陽の光
家へ帰る頃には、ルシアの足取りはすっかり重くなっていた。
子供を助けられたことに後悔はない。目の前で攫われているのを見た以上、たとえ同じ状況にもう一度遭遇しても、きっと自分は追いかけるだろう。
けれど、それとゼノンへの報告は別問題だった。
「……エリーゼ、一緒に来てくれる?」
「もちろんです」
「ラビ先輩も」
「僕も?」
「いたじゃないですか!」
「いたけど、ルシアちゃんが最初に飛び出したのは事実だよ?」
「裏切らないでください!」
「ははっ、ごめんごめん。一緒に説明してあげるよ」
結局、ミアとは途中で別れ、エリーゼとラビがルシアと一緒に家まで来てくれた。
玄関の扉を開けると、リビングにはアルベルトとクレイドがいた。
そして、ソファにはゼノンまでいる。
「おかえり、ルシア」
ルシアを見た瞬間、ゼノンはいつものように柔らかく笑った。
「楽しかった?」
「……うん」
「演劇は?」
「面白かった」
「パンケーキも食べられた?」
「……食べた」
「そう。よかったね」
にこにこと笑っている。その笑顔を見るほど、言い出しにくい。
ゼノンの視線が後ろへ移った。
「エリーゼとラビも一緒なんだ」
「お邪魔します」
「こんばんは、ゼノンさん」
ラビは普段通りだったが、エリーゼはどこか申し訳なさそうだ。
ゼノンがそれを見逃すはずがなかった。
「……何かあった?」
早い。
「えっと……」
ルシアが視線を逸らす。
「ルシア?」
「……怒らないで聞いてね?」
「内容によるかな」
笑顔のまま言われた。
それが一番怖い。
ルシアはゼノンの向かいへ座り、エリーゼとラビもその隣へ腰を下ろした。
「今日ね、偶然パンケーキ屋さんでラビ先輩達と会ってみんなで食べたあと、そのまま焼き菓子屋さんに向かってたの」
「うん」
「その途中で、小さい男の子がヴァンパイアに攫われるところを見て……」
ゼノンの目が僅かに細くなった。
「それで?」
「……追いかけた」
「誰が?」
「私」
笑顔はまだ残っている。
「一人で?」
「最初は……」
「ルシア様が一番に駆け出されました。私たちもすぐに追いましたが」
エリーゼが助け舟を出してくれる。
「僕とクロードも追ったよ。セドリックにはミアちゃんについててもらって」
ラビも続けた。
ゼノンは頷いた。
「なるほど」
穏やかな声だった。
けれど、さっきより笑顔が薄い。
「それで?」
「私が最初に追いついて、犯人の服を掴んだの」
「うん」
「そしたら……」
言葉が詰まる。
「そしたら?」
「……殴られた」
笑顔が消えた。
完全に。
「どこを?」
「顔……」
ゼノンの赤い瞳が、ルシアの顔をじっと見る。
傷などもう残っていない。それでも、視線だけで殴られた場所を探しているようだった。
「血は?」
「……口の中が切れた」
「出たんだね」
「ちょっとだけ」
「ちょっと」
「もう治ってるよ?」
「治ってるかどうかを聞いてるんじゃないよ」
声は静かなままだ。
だからこそ怖い。
クレイドが少し離れたところから「終わったな」という顔をしている。
「相手は?」
ゼノンがラビを見る。
「元人間のヴァンパイア。かなり正気を失ってた。最終的にはエリーゼちゃんが凍らせて、僕たちで拘束した。子供も無事」
「そう」
「そのあとちゃんと引き渡したから、もう問題ないよ」
「そういう問題じゃないんだけどね」
ラビが黙った。
「ごめんなさい……」
ルシアが小さく謝る。
ゼノンはしばらく何も言わなかった。
やがて深く息を吐く。
「子供を助けたことを怒るつもりはないよ」
「……ほんと?」
「ああ。ルシアが見捨てられないことくらい知ってる」
少しだけ安心する。
「ただし、覚醒したばかりで自分の身体すらまともに扱えない状態で、相手がどんなヴァンパイアかも分からないまま一人で飛び出したことは怒ってる」
「……はい」
「拳は見えてたんでしょ?」
「なんで分かるの?」
「今のルシアの目なら見えるはずだから。それでも殴られたってことは、身体がついていかなかったんだろうなと思っただけ」
図星だった。
「……見えてた」
「やっぱりね」
ゼノンは額へ手を当てる。
「お願いだから、自分が純血だから何をしても大丈夫だとは思わないで。今のルシアは強い身体を持ってるだけで、その使い方は赤ん坊みたいなものなんだから」
「赤ん坊……」
「言い方は悪いけど、間違ってはいないよ」
ラビが苦笑した。
「僕たちも驚くくらい速かったけどね」
「速く走れることと戦えることは別だから」
ゼノンが即座に返す。
正論だった。
「……はい」
「次からは?」
「一人で行かない」
「よろしい」
少しだけ表情が戻った。
これなら、もしかしたら。
そう思った瞬間だった。
エリーゼが静かに口を開く。
「ゼノンさん。もう一つございます」
――言わないで。
ルシアがエリーゼを見る。
しかし、エリーゼは視線を逸らさなかった。
「ミアさんに、ルシア様がヴァンパイアであることを知られました」
ゼノンが止まった。
部屋が静かになる。
ゼノンがゆっくりルシアを見る。
「ルシア」
「はい……」
「僕たち、なんて約束したっけ?」
「……正体が知られたら」
「うん」
「夜間部へ……」
「うん」
「でも!」
反射的に立ち上がる。
「ミアだけ! ミアしか知らないから!」
「一人でも知られたことには変わらないよ」
「ミアは絶対誰にも言わない!」
「それは僕も信じるよ」
「だったら!」
「今回だけは様子を見る」
予想していなかった言葉に、ルシアは瞬きをした。
「……いいの?」
「ああ」
ゼノンは頭が痛そうに眉間を押さえた。
「ミアなら秘密を守ってくれるだろうし、今回知られた理由も子供を助けるためだった。だから、これだけで無理やり夜間部へ移すつもりはないよ」
「お兄様……!」
「ただし」
喜びかけたルシアを制する。
「次に同じことが起きたら、本当に終わりだよ」
「……はい」
「昼間部で人間として振る舞えること。それが昼間部へ残る条件だからね」
「分かった!」
ゼノンはまだ納得していない顔をしていた。
それでも、ルシアが昼間部に残りたいことを尊重してくれたのだ。
だからこそ、今度こそ絶対に気をつけよう。
そう決めた。
――はずだった。
◇
次の登校日。
「ルシア、今日は傘を持っていきなさい」
玄関で靴を履いていたルシアに、ゼノンが声をかけた。
「傘?」
「今日は陽の光が強いからね。差して行った方がいい」
「でも、雨は降ってないよ?」
「雨傘として使う必要はないよ。日傘だよ」
ゼノンは玄関脇に置いてあった黒い傘を手に取り、ルシアへ差し出した。
「覚醒したばかりなんだから、無理に陽を浴び続けないこと。少しでも辛いと思ったら、すぐに日陰へ入るんだよ」
「……分かった」
ルシアは傘を受け取った。
言われた通りに開いてみると、頭上に広がった黒い布が朝の光を遮る。
「これなら大丈夫そう」
「大丈夫そうでも、無理はしないでね」
「はいはい」
「返事は一回でいいよ」
「分かりました!」
ゼノンは満足そうに頷いた。
「それじゃあ、行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
家を出た瞬間、ルシアは思わず目を細めた。
傘を差しているのに、地面から照り返す光が眩しい。
「……眩しい」
朝の陽射しが強い。
以前なら、それだけだった。
晴れているな、今日は少し暑くなりそうだな。その程度にしか思わなかったはずなのに、覚醒してからは違う。
白く照り返す石畳が目に刺さるように眩しく、肌に直接陽が当たると、じりじりと焼かれているような不快感があった。
火傷するわけではない。
陽を浴びた途端に倒れるわけでもない。
普通に歩くことだってできる。
けれど、身体の奥底が太陽を嫌がっている。
「……暑い」
思わず傘を少し傾け、日陰へ寄った。
気温の問題ではないことくらい、自分でも分かっていた。
人間だった頃には気持ちよかった朝の光が、今は少し辛い。
目を伏せながら歩いていると、隣にいたクレイドがこちらを見る。
「無理なら休めばいいだろ」
「大丈夫。今日から休んだら、本当にお兄様に夜間部へ入れられちゃう」
「どうせ時間の問題だと思うけどな」
「縁起でもないこと言わないで!」
「事実だろ」
「もう!」
クレイドと、昼間部の校舎へ向かう。
校門を抜けたところで、聞き慣れた明るい声が飛んできた。
「おはよう、ルシア!」
ミアだった。
「おはよう」
「昨日大丈夫だった?」
「……怒られた」
「やっぱり?」
「でも、まだ昼間部にいていいって!」
「ほんと!?」
「うん!」
二人で喜んでいると、後ろからエリーゼがやってくる。
「おはようございます」
「エリーゼ、おはよう!」
いつもと変わらない。
眩しそうに目を細めることもなく、穏やかな顔で歩いてくる。
その姿を見て、ルシアはふと気づいた。
「……エリーゼ」
「はい?」
「陽の光って……辛くないの?」
エリーゼが僅かに目を見開いた。
「どうされたのですか、突然」
「私、今まで何ともなかったから分からなかったんだけど……覚醒してから、太陽の光がすごく眩しいし、肌に当たるとビリビリするっていうか……」
ルシアは手の甲を陽へ出してみる。
途端に感じる不快感に、すぐ傘の下へ戻した。
「痛いほどじゃないんだけど、ずっと浴びてると疲れる」
「そうですね。ヴァンパイアにとって陽の光は、あまり心地の良いものではありませんから」
エリーゼは何でもないことのように答えた。
「慣れてしまえば、ある程度は平気になりますよ。もちろん個人差はありますが」
「……エリーゼは?」
「私ですか?」
「ずっと昼間部に通ってるよね」
「はい」
ルシアは初めて、エリーゼをまじまじと見た。
朝、一緒に登校して。
昼休みには外へ出ることもあった。
休日だって三人で街を歩いた。
自分が人間だった頃、エリーゼが太陽を避けているなんて考えたこともなかった。
「もしかして……ずっと辛かったの?」
「もう慣れていますから」
「でも最初は?」
少しだけ間があった。
「……最初の頃は、かなり」
「え……」
「特に夏は大変でしたね。眩しさもありますし、長時間陽を浴びていると身体が重くなりますから。なるべく日陰を選んだり、休み時間は室内で過ごしたりしていました」
そんなこと、一度も言わなかった。
ルシアは思い返す。
エリーゼはいつも自然に日陰側を歩いていた気がする。
三人で外へ出たときも、自分やミアに合わせながら、木陰に近い場所へ立つことが多かった。
今まで気づかなかった。
「……エリーゼ、いつもこんなに辛かったんだ」
思わず零れた。
「私、全然知らなかった……」
「ルシア様が気にされることではありません」
「でも」
「私は自分で昼間部にいることを選んでいますから」
エリーゼはいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「それに、ルシア様とミアさんと過ごせましたので。悪いことばかりではありませんよ」
「エリーゼ……」
胸の奥が温かくなる。
隣ではミアが何度も瞬きをしていた。
「え、待って。エリーゼってそんなに太陽しんどかったの?」
「もっと言ってよ!」
「言ってどうするのですか?」
「日陰歩くとか!」
「それは助かりますね」
「じゃあ今日から日陰!」
ミアが即座に進路を変えた。
わざわざ校舎が作る影の中へ入り、「ほら!」と二人を手招きする。
ルシアは思わず笑った。
「極端だよ」
「だって二人ともヴァンパイアなんでしょ? 人間の私が合わせた方が早いじゃん」
「ありがとうございます」
エリーゼが笑う。
ルシアもミアの隣へ移動した。
陽射しから外れた瞬間、身体がほっとする。
「……全然違う」
「そんなに?」
「うん。人間だったときは日陰なんて気にしたことなかった」
その言葉を口にして、ルシアは改めて思った。
自分はもう、本当に人間ではないのだ。
血が欲しくなることも。
遠くの音が聞こえることも。
人間ではあり得ない速さで走れることも。
陽の光を辛いと感じることも。
どれも少しずつ、十年間当たり前だった生活から自分を遠ざけていく。
けれど。
隣にはミアがいる。
もう一人の隣にはエリーゼがいる。
それなら、もう少しだけここにいたい。
昼間部で、二人と一緒に過ごしたい。
「今日こそ絶対何も起こさないから」
ルシアが決意を込めて言う。
「昨日も似たようなこと言ってなかった?」
「ミア!」
「だって本当じゃん」
「今日は大丈夫!」
「その台詞、危ないですよ」
エリーゼにまで言われた。
「エリーゼまで!」
三人で笑いながら校舎へ向かう。
今日こそは何も起こさない。
普通に授業を受けて、普通に友達と話して、普通の昼間部の生徒として一日を終える。
そう思っていた。
校舎へ入る直前だった。
前を歩いていた女子生徒が、階段を踏み外した。
「あっ――」
身体が大きく後ろへ傾く。
危ない。
そう思った瞬間には、ルシアは動いていた。
一瞬前まで数メートル離れていたはずなのに、次の瞬間には女子生徒の背中へ腕を回していた。
「大丈夫!?」
「……え?」
抱き止められた少女が目を丸くする。
「怪我ない?」
「う、うん……ありがとう」
「よかった」
ほっと息を吐く。
その直後、背後から声がした。
「……え?」
振り返る。
数人の生徒がこちらを見ている。
「今……」
「ルシア、めっちゃ速くなかった?」
血の気が引いた。
「え?」
「だってさっき、あそこにいたよね?」
一人が数メートル後ろを指す。
「一瞬でここまで来なかった?」
「見間違い?」
「いや、俺も見た」
「私も」
まずい。
「え、えっと……」
何か言わなければ。
けれど何も思いつかない。
「ルシアって、そんな足速かったっけ?」
「いやいやいや!」
突然、ミアが割り込んできた。
「何言ってんの! ルシア昔から足速いじゃん!」
ルシアがミアを見る。
――そんな設定あったっけ?
ミアの目が「合わせて!」と訴えている。
「そ、そう! 私、足速いよ!」
「でも今の速さおかしくなかった?」
「ほら、あれだよ!」
ミアが必死に続ける。
「危ないって思ったときって、なんかいつも以上の力出るじゃん! 火事場の馬鹿力みたいな!」
「足で?」
「足でも出るの!」
かなり苦しい。
「それに、皆さんも驚いて大袈裟に見えたのではないでしょうか」
エリーゼが穏やかに加わった。
「咄嗟の出来事でしたし、実際には皆さんが思われたほどの距離ではなかったのかもしれません」
「……そうかな?」
「そうですよ」
エリーゼは微笑んでいる。
完璧だ。
「ほら、授業に遅れますよ」
その一言で、どうにかその場は散っていった。
三人だけになった瞬間。
「……危なかったぁ」
ルシアが胸を押さえる。
「危なかったじゃないよ!」
ミアが小声で怒る。
「昨日バレたばっかりなのに!」
「だって転びそうだったから!」
「分かるけど!」
「身体が勝手に動いちゃったの!」
エリーゼだけは何も言わなかった。
その表情が妙に真剣で、ルシアは少し不安になる。
「……エリーゼ?」
「いえ」
「何?」
「何でもありません」
そう答えたものの、エリーゼの中ではすでに答えが出ていた。
ルシアは隠すことが下手なのではない。
人間として十年間生きてきたせいで、ヴァンパイアの力を使うことそのものに警戒心がないのだ。
誰かが危なければ助ける。
何かが落ちれば反射的に取る。
遠くの声が聞こえれば振り返る。
血の匂いにも反応する。
そして、陽の光さえ、もう以前と同じようには受け止められない。
本人にとっては、それまでの自分と同じように行動しているだけなのに、今の身体でそれをすれば人間の範囲から簡単にはみ出してしまう。
昨日はミア。
今日は複数の生徒。
次は、もっと大勢に見られるかもしれない。
――時間の問題だ。
◇
その日の夕方。
エリーゼは一人で夜間部の校舎を訪れていた。
「ゼノンさん」
「どうしたの?」
教室を出たところで呼び止められ、ゼノンが振り返る。
「ルシア様について、お話があります」
その一言だけで、ゼノンの表情が変わった。
「また何かした?」
「……本日、転びそうになった女子生徒を助けようとして、人間ではあり得ない速度で移動されました」
ゼノンが黙る。
「複数名に目撃されています。ミアさんと私で誤魔化しましたので、今のところ正体が知られたわけではありません」
「そう」
「ですが……」
エリーゼは僅かに言葉を選んだ。
「隠し続けるのは、ルシア様には難しいと思います」
ゼノンも否定しなかった。
「僕もそう思うよ」
意外なほど静かな返事だった。
「ルシアは人間として生きることに慣れすぎてる。自分が今どれだけ人間と違うのか、頭では分かっていても感覚が追いついてないんだ」
「はい」
「それに、困ってる人を見たら考える前に動くからね」
ゼノンは小さく息を吐いた。
「……昼間部に置いておくのは、限界かな」
◇
その日の帰宅後。
ルシアはリビングのソファに座り、向かいにいるゼノンを警戒していた。
隣にはアルベルト。
少し離れたところにはクレイドまでいる。
明らかに話し合いの配置だ。
「……な、何?」
「ルシア」
「はい」
「今日、何かあった?」
「……」
どうして知っている。
顔に出たらしい。
「エリーゼから聞いたよ」
「エリーゼぇ……」
思わず呟く。
「告げ口じゃないよ」
ゼノンが苦笑する。
「ルシアを守るための報告」
「でも、ちゃんと誤魔化せたもん」
「今回はね」
「……」
「昨日はミアに知られた。今日は複数の生徒に見られた」
「でもバレてないよ?」
「だから、次も大丈夫だと思う?」
答えられなかった。
ゼノンは責めるようには言わなかった。
「僕は最初から、ルシアが昼間部へ残るのは難しいと思ってた」
「……知ってる」
「それでも残りたいって言ったから、試してみようと思った」
「うん」
「でも、もう十分試したと思う」
胸が沈む。
何を言われるのか分かってしまった。
「夜間部へおいで」
「……」
「ルシア」
「……やだ」
小さな声だった。
「ミアと一緒に授業受けたい」
「うん」
「今までずっと昼間部だったし」
「分かってる」
「友達もいるし……」
「うん」
「普通に卒業したかった」
ゼノンは否定しなかった。
それが余計に寂しい。
アルベルトも静かに口を開く。
「ルシア。昼間部を離れたからといって、ミアたちと友達でいられなくなるわけじゃない」
「分かってるけど……」
「学園の中でも会える。休日だって一緒に出かけられる」
「……うん」
分かっている。
全部分かっている。
それでも。
十年間、人間として生きてきた自分にとって、昼間部はただのクラスではなかった。
自分が自分でいられる場所だった。
けれど今朝、陽の光の下を歩いて初めて気づいた。
昼間部へ通うということは、ただ正体を隠せばいいだけではない。
これから毎日、ヴァンパイアになった身体で人間の生活に合わせ続けるということなのだ。
エリーゼは、それをずっと続けていた。
何も言わずに。
自分たちと一緒にいるために。
「……エリーゼって、すごいんだね」
突然そう言ったルシアに、三人が首を傾げる。
「今日ね、初めて分かったの。陽の光がこんなに辛いって」
ゼノンの表情が少し変わった。
「朝から辛かった?」
「ちょっとだけ。普通に歩けるけど、ずっと陽に当たってると身体が疲れるし、肌がじりじりして……。エリーゼはずっとこんな状態で昼間部に通ってたんだなって」
「エリーゼは長く続けてるから慣れてる部分もあるよ。でも、ヴァンパイアにとって昼間に活動すること自体、身体に負担がないわけじゃない」
「……そっか」
それも、今までは知らなかった。
知ろうとしたことすらなかった。
「それに」
ゼノンが続ける。
「今のルシアに必要なのは、自分の身体を知ることだよ」
ルシアが顔を上げる。
「夜間部なら、速く動いても隠す必要はない。耳が良くても、血の匂いが分かっても、突然力が溢れても、周りは全員ヴァンパイアだ。それに、わざわざ身体が辛い時間帯に無理して活動する必要もない」
「……」
「僕もいる」
その言葉に少しだけ心が揺れる。
「ラビも、クロードも、セドリックも、ルイスもいる。エリーゼだって、ルシアが移動したら――」
「私も夜間部に移動します」
背後から、エリーゼの声がした。
ルシアが振り返る。
いつの間にか部屋へ入ってきていたエリーゼは、まっすぐゼノンを見ていた。
「……エリーゼ?」
「ルシア様が夜間部へ移動されるのであれば、私も夜間部へ移動します」
「えっ?」
ルシアは目を丸くした。
「でも、エリーゼはずっと昼間部に……」
「はい。ですが、ルシア様が夜間部へ移られるのであれば、私が昼間部に残る理由はありません」
「理由がないって……」
「私は、ルシア様とミアさんと一緒に過ごすために昼間部を選んでいましたから」
エリーゼは穏やかに微笑んだ。
「ルシア様が夜間部へ移られるなら、私も同じ場所へ行きます」
「エリーゼ……」
胸の奥が熱くなる。
「でも、ミアは?」
「私は昼間部に残るよ!」
ミアの声が聞こえた。
エリーゼの後ろから、ミアがひょこっと顔を出す。
「ミア!?」
「だって私は人間だし、夜間部に行ったら授業中に寝ちゃうもん!」
「そこなの?」
「それに、ルシアが夜間部に行っても友達なのは変わらないでしょ?」
ミアは笑った。
「放課後も会えるし、休日も遊べる。だから大丈夫!」
「……うん」
ルシアは俯いた。
夜間部へ行くことが嫌なのではない。
夜間部には知っている人がたくさんいる。怖くもない。
ただ、昼間部を離れることが寂しいのだ。
けれど、エリーゼが一緒に来てくれる。
ミアも友達でいてくれる。
それなら、少しだけ前を向ける気がした。
「……エリーゼ、本当に来てくれるの?」
「もちろんです」
「昼間部を離れても?」
「はい」
「後悔しない?」
「しません」
エリーゼは迷いなく答えた。
「ルシア様と同じ場所にいられる方が、私にとって大切ですから」
ルシアの目に涙が浮かぶ。
「……ありがとう」
「お礼を言われることではありません」
「でも、ありがとう」
ルシアはエリーゼへ抱きついた。
エリーゼは少し驚いたあと、優しく背中へ手を回す。
「私も、ルシア様と一緒に夜間部へ行きます」
「うん……!」
その様子を見ていたゼノンは、嬉しそうに笑った。
「手続きが二人分になるね」
「お願いします」
エリーゼが頭を下げる。
「分かったよ」
ゼノンは頷いた。
「ルシアとエリーゼ、二人とも来週から夜間部へ移動しよう」
「本当に?」
「うん。エリーゼが自分で決めたことなら、僕が止める理由はないからね」
「ありがとうございます」
「ただし、エリーゼ」
「はい」
「昼間部で築いてきたものを手放すことになる。それでもいいんだね?」
「はい」
エリーゼは迷わなかった。
「私はこれまで、ルシア様を支えるために昼間部で過ごしてきたんです。ルシア様が夜間部へ移動されるなら、これからは夜間部でお支えしたいと思います」
「……そっか」
ゼノンは柔らかく笑った。
エリーゼも夜間部に編入する事は想定済みだったのだろう。
「なら、歓迎するよ」
「ありがとうございます」
「これで授業中もルシアとエリーゼが一緒にいられるね」
ゼノンが嬉しそうに言う。
「お兄様、嬉しいでしょ」
「もちろん」
即答だった。
「これで授業中もルシアと一緒にいられる」
「そこ?」
「大事なところだよ」
クレイドが呆れた顔をする。
「最初からそれが目的だったんじゃねぇの?」
「失礼だな。ルシアの安全が一番だよ」
「二番目は?」
「一緒にいられること」
「ほぼ同率じゃねぇか」
「うるさいな、君も夜間部に来るかい?」
「俺はいいよ昼間部で」
いつものやり取りに、ルシアは思わず笑った。
するとゼノンが立ち上がる。
「じゃあ、決まりだね」
「うん……」
まだ少し寂しい。
けれど、エリーゼが一緒に来てくれる。
ミアも友達でいてくれる。
自分で納得して決めたのだと思えた。
「制服ってどうするの?」
昼間部は白。
夜間部は黒。
当然、今持っている制服は使えない。
「あるよ」
「……え?」
ゼノンは何でもないことのように答えた。
「ルシアの夜間部の制服」
「なんで!?」
「用意してたから」
「いつ!?」
「覚醒した翌日」
「早すぎない!?」
ルシアが立ち上がる。
「私、昼間部に残るって言ったよね!?」
「言ってたね」
「じゃあなんで作ったの!?」
「必要になると思ったから」
「最初から私が失敗すると思ってたの!?」
「うん」
「ひどい!」
「だってルシアだよ?」
「どういう意味!?」
ゼノンは楽しそうに笑っている。
「困ってる人を見たら助けるし、危ないものを見たら自分から飛び込む。しかも覚醒したばかりで力加減も分からない。長くて一週間かなって」
「……」
「むしろ数日もったから偉いよ」
「褒められてる気がしない!」
クレイドが吹き出した。
「ゼノンの読み通りじゃねぇか」
「クレイドまで!」
アルベルトまで口元を押さえている。
「アルも笑わないで!」
「すまない」
まったく反省していない。
「もう……!」
頬を膨らませるルシアの前で、ゼノンは楽しそうに立ち上がった。
「見てみる?」
「何を?」
「制服」
「今?」
「もう届いてるよ」
「……本当に先回りしすぎ」
数分後。
ゼノンが持ってきたのは、見慣れた昼間部の白とは正反対の制服だった。
黒を基調とした夜間部の制服。
ルシアは受け取る。
「……これ着るんだ」
「似合うと思うよ」
黒い髪。
赤い瞳。
今の自分なら、確かに白よりもこちらの方が馴染むのかもしれない。
それでも、胸の奥には少しだけ寂しさが残る。
白い制服を着てミアとエリーゼと登校する毎日は、もうすぐ終わる。
「エリーゼの制服は?」
ルシアが尋ねると、ゼノンはすぐに答えた。
「もちろん用意するよ。エリーゼの分も、来週までには間に合わせる」
「ありがとうございます」
「エリーゼは今の制服を気に入っていたんじゃないの?」
ミアが尋ねる。
「はい。ですが、夜間部の制服もきっと似合うと思います」
「絶対似合う!」
「ルシアとお揃いだね」
「お揃い……」
ルシアは黒い制服を見つめた。
一人で移るのではない。
エリーゼと一緒に、昼間部から夜間部へ移るのだ。
「編入の手続きは僕がしておく」
アルベルトが言った。
「今週いっぱいは昼間部で過ごしていい。来週から夜間部へ移りなさい」
「……今週はまだ昼間部にいていいの?」
「ああ」
ぱっと顔を上げる。
「じゃあミアといっぱい過ごす!」
「いつでも会えるって言ってるだろ」
クレイドが呆れる。
「分かってるけど、同じクラスなのと違うもん」
「私も今週は、これまで通り昼間部で過ごします」
エリーゼが言った。
「来週からは一緒に夜間部へ行きましょう」
「うん!」
ルシアは黒い制服を胸元へ抱えた。
寂しくないと言えば嘘になる。
人間として過ごした十年間を捨てるわけではない。
昼間部を離れても、ミアは友達のままだ。
エリーゼとは、これから同じ夜間部で過ごせる。
それでもこれは、自分の生活が本当の意味でヴァンパイア側へ移っていく最初の大きな変化なのだと思った。
「……来週からかぁ」
「楽しみだね」
隣でゼノンが言う。
「お兄様はね」
「ルシアもすぐ楽しくなるよ」
「本当に?」
「うん。僕がいるから」
あまりにも当然のように言うので、ルシアは笑ってしまった。
「それ、自分で言う?」
「事実だから」
「もう」
エリーゼも静かに微笑んでいる。
「私もおりますから、ご安心ください」
「うん。エリーゼが一緒なら、きっと大丈夫」
黒い制服へもう一度目を落とす。
来週から、自分とエリーゼは夜間部の生徒になる。
もう、人間のふりをする必要はない。
速く動くことも、遠くの声が聞こえることも、血の匂いに反応することも、赤い瞳も、純血の力も。
そして、陽の光を避けることさえ。
隠さなくていい場所へ行く。
寂しさはある。
それでも少しだけ、楽しみでもあった。
「……じゃあ、来週からよろしくね。お兄様」
「うん」
ゼノンは待ち望んでいたように笑った。
「やっと同じクラスだね、ルシア」
「私も、よろしくお願いします」
エリーゼが続ける。
ゼノンはさらに嬉しそうに笑った。
「もちろん。二人とも、夜間部へようこそ」




