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変化

「……行ってきます」


いつものように玄関を出たはずなのに、ルシアは妙に落ち着かなかった。


隣を歩くクレイドは昨日までと何も変わらない。白い昼間部の制服を着て、眠そうな顔で歩いている。


変わったのは、自分だけだった。


歩くたび、肩から流れる漆黒の髪が視界の端に入る。昨日まで白金色だった髪は、本来のヴァルディエの色へ戻っていた。


「……やっぱり変じゃない?」


何度目か分からない質問をすると、クレイドが面倒そうに横を見る。


「何が」


「髪」


「朝も言っただろ。似合ってる」


「でも、学校のみんな絶対びっくりするよね」


「そりゃするだろ。一晩で真っ黒になってんだから」


「うぅ……」


ルシアは髪を一房摘まんだ。


「ちゃんと染めたって言えるかな」


「言うだけだろ」


「目のこと聞かれたら?」


「知らねぇよ」


「一緒に考えてよ!」


「朝からずっと考えてやっただろ」


そんなやり取りをしているうちに、見慣れた学園の校門が近づいてきた。


昨日までは何も考えずに通っていた門。


けれど今日は、そこを越えるだけで少し緊張する。


――ヴァンパイアだって、バレちゃ駄目。


朝、ゼノンと交わした約束を思い出し、ルシアは小さく深呼吸した。


「よし」


「何がよしなんだよ」


「普通にする」


「最初からそうしろ」


校門をくぐった直後、聞き慣れた明るい声が飛んできた。


「ルシアー! クレイドー! おはよ――」


駆け寄ってきたミアの声が途中で止まった。


「……え?」


ルシアを見る。


瞬きをする。


もう一度見る。


「……えええええ!?」


周囲の生徒まで振り返るほどの声だった。


「ちょ、ミア! 声大きい!」


「だって! ルシア!? ルシアだよね!?」


「私だよ!」


「髪!!」


ミアはルシアの周りをぐるりと回った。


「どうしたの!? 昨日まで白金だったじゃん! 一晩で何があったの!?」


「ちょっと染めてみたの」


「ちょっとの変化じゃないよ!」


「イメチェン……?」


「いや、めちゃくちゃ似合ってるけど!」


ミアは興奮したままルシアの顔を覗き込み、そこで不思議そうに瞬きをした。


「……あれ?」


「な、なに?」


「なんか……雰囲気も違わない?」


ルシアの心臓が跳ねた。


「そう?」


「うん。顔はルシアなんだけど……なんだろ」


ミアが首を傾げる。


「めちゃくちゃ綺麗になってる」


「昨日と顔は同じだよ!」


「そうなんだけど違うの! クレイドもそう思うでしょ?」


「俺に振るな」


クレイドは面倒そうに言いながら先に歩いていってしまう。


「ちょっと待ってよ!」


ルシアとミアが追いかけようとしたところで、前方からエリーゼが歩いてきた。


「おはようございます」


「エリーゼ、おはよう」


いつものように挨拶を返したルシアとは対照的に、エリーゼはその場で足を止めた。


赤い瞳が、ルシアの黒髪へ向けられる。


次に瞳。


そして、ルシアから漂う気配。


エリーゼには説明など必要なかった。


ほんの一瞬驚いたあと、彼女は静かに微笑んだ。


「……そうでしたか」


「エリーゼ?」


エリーゼがルシアへ近づく。


「思い出されたのですね」


ミアには聞こえないほど小さな声だった。


ルシアは少し驚いたあと、頷く。


「……うん。全部思い出した」


エリーゼの表情が柔らかくなる。


「おかえりなさいませ」


「なんか、それ言われると恥ずかしい」


ルシアは小さく笑った。


「エリーゼも、ずっと知ってたんだね」


「はい」


「アルの姪っ子だったことも、ヴァンパイアだったことも分かったよ」


「……申し訳ありません。黙っていて」


「謝らないで。怒ってないから」


ルシアはエリーゼの手を握った。


「これからもよろしくね、エリーゼ」


エリーゼも、その手を握り返す。


「はい。こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします」


「ちょっとー!」


後ろからミアの声がした。


「二人で何こそこそ話してるの!?」


「秘密」


「また秘密!?」


「そのうちね」


「絶対だからね!」


三人で笑いながら教室へ向かった。


けれど、ルシアが教室の扉を開けた瞬間。


空気が止まった。


「おはよ――」


挨拶すら最後まで言えなかった。


教室中の視線が一斉にルシアへ集まる。


「……え?」


数秒の沈黙。


次の瞬間には、クラスメイトたちが一気に集まってきた。


「え!? ルシア!?」


「髪どうしたの!?」


「黒!?」


「染めたの!?」


「イメチェン!?」


「ちょ、ちょっと待って!」


あっという間に囲まれた。


「昨日まで白金だったじゃん!」


「なんで急に黒!?」


「失恋!?」


「してないよ!」


「じゃあなんで!?」


ルシアは朝から練習していた言い訳を思い出す。


「ゼノ兄さんに憧れて染めちゃった!」


「ゼノン先輩に?」


「う、うん!」


一瞬の沈黙。


ところが。


「……あー」


「なるほど」


「分かるかも」


「ゼノン先輩の黒髪、綺麗だもんね」


意外にも簡単に納得された。


ルシアが内心ほっとしたところで、一人の女子が顔を覗き込んでくる。


「でもさ」


「なに?」


「ルシアの目って……こんな赤かったっけ?」


どきりとした。


「えっ」


「前から赤っぽかった?」


「えーっと……」


焦るな。


感情を乱さない。


朝のゼノンの言葉を思い出し、ルシアは笑った。


「髪が黒くなったから目立つようになったんじゃない?」


「あー、そうかも!」


「確かに印象全然違う!」


別の女子がルシアの髪を見ながら言う。


「それにしても、黒髪似合ってるよー!」


「ありがとう」


「ていうか……ルシア、元々可愛かったけど、めちゃくちゃ可愛くなってない?」


「分かる!」


「可愛いっていうより綺麗になった!」


「急に大人っぽくなったよね」


「そんな変わってないって!」


ルシアは笑った。


けれど。


クラスメイトたちが感じている変化は、髪の色だけではなかった。


誰にも、それを上手く説明できない。


昨日まで同じ教室で笑っていた少女。


同じ机に座り、一緒に昼食を食べ、くだらない話で笑っていたルシア。


それなのに今日は、彼女と目が合うだけで心臓が妙に強く跳ねる。


美しいから。


そう思おうとする。


確かに目を奪われるほど綺麗だった。


漆黒の髪。


赤い瞳。


透き通るような肌。


けれど、それだけでは説明できない何かがあった。


「……なんかさ」


一人の男子が、少し離れたところからルシアを見つめる。


「綺麗なんだけど……ちょっと怖い」


教室が静かになった。


「えっ」


ルシアの表情が曇る。


「あっ、違う! 悪い意味じゃなくて!」


慌てて男子が手を振る。


「なんて言えばいいんだろ。すげぇ綺麗なんだけど、近くで見ると……本能的に緊張するっていうか」


「あ、それ分かるかも」


別の生徒が頷いた。


「目が合った瞬間、ちょっとドキッとした」


「それ恋じゃなくて?」


「違う違う。もっと……」


言葉を探して。


やがて一人がぽつりと言った。


「猛獣を近くで見たときみたいな?」


「ええ!?」


ルシアがショックを受ける。


「私、猛獣!?」


「違うって!」


笑いが起こる。


けれど、それは完全な冗談でもなかった。


人間である彼らには、純血の気配など分からない。


それでも身体は知っている。


自分たちより強い生き物。


牙を持ち。


血を飲み。


本来なら、自分たちを獲物にできる存在。


頭ではルシアだと分かっているのに、身体の奥に残された本能だけが警戒してしまう。


食う側と。


食われる側。


その境界を、人間の本能は思っている以上に敏感に感じ取っていた。


それでもルシアが困った顔をすると、緊張はすぐに崩れた。


「やだ! 普通に接してよ!」


「ごめんごめん!」


「でも本当に綺麗になったよ」


「なんか別世界の人みたい」


「分かる。綺麗すぎて同じ人間じゃないみたい」


その言葉に、ルシアだけが笑顔を僅かに固くした。


――同じ人間じゃない。


その通りだった。


けれど、誰も本当の意味には気づいていない。


「髪色だけで大袈裟だよ!」


笑って誤魔化すと、いつものように朝の時間が始まった。


◇


昼休み。


「ルシア、先輩が呼んでるよ」


「私?」


教室の入口を見ると、見覚えのない男子生徒が立っていた。


「誰?」


ミアが小声で聞く。


「知らない……」


廊下へ出ると、男子生徒は少し緊張した様子で笑った。


「急に呼び出してごめん」


「ううん。どうしたの?」


「ちょっといい?」


人の少ない中庭まで移動すると、彼は一度深呼吸した。


「あのさ。俺、前からルシアちゃんのこと可愛いなって思ってて」


「え?」


「今日見たら、なんか……今言わなかったら後悔する気がして」


その言葉で、ようやく意味を理解した。


「俺と付き合ってくれない?」


「……ごめんなさい」


ほとんど反射だった。


男子生徒は一瞬固まったあと、笑った。


「早いな」


「ご、ごめん!」


「いや、いいよ。ダメ元だったから」


気まずくなるかと思ったのに、彼は爽やかだった。


「ちゃんと聞いてくれてありがとう」


「こっちこそ……ありがとう」


「じゃあ、またな」


手を上げて去っていく。


教室へ戻った瞬間、待ち構えていたミアが飛んできた。


「どうだった!?」


「告白された」


「やっぱりー!えー! あの人、人気ある先輩だよ!?」


「そうなの?」


「そうだよ! 優しいし爽やかだし、結構モテるの!」


「知らなかった……たしかに良い人っぽかったな」


ミアはルシアをまじまじと見る。


「黒髪にしたら以前よりモテ始めたねー」


「髪関係ある?」


「絶対ある! 今日のルシア、めちゃくちゃ目立ってるもん」


ミアは楽しそうに笑ったあと、ルシアの腕を取った。


「ねえ、今日帰り買い物行こうよ!」


「あ、ごめん」


「えー!」


「今日、学園長代理なんだよね」


「また?」


「アルが外の仕事だから。夜間部の時間まで残らないといけないの」


「残念……」


「今度行こう?」


「絶対ね!」


「うん」


◇


放課後。


ルシアは学園長代理の黒い腕章をつけ、夜間部の校舎へ向かった。


建物へ足を踏み入れた瞬間、昼間部とは明らかに違う反応が返ってきた。


「……え?」


「嘘だろ……」


「純血……?」


小さな囁き。


昨日までなら聞こえなかった距離だった。


今は、離れた場所にいる生徒の声まで耳へ入ってくる。


「人間じゃなかったのか?」


「あの子……純血だったの?」


「どこの家だ?」


「昨日まで何も感じなかったぞ」


全部聞こえる。


ルシアは思わず耳を押さえたくなった。


「……聞こえすぎるのも困るなぁ」


「ルシアちゃーん!」


明るい声がして、ラビが駆け寄ってきた。


隣にはクロードもいる。


「ラビさん、クロードさん」


「うわぁ……」


ラビはルシアを見るなり目を丸くした。


「本当に変わってる」


「そんなにですか?」


「そんなにだよ」


クロードも興味深そうにルシアを見る。


「これは驚いたな。まさか純血だったとはね」


ラビが嬉しそうに尋ねた。


「ルシアちゃんって、純血のお姫様だったんだね」


「はい」


ルシアは少し照れながら答える。


「昨日、お兄様が思い出させてくれたんです」


周囲がざわめいた。


「お兄様?」


「誰のことだ?」


「純血の姫って……」


ラビが何気なく聞く。


「ゼノンさんのことだよね?」


「はい」


その瞬間。


今度こそ廊下が静まり返った。


「……彼の方の妹?」


「ゼノン様に妹が?」


「ヴァルディエ家に純血の姫なんていたのか?」


「じゃあ……王女?」


「存在を隠されてたってことか?」


一気に声が広がる。


「うるせーぞ!」


ラビが振り返った。


「全部聞こえてるからね! 今のルシアちゃん、君たちより血が濃いんだから耳だっていいんだよ!」


クロードも周囲を睨む。


「見世物じゃねぇぞ。散れ」


生徒たちは少しずつ離れていったものの、視線は消えなかった。


ラビは改めてルシアを見た。


「でも本当にすごいね」


「何がですか?」


「人間のルシアちゃんも可愛かったけど、ヴァンパイアとして覚醒したルシアちゃんは別格!」


「ええ?」


「可愛いっていうより、美しいって感じ!」


「そんなに変わったかな……」


「変わったよ!」


クロードがルシアの前へ回り込む。


「俺は今の方が好みだな」


「クロードさん」


「どう? ゼノンさんやめて俺にしない?」


「お兄様に言いますよ」


「待って。それは困る」


ラビが吹き出す。


「クロード、命が惜しいならやめなよ」


「半分冗談だって」


「半分は本気なんですね……」


そのとき、廊下の向こうからゼノンが現れた。


「ルシア」


ルシアは自然と笑顔になった。


「お兄様」


また周囲がざわめく。


ゼノンはそんなものには目も向けず、真っ直ぐルシアの前まで来た。


「遅れてごめんね。初日は問題なかった?」


「問題はなかったんだけど……やっぱり騒がれた」


「まあ、そうなるだろうね」


「昼間部でも、なんか雰囲気が変わったって言われた」


「それは仕方ないよ」


「あと、告白された」


ゼノンの笑顔が止まった。


「……誰に?」


「そこなの?」


ラビが笑う。


「名前は知らないけど、上級生」


「すぐ断れた?」


「断ったよ」


「そう」


途端に機嫌が戻った。


クロードが呆れたように言う。


「分かりやすいな」


◇


夜間部の授業が始まると、ルシアは学園長代理として校舎内の見回りへ出た。


しばらく歩いていると、遠くから小さな笑い声が聞こえてくる。


角を曲がる。


昼間部の白い制服を着た女子生徒が三人いた。


「……あれ?」


この時間、昼間部の生徒は夜間部の校舎へ入れない。


ルシアは三人へ近づいた。


「ねえ」


三人が振り返る。


「昼間部の子だよね? こっちの校舎に来たら駄目だよ?」


一人が露骨に不満そうな顔をした。


「なんで?」


「夜間部は授業中だから。許可なく入っちゃ駄目なの」


「でも、なんで貴方はいいの?」


「私は――」


「同じ昼間部じゃん」


別の女子も口を挟む。


「学園長の養娘だからって、貴方だけズルくない?」


「ズルいとかじゃなくて、私は今――」


「いつもゼノン先輩たちと仲良くしてるし」


「自分だけ特別扱いじゃん」


どうやら夜間部の男子生徒目当てで忍び込んだらしい。


ルシアはなるべく穏やかに話した。


「私は今、学園長代理としてここにいるの。だから――」


「偉そうにしないでよ!」


ぱしん、と乾いた音が廊下に響いた。


ルシアの顔が横を向いた。


「……え?」


頬が熱い。


爪が皮膚を掠めたらしく、細い傷から血が流れた。


一瞬。


怒りが込み上げた。


空気が僅かに震える。


けれどルシアはすぐに朝の言葉を思い出した。


――感情に力を引っ張られない。


深く息を吸う。


吐く。


怒りを消す必要はない。


ただ、力を外へ出さない。


空気の震えが収まった。


ルシアは三人を見た。


「私は今、学園長代理としてここにいます。貴方たちを注意しなければならない立場なのです」


静かに告げる。


「だから、寮に戻ってください」


一人が何か言い返そうとして、ルシアの頬を見た。


「……え?」


「何?」


「傷……」


ルシアも頬へ触れる。


指先に血がついた。


けれど。


「……傷が治った?」


裂けていたはずの皮膚が、すでに塞がっている。


しまった。


そう思った瞬間だった。


「暴力は良くないな」


背後から低い声がした。


三人の表情が一気に変わる。


「ゼノン先輩!」


「え、嘘!」


「会えて嬉しいです!」


先ほどまでの態度が嘘のように、頬を赤くしてゼノンを見る。


けれどゼノンは三人には目も向けなかった。


ルシアへ歩み寄る。


頬に残った血を見る。


赤い瞳が細くなった。


「お兄様……」


次の瞬間。


ルシアはゼノンの腕の中にいた。


強く抱き締められる。


「僕は今、大切な子に暴力を振るわれて怒っているんだよ」


声は静かだった。


怒鳴ってもいない。


それなのに。


廊下の空気が一瞬で凍りついた。


三人の女子生徒は、先ほどルシアに感じたものとは比べものにならない恐怖を覚えた。


動けない。


呼吸すら浅くなる。


赤い瞳を向けられただけで、身体が理解してしまう。


逃げなければならない。


目の前にいるのは、自分たちより遥かに強い捕食者だ。


人間がヴァンパイアに血を吸われるということを知識として知っていても、その恐怖を実際に感じることは少ない。


けれど今は違った。


首筋を隠したい。


背を向けて逃げたい。


食われる側の本能が、そう叫んでいる。


ゼノンは三人を見た。


「ルシアになんて言われたの?」


「……寮に、戻れと……」


「どうするの?」


「戻ります……」


「そう」


冷たい声だった。


「早く行け」


「はい……!」


三人は逃げるように走り去った。


姿が見えなくなり、ルシアはようやく息を吐いた。


「……来てくれたの?」


「血の匂いがしたから」


「こんな少しでも分かるの?」


「ああ」


ゼノンの顔を見上げるルシアの頬に残った血をペロリと舐めた。


「ルシアの血なら、すぐ分かるよ」


その言葉が嬉しくて、頬を舐められたのが少し恥ずかしくて、ルシアは少し笑った。


「ありがとう、お兄――」


そこで。


喉が焼けた。


「……っ」


笑顔が消える。


身体の奥から急激に熱が込み上げてきた。


「ルシア?」


「はっ……」


呼吸が浅くなる。


「お兄様…………」


血。


急にそれしか考えられなくなる。


自分の頬に残る血。


遠くの教室にいるヴァンパイアたちの血。


そして何より。


目の前にいるゼノンの血。


心臓の音まで聞こえる。


どくん。


どくん。


首筋を流れる血の気配に、喉が疼いた。


「はぁ……っ、は……」


「渇きだね」


「血……欲しい……」


ゼノンはすぐにルシアの身体を抱き上げた。


「きゃっ」


「移動しよう」


「お兄様、歩けるよ……」


「息切れしてる子の言葉は信用しない」


そのまま空いている教室へ入る。


扉を閉めると、ゼノンはルシアを椅子へ座らせ、自分のネクタイへ手をかけた。


するりと緩める。


一番上のボタンを外す。


もう三つ外す。


白い襟元から首筋が露わになった。


ルシアの喉が鳴る。


ゼノンが両腕を広げ、抱きしめる。


「いいよ」


「……でも」


「どうしたの?」


「学校だよ?」


「僕が良いって言ったら良いんだよ」


「そういうものなの……?」


「今は我慢しなくていいよ、血に慣れてから我慢を覚えよう」


その言葉に耐えきれず、ルシアはゼノンへ腕を回した。


首筋へ顔を寄せる。


血の香り。


さっきまで人間たちが自分たちへ向けていた、あの恐怖がふと頭を過った。


――食う側と、食われる側。


今なら少し分かる。


目の前の血を欲しいと思う自分は、確かに昨日までの自分とは違う。


けれどゼノンは怖がらない。


むしろ、自分から首を差し出してくれている。


ルシアはそっと首筋を舐めた。


脈打つ場所を探す。


「……お兄様」


「うん」


ぶつり、と牙を立てた。


温かな血が口の中へ流れ込む。


「……っ」


美味しい。


一口飲むだけで、焼けるようだった喉が潤っていく。


もっと。


もう少し。


ルシアはゼノンの肩へしがみつき、何度も血を飲んだ。


ゼノンは止めなかった。


背中を優しく撫でながら、落ち着くまで好きにさせてくれる。


やがて激しかった鼓動が落ち着き、血しか考えられなかった頭にも理性が戻ってきた。


ルシアはゆっくり牙を抜いた。


「……はぁ」


「落ち着いた?」


「うん……もう大丈夫」


「よかった」


ゼノンが微笑む。


そこでルシアは、白いシャツの襟元を見て固まった。


「……あ」


血がついている。


思っていたよりも大きな赤い染みができていた。


「ご、ごめんなさい!」


「何が?」


「ワイシャツ! 血ついちゃった!」


ゼノンは自分のシャツを見下ろした。


「ああ、これ?」


「ごめんなさい……」


「いいんだよ。ワイシャツくらい」


「でも……」


「脱がなかったのは僕だよ」


ゼノンは何でもないことのように笑った。


「ルシアが謝ることじゃない」


「……ほんと?」


「本当」


口元に残った血をペロリと舐められる。


「少しでも渇いてると思ったら、すぐ僕のところに来てね」


「……はい」


「ルシアは僕だけで渇きを癒して生きて欲しい約束」


「約束します」


ゼノンは満足そうにルシアの頭を撫でた。


「もう少しで授業が終わるから、ここで待ってて」


「お兄様は?」


「授業に戻るよ」


ルシアは血のついたシャツを見る。


「そのまま?」


「うん」


「絶対みんな見るよ」


「別にいいよ」


「恥ずかしくないの?」


「全然」


むしろ少し嬉しそうに見える。


「……お兄様、もしかしてわざと?」


「何が?」


「なんでもない」


問い詰めても笑って誤魔化されそうだった。


「終わったら迎えに来るから、一緒に帰ろう」


「うん。待ってる」


◇


夜間部の授業が終わる頃、約束通りゼノンが迎えに来た。


「帰ろうか」


「うん!」


並んで学園を出る。


夜の風が黒髪を揺らした。


「今日だけで色々ありすぎた……」


「疲れた?」


「ちょっと。でも、ちゃんと一日過ごせた」


「初日にしては上出来だよ」


「途中でお兄様に噛みついちゃったけど」


「それも含めて上出来」


「甘くない?」


「ルシアには甘いよ」


当然のように言われ、ルシアは笑った。


少し歩いてから、ふと思い出す。


「ねえ、お兄様」


「何?」


「今日ね、クラスの子に言われたの。綺麗だけど、ちょっと怖いって」


ゼノンが横を見る。


「傷ついた?」


「最初はちょっと。でも……さっき分かった気がする」


「何が?」


「食べられる側の怖さ」


ゼノンは黙って聞いている。


「私も今まで人間だったから、ヴァンパイアに血を飲まれるって知ってはいたけど……本当の意味では分かってなかったんだと思う」


ルシアは自分の喉へ触れた。


「今日、血が欲しくなったとき、お兄様の首しか見えなくなった。もしあれがミアの前で起きたらって考えたら……ちょっと怖くなった」


「ルシア」


「私、ミアを怖がらせたくない」


ゼノンは少し考えてから、ルシアの頭へ手を置いた。


「だったら、怖がらせないために制御を覚えればいい」


「……うん」


「ヴァンパイアだから誰かを襲わなきゃいけないわけじゃない。血が欲しくなることと、誰を傷つけるかは別の話だよ」


ルシアはその言葉を聞いて、クレイドを思い出した。


ヴァンパイアになった自分を嫌いながら。


それでもずっと、自分を傷つけないように生きてきたクレイド。


そしてゼノンも。


十年間。


自分の血を欲しいと思いながら、一度も求めなかった。


「……そっか」


今なら、少しだけ分かる。


彼らがどれだけ自分を抑えていたのか。


「私も頑張る」


「ああ」


「ミアとも今まで通り友達でいたいし」


「うん」


「昼間部にもいたい」


「それはこれからの頑張り次第かな」


「うー」


「多分無理だと思うけど頑張ってみな」


「が、頑張るもん」


ゼノンが笑う。


ルシアもつられて笑った。


昨日までとは違う身体。


違う感覚。


違う世界。


それでも、全部を捨てる必要はない。


人間として過ごした十年間も。


ヴァンパイアとして生まれた自分も。


どちらもルシアだった。


「お兄様」


「ん?」


ルシアはゼノンの腕へ自分の腕を絡めた。


「一緒に帰ろ」


「最初からそのつもりだよ」


少しだけ身体を寄せる。


昔と同じ。


忘れていた十年間も、何度も会いに来てくれた人。


血の繋がらない「よく遊びに来るお兄さん」として、もう一度兄として面倒を見てくれた本当の兄。


そして今は、もう隠す必要もない。


「……お兄様」


もう一度呼ぶと、ゼノンが嬉しそうに目を細めた。


「何?」


「呼びたかっただけ」


「何度でも呼んでいいよ」


「じゃあ、お兄様」


「うん」


「お兄様も渇いたら遠慮なく言ってね?もう他の女の人の血吸ってる姿は見たく無い....」


「……あぁ、見られちゃったんだっけ」


「うん……」


「もうルシアの味を知ってしまったから他の血は飲めないよ。じゃあ家に帰ったら部屋行っていい?」


「うん!」


二人の声が、静かな夜道に溶けていく。


ルシアはゼノンの腕に寄り添ったまま、家へと帰っていった。

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