ルシアの記憶
熱い。
身体の内側に、火でも灯されたようだった。
ルシアは苦しさに眉を寄せながら、ゆっくりと意識を取り戻した。
「……ん……」
瞼を開く。
最初に見えたのは、見慣れた天井だった。
しばらくぼんやりと見つめてから、ここが自分の部屋だと気づく。
「……私の、部屋……?」
どうやって帰ってきたのだろう。
確か今日はゼノンと出かけて、それから高い塔へ連れていってもらった。
そこで――。
『永遠に一緒にいよう』
『うん』
『約束』
首筋に牙を立てられた。
そのあと、ゼノンの血が身体の中へ入ってきて。
そこから先の記憶がない。
身体を起こそうとして、初めて自分がパジャマを着ていることにも気づいた。
「……着替えてる……」
誰が着替えさせたのだろう。
そんな疑問が浮かんだのも、一瞬だった。
「……っ!」
突然、喉の奥が焼けるように痛んだ。
ルシアは咄嗟に喉を押さえる。
「なに……これ……」
喉が渇いている。
けれど、水が欲しいときの渇きとはまるで違った。
身体そのものが、何かを求めている。
胸が苦しい。
呼吸が浅くなり、何度息を吸っても足りない。
「はっ……はぁ……っ」
身体が熱い。
心臓が激しく脈打つたび、全身を巡る血が煮えたぎっているようだった。
布団を蹴るようにして身体を起こしたが、すぐに力が抜ける。
「苦しい……」
何が欲しいのか分からない。
なのに、身体は知っていた。
頭の奥から、強烈な欲求が湧き上がってくる。
――血。
「……っ」
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、ルシアは自分自身に驚いた。
けれど、否定できない。
飲みたい。
血が欲しい。
今すぐ。
誰でもいいから。
「いや……なに、これ……」
自分の声まで震えている。
喉を掻きむしりたくなるほどの渇きに、ルシアはベッドの上で身体を丸めた。
そのときだった。
部屋の外から、足音が聞こえた。
まだ遠い。
廊下の向こう。
それなのに、まるで耳元で聞こえているかのようにはっきり分かる。
一歩。
また一歩。
それだけではない。
――どくん。
「……え……?」
――どくん、どくん。
誰かの心臓の音。
近づいてくる。
その身体の中を血液が流れる音まで聞こえる気がした。
途端に、ルシアの喉がさらに激しく疼いた。
「……血……」
扉が開く。
「ルシア?」
ゼノンだった。
その姿を見た瞬間、ルシアの頭からほとんどすべての思考が消えた。
匂う。
今まで一度も感じたことのないほど鮮明に。
ゼノンの身体を巡っている血の匂い。
甘く、濃く、どうしようもなく惹きつけられる香り。
「……っ」
ルシアの赤い瞳が大きく揺れた。
ゼノンは一目で状況を理解した。
「目が覚めたんだね」
「ゼノ……」
名前を呼ぼうとして。
違う言葉が口から零れた。
「……お兄様……」
ゼノンが動きを止めた。
ルシア自身も気づいていない。
なぜ、そんな呼び方をしたのか。
十一年間、一度も使ったことのない呼び方。
けれど今は、それを不思議に思う余裕すらなかった。
「お兄様……私……っ、苦しい……」
「分かってる」
ゼノンはすぐにベッドの傍へ来た。
「喉が……変なの……。熱くて……血が……」
言葉にするだけで恐ろしくなる。
「血が、飲みたい……」
「うん。分かってるよ」
ゼノンの声は驚くほど穏やかだった。
怯える様子もない。
拒絶もしない。
むしろ、こうなることを最初から知っていたようだった。
「大丈夫」
そう言うと、ゼノンは自分の腕へ牙を立てた。
皮膚が裂け、赤い血が流れ出す。
その瞬間、濃い血の香りが部屋に広がった。
「……っ!」
ルシアの瞳が大きく見開かれる。
喉が疼く。
牙が痛いほど主張する。
考えられない。
血しか見えない。
ゼノンは血の流れる腕を、ルシアの口元へ差し出した。
「飲んで」
「……でも……」
「大丈夫。ルシアのためだから」
「私……」
「我慢しなくていいよ」
次の瞬間。
ルシアの理性が途切れた。
ゼノンの腕を両手で掴み、その傷口へ夢中で口をつける。
「……っ」
温かい血が口の中へ流れ込んだ。
飲み込んだ瞬間、全身に衝撃が走る。
美味しい。
そんな言葉では足りなかった。
身体の奥まで満たされていく。
焼けつくようだった喉が、血を飲むたびに少しずつ潤っていく。
もっと。
もっと欲しい。
ルシアはゼノンの腕を離さない。
夢中で血を飲み続ける妹を、ゼノンは止めなかった。
ただ空いている手で、黒くなったルシアの髪を撫でながら、静かに見守っていた。
「ゆっくりでいいよ」
その声さえ、今は遠い。
何度も血を飲み込んで。
ようやく、激しかった鼓動が落ち着き始めた。
身体を支配していた熱が少しずつ引いていく。
頭の中にかかっていた霞も晴れ、ルシアの瞳に理性が戻った。
「……あ……」
自分が何をしていたのか理解した。
ゼノンの腕を掴み、流れ出る血を夢中で飲んでいる。
慌てて口を離した。
「ご、ごめんなさい……!」
「どうして謝るの?」
「だって私……!」
ゼノンは何でもないことのように傷口を見た。
「これくらい、すぐ治るよ」
実際、純血であるゼノンの傷はすでに塞がり始めている。
「でも……私、本当に……血を……」
「うん」
ゼノンが微笑む。
「もう分かったでしょ?」
その言葉に、ルシアは何も答えられなかった。
自分の口元には、まだゼノンの血が残っている。
さっきまでの渇き。
血の匂い。
心臓の音。
牙。
そして何より。
血を飲んだ瞬間に身体が満たされた、あの感覚。
全部、本物だった。
「私……本当に、ヴァンパイアに……」
言いかけて、ルシアは止まった。
頭の奥が、妙に疼く。
何かが違う。
自分は本当に、今日ヴァンパイアになったのだろうか。
もっと昔から。
ずっと前から。
この感覚を知っていたような――。
「……お兄様……?」
また。
その呼び方が出た。
今度はルシア自身が気づいた。
「……あれ?」
どうして。
いつもなら「ゼノ兄さん」と呼ぶのに。
「私、今……」
ゼノンの赤い瞳が揺れた。
「ルシア」
「なんで私……お兄様って……」
頭の奥に何かが浮かぶ。
小さな手。
黒い髪。
自分よりずっと大きな手。
『手、繋いで』
『いいよ』
「……何……?」
頭が痛い。
「何か……見えた……」
「記憶だよ」
ゼノンが静かに答えた。
「……記憶?」
「うん」
「私の……?」
「ああ」
ゼノンの声が僅かに震えた。
「君の記憶だよ」
ルシアは呆然と彼を見つめる。
まだ分からない。
けれど。
目の前にいるゼノンを見ていると、胸の奥から次々と知らないはずの感情が溢れてくる。
懐かしい。
大好き。
会いたかった。
お兄様。
「……もっと……」
「え?」
「もう少し……血をください」
ゼノンが目を見開く。
ルシアは自分でも驚いていた。
先ほどまでのように理性を失っているわけではない。
それでも、欲しい。
身体がまだ求めている。
そして何より。
この血を飲めば、もっと思い出せる気がする。
「もう少しだけ……お兄様の血が欲しい」
ゼノンは少しの間、ルシアを見つめていた。
やがて静かに頷く。
「いいよ」
腕を差し出そうとしたゼノンを、ルシアは止めた。
「……違う」
「ルシア?」
ルシアの視線が、ゼノンの首筋へ向かう。
そこから聞こえる。
――どくん。
――どくん。
心臓から送り出された血が、脈を打っている。
「そこから……飲みたい」
ゼノンの表情が僅かに変わった。
けれど、拒まなかった。
「……いいよ」
ゼノンはベッドの端へ腰を下ろし、ルシアが飲みやすいように少し首を傾けた。
「おいで」
その言葉に引き寄せられるように、ルシアはゼノンへ近づく。
肩へ手を置き、背中に腕を回す。
首筋へ顔を寄せた。
血の匂いがする。
先ほどよりもずっと近い。
けれど、不思議だった。
もう怖くない。
むしろ、ひどく懐かしい。
「……大好きな香り」
小さく呟いて、ルシアは牙を立てた。
「……っ」
ゼノンの身体が僅かに強張る。
牙が皮膚を破り、温かな血がルシアの口の中へ流れ込んだ。
飲む。
一口。
もう一口。
先ほどよりも濃く感じる。
全身にゼノンの血が巡っていくようだった。
そのたびに、頭の奥で何かが壊れていく。
鍵。
扉。
十一年間、自分の中に存在していた巨大な封印。
そこに亀裂が入っていく。
――お兄さま!
誰かの声。
違う。
自分の声だ。
幼い自分の声。
――おかえりなさい!
黒髪の少年へ飛びつく、小さな女の子。
――会いたかった!
「……っ」
ルシアの指が、ゼノンの服を強く掴んだ。
それでも血を飲むことをやめられない。
次の瞬間。
景色が変わった。
森。
山。
大きな屋敷。
窓から差し込む柔らかな光。
笑っている男。
美しい黒髪の女。
そして、今より少し幼い姿のゼノン。
みんなが笑っている。
自分も笑っている。
知らないはずなのに。
全部、知っている。
「……お父……さま……?」
血を飲みながら、涙が一筋だけルシアの頬を伝った。
ゼノンがそれに気づく。
「ルシア……?」
けれど、もうルシアには聞こえていなかった。
――ルシア。
優しい女の声。
――お母さま。
忘れていた言葉が、胸の奥から蘇る。
――お兄さま!
大好きだった声。
大好きだった人。
手を繋いで眠った夜。
森で遊んだ日。
抱き上げてもらったこと。
『大きくなったら、お兄さまのお嫁さんになる!』
『うん』
『ほんと?』
『本当。僕のお嫁さんは、ルシアしかいないから』
「……っ」
涙が止まらなくなった。
それでも、記憶は止まらない。
幸せだった日々のさらに向こう。
聞こえてくる。
――ピンポーン。
屋敷のチャイム。
扉を開ける侍女。
途切れる声。
床へ落ちる身体。
血。
悲鳴。
母に抱き上げられる、小さな自分。
『ルシア、ここにいて』
『お母さまも?』
『お母さまは行かなくちゃいけないの』
「……いや……」
現実のルシアの唇が、ゼノンの首筋から僅かに離れた。
けれど意識はもう、十一年前へ引き戻されていた。
『何が聞こえても、ここから絶対に出ては駄目』
「……お母さま……」
ゼノンがルシアの身体を支える。
「ルシア」
届かない。
記憶の扉は、完全に開いていた。
忘れていたかったものまで。
自分で「知りたい」と望んだ、すべてが。
一気に戻ってくる。
楽しかった日々も。
父の笑顔も。
母の温もりも。
大好きだった兄との約束も。
そして、家族を奪われたあの日の記憶も。
ゼノンの血を飲み、ルシアは十一年前の自分へと戻っていった。
◇
「お母さま!」
漆黒の髪を揺らしながら、小さなルシアが廊下を駆けていく。
まだ六歳になるよりも前の記憶だった。
母ロザリアのもとへ勢いよく飛び込むと、彼女は娘を受け止めながら困ったように笑った。
「まあ、ルシア。廊下を走ってはいけないでしょう?」
「だって、お兄さまが帰ってきたの!」
「ゼノンが?」
「うん!」
ルシアが暮らしていたのは、街から遠く離れた山奥に建つ大きな屋敷だった。
周囲には街もなければ、他の家もない。
窓から見えるのは、どこまでも続く森と山、それから広い空だけ。
幼いルシアにとって、そこが世界のすべてだった。
当時、ヴァルディエ王家に娘が生まれたことは、ごく限られた者にしか知らされていなかった。
本来のヴァルディエ王家の屋敷は、王都の中心にある。
純血の王女の存在を公にすれば、その血や立場を利用しようとする者が必ず現れる。
ましてルシアは、生まれたときから兄ゼノンの伴侶となることを定められた特別な子だった。
純血のヴァンパイアは、長い時を生きていく。
寄り添い、共に生きる者がいなければ、その永遠にも等しい時間に耐えられないかもしれない。
王家の血を守るため。
そして何より、自分の身を守れない幼い娘を危険から遠ざけるため。
父アルフォンスと母ロザリアは、ルシアがある程度成長するまで、その存在そのものを隠すことを決めた。
だからルシアは、家族以外の者をほとんど知らずに育った。
父と母。
兄のゼノン。
屋敷に仕える執事や侍女たち。
そして時折、山奥まで遊びに来てくれる両親の古い友人、アルベルト。
それが幼いルシアの世界のすべてだった。
けれど、寂しいと思ったことなど一度もなかった。
「お兄さま!」
玄関へ駆けていくと、ちょうど扉が開いた。
そこから入ってきた黒髪の少年を見つけた途端、ルシアの顔が輝く。
「おかえりなさい!」
「ただいま、ルシア」
「お兄さま!」
勢いよく飛びついたルシアを、ゼノンは慣れた様子で受け止めた。
「危ないよ」
「会いたかった!」
「朝も会ったよ?」
「でも会いたかったの!」
「そっか。じゃあ、僕も会いたかった」
ゼノンが嬉しそうにルシアを抱き上げる。
「ほんと?」
「本当」
「どれくらい?」
「ルシアと同じくらい」
「私の方がいっぱい!」
「じゃあ、僕もいっぱい」
「真似した!」
楽しそうに笑う妹を抱いたまま居間へ入ると、父アルフォンスが呆れたように二人を見た。
「またゼノンにべったりか」
「だって、お兄さまが大好きなんだもん!」
「父さまは?」
「大好き!」
「母さまは?」
「大好き!」
「アルは?」
「大好き!」
「ずいぶん多いな」
「みーんな大好きなの」
ロザリアがくすくすと笑う。
「私もルシアが大好きよ」
ルシアは何の迷いもなく頷いた。
幸せだった。
父がいて、母がいて、大好きな兄がいる。
それだけで、毎日は楽しいことでいっぱいだった。
◇
別の日。
森の中を、ルシアはゼノンの背中を追いかけて走っていた。
「お兄さま、待って!」
「遅いよ、ルシア」
「お兄さまが速すぎるの!」
少し先でゼノンが振り返り、楽しそうに笑う。
「転ばないでね」
「転ばないもん!」
そう言った直後、ルシアの足が木の根に引っ掛かった。
「わっ!」
地面へ倒れる――その寸前、いつの間にか目の前まで戻ってきていたゼノンが身体を抱き留めた。
「ほら。言ったでしょ?」
「……転んでない」
「僕が捕まえたからね」
「だから転んでない!」
「はいはい」
「お兄さま! 子供扱いしないで!」
「子供でしょ?」
「違うもん! すぐ大きくなるもん!」
「じゃあ、大きくなったら何するの?」
聞かれたルシアは少しだけ考え、それから嬉しそうに笑った。
「お兄さまのお嫁さんになる!」
ゼノンの目が僅かに見開かれる。
「僕の?」
「うん! お父さまとお母さまみたいになるの」
父と母はいつも一緒だった。
父は母を大切にしていて、母も父が大好きだった。
だからルシアも、大好きなゼノンと同じようになりたかった。
幼いルシアはまだ知らなかった。
父アルフォンスと母ロザリアもまた、同じヴァルディエの血を分けた実の兄妹だったことを。
純血を守るヴァルディエ王家では、兄妹が伴侶となることは決しておかしなことではなかった。
だからこそ、ゼノンはルシアの言葉を聞くと、とても嬉しそうに笑った。
「私、大きくなったらお兄さまと結婚する!」
「うん」
ゼノンはルシアの前へしゃがみ、同じ高さからその瞳を見つめる。
「そのために、ルシアは生まれてきたんだよ」
「私?」
「父上と母上が、僕と結婚するために産んでくれた大切な子がルシアなんだ」
幼いルシアには、それが特別なことなのかさえ分からない。
ただ、嬉しかった。
「じゃあ、本当にお嫁さんになれる?」
「なれるよ」
「ほんと?」
「本当。僕のお嫁さんは、ルシアしかいないから」
「絶対?」
「絶対」
嬉しくなったルシアは、そのままゼノンの首へ抱きついた。
「大好き!」
「僕も大好きだよ」
◇
その夜、ルシアはゼノンと同じベッドへ潜り込んでいた。
眠る前になると寂しくなって、兄の部屋へやって来ることは珍しくない。
「お兄さま」
「何?」
「手、繋いで」
「いいよ」
小さな手とゼノンの手が重なり、ルシアはぎゅっと握った。
「大きくなっても一緒?」
「一緒だよ」
「ずっと?」
「ずっと」
「結婚しても?」
「結婚したら、もっと一緒だよ」
「ほんと? じゃあ早く大きくなりたい」
「そんなに急がなくていいよ」
「どうして?」
「今のルシアも可愛いから」
ルシアは少し考えた。
「大きくなったら可愛くない?」
「大きくなっても可愛いよ」
「じゃあいい!」
あまりにも単純な答えにゼノンが吹き出し、それにつられてルシアも笑った。
やがて眠気が訪れ始めた頃、ルシアは繋いだ手をもう一度強く握った。
「お兄さま」
「うん?」
「ずっと一緒にいようね」
ゼノンも、その小さな手を握り返す。
「うん。ずっと一緒にいよう」
その言葉に安心して、ルシアは目を閉じた。
◇
アルベルトが屋敷を訪れる日も、ルシアは楽しみにしていた。
「アル! 見て!」
食卓へ駆けてきたルシアが、一枚の絵を広げる。
「お父さまと、お母さまと、お兄さまと、私!」
アルベルトは絵を眺めてから尋ねた。
「俺は?」
「ないよ?」
「俺も描け」
「アル、家族じゃないもん」
「冷たいな」
アルフォンスが楽しそうに笑った。
「諦めろ。家族限定らしい」
「次は描いてあげる!」
「仕方ない。それで許そう」
「アル、また泊まる?」
「今日は帰る」
「えー!」
「また来る」
「いつ?」
「そのうち」
「そのうちっていつ?」
「面倒だな、お前は」
「アル!」
そんな二人を見て、ロザリアが笑う。
「ルシアはあなたが来るのを楽しみにしているのよ」
「分かってる」
アルベルトはそう言って、幼いルシアの頭を撫でた。
「また来る」
「約束?」
「ああ」
「絶対?」
「絶対だ」
アルベルトは両親の親友であり、代々ヴァルディエ王家に仕えてきた一族の中でも、アルフォンスとロザリアが最も信頼する人物だった。
だから彼だけは、秘匿されていたルシアの存在を知ることを許されていた。
ルシアにとっても、家族に限りなく近い存在だった。
そんな毎日が、ずっと続くと思っていた。
お父さまと、お母さまと、お兄さまがいて、時々アルが遊びに来る。
皆で笑って、大人になったらお兄さまのお嫁さんになる。
それが幼いルシアにとって、何の疑いもない未来だった。
――あの日までは。
◇
六歳になったルシアは、その日もいつもと変わらない午後を過ごしていた。
ゼノンは朝から街へ出ている。
「お兄さま、いつ帰ってくる?」
「夕方には戻るそうよ」
ロザリアが答えると、ルシアは不満そうに頬を膨らませた。
「遅い」
「まだお昼よ?」
「早く帰ってきてほしい」
「本当にゼノンが好きね」
「大好き!」
穏やかな午後だった。
だからこそ、誰も予想していなかった。
――ピンポーン。
屋敷のチャイムが鳴った。
「誰?」
「お客様かしら」
一人の侍女が玄関へ向かう。
この屋敷を訪れる者は少なかったが、誰もすぐには異変だと思わなかった。
侍女が扉を開ける。
「どちらさまで――」
その声が途中で途切れた。
鈍い音とともに、侍女の身体が床へ崩れ落ちる。
胸には大きな穴が開いていた。
扉の向こうには、血に濡れた手で、今まで侍女の身体の中にあった心臓を握る男が立っている。
「――見つけた」
男が笑った。
エドモンド。
その背後には、二人の女が立っていた。
三人のヴァンパイア。
「奇襲だ!!」
執事の怒鳴り声が響き、穏やかだった屋敷が一瞬で地獄へ変わった。
「ルシア!」
ロザリアが娘を抱き上げる。
「お母さま?」
「こちらへ!」
「どうしたの?」
答えは返ってこない。
廊下の向こうから悲鳴が聞こえ、何かが壊れる。
執事の苦しげな声に続いて、重いものが床へ倒れる音がした。
「お母さま……?」
怖かった。
何が起きているのか分からない。
ロザリアはルシアを抱いたまま屋敷の奥へ走り、一つの部屋へ入った。
壁際の棚を動かすと、その裏から小さな隠し部屋が現れる。
「ルシア、ここにいて」
「お母さまも?」
「お母さまは行かなくちゃいけないの」
「嫌。一緒にいて」
小さな手が母の服を掴む。
「怖い……」
ロザリアの顔が一瞬だけ歪んだ。
それでも娘を不安にさせまいと、優しく笑う。
「大丈夫。お父さまも、お母さまも強いのよ」
「……ほんと?」
「本当よ」
「お兄さまは?」
「ゼノンも帰ってくるわ」
ロザリアは娘を強く抱き締め、額へ口づけた。
「だから、ここから絶対に出ては駄目。何が聞こえてもよ」
「……うん」
「愛しているわ、ルシア」
「私も……」
扉が閉まり、ルシアは暗闇に一人残された。
外からは、何かが壊れる音や怒鳴り声、悲鳴、激しく戦う音が聞こえてくる。
耳を塞いでも、ヴァンパイアの耳には聞こえてしまう。
「いや……」
小さく身体を丸めていると、突然、母の声が響いた。
「あなたには――ルシアを渡さない!」
「お母さま……!」
思わず立ち上がりかける。
けれど、母との約束を思い出した。
何が聞こえても、ここから出ては駄目。
だから動けなかった。
直後、凄まじい音が響いた。
続いて聞こえたのは、ロザリアの短い悲鳴。
それきり、静かになった。
「……お母さま?」
返事はない。
「お母さま……?」
涙が頬を伝った。
◇
ゼノンが屋敷へ戻ったとき、玄関は血に染まっていた。
見慣れた侍女も、執事も、使用人たちも皆倒れている。
「母上!」
返事はない。
「父上!!」
屋敷の奥へ走り、そこで血の中に倒れているロザリアを見つけた。
「……母上?」
抱き起こした身体は、もう冷たかった。
「母上!」
何度呼んでも返事はない。
そのとき、屋敷の奥から轟音が響いた。
「ゼノン!!」
父の声だった。
「父上!」
広間へ駆け込むと、血だらけのアルフォンスが立っていた。
その傍らには、影から生まれた黒い狼たちが牙を剥いている。
アルフォンスの異能――『影狼』。
その向かいにはエドモンドがいた。
先ほどまで一緒にいた二人の女の姿は、もうどこにもなかった。
「ゼノン、ルシアを探せ」
「でも――」
「行け! ここは私がやる!」
エドモンドが楽しそうに笑う。
「随分と大切に隠していたな、アルフォンス。ロザリアによく似た、可愛い娘だそうじゃないか」
ゼノンの空気が一変した。
「……ルシアに触れるな」
「ルシアか。やはりいるんだな」
次の瞬間。
広間を満たす空気が、凄まじい重さを帯びた。
ゼノンの異能――『重圧』。
エドモンドの身体が床へ叩きつけられ、石畳に亀裂が走る。
「……っ!」
動きを封じられたエドモンドへ、影狼が一斉に飛びかかった。
鋭い牙が腕や脚へ食い込み、その身体を引き裂く。
ゼノンも踏み込んだ。
轟音とともに拳が叩き込まれ、エドモンドの身体が壁へ吹き飛ぶ。
「いいな……これがヴァルディエだ」
「黙れ!!俺もヴァルディエだ!」
ゼノンがさらに重圧を強める。
床が割れ、壁が崩れる。
エドモンドの腕が折れ、脚が潰されても、男は血を吐きながら笑っていた。
アルフォンスが影狼を走らせる。
黒い狼たちがエドモンドの逃げ道を塞ぎ、動きを封じた。
「ゼノン!」
「はい!」
二人の攻撃が同時にエドモンドを捉えた。
肉が裂け、骨が砕け、その身体が原形を失うほど破壊される。
最後にアルフォンスがエドモンドの胸へ腕を突き入れ、心臓を掴んだ。
そして、一気に引き抜く。
エドモンドの身体が床へ落ちた。
同時に、アルフォンスも膝をついた。
「父上!」
ゼノンが慌てて抱き留める。
アルフォンスの胸には、致命傷となる木の杭が刺さっていた。
「待ってください。今――」
「無理だ」
「そんな……」
アルフォンスは息子を見つめ、震える手でその腕を掴んだ。
「ロザリアがルシアを守って先に逝ってしまった。後を追いたいんだ……許してくれ」
「間に合わず、ごめんなさい」
「ルシアを……頼む」
「……はい」
「何があっても」
「はい……!」
「お前の大切な妹だ。そして……お前の伴侶となる子だ」
「父上……」
「幸せにしてやれ」
ゼノンは唇を噛み、震える声で答えた。
「はい。絶対に」
アルフォンスは僅かに笑った。
そして、そのまま動かなくなった。
「……父上?」
返事はなかった。
母も、父も守れなかった。
自分が街へなど行かなければ。
そんな後悔に押し潰されそうになった、そのとき。
「……素晴らしい」
声がした。
ゼノンの身体が凍りつく。
振り返ると、心臓を失ったはずのエドモンドが床の上で笑っていた。
胸には大きな穴が開いている。
その心臓は、確かにアルフォンスの手の中にある。
それなのに、生きている。
「……何をした」
「保険だよ。百人分の命を使った」
ゼノンの目が見開かれた。
古い記録にだけ残された禁忌。
百人の命を血の代償として捧げ、一度だけ死を覆す禁術。
「……禁術」
「そうだ。死ねないんだよ、私は」
エドモンドは笑った。
だが、その身体は立ち上がることさえできないほど破壊されている。
「まあ……心臓を奪われるとは思わなかったが」
「……殺す」
「ゼノン」
血まみれの口元が歪む。
「いつか、ロザリアの可愛い娘を迎えに来るよ」
「必ず殺す」
「楽しみにしている。そのときまで、大切に育てておけ」
そこでエドモンドの意識は途切れた。
死んではいない。
破壊された身体を修復するため、深い眠りへ落ちただけだった。
◇
「ルシア!」
ゼノンは屋敷中を探し回り、やがて母の部屋に隠された小さな空間へ辿り着いた。
棚を退け、扉を開く。
そこには、小さな身体を丸めたルシアがいた。
「……お兄さま?」
「ルシア!」
抱き締めると、ルシアも必死に兄へしがみついた。
「怖かった……! お母さまが……お母さま、迎えにきてくれないの……!」
「ごめん……」
「お父さまは?」
ゼノンは答えられなかった。
「ねえ、お兄さま。お父さまは?」
妹を強く抱き締めることしかできない。
「……間に合わなくて、ごめん」
その一言で、幼いルシアにも分かってしまった。
「……やだ」
「ルシア」
「やだ……お母さま……お父さま……」
やがて泣き叫びながら、ゼノンの胸を叩き始める。
「お父さまとお母さまのところ行く!」
「駄目だ」
「離して!」
「駄目!」
「お母さま!」
「ルシア!」
ゼノンは小さな身体を強く抱き締めた。
泣き続けたルシアは、やがて兄の腕の中で動かなくなった。
眠ったわけではない。
目は開いているのに、何も映していなかった。
六歳の少女には、その悲しみはあまりにも大きすぎた。
そして、ルシアを探している間に、エドモンドの身体は、いつの間にか消えていた。
◇
その後、ゼノンは古い文献や禁じられた記録、王家に残された資料を片っ端から調べ、ようやくエドモンドが使った禁術の詳細へ辿り着いた。
百人の命を代償として、一度だけ死を覆す。
心臓を失っても、首を落とされても、本来なら命を失う傷を負っても、術が効いている限り死ぬことはない。
ただし、傷そのものが瞬時に治るわけではなかった。
肉体が致命的な損傷を受ければ、その修復には長い時間が必要になる。
「……時間がある」
エドモンドはすぐには動けない。
数年か、十年か、それ以上か。
どれほど眠ることになるのかは分からない。
それでも、いつか必ず戻ってくる。
そして目覚めたとき、必ずルシアを探す。
自分の傍に置いておけば、いつか必ず見つかる。
ならば、誰にも分からないように隠さなければならない。
ゼノンは一つの決断をした。
ルシアを、人間として生かす。
完全に人間へ変えるわけではない。
ルシアの中にあるヴァンパイアとしての血も、力も、匂いも、記憶も、すべてを深く封じる。
外から見ても、血を嗅いでも、誰にもヴァルディエの王女だと分からないほどに。
◇
襲撃の日から、ルシアはほとんど笑わなくなっていた。
ぼんやりと窓の外を眺め、時折母を呼び、父を呼ぶ。
夜になると必ず泣いた。
そんな妹の隣へ座り、ゼノンは頬を撫でた。
「ルシア」
ゆっくりと赤い瞳が開く。
「……お兄さま」
「うん」
「お母さまは?」
ゼノンは答えられない。
「お父さまは?」
ルシアの瞳から、また涙が流れた。
「会いたい……お母さまに会いたい……お父さまにも……」
「……うん」
ゼノンは妹を抱き締めた。
この子から両親との思い出まで奪うことが、本当に正しいのか。
何度も迷った。
それでも、今のルシアは悲しみの中で壊れかけている。
そして何より、エドモンドから守らなければならない。
「ルシア。少しだけ眠ろうか」
「眠るの……?」
「うん」
ゼノンは泣きそうになるのを堪えて笑った。
「次に起きたらね、ルシアは陽の光の下を歩けるようになるよ」
「おひさま……?」
「うん」
「痛くない?」
「痛くないよ」
「ほんと?」
「本当」
ルシアは少しだけ安心したように兄を見る。
「それからね。辛いことも、全部忘れられる」
「……お母さまも?」
胸を抉られるようだった。
それでも、ゼノンは頷いた。
「……うん」
「お父さまも?」
「うん」
そしてルシアは、少し怯えたように尋ねた。
「お兄さまも……?」
ゼノンの手が止まった。
「……僕のことも、分からなくなると思う」
「やだ」
ルシアはすぐにゼノンの服を掴んだ。
「お兄さまは忘れたくない」
「ルシア」
「やだ……。お兄さまのこと、大好きだもん」
ゼノンは堪えきれず、小さな妹を強く抱き締めた。
「大丈夫。ルシアが僕を忘れても、僕はルシアを忘れないから」
「……お兄さまは覚えてる?」
「もちろん」
「ずっと?」
「ずっと覚えてるよ」
涙で濡れた赤い瞳が、ゼノンを見上げる。
「じゃあ……また会える?」
「会えるよ。何度でも会いに行く」
「でも、私、お兄さまって分からないんでしょ?」
「うん。最初は分からないと思う」
「……やだ」
「大丈夫」
ゼノンはルシアの額へ自分の額を重ねた。
「ルシアが僕を知らなくても、僕は会いに行くよ。最初は本当のお兄さまだって言えないけど……アルの知り合いの、よく遊びに来るお兄さんにでもなろうかな」
「お兄さん?」
「うん。ルシアといっぱい遊んで、いっぱい話して、また仲良くなる」
「また仲良しになれる?」
「もちろん」
「またお兄さまになってくれる?」
「なるよ」
ゼノンは微笑んだ。
「何度だってなる。ルシアが僕のことを全部忘れても、僕がまたルシアのお兄さまになるよ」
「……ほんと?」
「本当」
「またお兄さまのこと、大好きになる?」
「なってくれたら嬉しいな」
「なるよ。だって私、お兄さま大好きだもん」
「……そっか」
「絶対また大好きになる」
「ありがとう」
ゼノンは妹の額へそっと口づけた。
「起きたら、陽の光を浴びて、いっぱい遊んで、友達を作るんだよ」
「ともだち?」
「そう。ルシアと同じくらいの子たち」
「会ったことない」
「これから会えるよ」
「いっぱい?」
「いっぱい」
「楽しい?」
「きっと楽しいよ」
ルシアの瞳に、ほんの少しだけ光が戻った。
「辛いことを忘れて、いっぱい笑って生きるんだよ」
「お兄さまも一緒?」
「うん」
今度は、一瞬も迷わなかった。
本当なら、自分との繋がりなど完全に消した方が安全なのかもしれない。
けれど、それだけはできそうになかった。
「……ごめんね、ルシア」
「どうして謝るの?」
「僕、ルシアを完全に手放せそうにない」
ルシアは意味が分からないというように首を傾げた。
ゼノンはそんな妹を抱き締める。
「会えないのは、僕が耐えられないみたい」
何年も、何十年も、ルシアの顔を見ることさえできない生活など、自分には耐えられない。
「だから、会いに行くよ」
「いっぱい?」
「いっぱい」
「毎日?」
「毎日は怪しまれるかもしれないな」
「じゃあ、いっぱい!」
「うん。いっぱい会いに行く」
アルベルトの知り合い。
血の繋がっていない、よく遊びに来る年上の男。
ルシアにとっては、それでいい。
本当の兄であることを知られなくても、また笑ってくれるなら。
また自分を慕ってくれるなら。
傍にいられるなら、それでいい。
「完全に手放せなくて、ごめんね」
「分かんない」
「そうだね。分からなくていいよ」
「でも、お兄さま来てくれるんでしょ?」
「うん」
「じゃあいい!」
その無邪気な答えに、ゼノンは一瞬言葉を失ったあと、妹をさらに強く抱き締めた。
「……大好きだよ、ルシア」
「私も大好き!」
「ずっと?」
「ずっと!」
「じゃあ、約束しよう」
小指を差し出す。
ルシアの小さな指が絡んだ。
「ルシアが僕を忘れても、僕は会いに行く」
「うん」
「また仲良くなる」
「うん!」
「それで、またルシアのお兄さまになるよ」
「約束ね!」
「約束」
あの日、同じベッドの中で交わした約束。
ずっと一緒にいよう。
形が変わっても、その約束を破るつもりはなかった。
◇
ゼノンは、ルシアのヴァンパイアとしてのすべてを封じた。
血が眠り、力が眠る。
ヴァルディエの気配が完全に消え、赤かった瞳からヴァンパイアの色が失われていく。
父と同じ、母と同じ、兄と同じだった漆黒の髪も、ゆっくりと白金色へ変わっていった。
そして最後に、記憶が閉じていく。
父のこと。
母のこと。
山奥の家。
家族で笑った幸せな日々。
血に染まったあの日。
そして、大好きだった兄のこと。
すべてが、心の奥深くへ封じられていく。
「……お兄……さま……」
最後に小さな声が漏れた。
ゼノンはその手を握り締めた。
「うん。ここにいるよ」
ルシアの瞼が閉じていく。
「おやすみ、ルシア」
もう返事はない。
ゼノンは眠った妹の頬を撫でながら、静かに囁いた。
「次に会ったとき、僕のことを知らなくても大丈夫。僕が覚えてるから」
◇
数日後、ゼノンはアルベルトを山奥の屋敷へ呼んだ。
両親の親友であり、代々ヴァルディエ王家へ仕えてきた一族の人間。
そして父と母が、自分たちの娘を預けるならこの男しかいないと信じていた人物だった。
アルベルトは眠るルシアを見た瞬間、立ち尽くした。
「……本当にやったのか」
「うん」
「全部か?」
「全部」
「記憶も?」
「封じた」
アルベルトは一瞬黙った。
「お前のことも?」
「……うん」
ゼノンは眠るルシアを抱いたまま頷いた。
「アル。ルシアをお願い」
「ゼノン」
「僕の傍で育てることはできない。エドモンドは死んでないから」
アルベルトが息を呑む。
ゼノンはエドモンドが禁術を使っていたこと、肉体の回復には長い時間がかかるものの、いつか必ず戻ってくることを説明した。
「だから、それまでは人間の子として育ててほしい。アルの娘として」
アルベルトは眠る少女を見る。
何度もこの屋敷へ来た。
絵を見せてもらい、遊べとせがまれ、帰ると言えばいつも嫌がられた。
親友たちの大切な娘だった。
「……俺でいいのか」
「アルしかいない。父上も母上もアルを信じてた。僕も信じてる」
長い沈黙のあと、アルベルトは目を閉じた。
「分かった。俺が育てる」
ゼノンの腕から、アルベルトの腕へ。
小さな身体が渡される。
その瞬間、ゼノンの腕が空になった。
胸の奥まで空っぽになったような感覚がした。
「この子は俺が守る」
「うん」
「命に代えても」
「……ありがとう」
「お前はどうする?」
「エドモンドを探す」
ゼノンの声から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
「それから、あの日あいつと一緒にいた女が二人いた」
ゼノンが屋敷へ戻ったときには、すでに姿を消していた二人。
顔は覚えている。
屋敷に残された匂いも、戦闘の痕跡も、可能な限り調べた。
「あの二人を探す。エドモンドの居場所を知ってる可能性がある」
「一人でやるつもりか?」
「必要ならベルフォートにも協力を求める。でも、ルシアのことは伏せる」
アルベルトが頷く。
「分かった」
「それと、アル」
「何だ」
「ルシアには会いに行くから」
アルベルトが眉を寄せた。
「……お前、分かってるのか。何のためにその子を隠すと思ってる」
「分かってるよ」
「なら――」
「でも無理」
あまりにも即答だった。
アルベルトが黙る。
ゼノンは、アルベルトの腕の中で眠るルシアを見つめた。
「僕が耐えられない。何年もルシアに会わないなんて無理だよ」
「ゼノン」
「本当の兄だとは言わない。ヴァルディエのことも話さない。アルの知り合いとして会う。よく遊びに来る、血の繋がってないお兄さん。それならいいでしょ?」
アルベルトは深く息を吐いた。
「お前な……」
「ごめん」
ゼノンは笑った。
けれど、譲る気はなかった。
「完全に手放せなくて、ごめんね」
その謝罪はアルベルトへ向けたものというより、眠るルシアへ向けたものだった。
「でも、会えないのは無理なんだ」
アルベルトはしばらくゼノンを睨んでいたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「……目立つ真似だけはするな」
「分かってる」
「頻繁に来すぎるな」
「努力する」
「努力じゃなくて守れ」
「善処するよ」
「お前……」
久しぶりに、ほんの僅かだけ昔の空気が戻った気がした。
アルベルトがルシアを連れていく。
今度のゼノンは、遠ざかる妹を見ながらも、先ほどまでとは違っていた。
これは別れではない。
数日後か、一週間後か。
また会いに行く。
そのときルシアは、自分を知らないだろう。
『誰?』
そう尋ねられるかもしれない。
ならば名乗ればいい。
初めまして、と。
アルの知り合いだよ、と。
一緒に遊ぼうか、と。
そこから始めればいい。
「……またね、ルシア。すぐ会いに行くよ」
◇
それからゼノンは、二つのことを同時に続けた。
一つは、ルシアに会うこと。
アルベルトの家を訪れ、何も覚えていないルシアと少しずつ仲良くなった。
最初は警戒されても構わなかった。
名前を覚えてもらい、一緒に遊び、話をして、笑わせる。
やがてルシアにとってゼノンは、血の繋がりなどないはずなのに妙に自分を可愛がってくれる、よく遊びに来る年上の存在になっていった。
ゼノンにとっては、約束通りだった。
もう一度。
ルシアのお兄さまになっていく。
そしてもう一つ。
あの日、ヴァルディエ家を襲った者たちを追うことだった。
エドモンドの行方は完全に途絶えていた。
身体を修復するため、どこかで長い眠りについているはずだったが、その場所は分からない。
そこでゼノンは、襲撃の日にエドモンドと共に現れた二人の女を探し始めた。
顔立ちや匂い、屋敷に残された僅かな痕跡。
エドモンドが過去に接触していた者たちの記録まで洗い出し、一つずつ繋がりを辿っていった。
だが、二人の女もエドモンドと同じように姿を消していた。
それでも調査を続けるうちに、一つの純血の家が浮かび上がった。
エドモンドが以前から親しくしていたという純血の家だった。
その家の名は、ヴァンパイア社会でも決して評判のいいものではなかった。
むしろ、昔から黒い噂が絶えない家だった。
屋敷へ招かれた人間が、そのまま姿を消した。
裏で人間を売買している。
行方不明になった下位のヴァンパイアが、その家の領地へ入っていくところを最後に目撃されている。
禁じられた血の研究に手を出している。
処刑された犯罪者を匿ったことがある。
そして、古くから禁じられている血術について、異常なほど多くの資料を集めている。
噂はいくらでも出てくる。
それなのに、決定的な証拠だけがいつも残らない。
調査が入れば何も出てこず、証言しようとした者は口を閉ざすか、突然姿を消す。
純血という強い立場もあり、その家は何度疑われても処罰を免れてきた。
ゼノンは机いっぱいに広げられた資料を見つめていた。
「……黒すぎるな」
偶然とは思えなかった。
何より気になったのは、エドモンドとの関係だった。
数十年前から、エドモンドがその家の当主や一族の者と頻繁に接触していた記録が残っている。
正式な王家の用事ではない。
政治的な会合でもない。
私的な付き合いだった。
しかも、エドモンドが禁術について調べ始めたと推測される時期と、その家への出入りが増えた時期が重なっている。
「百人の命……」
ゼノンは低く呟いた。
あの禁術を使うためには、百人の命が必要だった。
ならば。
エドモンドは、その百人をどこから用意したのか。
考えたくもない答えが浮かぶ。
人間の失踪。
ヴァンパイアの失踪。
人身売買。
禁じられた血の研究。
そして、百人の命を代償にしたエドモンドの禁術。
「……まさか」
まだ証拠はない。
だから断定はできない。
けれど、調べる価値は十分すぎるほどあった。
さらに調査を進めると、襲撃の日にエドモンドと共にいた二人の女についても、その純血の家と何らかの接点を持っていた可能性が浮かび始めた。
直接その家の者なのか。
雇われていたのか。
あるいは、エドモンド個人の協力者なのか。
そこまでは分からない。
「エドモンド。あの女二人。そして、この家……」
机の上には、それぞれの名前や情報が書かれた紙が並んでいた。
ゼノンはそれを一枚ずつ見つめる。
父と母を殺した襲撃は、エドモンド一人だけで成し遂げたものではない。
誰かが協力している。
そして、その背後には、もっと深いものがあるかもしれない。
「全部調べる」
エドモンドがどこで眠っているのか。
二人の女はどこへ消えたのか。
百人の犠牲者は誰だったのか。
そして、この黒い噂の絶えない純血の家が、どこまで関わっているのか。
一つ残らず。
◇
それでもゼノンは、調査ばかりの日々を送っていたわけではなかった。
数日もすれば、またアルベルトの家へ行く。
「ゼノ兄さん!」
自分を見つけたルシアが嬉しそうに駆け寄ってくる。
その呼び方を初めて聞いたとき、ゼノンはしばらく何も言えなかった。
昔は。
『お兄さま』
そう呼ばれていた。
今のルシアは、そんなことなど何も覚えていない。
ゼノンが本当の兄であることも。
いつか結婚すると約束したことも。
手を繋いで眠った夜も。
全部、忘れている。
それでも、また自分を兄と呼んでくれた。
「ゼノ兄さん、今日遊べる?」
「もちろん」
「やった!」
駆け寄ってきたルシアを受け止め、ゼノンは笑った。
約束通りだった。
また仲良くなれた。
そして本当に、もう一度、兄になれた。
だからゼノンは、何も知らないルシアの頭を撫でながら、心の中だけで幼い日の約束へ答えた。
――ずっと一緒にいようね。
「うん」
「何が?」
「何でもないよ」
「変なゼノ兄さん」
「そう?」
ルシアが笑う。
その笑顔を見るたびに、ゼノンは思う。
この笑顔だけは、もう二度と奪わせない。
そのためにエドモンドを見つける。
あの日一緒にいた二人の女も。
その背後にいるかもしれない、黒い噂の絶えない純血の家も。
すべて調べ上げる。
そして今度こそ。
ルシアに手を伸ばす者を、自分が先に潰す。
何も知らないルシアが、陽の光の下で笑っていられるように。
ゼノンは表では、血の繋がっていない「ゼノ兄さん」として何度もルシアに会いに行きながら、その裏では十一年前の襲撃の真相と、エドモンドの行方を追い続けていた。




