覚の一つです」
「……まだ、慣れないけど」
「急ぐ必要はありません」
エリーゼは、穏やかにそう言った。
◇
「最後に、人間社会での振る舞いについて確認しましょう」
エリーゼは、黒板へ新しい項目を書いた。
『正体を隠すために必要なこと』
「まず、昼間の生活では、ヴァンパイアであることを悟られないようにする必要があります」
「でも、私はもう夜間部に移ったから、昼間部へは行かないよね」
「はい。ですが、今後、人間の方と接する機会がないとは限りません」
「……そうだね」
「その際、赤い瞳や牙を見られないようにすること。異常な力を使わないこと。傷の治りが早いことを悟られないこと」
「分かった」
「それから、血の匂いに反応しても、すぐに相手へ近づかないこと」
「……はい」
「人間の食事を口にしても、不自然な反応をしないこと」
「それは大丈夫だと思う」
「昼間部では、普通に食べていらっしゃいましたね」
「うん」
「では、最後に一つだけ」
「なに?」
「人間の方から、ヴァンパイアについて尋ねられた場合は?」
「……知らないふりをする?」
「正解です」
「よかった」
「ただし、嘘をつきすぎるのも危険です。話題を変える、曖昧に答える、知らないと言う。その場に応じて使い分けてください」
「分かった」
「そして、何より大切なのは、自分がヴァンパイアであることを必要以上に恐れないことです」
エリーゼの声が、柔らかくなる。
「隠すことと、恥じることは違います」
「……うん」
「ルシア様は、人間として過ごした時間も、ヴァンパイアとして生まれたことも、どちらも大切にしてよろしいのです」
私は、エリーゼを見つめた。
「……私、ちゃんと両方になれるかな?」
「なれます」
エリーゼは、迷いなく答えた。
「ルシア様なら、きっと」
「……本当に?」
「はい。ルシア様は、これまで人間として生きてこられたからこそ、人間の気持ちを理解できます。そして、ヴァンパイアとしての力も、これから学んでいけばよいのです」
「……うん」
「急ぐ必要はありません」
その言葉は、昨日お兄様に言われたものと同じだった。
「ゆっくりでいいんだね」
「はい」
私は、少しだけ肩の力を抜いた。
◇
その後、エリーゼはもう一度、グラスで血を飲む練習をさせてくれた。
今度は、最初よりもずっと上手くできた。
「……どう?」
「とても綺麗です」
「本当?」
「はい。口元にも、グラスにも、ほとんど零れておりません」
「……よかった」
私は、空になったグラスを見つめた。
そのとき、教室の扉が開いた。
「終わった?」
「お兄様」
お兄様が、教室の中へ入ってくる。
「お疲れさま、ルシア」
「エリーゼが、血を綺麗に飲む方法を教えてくれたの」
「そう」
「今日は、一滴も零さなかったよ」
「本当に?」
「はい。とてもお上手でした」
エリーゼが答える。
お兄様は、嬉しそうに目を細めた。
「偉いね、ルシア」
「……ありがとう」
「これなら、僕のシャツも汚れなくなるかな」
「うん。次は綺麗に飲むから」
「楽しみにしてるよ」
お兄様が、私の頭を撫でる。
その手が気持ちよくて、私は目を細めた。
「今日の授業はどうだった?」
「いろいろ教えてもらった」
「例えば?」
「血を飲むときは、相手が嫌がっていないか確認すること。飲み終わったら、お礼を言うこと。それから、相手の様子も見ること」
「うん。大切なことだね」
「それと……」
私は、少し迷った。
「血を分け合うのは、特別な意味があるって」
お兄様の表情が、わずかに変わった。
「エリーゼがそう教えたの?」
「うん」
「そうだね」
お兄様は、私の髪を指先で撫でた。
「ルシアと僕の間でも、血を分け合うことには特別な意味があるよ」
「……やっぱり?」
「うん」
「……少し、恥ずかしい」
「どうして?」
「だって、そういう意味があるって知らなかったから」
「知らなくても、感じていたでしょう?」
私は、黙って頷いた。
お兄様の血を飲むと、身体だけでなく心まで満たされる。
離れていた時間が埋まるような感覚。
それが、ただの食事ではないことは、もう分かっていた。
「次に飲むときは、もっと綺麗にできるようにするね」
「うん。期待してるよ」
お兄様は、私の額へ軽く口づけた。
エリーゼが、穏やかに二人を見つめている。
「では、次回は実際にゼノン様から血をいただく際の動きを確認してもよいかもしれませんね」
「……お兄様も一緒にいるときにしてね」
お兄様が、すぐに答えた。
「もちろんだよ」
「見ているの?」
「ルシアが上手に飲めるようになるところを見たいからね」
「……少し恥ずかしい」
「僕と二人なら大丈夫でしょう?」
「……うん」
エリーゼは、微笑んだ。
「では、次回はそのようにいたしましょう」
私は、少しだけ頬を熱くしながら、視線を落とした。
◇
「今日は、ありがとうございました」
教室を出る前に、私はエリーゼへ向き直った。
「こちらこそ、お疲れさまでした」
「人間の社会で気をつけることも、血のことも、少し分かった気がする」
「それはよかったです」
「まだ分からないことも多いけど……また教えてくれる?」
「もちろんです」
エリーゼは、優しく微笑んだ。
「いつでもお尋ねください」
「うん。ありがとう」
お兄様の手を握る。
そのまま、並んで廊下を歩き出した。
「お兄様」
「なあに?」
「今日、血を飲む練習をしたから、次は綺麗に飲めると思う」
「本当?」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「……できるように頑張る」
「それで十分だよ」
お兄様は、繋いだ手を優しく握り返した。
「もし汚れても、僕は気にしないけど」
「私は気にするの」
「じゃあ、ゆっくり練習しようか」
「うん」
夜の校舎を歩きながら、私は今日の授業を思い返していた。
人間の社会で気をつけること。
血を飲むときに必要なこと。
そして、血を与えてくれる相手への感謝。
知らなかったことばかりだったけれど、エリーゼが一つずつ教えてくれたから、不安は少し軽くなっていた。
まだ、ヴァンパイアとしての生活には慣れていない。
けれど、教えてくれる人がいる。
待っていてくれる人がいる。
だから私は、明日もまた、この場所へ来られる。
「お兄様」
「うん?」
「明日の授業も、ちゃんと頑張るね」
「偉いね、ルシア」
お兄様が、優しく私の頭を撫でる。
私は、その手の温かさを感じながら、静かに微笑んだ。




