君だけ
夜間部の校舎へ向かう途中、ゼノンはいつもより少しだけ足を速めていた。
今日はルシアが覚醒してから初めて学園へ来た日だった。
朝から何度も注意事項を言い聞かせたものの、心配がなくなるはずもない。十年間、人間として暮らしてきたルシアにとって、突然戻ったヴァンパイアの身体は未知のものだ。力も五感も渇きも、まだ自分のものとして扱えていない。
本当なら一日中傍にいたかった。
それでもルシアが今まで通り昼間部へ通いたいと望んだ以上、最初から自由を奪うつもりはなかった。
夜間部の校舎へ入ると、予想していた通りあちこちが騒がしい。
「純血だったって本当か?」
「ヴァルディエって……」
「ゼノン様の妹らしいぞ」
すでに広まっているらしい。
その声を聞き流しながら廊下を進み、やがて人だかりの中心にいるルシアを見つけた。
ラビとクロードの前に立つ彼女の髪は、もう白金色ではない。
光を吸い込むような漆黒。
瞳も本来の赤へ戻っている。
十年前まで見慣れていたはずの姿なのに、今は目にするたび胸が締めつけられる。
もう一度見たかった。
何度も夢に見た。
自分と同じ黒髪をした、小さな妹。
「ルシア」
呼びかけると、ルシアが振り返った。
「お兄様」
その一言だけで、胸の奥が満たされる。
十年前、すべてを忘れさせた。
両親も。
ヴァルディエも。
自分がヴァンパイアだったことも。
そして、自分が本当の兄だったことさえ。
それでも何度も会いに行き、知らない男として一から関係を築き直した。
そうして「ゼノ兄さん」になった。
それだけでも幸せだった。
けれど今、昔と同じ声で「お兄様」と呼ばれると、十年間失っていたものが本当に戻ってきたのだと実感する。
「遅れてごめんね。初日は問題なかった?」
「問題はなかったんだけど……やっぱり騒がれた」
「まあ、そうなるだろうね」
「昼間部でも、なんか雰囲気が変わったって言われた」
「それは仕方ないよ」
純血の気配まで戻ったのだ。
ヴァンパイアなら一目で違いが分かるし、人間ですら本能的に何かを感じるだろう。
ところが、続いてルシアの口から出てきたのは、まったく別の話だった。
「あと、告白された」
笑顔が止まった。
「……誰に?」
横でラビが笑う。
「そこですか?」
「名前は知らないけど、上級生」
「断った?」
「断ったよ」
「そう」
それならいい。
本当に、それだけでいい。
「分かりやすいな」
クロードが呆れたように言ったが、どうでもよかった。
やがて授業の時間が近づき、ルシアは学園長代理として見回りへ向かった。
その背中を見送ってから、ゼノンも教室へ入る。
扉を開けた途端、いくつもの視線が集まった。
予想はしていた。
先ほどの騒ぎを考えれば、誰も黙っていられるはずがない。
席へ向かう途中、ルイス・ベルフォートが静かに口を開いた。
「……そういうことだったのですね」
ゼノンは足を止めた。
「何が?」
「ルシアさんのことですよ」
ルイスはいつもの穏やかな表情をしていたが、その目には明らかな納得が浮かんでいた。
「以前から不思議には思っていました。貴方が一人の人間に、あれほど執着する理由が分からなかった」
周囲のヴァンパイアたちも、会話をしているふりをしながらこちらへ意識を向けている。
「まさか、人間ですらなかったとは」
「そうだね」
「血も力も、すべて封じられていたのですか?」
「ああ」
もう隠す必要はない。
「ルシアは最初からヴァンパイアだよ。純血のね」
教室がざわめいた。
ルイスの目が僅かに細くなる。
「ヴァルディエの純血……」
「ああ。父上と母上の子だよ」
「では、本当に貴方の妹なのですね」
「そうだよ」
ざわめきがさらに大きくなる。
存在すら知られていなかったヴァルディエの姫。
しかも、その少女は十年間、人間としてこの学園で暮らしていた。
彼らにとって衝撃なのは当然だった。
「だからだったのですね」
ルイスが息を吐く。
「貴方が人間の少女へ異常なほど執着していた理由は」
「異常?」
「自覚がないのですか?」
「普通だと思うけど」
周囲から呆れたような視線が向けられた。
ルイスも僅かに苦笑する。
「妹君だったから、あれほど守っていたと」
「それだけじゃないよ」
さらりと答えると、ルイスが目を細めた。
「……それだけではない?」
「ルシアは僕の妹で、婚約者だから」
今度こそ教室が静まり返った。
数秒後。
先ほどとは比較にならないざわめきが広がる。
「婚約者……?」
「ヴァルディエ王家なら……」
「では、あの姫は最初からゼノン様の……」
純血の家では血統を維持するための近親婚そのものは珍しくない。
それでも、誰も存在を知らなかった王女がゼノンの実妹であり、そのうえ婚約者として生まれた少女だったという事実は別だった。
ルイスだけは比較的冷静だった。
「なるほど。ようやく腑に落ちました」
「何が?」
「貴方の執着の度合いが、血の繋がりもない、面倒を見ていた人間の少女というだけでは説明できませんでしたので」
「失礼だな」
「事実でしょう」
否定はしなかった。
十年間。
自分を忘れたルシアに何度も会いに行った。
兄として慕われるだけでも幸せだった。
けれど、心のどこかではずっと待っていた。
本来の姿へ戻る日を。
自分の妹として。
婚約者として。
同じ時を生きる純血のヴァンパイアとして、再び自分の隣へ帰ってくる日を。
「しかし、随分徹底した封印でしたね」
ルイスの声で思考が戻る。
「あれほど近くにいても、私には彼女が同族だとは分からなかった。血の匂いさえ完全に人間だった」
「そうしなければ意味がなかったからね」
「そこまでして隠す必要があったと?」
ゼノンの表情から笑みが消えた。
「ルシアの命を狙っている者がいた」
それ以上は話さない。
エドモンドについて、この場で明かす必要はない。
ルイスも何かを察したらしく、それ以上は聞かなかった。
「なるほど。それなら、彼女を人間として育てていた理由も理解できます」
ゼノンは窓の外へ目を向けた。
正確には、自分では育てられなかった。
傍に置けば、ヴァルディエの生き残りとして見つかる可能性が高くなる。
だからアルベルトへ預けた。
眠ったルシアを腕から離したあの日の感覚は、十年経っても忘れていない。
二度と、あんな思いはしたくなかった。
授業が始まると、教室は静かになった。
教師の声を聞きながら、ゼノンも一応は前を向いている。
それでも意識の一部は、ずっと校舎のどこかにいるルシアへ向いていた。
覚醒したばかりなのだ。
力も、五感も、渇きも、まだ完璧には制御できない。
本当なら傍から離したくない。
そんなことを考えていた、そのときだった。
「……」
僅かな香りが鼻を掠めた。
遠い。
本当に微かなものだった。
けれど、一瞬で分かった。
ルシアの血。
身体が反応するより先に立ち上がっていた。
「ゼノン?」
ルイスが振り返る。
「どこへ?」
「ルシアが怪我した」
ルイスが僅かに眉を寄せた。
「……血の匂いなどしませんが」
「僕には分かる」
それだけ言い残し、教室を出た。
廊下を進むにつれて香りが濃くなる。
どうして血が出ている。
転んだだけなのか。
それとも誰かに傷つけられたのか。
角を曲がった瞬間、答えは分かった。
昼間部の女子生徒が三人。
その前に立つルシア。
頬には赤い血が残っている。
「暴力は良くないな」
三人が振り返った。
「ゼノン先輩!」
「え、嘘!」
「会えて嬉しいです!」
どうでもよかった。
ゼノンは真っ直ぐルシアへ歩いていく。
「お兄様……」
次の瞬間には、その身体を腕の中へ抱き込んでいた。
頬の傷はすでに塞がっている。
けれど血が出た事実は消えない。
「僕は今、大切な子に暴力を振るわれて怒っているんだよ」
怒鳴る必要などなかった。
少し気配を漏らしただけで、三人の顔から血の気が引いていく。
「ルシアになんて言われたの?」
「……寮に、戻れと……」
「どうするの?」
「戻ります……」
「そう」
三人を見据える。
「早く行け」
逃げるように走り去る背中を見送ってから、腕の中のルシアへ意識を戻した。
「……来てくれたの?」
嬉しそうな声だった。
「血の匂いがしたから」
「こんな少しでも分かるの?」
「ああ」
分からないはずがない。
十年間。
一度味を知れば我慢できなくなると分かっていたから、避け続けた血だ。
頬に残った血を舐め取る。
甘い。
それだけで喉の奥が疼く。
「ルシアの血なら、すぐ分かるよ」
ルシアが少し恥ずかしそうに笑う。
可愛い。
もっと欲しい。
そんな欲求を押し込めた直後、ルシアの呼吸が変わった。
「……っ」
「ルシア?」
「はっ……」
すぐに分かった。
「渇きだね」
「血……欲しい……」
迷わず抱き上げた。
「きゃっ」
「移動しよう」
「お兄様、歩けるよ……」
「息切れしてる子の言葉は信用しない」
空き教室へ入り、ルシアを椅子へ座らせる。
ネクタイを緩め、一番上のボタンを外し、さらに三つ外した。
露わになった首筋を見た途端、ルシアの喉が鳴る。
その反応に、胸の奥へ奇妙な幸福感が広がった。
ルシアが自分の血を欲しがっている。
「いいよ」
両腕を広げ、その身体を抱き寄せる。
「……でも」
「どうしたの?」
「学校だよ?」
「僕が良いって言ったら良いんだよ」
「そういうものなの……?」
「今は我慢しなくていいよ、血に慣れてから我慢を覚えよう」
やがてルシアの腕が背中へ回り、首筋へ顔が近づいてくる。
舌が触れた。
脈を探すように、そっと。
「……お兄様」
「うん」
ぶつり、と牙が入る。
「……っ」
温かな感覚が首筋を伝った。
ルシアが血を飲み始める。
ゼノンはその背中へ腕を回し、ゆっくり撫でた。
好きなだけ飲めばいい。
自分の血で満たされればいい。
他の誰かの血など、知らなくていい。
ルシアが落ち着くまで飲ませ、牙が抜ける。
「……はぁ」
「落ち着いた?」
「うん……もう大丈夫」
「よかった」
そこでルシアが自分のシャツを見て固まった。
「……あ」
白いワイシャツに血がついている。
「ご、ごめんなさい!」
「何が?」
「ワイシャツ! 血ついちゃった!」
自分でも確認する。
「ああ、これ?」
「ごめんなさい……」
「いいんだよ。ワイシャツくらい」
「でも……」
「脱がなかったのは僕だよ」
本当にどうでもよかった。
むしろ、この血痕すら愛おしく思える自分の方がどうかしているのだろう。
「ルシアが謝ることじゃない」
「……ほんと?」
「本当」
口元に残った血を舐め取ってやる。
「少しでも渇いてると思ったら、すぐ僕のところに来てね」
「……はい」
ここだけは、きちんと約束させたかった。
「ルシアは僕だけで渇きを癒して生きて欲しい。約束」
「約束します」
素直な返事に、思わず笑みが深くなる。
自分だけで。
その言葉を、ルシアは受け入れてくれた。
「もう少しで授業が終わるから、ここで待ってて」
「お兄様は?」
「授業に戻るよ」
ルシアの視線が、血のついたシャツへ向かう。
「そのまま?」
「うん」
「絶対みんな見るよ」
「別にいいよ」
「恥ずかしくないの?」
「全然」
恥ずかしいどころか、着替えたいとも思わなかった。
「……お兄様、もしかしてわざと?」
「何が?」
「なんでもない」
「終わったら迎えに来るから、一緒に帰ろう」
「うん。待ってる」
◇
教室へ戻り、扉を開けた瞬間。
教師の声が止まった。
生徒たちも一斉にこちらを見る。
当然だろう。
緩めたネクタイ。
開いた襟元。
白いワイシャツに残る血。
ゼノンは何事もなかったように中へ入った。
「……ゼノンさん」
クロードが最初に口を開く。
「何?」
「その血、何?」
「僕の血だよ」
「それは匂いで分かる」
ラビが首元を見て目を丸くした。
牙の跡はすでに塞がり始めている。
「……ルシアちゃんに飲ませてきたの?」
「ああ」
「授業中に?」
「ああ」
「学校で?」
「そうだけど」
ラビが顔を覆った。
「とっても嬉しそうだなあ……」
「そう見える?」
「見えるよ!」
教室のあちこちから囁きが聞こえる。
「姫がゼノン様の血を……」
「覚醒したばかりだからか?」
「それにしても甘やかしすぎだろ……」
「そのまま戻ってくるのか……」
ルイスが血のついたシャツを見て、呆れたように息を吐いた。
「せめてシャツを替えてから戻るという選択肢はなかったのですか?」
「ないね」
「即答ですか」
「ルシアがつけたんだから、別にいいよ」
ルイスはしばらくこちらを見つめたあと、深く息を吐いた。
「……先ほど以上によく分かりました」
「何が?」
「貴方の執着がですよ」
ゼノンは僅かに笑っただけだった。
否定する気はない。
血で汚れたシャツすら嬉しかった。
ルシアが自分を求めた証だから。
十年間、自分ばかりが求めてきた。
血も。
存在も。
同じ時間を生きる未来も。
けれど今は、ルシアも自分の血を求めてくれる。
その事実だけで、どうしようもなく嬉しかった。
◇
授業が終わる頃、約束通りルシアを迎えに行った。
「帰ろうか」
「うん!」
並んで学園を出る。
夜の風がルシアの黒髪を揺らした。
「今日だけで色々ありすぎた……」
「疲れた?」
「ちょっと。でも、ちゃんと一日過ごせた」
「初日にしては上出来だよ」
「途中でお兄様に噛みついちゃったけど」
「それも含めて上出来」
「甘くない?」
「ルシアには甘いよ」
ルシアが笑う。
少し歩いてから、今日昼間部で言われたことを話し始めた。
綺麗だけれど、少し怖い。
猛獣を近くで見たときのようだと。
「最初はちょっと。でも……さっき分かった気がする」
「何が?」
「食べられる側の怖さ」
その言葉に、ゼノンは黙って耳を傾けた。
「私も今まで人間だったから、ヴァンパイアに血を飲まれるって知ってはいたけど……本当の意味では分かってなかったんだと思う」
ルシアが自分の喉へ触れる。
「今日、血が欲しくなったとき、お兄様の首しか見えなくなった。もしあれがミアの前で起きたらって考えたら……ちょっと怖くなった」
「ルシア」
「私、ミアを怖がらせたくない」
だから、頭へ手を置いた。
「だったら、怖がらせないために制御を覚えればいい」
「……うん」
「ヴァンパイアだから誰かを襲わなきゃいけないわけじゃない。血が欲しくなることと、誰を傷つけるかは別の話だよ」
ルシアなら大丈夫だ。
十年間、人間として生きてきた時間が消えたわけではない。
ヴァンパイアへ戻ったからといって、優しかったルシアが別人になるわけでもない。
「私も頑張る」
「ああ」
「ミアとも今まで通り友達でいたいし」
「うん」
「昼間部にもいたい」
「それはこれからの頑張り次第かな」
「うー」
「多分無理だと思うけど頑張ってみな」
「が、頑張るもん」
二人で笑いながら歩く。
やがてルシアが腕を絡めてきた。
「一緒に帰ろ」
「最初からそのつもりだよ」
身体が少し近づく。
「……お兄様」
「何?」
「呼びたかっただけ」
思わず目を細めた。
「何度でも呼んでいいよ」
「じゃあ、お兄様」
「うん」
何度でも聞きたい。
十年間聞けなかった分まで。
けれど、その直後だった。
「お兄様も渇いたら遠慮なく言ってね?」
「ん?」
ルシアが少しだけ言いにくそうに続ける。
「もう他の女の人の血吸ってる姿は見たく無い……」
心臓を掴まれたような気がした。
あの夜会のことだ。
ルシアの血をほんの僅かに舐めただけで、抑えきれないほどの渇きに襲われた。
だから他の女の血を飲んだ。
身体の渇きだけでも抑えようとした。
けれど、違った。
いくら飲んでも欲しいものは満たされなかった。
あのとき本当に欲しかったのは、ルシアの血だった。
「……あぁ、見られちゃったんだっけ」
「うん……」
ルシアは嫌だったのだ。
自分が他の女の血を飲む姿を見るのが。
その事実が、どうしようもなく嬉しい。
もう他の女の血を飲まないで。
必要なら私の血を飲んで。
そんな意味に聞こえてしまう。
都合よく受け取りすぎていると分かっていても、頬が緩むのを止められなかった。
「大丈夫だよ、もうルシアの味を知ってしまったから……じゃあ家に帰ったら部屋行っていい?」
「うん!」
即答だった。
その瞬間、ゼノンは本気で今すぐ家へ帰りたくなった。
十年間。
欲しいと思い続けた。
けれど、人間として生きているルシアに牙を立てるつもりはなかった。
自分が欲しいと言えば、優しいルシアはきっと差し出してしまう。
だから言わなかった。
それなのに今は。
ルシアの方から、他の女の血を飲んでほしくないと言ってくれた。
自分がルシアの血だけを求めても、それを拒まれない。
こんな日が来るとは思わなかった。
腕へ寄り添ってくるルシアを感じながら、ゼノンは家までの道がいつもより長く感じた。
◇
家へ着いて少ししてから、ゼノンはルシアの部屋を訪れた。
扉を叩くと、すぐに返事が返ってくる。
「どうぞ」
部屋へ入ると、ルシアがこちらを見る。
「お兄様」
その呼び方に、また胸が満たされた。
「来たよ」
「うん」
約束したから。
ただそれだけのことなのに、ゼノンにとってはまるで違う。
ルシアの傍へ座ると、すぐに血の香りが鼻を掠めた。
封印されていた頃とは違う。
もう、人間の血にしか感じられない匂いではない。
濃く、強く、同じヴァルディエの血を感じさせる純血の香り。
けれど、そんな血統の話よりもずっと強くゼノンを惹きつけるものがある。
ルシアだからだ。
世界で一番愛している人の血だから。
「……いい?」
「うん」
ルシアが髪を片側へ寄せ、首筋を見せる。
何の警戒もない。
自分を信じ切っている。
その姿を見た瞬間、十年間積み重ねてきたものが胸へ押し寄せた。
眠っているルシアを見た夜も。
抱き締めた日も。
怪我を治してやったときも。
すぐそこに血が流れていると分かっていた。
欲しかった。
何度も欲しいと思った。
けれど、一度も牙を立てなかった。
一度飲めば、もっと欲しくなると分かっていたから。
人間の身体は弱い。
傷の治りも遅い。
自分の渇きのために、ルシアの身体へ牙の痕を残すことなどできなかった。
それに何より、自分が欲しがればルシアは拒まないだろうと思っていた。
だからこそ、求めなかった。
十年間。
ずっと我慢した。
「お兄様?」
「……ごめん」
ルシアの腰へ腕を回し、身体を引き寄せる。
「少し嬉しくて」
「血飲めるのが?」
「ああ」
「そんなに?」
「ルシアが思ってるより、ずっと」
首筋へ顔を寄せる。
鼓動が聞こえる。
香りが濃くなる。
喉が焼けるように疼いた。
「……ルシア」
「なに?」
「ありがとう」
「なんでお礼?」
ゼノンは少しだけ笑った。
自分でも上手く説明できない。
血をくれることだけが嬉しいわけではない。
こうして自分を受け入れてくれること。
同じ時間を生きると選んでくれたこと。
自分の血を飲み、自分にも血を与えてくれること。
全部が嬉しかった。
「僕にルシアをくれるから」
唇を首筋へ触れさせる。
皮膚の下で脈が打つ。
十年間、何度も感じながら耐えてきた音だった。
「十年間、ずっと欲しかった」
「……そんなに我慢してたの?」
「ああ」
「言ってくれればよかったのに」
ゼノンは小さく笑う。
「言えるわけないよ」
「どうして?」
「ルシアなら、僕が欲しいと言ったらくれたでしょ?」
ルシアは少し考える。
「……多分」
「だから言わなかった」
欲しいからこそ、求められなかった。
けれど、もう違う。
今のルシアは、自分の意思でここにいる。
自分の意思でヴァンパイアとして生きる道を選び、自分の意思で血を差し出してくれている。
「でも、もういいんだ」
抱く腕へ少しだけ力を込める。
「もう君は簡単には壊れない」
首筋へ牙を立てた。
ぶつり、と皮膚を破る。
次の瞬間。
温かな血が舌へ流れ込んだ。
「……っ」
目を閉じる。
甘い。
身体が求めるだけの血なら、これまでいくらでも飲んできた。
生きるために必要だった。
渇きを抑えるために必要だった。
けれど、ルシアの血はまるで違う。
一口飲むたびに満たされていくのは、身体ではない。
もっと深いところ。
十年間ずっと乾き続けていた場所だった。
一口。
もう一口。
ルシアの身体を抱き締める。
腕の中にいる。
生きている。
同じ時を生きていける。
もう、自分だけが変わらないまま、老いていくルシアを見送る未来を恐れなくていい。
しかもルシアは、自分の血を欲しがってくれた。
そして、自分にも血をくれる。
他の女の血を飲んでほしくないとまで言った。
その言葉を思い出すだけで、胸の奥に熱が広がる。
十年間。
ずっと自分だけが欲しがっていると思っていた。
自分だけが我慢していると思っていた。
けれど今は違う。
少なくともルシアは、自分が他の誰かから血を得ることを嫌がってくれる。
それだけで十分だった。
しばらくして、ゼノンはゆっくり牙を抜いた。
傷口から滲む血を舐め取る。
「もういいの?」
「ああ」
本当なら、まだ欲しい。
もっと飲みたい。
十年分の渇きが、たった一度や二度で消えるはずがない。
けれど焦る必要はなかった。
これから先は時間がある。
明日も。
その次の日も。
百年後だって。
ルシアは隣にいる。
「足りた?」
「……少し」
「少しだけぇ?」
「ああ」
ゼノンは笑った。
「十年分だからね」
「そっか」
その言葉を聞くだけでも、不思議と満たされる。
ルシアはもう知っている。
自分が十年間、彼女の血を欲しがりながら我慢していたことを。
隠さなくていい。
欲しいときは欲しいと言っていい。
「じゃあ、また飲みたくなったら言ってね?」
一瞬、言葉が出なかった。
「……ルシア」
「ん?」
「そんなこと言って大丈夫?」
「え?」
「僕、本当に遠慮しないよ」
ルシアは少し考えてから笑った。
「いいよ。私もお兄様から貰うんだもん!」
その答えに、ゼノンはもう笑みを隠さなかった。
「そっか」
ルシアを抱き寄せる。
「じゃあ、遠慮しない」
「飲みすぎは駄目だよ?」
「努力する」
「もー!」
思わず笑った。
「ははっ、分かったよ」
十年間、自分だけが抱えてきた渇きだった。
ルシアには知られないように。
重荷にならないように。
欲しいと思うたび、何度も飲み込んできた。
それが今は、ルシア自身から「欲しくなったら言って」と言われている。
十年分の渇きは、まだ消えていない。
けれど不思議だった。
一口ごとに。
こうして血を与えてもらうたびに。
ずっと胸の奥にあった乾いたものが、少しずつ癒されていく。
一度に満たされなくてもいい。
もう我慢する必要はないのだから。
これから何度でも、この血をもらえる。
何度でも抱き締められる。
何度でも「お兄様」と呼んでもらえる。
そして何より。
ルシア自身が、自分と同じ時間を生きることを選んでくれた。
ゼノンは腕の中のルシアの黒髪へ頬を寄せた。
十年前に手放した小さな妹は、もういない。
けれど、人間として十年を生きたルシアが、そのすべてを抱えたまま自分のところへ帰ってきた。
――やっと。
本当に、帰ってきた。
長い間、胸の奥で乾き続けていたものが、ようやくゆっくりと癒え始めていた。




