お出掛け
「ルシア、エリーゼ! 早く早く!」
休日の昼下がり、アストリアの大通りを歩きながら、ミアは何度目か分からないほど振り返って二人を急かした。
「そんなに急がなくても、開演時間には間に合うよ」
「分かってるけど、こういうのは早めに入って雰囲気を楽しむものなの!」
「ミアさん、昨日からずっと楽しみにされていましたものね」
エリーゼがくすりと笑う。
今日は三人で街の劇場へ演劇を観に行く約束をしていた。話題になっている恋愛劇らしく、誘ってきたのはもちろんミアだ。
「だって今すっごく人気なんだよ! 身分違いの恋! 許されない二人! 家族の反対! 駆け落ち!」
「最後の方、物騒じゃない?」
「そこがいいんじゃん!」
「私にはまだ理解が難しいです……」
「エリーゼはもっと恋愛を勉強した方がいいよ!」
「勉強するものなのでしょうか」
そんな二人のやり取りを聞きながら、ルシアは笑った。
覚醒してから、まだそれほど日は経っていない。
身体も変わった。聞こえる音も、感じる匂いも、以前とはまるで違う。人間として暮らしていた頃なら気にも留めなかった雑踏の中で、今は何十人もの足音や話し声が同時に耳へ入ってくる。
それでも、こうしてミアやエリーゼと一緒に街を歩いていると、以前と何も変わっていないような気がした。
劇場へ着いて席に座り、幕が上がると、ミアは開始十分もしないうちに完全に物語へ入り込んだ。
主人公と恋人が初めて手を握れば「きゃっ」と小さく声を上げ、家族に交際を反対されれば眉間に皺を寄せ、二人が引き離される場面では目に涙まで浮かべている。
ルシアは劇そのものより、途中からミアの反応を見る方が面白くなっていた。
隣を見ると、エリーゼも同じだったらしい。
目が合う。
二人同時に小さく笑った。
「何?」
ミアが涙目のまま振り返る。
「なんでもないよ」
「絶対私のこと笑ったでしょ!」
「笑ってません」
「エリーゼまで!」
結局、終演後に一番泣いていたのはミアだった。
「よかったぁ……最後一緒になれて本当によかった……」
劇場を出てもまだ目元を拭っている。
「ミア、泣きすぎ」
「ルシアは泣かなすぎ!」
「ちょっと泣いたよ?」
「エリーゼなんて一滴も泣いてないじゃん!」
「とても素敵なお話でした」
「感想が冷静すぎる!」
三人で笑いながら大通りを歩き、次に向かったのは最近できたばかりのパンケーキ店だった。
開店以来、連日行列ができている人気店で、ミアがどうしても行きたいと言っていた店でもある。
「うわ……」
店の前まで来たルシアは、ずらりと並んだ人を見て足を止めた。
「これ、どれくらい待つの?」
「一時間くらい?」
「一時間!?」
「人気店なんだから普通だよ!」
「パンケーキのために……?」
「パンケーキを馬鹿にしないで!」
ミアに怒られながら列へ並び、それでも三人で話しているうちに時間は意外と早く過ぎた。
やがて順番が近づいたところで、店員が申し訳なさそうに声をかけてきた。
「三名様ですよね?」
「はい!」
「もしよろしければ、席にご案内済みの三名様と相席でしたら、すぐにご案内できるのですが……」
三人で顔を見合わせる。
「私はいいよ」
「私も構いません」
「じゃあ相席で!」
案内された大きめのテーブルへ向かい、先に座っている三人が見えた瞬間、ルシアは足を止めた。
「あれ?」
向こうも気づいた。
「ルシアちゃん?」
ピンク色の髪を揺らしながらラビが手を振る。
その隣にはセドリック。
そしてもう一人はクロードだった。
「ラビさん!?」
ミアが声を上げる。
「え!? え!? ラビ先輩!? セドリック先輩とクロード先輩まで!?」
「お、昼間部の三人組じゃん」
クロードが笑う。
「すごい偶然!」
ルシアが席へ座ると、セドリックが疲れたようにため息をついた。
「偶然というか、俺たちはこいつに連れてこられた」
親指でラビを指す。
「甘いもの食べたくなったんだもん」
「一人で来ればいいだろ」
「男一人でパンケーキ屋さん入るの寂しいじゃん!」
「だからって俺まで巻き込むなよ」
クロードは楽しそうにメニューを眺めている。
「俺は別にいいけどな。女の子多いし」
「そういう理由でついてきたんですか?」
ルシアが呆れると、クロードは笑った。
「半分くらい?」
「残り半分は?」
「パンケーキ」
「思ったより普通でした」
向かい側では、ミアが完全に舞い上がっていた。
普段は別校舎で授業を受けている夜間部の有名な上級生三人と、休日に同じテーブルでパンケーキを食べることになったのだ。
「すごい……」
「何が?」
ラビが首を傾げる。
「私、今日来てよかった……」
「演劇じゃなくて?」
ルシアが聞く。
「演劇もよかった! でも今もすごい!」
「大袈裟だなぁ」
やがてパンケーキが運ばれてくると、今度はラビの目が輝いた。
「きた!」
ふわふわに焼かれたパンケーキの上に、生クリームと果物がたっぷり載っている。
「美味しそう!」
ミアとラビがほぼ同時に声を上げた。
「ラビ先輩って甘いもの好きなんですね」
「大好きだよ」
「意外!」
「え、なんで?」
「もっと血ばっかり飲んでるのかと思ってました」
ミアが何気なく言い、ラビが一瞬止まる。
セドリックが吹き出した。
「お前、ヴァンパイアをなんだと思ってるんだ」
「だってヴァンパイアじゃないですか!」
「普通の食い物も食うよ」
「食べなくても生きていけるけど、大体の人は食べてると思う」
ラビが言いながらパンケーキを一口食べる。
直後、満面の笑みになった。
「おいしい!」
「本当に好きなんだ……」
ルシアが笑う。
エリーゼも紅茶を飲みながら静かに微笑んでいた。
「ルシアちゃん、それ一口ちょうだい」
ラビがルシアの皿を指す。
「いいですよ。じゃあラビさんのもください」
「いいよ!」
「俺も」
クロードが当然のようにフォークを出してくる。
「クロード先輩は駄目です」
「なんで!?」
「私と全く同じ苺のパンケーキ食べてるじゃ無いですか」
「トッピングが違うじゃん?」
「まぁ、たしかに。でも、ラビ先輩のはチョコ味なので、気になるので交換です」
「じゃあ俺も交換」
「いりません」
「扱い違いすぎない?」
笑い声がテーブルを囲んだ。
ミアもすっかり緊張が解け、いつの間にかラビやクロードと普通に話している。
セドリックだけは騒がしい面々を眺めながら、黙々とコーヒーを飲んでいた。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、店を出たところでラビが「あ」と声を上げた。
「忘れるところだった」
「何を?」
「ルイスさんにお土産頼まれてたんだ」
「ルイスさんに?」
「うん。アストリア噴水広場の前にある焼き菓子屋さん。そこのクッキーが好きなんだって」
クロードが笑う。
「あいつ、意外と甘党だよな」
「ルイス先輩も甘いもの食べるんですか!?」
ミアがまた食いつく。
「食べるよ」
「行きたい!」
「ミア、元気だね……」
「せっかくだから行こうよ!」
結局、六人で焼き菓子店へ向かうことになった。
休日の街は人が多く、噴水広場へ続く大通りには家族連れの姿も目立つ。
パンケーキの話。
演劇の話。
学園の話。
そんな他愛のない会話をしながら歩いていたときだった。
「やだっ!」
甲高い声が聞こえた。
ルシアが振り返る。
少し離れた路地の入口。
幼い男の子が、見知らぬ男に腕を掴まれていた。
「離して!」
「静かにしろ……!」
男が子供を抱え上げる。
その瞬間、ルシアの鼻へ血の匂いが届いた。
人間ではない。
「ヴァンパイア……!」
男は子供を抱えたまま路地へ走り込んだ。
考えるより先に、ルシアの身体が動いた。
「ルシア!?」
ミアの声が背後で響く。
地面を蹴った。
景色が一瞬で後ろへ流れる。
「――っ!?」
自分でも驚いた。
速い。
人間だった頃とは比較にならない。
道行く人々の姿が流れ、風が頬を切る。
前を走るヴァンパイアとの距離が一気に縮まった。
「ルシア様!」
エリーゼもすぐ後ろから追ってくる。
「セドリックさん! ミアをよろしく頼みます!」
そう叫び残し、さらに速度を上げた。
「俺たちも行くぞ!」
ラビとクロードも駆け出す。
「え!? ちょ、ルシア!?」
その場に残されたミアが呆然とする。
「なに、今の速さ……」
セドリックだけが険しい顔で路地の先を見つめた。
◇
追いつける。
ルシアは前を走る男の背中を見据えた。
「待ちなさい!」
男が振り返る。
赤い目。
焦点が定まっていない。
口元から牙が覗いている。
抱えられた子供が泣いていた。
「お母さん……!」
その声を聞いた瞬間、ルシアはさらに強く地面を蹴った。
一気に距離を詰め、男の上着を掴む。
「その子を離して!」
「グァッ……!」
男が急停止した。
次の瞬間。
拳が飛んできた。
見えた。
はっきりと見えた。
人間だった頃なら視認することすらできなかったであろう速度の拳が、今のルシアには遅く感じられる。
――避けられる。
そう思った。
けれど。
身体が動かなかった。
「――っ!」
拳が頬へ直撃する。
ルシアの身体が吹き飛び、地面を滑った。
「ルシア様!」
エリーゼの声が響く。
「いった……」
ルシアはすぐに起き上がった。
口の中に鉄の味が広がっている。
舌で触れると、頬の内側が切れていた。
血を地面へ吐き出す。
「ぺっ……」
殴られた頬の痛みは、もう薄れ始めていた。
拳は見えていた。
なのに避けられなかった。
視覚は追いついている。
けれど、身体の使い方が分からない。
覚醒したばかりの純血の身体。
力も速度も、人間だった頃とは違いすぎる。
「見えてたのに……!」
「ルシア様、無理をなさらないでください!」
エリーゼがルシアの前へ出た。
「その子を離しなさい!」
男が唸る。
「血……血ィ……」
様子がおかしい。
会話すら成立していない。
「正気を失っていますね」
エリーゼが低く呟いた。
男が再び走り出そうとした瞬間。
「逃がしません」
エリーゼが地面へ手を向ける。
冷気が走った。
一瞬で石畳が白く凍りつき、氷が男の両足へ絡みつく。
「グァアッ!?」
足を取られた男が体勢を崩した。
その隙に。
「子供を離して!」
ルシアが叫ぶ。
男は苛立ったように振り返り、抱えていた子供を後ろへ投げ捨てた。
「きゃあっ!」
「危ない!」
ルシアが動こうとした、その瞬間。
男の頭が突然燃えた。
「グァアアアッ!」
「え!?」
炎が髪だけを包む。
あっという間に焼け落ちた。
「よし、禿げ完成」
後から追いついたクロードが指を鳴らす。
「グルルルル……!」
髪を失った男が、なおも牙を剥いて唸った。
クロードが目を丸くする。
「……あれ? 思ってたリアクションじゃないわ」
「クロード先輩、何遊んでるんですか?」
ルシアが呆れた声を出す。
「ははっ、悪りぃ悪りぃ!」
「笑ってる場合じゃないです!」
その間にも、投げ捨てられた子供は地面へ落ちる。
――はずだった。
ふわり、と途中で身体が止まった。
「え……?」
誰もいない。
そう見えた次の瞬間。
子供の身体が宙を移動する。
数メートル離れた場所で、何もなかった空間が揺らいだ。
「はい、保護完了」
ラビが姿を現した。
腕の中には、泣いている子供。
「もう大丈夫だよ」
「うっ……お母さん……」
「大丈夫。お兄さんたちがちゃんとお母さんのところまで連れて帰るからね」
ラビは子供を抱いたまま後ろへ下がる。
これで人質はいない。
「エリーゼ」
「はい」
「もう遠慮しなくていいよね」
ルシアが男を見る。
赤い瞳が僅かに細くなった。
男も本能的に何かを感じ取ったのか、初めて後ずさった。
「……グ……」
「子供を攫うなんて、最低」
怒りが湧く。
その瞬間。
空気が震えた。
「ルシア様!」
エリーゼの声で、はっとする。
朝から何度も言われている。
感情に力を引っ張られない。
深く息を吸う。
吐く。
けれど男は、その隙を狙って飛びかかってきた。
「危ない!」
今度こそ避けようとした。
それでも、また身体が一瞬遅れる。
しかし拳が届く前に、横からクロードが男の腕を掴んだ。
「まだ戦い方は初心者みたいだな、お姫様」
「う……」
「力任せに動こうとするな。見えてんなら、そのうち身体も追いつく」
男がクロードへ噛みつこうとする。
「うわ、汚ねぇな!」
クロードが腕を捻り、男を地面へ叩きつけた。
石畳がひび割れる。
それでも男は起き上がろうとした。
「まだ動くの!?」
ルシアが驚く。
「元人間のヴァンパイアみたいだね」
子供を安全な場所へ下ろしたラビが戻ってくる。
「しかも完全に正気を失ってる」
「だったら押さえ込むぞ」
クロードが男の背中を踏みつける。
それでも暴れる。
「グァアアッ!」
「元気だなぁ」
「クロード、遊ぶなよ」
ラビが呆れる。
「遊んでねぇって!」
エリーゼが再び冷気を走らせた。
今度は両腕まで氷が覆い、男の身体を石畳へ縫い付ける。
「これで動けません」
「さすがエリーゼちゃん」
「ラビさんも手伝ってください」
「はーい」
ようやく男の動きが封じられた。
ルシアは息を吐いた。
自分は最初に追いついたのに。
結局、ほとんど何もできなかった。
「……全然駄目だった」
思わず呟く。
するとクロードが笑った。
「昨日まで人間だったようなもんだろ。最初からなんでも出来たら俺らの立場ねぇよ」
「でも……」
「追いついただけで十分異常だよ」
ラビも笑う。
「僕たちでも驚いたもん。ルシアちゃん、めちゃくちゃ速かったよ」
「力の扱い方を覚えれば、私たちでは追いつけなくなるかもしれません」
エリーゼも穏やかに言った。
「……頑張ります」
そのときだった。
「ルシア!!」
聞き慣れた声。
振り返る。
ミアが走ってきていた。
その後ろにはセドリックもいる。
「ミア!」
「もう! いきなり走って――」
そこまで言って。
ミアが止まった。
視線が地面へ向かう。
氷漬けにされている男。
髪は燃え焦げ、ほとんど残っていない。
その周囲に立つ夜間部の生徒たち。
そして。
ルシア。
頬には殴られた痕など、もうない。
さっき切れて血を吐いたはずの口の中も、すでに治り始めているが唇の縁には血が残っていた。
ミアは何も言わない。
「……ミア?」
「……今の」
嫌な予感がした。
「何?」
「私、見てた」
「え……」
「ルシアが走っていくところ」
心臓が跳ねる。
「すっごい速かった」
「それは……」
「人間が出せる速さじゃなかったよ」
誰も喋らなくなった。
ミアはエリーゼを見る。
次にラビ。
クロード。
セドリック。
そして、もう一度ルシアを見る。
「それに……」
ミアの視線が、ルシアの口元へ向く。
「その血が出た傷跡は?」
ルシアは何も答えられない。
「でも、もう何ともないの?」
「……口の中だよ」
ミアの表情が変わる。
「ルシア……」
ルシアは拳を握った。
数日前に、ゼノンと約束したばかりだった。
正体を知られてはいけない。
知られそうになったら、昼間部にはいられなくなる。
けれど。
子供が攫われるところを見て、走らないなんてできなかった。
「……ごめん」
「なんで謝るの?」
「私……」
声が震えた。
「ミアに、言ってなかったことがあるの」
ミアは黙って待っている。
ルシアは一度目を閉じた。
そして、開く。
「私……ヴァンパイアだったの」
ミアの目が大きく見開かれた。
「……え?」
「私も最近まで知らなかったの」
「だった……?」
「小さい頃に、ヴァンパイアとしての力も記憶も全部封印されてたの。だから私自身も、自分を人間だと思ってた」
ミアは言葉を失っている。
「最近、全部戻ったの」
ルシアは自分の黒髪へ触れた。
「髪が黒くなったのも、染めたんじゃない。本当はこれが私の髪の色なの」
「じゃあ……目も?」
「うん」
「赤いのも……」
「元々」
ミアが呆然とする。
ルシアは怖かった。
今日、劇場で一緒に笑った。
パンケーキを食べた。
また三人で遊ぼうと話した。
それが、たった一つの言葉で全部変わってしまうかもしれない。
――ヴァンパイア。
今日まで自分が人間だと思っていたからこそ分かる。
人間にとってヴァンパイアは、どれだけ親しく共存していても、自分たちの血を飲む存在なのだ。
「……怖い?」
思わず聞いた。
ミアがルシアを見る。
「私のこと」
しばらく答えはなかった。
ルシアの胸が苦しくなる。
やがてミアが口を開いた。
「……びっくりはしてる」
「うん……」
「だって、さっきまで普通に人間だと思ってたし」
「うん」
「今も頭が全然追いついてない」
それは当然だった。
「でも」
ミアが一歩近づく。
「でもルシアはルシアでしょ?」
「……え?」
「ヴァンパイアになったからって、今日一緒に演劇観てたルシアが別人になるわけじゃないし」
「ミア……」
「それに」
ミアが少し頬を膨らませる。
「私、クレイドがヴァンパイアだって知ってるんだけど?」
「あ」
忘れていた。
「エリーゼもヴァンパイアなんでしょ?」
「……はい」
エリーゼが答える。
「じゃあ三人で遊びに来たのに、人間私だけだったってこと!?」
怒るところが違った。
「ご、ごめん」
「そこは別にいいけど!」
「いいんだ……」
「でも秘密にされるのはショックよ?!」
「それは本当にごめん!」
ミアが大きく息を吐く。
それから、ふとルシアの後ろを見る。
「……で」
「ん?」
「ルシアも夜間部に行くの?」
「行かないよ!」
即答した。
「昼間部にいる!」
「ほんと!?」
「いたい!」
「じゃあいい!」
ミアが笑う。
その笑顔を見た瞬間、ルシアの身体から力が抜けた。
「……よかったぁ」
「でも」
ミアがじっと見る。
「あとで全部聞かせてね?」
「……はい」
「髪のことも、ヴァンパイアだったことも、ゼノン先輩がお兄さんだったことも!」
「うん」
「絶対だからね!」
「分かったって!」
そこで子供の泣き声が聞こえた。
「お母さん……」
「あ!」
ルシアはすぐに駆け寄った。
今度は、人間らしい速度で。
「大丈夫?」
しゃがみ込むと、男の子は涙を流しながら頷いた。
「お母さんのところに帰ろうね」
「……うん」
ラビが笑う。
「さっきより走るの遅くない?」
「もう!」
「人間らしく歩く練習も必要そうだね」
「ラビさん!」
皆で男の子を連れ、来た道を戻った。
大通りへ出てしばらくすると、泣きながら子供を探していた母親が見つかった。
「リオ!」
「お母さん!」
子供が走る。
母親がその小さな身体を抱き締めた。
「よかった……! 本当に……!」
何度も礼を言われながら、ルシアは少し離れた場所でその姿を見ていた。
助けられた。
殴られたし。
何もできなかったし。
正体もバレた。
今日だけで大変なことになってしまった。
それでも。
「よかったね」
隣へ来たミアが言う。
「うん」
ルシアは笑った。
「助けられてよかった」
「それはそうだけど」
「ん?」
「ルシア」
ミアがじっとこちらを見る。
「ゼノン先輩に怒られるんじゃない?」
ルシアの笑顔が固まった。
「……」
忘れていた。
勝手に犯人を追った。
殴られた。
血も出た。
そして。
ミアに正体まで知られた。
約束を思い出す。
――正体が知られたら、昼間部から夜間部へ移ってもらう。
「……どうしよう」
「やっぱり怒られるんだ」
「絶対怒られる……」
「ゼノンさん、怒るかなぁ」
ラビが楽しそうに言う。
「怒るだろ」
セドリックが即答した。
クロードも頷く。
「怒るっていうか、まず一人で追いかけたことにキレそう」
「……帰りたくない」
「ルシア様」
エリーゼが苦笑する。
「どのみち報告は必要です」
「分かってるけどぉ……」
ついさっきまで、子供を救えた喜びでいっぱいだったのに。
今は別の恐怖が襲ってくる。
ルシアは遠い目で空を見上げた。
楽しい休日だったはずなのに。
演劇を観て。
パンケーキを食べて。
偶然ラビたちにも会って。
最後まで楽しい一日になるはずだった。
それなのに。
「……お兄様になんて言おう」
その呟きを聞いて、ミアが吹き出した。
「私も一緒に謝ってあげる」
「ほんと!?」
「うん。ルシアは子供助けたんだから」
「ミアぁ!」
「抱きつかないで!」
笑い声が広がる。
秘密はバレてしまった。
けれど。
それでもミアは隣にいる。
そのことが嬉しくて、ルシアはミアの腕を離さなかった。




