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変わる決意

十七歳の誕生日を迎えてから、ルシアは考えることが増えた。


きっかけは一つではない。


夜会で見た、ゼノンが女性の血を飲む姿。


ゼノンの姿へ変身した何者かに連れ出され、ヴァンパイアにされかけたこと。


そのときに見た、自分と血が繋がっているという誰かの血。


ヴァルディエ。


エドモンド。


自分だけが知らない名前。


そして、クレイドからもらったクマの人形に残されていた言葉。


あの日から、ルシアは何度もその録音を聞いた。


『これから先、何があっても俺はお前の味方でいる』


『とにかく、困ったら俺を呼べ。ゼノンより先に』


『十八歳も。その次も』


『……だから、ちゃんと元気でいろ』


聞くたびに嬉しくなる。


そして、考えるようになった。


十八歳も。


その次も。


もっとずっと先も。


大切な人たちと一緒にいたい。


クレイドはヴァンパイアだ。


アルベルトも。


ゼノンも。


自分の大切な人たちは、自分とは違う時間を生きている。


クレイドは自分で望んでヴァンパイアになったわけではない。


幼い頃に無理やり変えられ、血を求める身体になったことを嫌い、自分自身さえ受け入れられずにいた。


その姿をずっと近くで見てきたからこそ、ルシアも分かっている。


ヴァンパイアになるということは、ただ長く生きられるようになるというだけではない。


それでも。


考えれば考えるほど、ルシアの中には一つの気持ちが強くなっていった。


みんなと一緒に生きたい。


それとは別に。


自分自身についても、気になることが増えていた。


自分は何者なのだろう。


アルベルトから聞いているのは、幼い頃に両親を亡くし、自分が引き取られたということだけ。


幼い頃の記憶は曖昧だった。


両親の顔さえ思い出せない。


どうして死んだのかも。


自分がどこで生まれたのかも。


詳しく聞こうとすると、アルベルトはいつも困ったような顔をする。


ゼノンもそうだった。


何かを知っている。


それなのに教えてくれない。


そして何より。


『君と血の繋がった人のものだよ』


偽物のゼノンが言った言葉が、ずっと頭から離れなかった。


あの瓶の中に入っていた血。


ゼノンは匂いを嗅いだだけで、ヴァルディエの血だと言った。


なら。


自分とヴァルディエには、何の関係があるのだろう。


「……分かんないことばっかり」


そんなある日の放課後。


ルシアは学園長室で書類を整理していた。


アルベルトは外部の会合で不在。


学園長代理として任されていた仕事自体はすでに終わっていたのだが、机の上に積み上がった書類が気になってしまったのだ。


「アル、絶対溜めすぎなんだよね」


ぶつぶつ言いながら、書類を種類ごとに分ける。


生徒関連。


教師関連。


学園運営。


古い資料。


一つずつ棚へ戻していく。


その途中。


棚の奥に押し込まれていた薄い書類束が落ちた。


「あっ」


床へ紙が散らばる。


「もう……」


ルシアはしゃがみ込み、一枚ずつ拾い始めた。


その手が。


止まった。


「……エリーゼ?」


見慣れた名前が書かれていた。


エリーゼの名前。


そして、その横にはアルベルトの名前もある。


「何これ……」


読むつもりはなかった。


けれど。


視界に入ってしまった。


親族関係を示す記録だった。


「……姪?」


ルシアは何度も文字を見直す。


エリーゼが。


アルベルトの姪。


そんな話、一度も聞いたことがない。


「アルの……親戚だったの?」


驚きながら次の紙を見る。


そこで。


ルシアの表情が完全に止まった。


種族。


ヴァンパイア。


「……え?」


声が漏れた。


もう一度見る。


間違いではない。


エリーゼ。


種族、ヴァンパイア。


「……嘘」


ルシアは立ち上がることも忘れ、その場に座り込んだ。


エリーゼは人間だと思っていた。


ずっと。


同じ昼のクラスで。


一緒に授業を受けて。


一緒に昼食を食べて。


放課後に買い物をして。


ミアと三人で笑って。


「エリーゼも……?」


思い返せば。


不自然なことはいくつもあった。


夜の学園にいても怖がらない。


ヴァンパイアのことに詳しい。


ゼノンとも、他の夜クラスの生徒とも自然に話す。


そして。


夜会で。


血に反応したヴァンパイアたちが自分へ近づいてきたとき。


エリーゼは迷うことなく、自分を庇うように前へ出た。


あのときは怖くて、それどころではなかった。


けれど。


今なら分かる。


人間だと思っていたエリーゼが、どうしてあんなにも堂々とヴァンパイアたちを牽制できたのか。


「……そうだったんだ」


ルシアは書類を胸元へ抱えた。


怒りはなかった。


どうして教えてくれなかったの。


そう思わないわけではない。


でも。


それ以上に。


腑に落ちてしまった。


アルベルトがエリーゼを信頼して、自分の護衛を任せていた理由も。


エリーゼが自分を守るために、いつも迷わず動いてくれた理由も。


「アルの姪っ子だったんだ……」


思わず小さく笑ってしまう。


意外だった。


でも。


少し嬉しかった。


本当に家族だったのだ。


その日の帰り道。


ルシアは一人で考えていた。


アルベルトはヴァンパイア。


クレイドもヴァンパイア。


ゼノンも。


そして。


エリーゼまで。


自分が家族同然に思っている人たちは、皆ヴァンパイアだった。


ミアだけが。


自分と同じ人間。


それを知って。


ルシアの中で、今までぼんやりとしていた気持ちが、少しずつ形になっていった。


これから先も。


ずっと。


みんなと一緒にいたい。


同じ時間の中で。


同じように笑って。


同じように喧嘩して。


何十年。


何百年と時が過ぎても。


今と同じように。


大切な人たちと一緒に生きていきたい。


その日の夜。


夕食を終えたあと。


ルシアは居間にいるアルベルトへ声をかけた。


「アル」


「何だ?」


「ゼノ兄さん、今日来る?」


「さあな」


「最近ほとんど毎日来てるじゃん」


「確かにそうだな」


向かいで本を読んでいたクレイドが顔を上げる。


「また来んのかよ」


「嫌なの?」


「嫌だ」


即答だった。


「何で?」


「自分の家に帰らねぇ奴が毎日いるからだよ」


「ゼノ兄さんの家、ちゃんとあるよ」


「だったら余計に帰れよ」


そのとき。


玄関の呼び鈴が鳴った。


クレイドの眉間に皺が寄る。


「……噂をすれば」


ルシアは立ち上がった。


「私出る!」


「待て」


アルベルトが止める。


偽物のゼノンの一件以来。


玄関を開ける前に、相手を確認することが決まりになっていた。


ルシアは扉越しに声をかける。


「誰?」


「僕」


聞き慣れた声。


けれど、それだけでは開けない。


「合言葉は?」


少しの沈黙。


それから。


正しい答えが返ってきた。


ルシアは鍵を開ける。


「ゼノ兄さん!」


「こんばんは」


「いらっしゃい」


「ただいま」


「お前の家じゃねぇ!」


居間からクレイドの声が飛んできた。


ゼノンが笑う。


「今日も元気だね」


「お前が来なきゃもっと元気だ」


「そう?」


いつものやり取り。


ルシアはそれを見ながら笑った。


この光景が好きだった。


アルベルトがいて。


クレイドがいて。


ゼノンが来る。


エリーゼも頻繁に顔を出す。


これからも。


ずっとこの人たちと一緒にいたい。


ルシアはゼノンの服の袖を引いた。


「ゼノ兄さん」


「うん?」


「ちょっと話したい」


ゼノンがルシアを見る。


「二人で?」


「うん」


クレイドが本から顔を上げた。


けれど、何も言わなかった。


ゼノンは立ち上がる。


「外、行こうか」


「うん」


二人は家を出た。


夜風は少し冷たかった。


家の近くをゆっくり歩く。


「それで?」


ゼノンが尋ねる。


「話って?」


「……私ね、今日知ったことがあるの」


「何?」


「エリーゼ」


ゼノンの視線がルシアへ向く。


「エリーゼが、アルの姪っ子だって知った」


ゼノンの足が止まった。


「それから」


ルシアも立ち止まる。


「エリーゼがヴァンパイアだってことも」


「……どうやって知ったの?」


「学園長室で書類整理してたら、たまたま見つけちゃった」


「そっか」


「ゼノ兄さんは知ってたんだよね?」


「うん」


「やっぱり」


不思議と怒りはなかった。


「エリーゼも私に隠してたんだね」


「君を騙したかったわけじゃないよ」


「分かってる」


ルシアは小さく笑った。


「私を守るため?」


「それもある」


「そっか」


また少し歩く。


「最近ね、自分のことも知りたいって思うようになったの」


「自分のこと?」


「うん。私の本当の両親のこととか、どうして小さい頃の記憶がほとんどないのかとか」


ゼノンの表情が僅かに変わった。


「ヴァルディエって何なのか。エドモンドって誰なのか。どうしてあの人が、私と血が繋がってる人の血だって言ったのか」


「……ルシア」


「ゼノ兄さんもアルも、何か知ってるんでしょ?」


ゼノンは否定しなかった。


「でも、今は聞かない」


「聞かないの?」


「聞きたいよ。すっごく聞きたい」


ルシアは少し笑った。


「でも、話してくれないのには理由があるんでしょ?」


「……うん」


「なら、待つ」


「ルシア」


「その代わり、いつかちゃんと教えてね」


「約束する」


ゼノンは静かに答えた。


「必ず話すよ」


「うん」


ルシアは安心したように笑った。


それから。


「私、決めたことがあるの」


ゼノンが足を止める。


「何を?」


ルシアは一度、息を吸った。


「私、ヴァンパイアになりたい」


ゼノンの瞳が僅かに見開かれた。


「……本気?」


「うん」


「どうして?」


「怖くないわけじゃないよ」


ルシアは正直に答えた。


「血が欲しくなることも、身体が変わることも。クレイドを見てきたから、簡単なことじゃないって分かってる」


幼い頃。


自分がヴァンパイアになったことを受け入れられず、苦しんでいたクレイドを知っている。


だから。


憧れだけで決めたわけではない。


「でも、今日エリーゼのことを知って、改めて思ったの」


「何を?」


「私の大切な人って、ほとんどヴァンパイアなんだなって」


ルシアは一人ずつ思い浮かべる。


「アルも。クレイドも。エリーゼも」


そして。


ゼノンを見る。


「ゼノ兄さんも」


赤い瞳が揺れた。


「ミアだけが人間」


「そうだね」


「私ね」


ルシアは笑った。


「みんなと一緒に生きたい」


「……」


「これからもずっと、今みたいに一緒にいたいの」


何十年後も。


何百年後も。


大切な人たちと笑っていたい。


「だから、私もみんなと同じ時を生きたい」


ルシアは一歩、ゼノンへ近づいた。


「私をヴァンパイアに変えてほしい」


ゼノンは何も言わなかった。


「……駄目?」


「違うよ」


ゼノンの表情が。


ゆっくりと。


柔らかく変わっていく。


「決めてくれたんだね」


「うん」


「自分で?」


「うん」


「誰かに言われたからじゃなくて?」


「私が決めた」


「……そっか」


ゼノンは目を伏せた。


嬉しかった。


胸の奥から込み上げてくるものを、隠しきれないほどに。


十年前。


六歳のルシアから、ヴァンパイアとしてのすべてを封じた。


血も。


力も。


記憶も。


本来の姿さえも。


いつか。


自分から選んでくれる日が来るなら。


そのときまでは。


人間として笑っていてほしいと思った。


何度も迷った。


真実を話してしまいたいと思った。


今すぐ封印を解いて。


自分の傍へ戻したいと思ったことも、一度や二度ではない。


それでも我慢した。


ルシアの人生を。


自分の望みだけで奪いたくなかった。


そのルシアが。


今。


自分の意思で。


同じ時を生きたいと言っている。


「嬉しい」


「……嬉しいの?」


「すごく」


ゼノンは笑った。


いつもの穏やかな微笑みとは少し違う。


心から嬉しそうな笑顔だった。


「僕はずっと、ルシアと同じ時を生きたかった」


「ゼノ兄さん……」


「これから先も、ずっと一緒にいられるんだって思ったら……嬉しいよ」


ゼノンの手がルシアの頬へ触れる。


「本当に」


そのまま抱き寄せられた。


「わっ」


「少しだけ」


「最近そればっかり」


「今日は許して」


ルシアも笑って、その背中へ腕を回した。


ゼノンは目を閉じる。


戻ってくる。


やっと。


自分の妹が。


自分と同じ時間へ。


「じゃあ……」


ルシアが腕の中から顔を上げる。


「いつするの?」


「その前に、一つお願いがある」


「お願い?」


「一日、僕とデートしてほしい」


「……デート?」


「うん」


「何で?」


「いいでしょ?」


「いいけど……」


「朝から夜まで、僕に付き合って」


「普通に二人で出かけるのと何が違うの?」


「僕がデートだと思ってるかどうか」


「ゼノ兄さんの気持ちの問題じゃん」


「大事だよ」


ルシアは吹き出した。


「分かった」


「本当?」


「うん。デートしよ」


「ありがとう」


「じゃあ、そのあと?」


「うん」


ゼノンは微笑んだ。


「そのあとにしよう」


数日後。


約束の日。


朝からゼノンが迎えに来た。


もちろん。


玄関先で合言葉を確認してから。


「正解」


ルシアが扉を開ける。


「おはよう、ゼノ兄さん!」


「おはよう」


ゼノンはルシアを見るなり、満足そうに微笑んだ。


「可愛い」


「まだ何も言ってないよ」


「見た感想」


「早いって」


「本当のことだから」


居間からクレイドが顔を出す。


「朝からうるせぇな」


「おはよう、クレイド」


「……どこ行くんだよ」


「デート!」


ルシアが何の躊躇いもなく答える。


クレイドの顔が固まった。


「……は?」


「ゼノ兄さんと」


「聞こえてる」


ゼノンが楽しそうに笑う。


「行ってくるね」


「待て」


「何?」


クレイドはルシアとゼノンを交互に見る。


「何でデートなんだよ」


「約束したから」


「何の?」


「秘密」


「……」


クレイドの眉間に深い皺が刻まれる。


「アル!」


奥からアルベルトが出てくる。


「何だ朝から」


「こいつらデート行くらしいぞ」


「知ってる」


「知ってんのかよ!」


「昨日ゼノンから聞いた」


「止めろよ!」


「何でだ」


「何でって……!」


言葉に詰まる。


ルシアは首を傾げた。


「じゃあ行ってきます」


「夕方までには一度連絡しろ」


「はーい」


ゼノンが自然にルシアの手を取る。


クレイドの顔がさらに険しくなった。


「……地獄かよ」


「行ってきまーす!」


「楽しんでおいで」


「お前は楽しそうだな!」


扉が閉まった。


その日。


ゼノンは本当に一日中、ルシアを連れ回した。


王都の店を見て。


ルシアが気になっていた菓子店へ入り。


昼食は少しだけ高級な店へ行った。


「ゼノ兄さん、ここ高くない?」


「気にしなくていいよ」


「またそうやって」


「今日は僕が誘ったから」


「じゃあ遠慮しない」


「そうして」


食事を終えたあとは、服を見た。


「これ似合いそう」


「また買うの?」


「うん」


「誕生日にもネックレス貰ったばっかりだよ」


「それは誕生日。今日はデート」


「理由つけて買いたいだけじゃない?」


「よく分かったね」


「もう!」


それでも。


楽しかった。


ゼノンもいつも以上に楽しそうだった。


何度もルシアを見て。


何度も笑って。


何でもない会話さえ大切にするように聞いていた。


夕方には、二人で街を離れた。


日が沈む頃。


「最後に行きたい場所があるんだ」


「どこ?」


「ちょっと高いところ」


「高いところ?」


ゼノンがルシアの腰へ腕を回した。


「え?」


「しっかり掴まって」


「ちょ、待って、何するの?」


「行くよ」


「えっ――」


地面が遠ざかった。


「きゃああっ!」


ゼノンが跳んだ。


人間では到底届かない高さまで、一度の跳躍で舞い上がる。


ルシアは反射的にゼノンの首へしがみついた。


「ゼノ兄さん! 怖い怖い!」


「大丈夫」


「大丈夫じゃない!」


ゼノンは笑っていた。


建物の屋根へ一度着地し。


そこからもう一度跳ぶ。


向かう先は。


王都を見渡す、高い塔。


最後の跳躍。


そして。


ふわりと。


塔の頂上へ着地した。


「……もう!」


地面へ降ろされたルシアは、しばらくゼノンの服を掴んだままだった。


「先に言ってよ!」


「言ったら怖がると思って」


「言われなくても怖かった!」


「でも綺麗でしょ?」


「え?」


促されて。


ルシアは顔を上げた。


息を呑む。


眼下には。


夜を迎えた王都が広がっていた。


街灯。


家々の窓。


遠くに見える城。


無数の光が夜の中に輝いている。


「……綺麗」


「うん」


二人で塔の縁に座る。


しばらく。


何も話さなかった。


今日一日のことを思い出す。


楽しかった。


いつもと同じゼノンなのに。


今日は少しだけ特別だった。


やがて。


ゼノンが口を開いた。


「ルシア」


「ん?」


「最後にもう一回だけ聞くね」


声が。


少しだけ真剣だった。


ルシアもゼノンを見る。


「本当に、人間としての生活を終わりにしていいの?」


ルシアは黙った。


「一度ヴァンパイアになったら、もう人間には戻れない」


ゼノンは静かに続ける。


「血を必要とする身体になる。今まで聞こえなかったものが聞こえるようになるし、匂いも強く感じる。今までと同じようには生きられないことも増える」


「うん」


「学校だって、今のままでいられるとは限らない」


「うん」


「人間として生きてきた今までを、ここで終わらせることになる」


ゼノンはルシアの目を見る。


「それでも?」


ルシアは王都を見下ろした。


怖くないわけではない。


変わることは怖い。


知らない世界へ足を踏み入れるのも。


血を欲しがる自分なんて。


まだ想像できない。


それでも。


答えは変わらなかった。


「私の大切な人は、ミア以外みんなヴァンパイア」


ルシアはゼノンを見る。


「アルも、クレイドも、エリーゼも。ゼノ兄さんも」


「……うん」


「私は、みんなと一緒に生きたい」


迷いはなかった。


「これから先もずっと。一緒にご飯を食べたり、出かけたり、喧嘩したり、誕生日を祝ったりしたい」


クレイドの録音を思い出す。


十八歳も。


その次も。


「百年後だって、みんなで一緒に笑っていたい」


ゼノンの瞳が揺れた。


「だから決めたの」


ルシアは微笑む。


「私も、みんなと同じ時を生きる」


「……ルシア」


ゼノンはすぐには笑わなかった。


ずっと待ち望んでいた言葉だった。


嬉しくないはずがない。


けれど。


それでも。


最後に確かめなければならないことがあった。


「もう一つだけ、聞いてもいい?」


「うん」


「君は、自分の過去を知りたいって言ってたよね」


「……うん」


「もし」


ゼノンの声が僅かに低くなる。


「忘れているのが、幸せな記憶だけじゃなかったとしても?」


ルシアが目を瞬く。


ゼノンは真っ直ぐに彼女を見つめた。


「怖い記憶が蘇るかもしれない」


「……」


「思い出したくなかったようなことも。苦しくて、辛くて、忘れていた方が幸せだったと思うような過去も」


ルシアの表情から笑みが消えた。


「それでも、知りたい?」


ゼノンは問いかける。


本当は。


聞く必要などないのかもしれない。


このまま封印を解けば。


すべては戻る。


けれど。


十年前。


六歳だったルシアが目の前で見たものを。


ゼノンは知っている。


父と母が殺されたこと。


血に染まったあの日。


自分たちの家族を壊したエドモンド。


泣きながら自分にしがみついていた、小さな妹。


あの記憶まで。


すべて返してしまう。


「僕はね」


ゼノンの手が、ルシアの頬へ触れる。


「君が思い出して苦しむのが怖い」


「ゼノ兄さん……」


「知らないままの方が幸せなことだってある」


その声は優しかった。


けれど。


どこか苦しそうだった。


「今のルシアは笑ってる。アルの家で育って、クレイドやエリーゼやミアと出会って、普通に学校へ通ってる」


ゼノンは目を細める。


「僕は、それを壊したくない」


だから十年間。


黙っていた。


真実を知ってほしくなかったわけではない。


ただ。


もう二度と。


あの日のように泣くルシアを見たくなかった。


「辛い過去まで戻ってくる」


ゼノンが静かに言う。


「それでもいいの?」


ルシアは答えなかった。


夜風が。


白金色の髪を揺らす。


怖い。


ゼノンがここまで心配するほどの過去がある。


そう分かったから。


少しだけ。


逃げたくなる。


知らないままなら。


今まで通り笑っていられるのかもしれない。


それでも。


「……知りたい」


ゼノンの瞳が揺れた。


「本当に?」


「うん」


ルシアは頷く。


「怖いよ」


正直に言う。


「ゼノ兄さんがそんな顔するくらいだもん。きっと、すごく辛いことなんだと思う」


「……」


「でも」


ルシアはゼノンの手へ、自分の手を重ねた。


「それも私なんでしょ?」


ゼノンが息を止める。


「楽しかったことだけが私じゃない。辛かったことも、怖かったことも、全部私の過去なんでしょ?」


「……そうだよ」


「だったら、ちゃんと知りたい」


迷いのない声だった。


「何があったのか。私が誰なのか。どうして忘れてるのか」


そして。


少し笑う。


「全部思い出して、それでも今のみんなと一緒に生きたい」


ゼノンはしばらく何も言えなかった。


「それに」


「……?」


「一人じゃないでしょ?」


ルシアが笑った。


「辛くなったら、ゼノ兄さんがいる」


「……うん」


「アルもいる。クレイドも、エリーゼも、ミアもいる」


だから。


「大丈夫」


ルシアはゼノンを見つめた。


「私、ちゃんと知りたい」


ゼノンは目を伏せる。


そして。


小さく息を吐いた。


「……強くなったね」


「そう?」


「うん」


六歳の頃。


自分の服を握り締めて泣いていた小さな妹とは違う。


十年の間に。


知らないところで。


たくさんの人と出会って。


愛されて。


誰かを大切にすることを覚えて。


自分で未来を選べるほどに。


強くなった。


「分かった」


ゼノンは微笑んだ。


「もう止めない」


「うん」


「全部、君に返すよ」


ルシアには。


その言葉の本当の意味は分からなかった。


それでも。


頷いた。


「お願い」


ルシアは自分から髪を片側へ寄せた。


白金色の髪の下から、細い首筋が露わになる。


「ゼノ兄さん」


ゼノンは動かなかった。


十年間。


触れないと決めていた場所。


何度。


そこへ牙を立てたいと思っただろう。


何度。


その血を飲みたいと思っただろう。


それでも。


ずっと我慢した。


人間として生きるルシアを守るために。


そして今。


ルシア自身が。


その首を差し出している。


「……嬉しいな」


「え?」


ゼノンが笑った。


少しだけ。


泣きそうにも見える笑顔だった。


「君が自分で、この先を選んでくれたことが」


ゼノンはルシアの頬へ触れた。


「本当に嬉しい」


「そんなに?」


「うん」


十年前から。


待っていた。


もう一度。


同じ時を生きられる日を。


「これからは、ずっと一緒だね」


「うん」


「百年後も?」


「一緒」


「二百年後は?」


「それも一緒」


「千年後は?」


「そんなに生きるの?」


ルシアが笑う。


ゼノンも笑った。


「永遠に一緒にいよう」


「うん」


「約束」


「約束」


ゼノンはルシアを抱き寄せた。


そして。


首筋へ顔を寄せる。


「少し痛いよ」


「……うん」


ルシアが目を閉じる。


ゼノンの牙が。


白い肌へ触れる。


プツリ。


「っ……」


小さく身体が跳ねた。


首筋に痛みが走る。


けれど。


すぐに。


不思議な温かさが広がった。


身体から力が抜ける。


「ゼノ……兄さん……」


「大丈夫」


耳元で声がする。


「僕がいるよ」


ゼノンは必要以上に血を奪わなかった。


ただ。


封印へ触れるために。


そして。


自らの舌へ牙を立てる。


血が滲む。


赤い血。


純血のヴァルディエの血。


ゼノンはそれを、ルシアの首筋につけた傷へ流し込む。


血が。


流れ込む。


その瞬間。


ルシアの身体が大きく震えた。


「……っ!」


「ルシア」


熱い。


身体の中が。


焼けるように熱い。


「ゼノ兄……さん……何、これ……」


「大丈夫」


ゼノンはルシアを強く抱き締める。


「怖がらなくていい」


熱が。


全身を駆け巡る。


心臓が大きく鳴る。


どくん。


どくん。


どくん。


何かが。


壊れていく。


違う。


開いていく。


身体の奥深く。


ずっと。


ずっと閉じられていた何かが。


ゼノンの血に呼応するように。


目を覚ます。


「……ゼノ、兄さん……」


ルシアの瞼が重くなる。


「眠っていいよ」


遠くで。


ゼノンの声が聞こえた。


「起きたら、全部話すから」


「……全部……?」


「うん」


ゼノンはルシアの身体を抱き締める。


「君がずっと知りたかったことを」


視界が滲む。


王都の光が。


ぼやけていく。


「……約束……」


「約束する」


「絶対……?」


「絶対」


その言葉を最後に。


ルシアの意識が途切れた。


力を失った身体を。


ゼノンが抱き留める。


「ルシア」


返事はない。


静かに眠っている。


ゼノンはしばらく。


その顔を見つめていた。


十年前。


泣き疲れて眠った六歳のルシアを。


アルベルトへ託した日のことを思い出す。


あの日。


腕の中から妹を手放した。


生きていてほしかったから。


エドモンドから守りたかったから。


自分のことも。


両親のことも。


ヴァルディエのことも。


何もかも忘れさせて。


ただの人間として。


安全に生きてもらうために。


十年。


長かった。


毎日会えるようになってからも。


目の前にいるのに。


本当の意味では戻ってこない妹を見続けた。


「やっとだ」


ゼノンが呟く。


腕の中のルシアを。


大切に抱き直す。


嬉しい。


こんなにも嬉しいと思うことが。


自分にまだ残っていたのかと思うほど。


「やっと、帰ってきてくれる」


白金色の髪へ。


そっと頬を寄せる。


まだ。


何も変わっていないように見える。


けれど分かる。


ゼノンの血が。


ルシアの中に眠っていたヴァルディエの血へ届いている。


封印が。


ほどけ始めている。


次に目を覚ましたとき。


この白金色の髪は。


父と同じ。


母と同じ。


自分と同じ。


ヴァルディエの黒へ戻るだろう。


赤い瞳も。


血も。


力も。


記憶も。


すべてが。


ルシアへ返ってくる。


「おかえり、ルシア」


眠る妹へ囁く。


まだ。


彼女には届かない。


それでも。


ゼノンは幸せそうに笑った。


「ずっと待ってたよ」


そして。


眠るルシアを抱き上げる。


今度こそ。


二度と手放さない。


十年前に失った妹を腕に抱き、ゼノンは夜の塔から飛び降りた。

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