夜間部初日・ゼノン先生の特別授業
夜間部への編入初日。
夕方、目を覚ましたルシアは、ベッドの上でしばらく天井を見つめていた。
これまでなら、とっくに一日の授業を終えている時間だ。朝起きて、陽の光を避けながら昼間部へ向かっていた生活から一転して、今日からは日が沈む頃に学園へ向かう。
まだ少し不思議な感覚だった。
けれど身体は驚くほど楽だった。朝の眩しさも、肌をじりじりと刺激する陽の光もない。覚醒してから初めて、自分の身体がこの時間を心地よいと感じているのが分かる。
「……ヴァンパイアって、本当に夜の方が元気なんだ」
独り言を呟きながら起き上がり、ルシアはクローゼットに掛けてある制服へ目を向けた。
今日から着る、夜間部の黒い制服。
数日前に見せてもらったときにも思ったが、実際にこれを着て学園へ行くとなると緊張する。
着替えを済ませ、鏡の前へ立つ。
黒を基調とした制服は、昼間部の白い制服よりもずっと今の自分に馴染んでいた。肩から流れる黒髪も、赤い瞳も、まるで最初からこの制服を着ることが決まっていたかのように違和感がない。
「……変じゃないよね?」
鏡の前で何度か身体の向きを変えてから、ルシアは部屋を出た。
階段を下りてリビングへ向かう。
「着たよー」
最初に振り返ったのはクレイドだった。
ソファに座っていたクレイドは、ルシアを上から下まで眺めると、眉を寄せた。
「……似合わねぇ」
「え!?」
いきなりだった。
「なんで!?」
「見慣れねぇ。お前は白の方がルシアって感じする」
「それ、似合わないんじゃなくて見慣れないだけじゃない!」
「同じようなもんだろ」
「全然違う!」
「黒髪に黒い制服で真っ黒じゃねぇか、カラス女」
「ひどい!」
ルシアが頬を膨らませたところで、別の声が飛んできた。
「似合ってるよ」
振り返る。
ゼノンが立っていた。
ルシアを見るなり、赤い瞳が嬉しそうに細められる。
「すごく似合ってる。可愛い」
「ほんと?」
「うん。思ってた通りだね。黒い髪にも似合ってるし、赤い目も綺麗に見える」
ゼノンはルシアの前まで来ると、制服姿を眺めながら満足そうに笑った。
「可愛いなぁ」
「……えへへ」
「僕は白い制服も好きだったけど、こっちもいいね。やっぱり用意しておいて正解だった」
「お兄様がそう言ってくれるならいいや」
「おい」
クレイドが不満そうに声を上げる。
「俺の感想は?」
「もう忘れた」
「早ぇな」
「だって似合わないって言ったもん」
「だから見慣れねぇだけだって」
「さっき同じようなものって言った!」
言い返していると、アルベルトがコーヒーを片手にやってきた。
「よく似合ってるじゃないか」
「アル!」
「夜間部の制服の方が、今の髪には合っているな」
「ほら! クレイドだけだよ!」
「うるせぇ」
アルベルトは笑いながらルシアを眺めたあと、ふと制服の襟元へ視線を落とした。
「ただし、ルシア」
「なに?」
「まだまだ血の飲み方が下手なんだから、制服に血をつけるなよ」
「……」
ルシアの顔が固まった。
ゼノンが吹き出す。
「アル!」
「事実だろう」
「だってあれは、お兄様が学校で飲ませるから!」
「僕のせい?」
「お兄様のシャツ、すごいことになってたじゃん!」
「あれは別にいいよ」
「よくないよ!」
「僕は気に入ってたけど」
「ほら、こういうこと言う!」
アルベルトが呆れたように笑う。
「ゼノンの制服なら好きにすればいい。自分の制服にはつけるなと言っているんだ」
「分かってます!」
「本当に?」
「次は綺麗に飲む!」
「学校で飲む前提なんだな」
クレイドに突っ込まれた。
「だって渇いたらお兄様の血を飲むんだから仕方ないでしょ!」
「はいはい」
「その言い方やめて!」
いつもの騒がしいやり取りをしながら準備を終え、やがて外へ出る。
今日はクレイドとは登校時間が違う。
昼間部と夜間部。
今まで毎日のように一緒に学園へ向かっていたクレイドの代わりに、隣を歩いているのはゼノンだった。
「なんか変な感じ」
「何が?」
「お兄様と一緒に登校するの」
「僕は嬉しいよ」
「知ってる」
「毎日迎えに行ってもいい?」
「同じ家から出るのに?」
「じゃあ部屋まで迎えに行く」
「それは迎えって言うの?」
そんな話をしながら歩いているうちに、空はすっかり暗くなっていった。
ルシアは薄暗い空を見上げる。
不思議だった。
朝の登校では、日傘を差していても眩しく、身体の奥に少しずつ疲れが溜まっていった。それなのに今は、歩けば歩くほど身体が軽い。
空気も心地いい。
風が頬を撫でる感覚さえ、人間だった頃より鮮明だった。
「……夜って、こんなに気持ちよかったんだ」
「今までと違う?」
「全然違う。身体が軽い」
「それが普通だよ。ヴァンパイアにとってはね」
ゼノンが笑う。
「今までエリーゼは、ずっと身体に合わない生活をしてたんだね」
「そうだね。昼間に活動できないわけじゃないけど、夜よりは負担がかかるから」
「……エリーゼ、本当に私のために頑張ってくれてたんだなぁ」
改めて申し訳なさと嬉しさが込み上げる。
「今日からはエリーゼも少し楽になるね」
「ああ。あの子にとっても、夜間部の方が身体には合ってるよ」
話しているうちに、アストリア学園が見えてきた。
夜間部の校舎へ向かう道には、黒い制服を着た生徒たちがいる。
その中へ足を踏み入れた瞬間、ルシアは少し緊張した。
これまでも学園長代理として何度か夜間部を訪れている。覚醒した初日にも来た。
けれど今日からは、客でも代理でもない。
自分もこの場所の生徒になる。
「緊張してる?」
「……ちょっと」
「僕がいるよ」
「うん」
ゼノンが当たり前のように手を差し出す。
ルシアは少し迷ったあと、その手を取った。
その瞬間。
周囲の視線が一気に集まった。
「……」
ルシアは思わずゼノンへ近づく。
以前とは違う。
もう正体を隠していない。
黒い髪。
赤い瞳。
そして、隠す必要のなくなった純血の気配。
夜間部の生徒たちは、ルシアがヴァルディエ家の純血であり、ゼノンの実妹で婚約者だということまで知っている。
当然、暖かい視線ばかりではなかった。
興味。
驚き。
畏怖。
好奇心。
そして、決して好意的とは言えないものも混じっている。
十年以上存在そのものを知られていなかったヴァルディエの王女が突然現れたのだ。
しかも、ヴァンパイアの社会では誰もが知るゼノン・ヴァルディエが、異常なほど大切にしている妹。
面白く思わない者がいないはずもない。
「……やっぱり見られてる」
ルシアが小さく呟く。
「見なくていいよ」
「でも聞こえるもん」
「聞かなくていい」
「聞こえちゃうの!」
「そのうち気にならなくなるよ」
ゼノンはまるで気にしていなかった。
むしろルシアの手を離す気配すらない。
「ゼノン様と手を……」
「本当に妹なんだ……」
「婚約者でもあるんだろ?」
「ヴァルディエの姫……」
「ずっと人間として昼間部にいたって本当?」
「純血なのに?」
「なんで今さら……」
いくつもの囁きが耳へ届く。
ルシアは無意識にゼノンの手を握る力を強めた。
するとゼノンも握り返した。
「大丈夫」
「……うん」
「ルシアちゃーん!」
空気を吹き飛ばすような明るい声が響いた。
廊下の向こうからラビが走ってくる。
その後ろにはセドリックとクロード、そして今日から同じく夜間部の黒い制服へ着替えたエリーゼもいた。
「夜間部へようこそ!」
「ラビさん!」
「制服似合ってるね!」
「ありがとうございます!」
ラビは心底嬉しそうだった。
クロードもルシアを見るなり笑う。
「お、いいじゃん。やっぱ黒似合うな」
「クレイドは似合わないって言ったんですよ!」
「あいつ見る目ねぇな」
「ですよね!」
「おい、今度本人の前でも言えよ」
セドリックが呆れる。
エリーゼもルシアの前へ来る。
「とてもお似合いです、ルシア様」
「エリーゼも!」
同じ黒い制服。
昼間部では白い制服を並んで着ていた二人が、今度は夜間部の制服で向かい合っている。
「本当に一緒に来たんだね」
「はい」
エリーゼは微笑んだ。
「今日からもよろしくお願いいたします」
「うん!」
不安が少し消えた。
暖かくない視線もある。
けれど、自分を歓迎してくれる人たちもいる。
「じゃあ、教室行こ!」
ルシアが言うと、ゼノンが「ああ、それなんだけど」と声を上げた。
「なに?」
「ルシアは今日は普通の教室には行かないよ」
「……え?」
「特別教室」
「特別教室?」
聞いたことがない。
「なんで?」
「ルシアには、普通の勉強があるから」
「普通の勉強?」
「人間の学校で習う勉強」
「……夜間部でもするでしょ?」
「するよ。でもそれだけじゃない」
嫌な予感がした。
ゼノンがにこりと笑う。
「ヴァンパイアとしての勉強も、いっぱい詰め込むよ」
「……いっぱい?」
「いっぱい」
「どのくらい?」
「ルシアがこの十年間で知らなかったこと全部」
「多くない!?」
「多いよ」
「嫌だ!」
「駄目」
即答された。
「だって私、今日から夜間部の生徒なんでしょ!? 普通にみんなと授業受けるんじゃないの!?」
「いずれはね」
「いずれ!?」
「ルシアはヴァンパイアとして六歳で止まってるようなものだから。知識が全然足りない」
「……」
否定できない。
「血のこと。身体のこと。能力のこと。純血について。眷属。家柄。社会。法律。歴史。人間との共存。危険なヴァンパイアの見分け方。それから戦い方も必要だね」
「待って待って待って!」
指を折りながら増えていく。
「多すぎる!」
「だから特別教室なんだよ」
「聞いてない!」
「今言ったからね」
「そういう問題じゃない!」
ゼノンは楽しそうだった。
「もちろん、今まで通り人としての学習内容も」
「それも!?」
「卒業するんだから当たり前でしょ?」
「じゃあ勉強増えてるだけじゃん!」
「そうだね」
「嬉しそうに言わないで!」
ラビが隣で笑っている。
「大変だねぇ、ルシアちゃん」
「ラビさん助けてください!」
「頑張って」
「薄い!」
そこでルシアはエリーゼを見る。
「じゃあエリーゼも特別教室?」
「いいえ」
答えたのはゼノンだった。
「エリーゼは普通の夜間部の授業でいいよ」
「なんで!?」
「エリーゼは最初からヴァンパイアだから」
「ずるい!」
「ずるくないよ」
ゼノンは笑う。
「エリーゼが昼間部へ通っていたのは、ルシアが昼間部にいたからだろ? ヴァンパイアとして必要なことは、家でもちゃんと学んできてる。わざわざ一から教える必要はないよ」
「……エリーゼだけ普通の授業……」
「ルシア様」
「なに?」
「頑張ってください」
「エリーゼまで!」
肩を落とすルシアの頭を、ゼノンが撫でる。
「大丈夫。僕たちが教えるから」
「僕たち?」
ルシアが顔を上げる。
「僕とエリーゼとラビ」
「……え?」
ルシアとラビの声が重なった。
ラビが自分を指差す。
「俺?」
「うん」
「僕、そんな予定は聞いてないんだけど〜」
「今できたよ」
「勝手だなぁ」
「ラビは元人間のヴァンパイアとの接触経験も多いし、外での仕事もしてるからね。教科書だけじゃ分からないことを教えるのに向いてる」
「褒められてるのか使われてるのか分かんないなぁ」
「両方じゃない?」
「やっぱり」
ラビは笑いながら頭を掻いた。
「まあ、ルシアちゃん相手ならいいけどね」
「ラビさん!」
「しかも、僕の授業はゼノンさんより優しいと思うよ」
「ほんとですか!?」
「ラビ」
ゼノンの声が低くなる。
「冗談だよ」
「お兄様、圧かけないで!」
「かけてないよ」
「かけてるよ!」
「私は主に、日常生活や人間社会で正体を隠す際の注意点を担当いたしましょうか」
エリーゼが言う。
「私自身、昼間部で長く生活しておりましたので」
「それは助かる!」
「それから、血の扱い方についても多少は」
「飲み方も?」
「はい」
「アルに下手って言われたの!」
「それは……」
エリーゼが少し困った顔になる。
「練習いたしましょう」
「今、一瞬否定しなかったよね?」
「気のせいです」
「絶対違う!」
そんなやり取りをしていると、周囲が妙に静かなことに気づいた。
ルシアが顔を上げる。
夜間部の生徒たちが、こちらを見ていた。
正確には。
ゼノンを見ている。
「……何?」
ルシアが首を傾げる。
少し離れたところから囁きが聞こえた。
「……あれ、本当にゼノン様?」
「俺も今それ考えてた」
「笑ってる……」
「頭撫でてたよな?」
「さっきから何回可愛いって言ってる?」
「というか、あんな喋る人だったか?」
「ゼノン様の皮を被った別人では……?」
「怖いこと言うなよ」
「でも絶対おかしいだろ」
ルシアが瞬きをする。
ゼノンを見る。
いつものゼノンだ。
「……お兄様、疑われてるよ?」
「何が?」
「別人じゃないかって」
「失礼だな」
本気で気にしていない。
クロードが吹き出した。
「いや、そりゃそうなるだろ」
「何が?」
「ゼノンさん、普段そんな顔しねぇもん」
「どんな顔?」
「今みたいな顔」
「普通だけど」
「普通じゃねぇよ」
セドリックまで口を挟んだ。
「お前、自覚ないのか?」
「何の?」
「ルシア相手だと別人みたいに甘い」
「妹で婚約者なんだから普通だろ」
「普通じゃねぇから言ってんだよ」
周囲がまたざわついた。
「今、普通って言った?」
「ゼノン様が?」
「怖……」
「何が怖いの?」
ルシアには本当に分からない。
ラビが笑いながら教えてくれた。
「夜間部のみんなが知ってるゼノンさんって、もっと静かで怖いんだよ」
「お兄様が?」
「ルシアちゃんには想像できないと思うけど」
「想像できない」
「即答だね」
ルシアがゼノンを見上げる。
「お兄様、学校では怖いの?」
「普通だよ」
「普通じゃないって」
クロードがすぐに否定した。
「目が合っただけで黙る奴いるからな」
「そんなに?」
「必要のない話をしないだけだよ」
「ルシアには必要のない話までしてるだろ」
セドリックの指摘に、ゼノンは少し考える。
「ルシアとは話したいから」
また周囲が静まった。
「……やっぱり別人じゃない?」
誰かが呟いた。
「お兄様!」
ルシアが笑う。
「別人って言われてるよ!」
「好きに言わせておけばいいよ」
ゼノンはルシアの頭へ手を置くと、黒い髪を優しく撫でた。
「ルシアに疑われなければ、僕はそれでいいから」
今度こそ廊下が騒然となった。
「えっ」
「待って」
「今のゼノン様が言ったの?」
「偽物だろ!」
「誰か血の匂い確認しろ!」
「ゼノン様の皮を被った別人だ!」
「だから失礼だな」
ゼノンがようやく少しだけ眉を寄せる。
その瞬間。
騒いでいた生徒たちが一斉に黙った。
「……あ」
「本物だ」
「本物だな」
「よかった……」
「何がよかったんだよ」
クロードが腹を抱えて笑っている。
ルシアも耐えられなくなって笑った。
「お兄様、ちゃんと本物だったね」
「僕は最初から本物だよ」
「でもみんなびっくりしてる」
「そのうち慣れるでしょ」
ゼノンはそう言って、ルシアの手を取った。
「行こうか」
「どこ?」
「今日からのルシアの教室」
「あ……」
忘れかけていた。
「今日は僕が担当する日だからね」
「今日ずっと?」
「ずっと」
「普通の授業は?」
「今日は編入初日だから、ヴァンパイアについての授業を優先するよ」
「……何時間?」
「授業時間いっぱい」
「お兄様と二人で?」
「うん」
ゼノンは嬉しそうだ。
「嫌なの?」
「嫌じゃないけど……勉強でしょ?」
「勉強だよ」
「お兄様、厳しい?」
「ルシアには優しいよ」
「よかった!」
「ただし覚えるまでは終わらないけど」
「厳しいじゃん!」
笑い声に見送られながら、二人は通常の教室とは別の教室へ向かった。
◇
特別教室は、夜間部の校舎の奥に用意されていた。
大きな黒板。
机と椅子。
本棚には分厚い本が並んでいる。
ルシアは一冊手に取った。
『ヴァンパイア社会史・基礎』
分厚い。
隣を見る。
『血液と身体構造』
さらに分厚い。
その隣。
『純血種の系譜と社会的責務』
「……帰りたい」
「来たばっかりだよ」
「本が怖い」
「本は噛まないよ」
「ヴァンパイアの本だから噛むかもしれない」
「噛まない」
ゼノンが笑いながら椅子を引く。
「座って」
「はぁい……」
ルシアは渋々座った。
ゼノンは教師用の机には行かず、当然のようにルシアの隣へ椅子を持ってきた。
「近くない?」
「教えやすいから」
「黒板使わないの?」
「使うよ」
「じゃあ前にいればいいのに」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあここでいいね」
最初から離れる気などなかったらしい。
ゼノンは一冊の薄い本を開いた。
「まず今日は、本当に基本から始めようか」
「基本?」
「ヴァンパイアとは何か」
「……私、ヴァンパイアだよ?」
「だからこそだよ」
ゼノンの表情が少しだけ真面目になる。
「ルシアは十年間、人間として生きた。人間から見たヴァンパイアの知識は持ってるけど、ヴァンパイア自身が自分たちをどう理解しているかはほとんど知らないでしょ?」
「……確かに」
「血を飲む。夜に強い。身体能力が高い。傷が治りやすい。そこまでは知ってるね」
「うん」
「でも、それだけじゃない」
ゼノンは自分の胸元を指す。
「僕たちにとって、血は食事だけじゃないんだ」
ルシアは黙って聞く。
「命を維持するためのものでもあるし、力にもなる。血を介して生まれる繋がりもある。血統によって身体能力も異能も大きく変わる。特に純血にとって、血は家柄そのものと言ってもいい」
「……だから純血は血筋を大切にするの?」
「ああ」
「それで、近い血同士で結婚することも多いんだよね」
「そうだよ」
ゼノンは自然に答えた。
以前なら戸惑っていた話も、今では少しずつ受け入れられるようになっている。
「僕たちヴァルディエは、その中でも特に古い純血家系だよ」
「黒い髪も?」
「ヴァルディエの特徴だよ。純血だから黒いわけじゃない。ルイスたちベルフォートは灰色だし、ドラクロワは黄色に近い金髪が多い」
「じゃあ、私のこの髪を見たら……」
「分かる者にはすぐ分かる。ヴァルディエだってね」
ルシアは自分の髪を一房摘んだ。
十年間、自分のものだと思っていた白金色の髪はもうない。
「……本当に全部戻ったんだね」
「うん」
ゼノンがその髪へ触れる。
「僕はこっちのルシアも大好きだよ」
「授業中だよ?」
「授業中でも好きなものは好きだから」
「先生がそれでいいの?」
「いいんじゃない?」
「絶対よくないと思う」
ルシアは笑った。
「次」
ゼノンが本のページをめくる。
「ヴァンパイアは年齢を重ねるほど強くなる傾向がある」
「じゃあ、お兄様より年上ならみんなお兄様より強いの?」
「そう単純じゃないよ。血の濃さ、持って生まれた力、経験、血をどれだけ安定して得ているかでも変わるから。ただ、同程度の血なら長く生きている方が有利なことが多い」
「私、十七歳だから弱い?」
「力そのものは弱くない。むしろ純血としてはかなり強いよ」
「ほんと?」
「ああ。ただし」
ゼノンがルシアの額を軽く指で弾いた。
「使い方が下手」
「痛っ」
「昨日も殴られたでしょ?」
「もう言わないで!」
「拳が見えてるのに避けられないのは、まだ身体の動かし方が分かってないから。力が強くても扱えなければ意味がないよ」
「……頑張ります」
「それは実技でやろうね」
「実技もあるの?」
「当然」
嫌な予感が増えていく。
「次は異能」
ゼノンが続けた。
「ヴァンパイアには、生まれつき特別な力を持つ者がいる。エリーゼの氷、クロードの炎、ラビの姿を消す力、セドリックの空気を操る力なんかがそうだね」
「お兄様は?」
「僕は純血としての支配と、力を外へ押し出すことができる」
「私も窓割ったやつ?」
「似てるね。あれは異能というより、純血の力が感情に引っ張られて溢れたものに近い。ルシアはまだ自分の異能がどういう形で現れるかも分かってないから、それも調べないとね」
「……やることいっぱい」
「いっぱいあるって言ったでしょ?」
ルシアは机へ突っ伏した。
「普通の勉強もあるのに……」
「大丈夫」
ゼノンが頭を撫でる。
「僕が全部教えるから」
「ラビさんとエリーゼもでしょ?」
「……そうだったね」
「今忘れた?」
「できれば僕一人で教えたいから」
「なんで?」
「ルシアと二人でいられる」
「勉強なのに?」
「勉強でも」
ルシアは呆れながら顔を上げた。
「お兄様って、私が思ってたよりずっと私のこと好きだよね」
「今さら?」
「人間だったときは、ここまでだと思ってなかった」
「我慢してたからね」
さらりと言われた。
「血も。距離も。呼ばれ方も。全部」
ゼノンはルシアの黒い髪を指先で梳く。
「今はもう我慢しなくていいから」
「……学校では少し我慢した方がいいんじゃない?」
「どうして?」
「みんなが偽物だって騒ぐから!」
「ああ」
ゼノンは少し考えたあと、穏やかに笑った。
「そのうち慣れるよ」
「慣れるかなぁ……」
「慣れてもらうしかないね」
「変える気ないんだ」
「ないよ」
即答だった。
ルシアは思わず笑った。
窓の外には、すっかり夜の帳が下りている。
陽の光はない。
身体は軽く、頭も冴えている。
昼間部を離れた寂しさが消えたわけではなかった。それでも、ここへ来たことで初めて知る自分もいる。
人間として過ごした十年間を捨てるのではない。
これからは、その十年間に加えて、自分が生まれながらに持っていたヴァンパイアとしての部分も知っていくのだ。
ルシアは机の上の本へ視線を戻した。
「……じゃあ先生」
「うん?」
「次、教えてください」
ゼノンは嬉しそうに目を細める。
「もちろん」
それからしばらくして。
「お兄様」
「なに?」
「ヴァンパイアって心臓取られたら死ぬの?」
「基本的にはね」
「基本的には?」
「心臓を完全に破壊されるか、身体から取り除かれれば死ぬ。あとは木の杭で心臓を貫かれてもね」
「じゃあ首を切られたら?」
「致命傷だけど、強いヴァンパイアならすぐ死ぬとは限らない」
「えぇ……」
「純血ならなおさらね」
「怖……」
「だから敵と戦うときは、倒れたからって近づいちゃ駄目だよ」
「分かった」
「それから、他のヴァンパイアの血を大量に飲んで殺した場合、その相手の力を取り込むこともある」
「そんなことまでできるの!?」
「できる。でも絶対に試さないでね」
「試さないよ!」
「ルシアなら興味本位でやりそうだから」
「私を何だと思ってるの!?」
「好奇心旺盛で危なっかしい妹」
「ひどい!」
「ははっ、冗談だよ。ルシアはそんなことしない」
笑いながら怒るルシアを見て、ゼノンも笑った。
そのとき、教室の外から、かすかな物音が聞こえた。
「……今、何か聞こえなかった?」
ルシアが顔を上げる。
「何かって?」
「外。廊下じゃなくて……窓の方」
ゼノンが立ち上がり、窓へ近づく。
カーテンを開けると、校舎の裏手に広がる森の中から、二つの赤い瞳がこちらを見上げていた。
月明かりの下に浮かび上がったのは、一頭の大きな黒狼だった。
艶のある黒い毛並み。
鋭い牙。
けれど、その瞳には敵意がない。
むしろ、ゼノンの姿を認めると、静かに尾を揺らした。
「わぁ……!」
ルシアが窓へ駆け寄る。
「狼?」
「黒狼だよ」
ゼノンは窓を開けなかった。
代わりに、静かに自分の足元へ視線を落とす。
「お兄様?」
ゼノンの影が、月明かりの中でゆっくりと揺らいだ。
床に落ちていたはずの影が、まるで水面のように波打つ。
その黒い揺らぎの中から、何かが這い上がってきた。
最初に現れたのは、大きな前脚だった。
続いて、鋭い爪。
長い鼻先。
そして、艶やかな黒い毛並みに包まれた巨大な身体が、ゼノンの影から音もなく姿を現した。
「えっ……!?」
ルシアが目を見開く。
黒狼はゼノンの影から完全に抜け出すと、ゆっくりと身体を伸ばした。
月明かりを受けた二つの赤い瞳が、ルシアを見つめる。
「お兄様の影から……出てきたの?」
「うん」
ゼノンは黒狼の首元へ手を伸ばし、慣れた様子で撫でた。
黒狼は気持ちよさそうに目を細め、低く喉を鳴らす。
「この子は僕の影に棲んでいるんだ。必要なときは、こうして出てきてもらう」
「影に棲むって……」
「正確には、僕の影と繋がった場所にいる。僕が呼べば、どこにいても出てこられるよ」
ゼノンが黒狼の背を撫でる。
「紹介するね。彼は黒狼。僕の分身だよ」
黒狼はルシアの前まで歩み寄ると、頭を低くした。
大きな身体が、ルシアに触れない距離で静かに止まる。
「怖くないの?」
「この子はぼく自身みたいなかんじだよ」
ゼノンが答える。
ルシアは恐る恐る手を伸ばした。
黒狼は逃げることなく、ルシアの手の匂いを嗅ぐ。
それから、鼻先をそっと手のひらへ押しつけた。
「触ってもいい?」
「うん。ゆっくりね」
ルシアが黒い毛並みに触れる。
思っていたよりも柔らかく、温かかった。
「ふわふわ……」
黒狼は嬉しそうに喉を鳴らした。
「可愛い!」
「気に入った?」
「うん! この子、名前あるの?」
ゼノンは少し考えるように黒狼を見た。
「ないよ」
「ないの?」
「名前をつけて呼ぶ必要がなかったからね」
ルシアは黒狼の顔をじっと見つめた。
黒い毛。
赤い瞳。
大きくて、強そうなのに、どこか優しい。
「じゃあ、名前は今日からガルね!」
「……ガル?」
「うん! 黒い狼だからガル!」
「理由が単純だね」
「分かりやすくていいでしょ?」
ルシアが黒狼の首元を撫でながら呼ぶ。
「ガル」
黒狼の耳がぴくりと動いた。
「ガル、こっち見て」
呼びかけに応じるように、黒狼が顔を上げる。
ルシアの赤い瞳と、ガルの赤い瞳が重なった。
次の瞬間、ガルは大きく尾を振った。
「聞いてる!」
ルシアが嬉しそうに笑う。
「ガルって呼んだら来てくれるかな?」
「たぶんね」
ゼノンが答えるより早く、ガルはルシアの手のひらを舐めた。
「わぁ!」
「気に入ったみたいだね」
「今日からガルね!」
ルシアがもう一度名前を呼ぶ。
「ガル!」
黒狼は低く、けれど嬉しそうに鳴いた。
その声は教室の壁を震わせ、遠くの森へ響いていく。
「すごい……」
ルシアはガルの背中を撫でながら、ふと顔を上げた。
「お兄様」
「うん?」
「私も、こういうの……できるかな?」
「こういうのって?」
「ガルみたいな子と仲良くなったり、呼んだら来てもらったり」
ゼノンはルシアの表情を見つめた。
その瞳には、純粋な憧れが浮かんでいる。
「できるかもしれないよ」
「ほんと?」
「ルシアにはルシアの力があるからね。ただ、まだ目覚めたばかりだし、いきなり分身を作るのは負担がかかる」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「まずは自分の力を知ること。それから、少しずつ練習する」
「ゆっくり?」
「うん。ゆっくり練習しようね」
ゼノンはルシアの頭を撫でた。
「焦らなくていいよ。ルシアができるようになるまで、僕がそばにいるから」
「……うん!」
ルシアは嬉しそうに頷いた。
その横で、ガルがまるで返事をするように尾を振る。
「ガルも一緒に練習してくれる?」
ルシアが尋ねると、黒狼は彼女の肩へ鼻先を寄せた。
「してくれるって!」
「そうだね」
ゼノンは微笑んだ。
けれど、その瞳の奥には、わずかな驚きがあった。
ルシアがガルに触れた瞬間、黒狼の力がほんの少しだけ揺らいだのだ。
拒絶ではない。
むしろ、懐かしいものに触れたような反応だった。
純血の力。
それだけではない。
ルシアの中に眠る、まだ形を持たない何かが、ガルの存在に反応している。
ゼノンはそれを感じ取っていた。
けれど、今はまだ口にしない。
ルシアが自分の力を怖がらずに受け入れられるようになるまで、急ぐ必要はなかった。
「今日はここまでにしようか」
ゼノンが本を閉じる。
「終わった……!」
ルシアは机へ突っ伏した。
ガルはその隣で、まるで護衛のように伏せる。
「疲れた?」
「頭が疲れた……でも、ガルに会えたから嬉しい」
「それならよかった」
「明日は?」
「エリーゼ」
「何するの?」
「人間社会の中でヴァンパイアとして生活するときの注意点と、血の扱い方」
「明後日は?」
「ラビ」
「ラビさんは?」
「実践寄りかな。人間からヴァンパイアになった者の特徴とか、外で遭遇する危険なヴァンパイアについて」
「その次は?」
「僕」
「また!?」
「僕が一番多いよ」
「なんで!?」
「僕がルシアのことを一番知ってるから」
当然のように答えられた。
否定できない。
ルシアは呆れながら、それでも笑ってしまった。
昼間部では知らなかった自分の世界。
人間として生きてきた十年間と、ヴァンパイアとして生まれた最初の六年間。
その両方を抱えたまま、これから新しい生活が始まる。
そしてその最初の先生は、十年間ずっと自分が帰ってくるのを待っていた兄だった。
その夜、ルシアはまだ知らなかった。
自分の力が、いつか白い毛並みを持つもう一頭の狼を生み出すことを。
けれど今は、黒狼の温もりを感じながら、ただ嬉しそうにその名前を呼んでいた。
「ガル」
黒狼は、静かに尾を振った。
「明日も頑張る」
「うん」
ゼノンが優しくルシアの頭を撫でる。
「ゆっくり覚えていこう。ルシアが知らなかった十年分、全部教えてあげるから」
ルシアはその手の温かさを感じながら、素直に頷いた。
「よろしくお願いします、ゼノン先生」
特別教室に、二人の笑い声と、ガルの低い鳴き声が響いた。




