日常
レティシアに連れ出された一件以来、ゼノンがアルベルトの家に泊まることが増えた。
最初は、念のため。
次は、近くまで来たから。
その次は、帰るのが面倒になったから。
理由は毎回違ったが、気がつけば週に何度もゼノンが家にいるようになっていた。
ルシアにとっては、それが少し嬉しかった。
朝。
目を覚まして階段を下りる。
「おはよう……」
まだ眠気の残る声で居間へ入ると。
「おはよう、ルシア」
「……ゼノ兄さん」
当たり前のようにゼノンがいる。
すでに身支度を整え、アルベルトと一緒に朝食を食べていた。
「今日もいる」
「嫌?」
「ううん」
ルシアは笑って、ゼノンの隣へ座った。
「何か最近、ゼノ兄さんもここに住んでるみたい」
「住もうかな」
「いいよ」
「よくねぇよ」
向かいから低い声が飛んできた。
クレイドだった。
「何でお前が決めるんだよ」
「だって部屋余ってるもん」
「そういう問題じゃねぇ」
ゼノンは気にした様子もなく珈琲を飲む。
「クレイドは朝から機嫌が悪いね」
「誰のせいだと思ってんだ」
「寝不足?」
「お前だよ」
「僕?」
「最近毎日のようにいるだろ」
「ルシアが心配だからね」
「護衛なら夜だけでいいだろ」
「朝も危ないかもしれない」
「何がだよ」
「色々」
「適当なこと言いやがって」
アルベルトが呆れたように新聞を広げる。
「朝から喧嘩するな」
「俺はこいつに帰れって言ってるだけだ」
クレイドがパンを齧りながら、ゼノンを睨む。
「お前、家なくなったのか?」
「あるよ」
「なら帰れ」
「ルシアがいるから、僕の帰る場所はここだよ」
あまりにも当然のように答えられ、クレイドの眉間に皺が寄った。
その横で。
「ゼノ兄さん、ジャム取って」
「はい」
「ありがとう」
「今日はちゃんと髪結んだんだね」
「エリーゼが、この前くれたやつ使ったの」
「似合ってる」
「本当?」
「うん。可愛いよ」
「朝からやめろ」
「何が?」
「全部だよ」
クレイドは心底嫌そうな顔をした。
ルシアは首を傾げる。
「クレイド、今日すごく機嫌悪くない?」
「……ここは地獄か?」
「え?」
「朝から毎日毎日、目の前でこんなもん見せられて」
クレイドは額を押さえた。
「拷問受けてる気分だ」
「何の話?」
「お前は知らなくていい」
「変なの」
食事を終えると、ルシアは学校へ行く準備をした。
「行ってきます!」
玄関で靴を履き、振り返る。
アルベルトが居間から顔を出す。
「気をつけて行けよ」
「はーい」
クレイドも鞄を持って玄関へ向かってくる。
同じ学校なのだから、当然一緒に出る。
そしてゼノンも玄関まで見送りに来た。
「ルシア」
「ん?」
ゼノンが両腕を広げる。
ルシアは何の疑問も持たずに近づいた。
「行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
ぎゅっと抱き締められる。
ルシアもゼノンの背中へ腕を回した。
「苦しい」
「少しだけ」
「朝から?」
「朝だから」
「意味分かんない」
そう言いながらも笑っている。
ゼノンは満足してから、ようやくルシアを離した。
「寄り道しないで帰ってきてね」
「ミアとお店見るかも」
「じゃあエリーゼも一緒に」
「分かってる」
「知らない人について行かない」
「もう行かないよ!」
「僕が迎えに行っても合言葉を確認する」
「分かってます!」
「よし」
頭まで撫でられる。
その一連の光景を。
クレイドは無言で見ていた。
「……」
「クレイド?」
「何だよ」
「行かないの?」
「行く」
「じゃあ早く」
「誰のせいで待ってたと思ってんだ」
「?」
ルシアは分からないまま玄関を出る。
「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい、ルシア」
扉が閉まった。
二人で学校へ向かって歩き出す。
しばらくして。
クレイドが大きな溜息をついた。
「……最悪だ」
「何が?」
「何でもねぇ」
「朝から変だよ」
「お前が鈍すぎんだよ」
「失礼だなあ」
クレイドは答えなかった。
毎朝のように。
好きな女が別の男に抱き締められているところを見せられて。
その男は当然の顔で家に泊まり。
当然の顔で朝食を食べ。
当然の顔でルシアの隣に座っている。
地獄以外の何だというのか。
しかも。
相手はゼノンだ。
どう考えても分が悪い。
そんな日常が続く中。
クレイドの十七歳の誕生日がやってきた。
「クレイド!」
学校から帰ってきたクレイドを待ち構えていたルシアが、玄関へ飛び出してくる。
「おかえり!」
「……何だよ」
「お誕生日おめでとう!」
「……ああ」
「反応薄い!」
「誕生日くらいで騒ぐなよ」
「十七歳だよ!?」
「知ってる」
「もっと喜んで!」
「何をだよ」
ヴァンパイアになってから。
クレイドにとって、歳を重ねることに大した意味はなくなっていた。
身体の成長も、人間だった頃とは違う。
誕生日を祝う習慣そのものに、どこか距離を感じる。
けれど。
ルシアは毎年祝う。
アルベルトと暮らすようになってから、ずっと。
「はい!」
ルシアが小さな包みを差し出した。
「何だこれ」
「プレゼント」
「見れば分かる」
「開けて!」
「今?」
「今!」
クレイドは仕方なく包装を解いた。
中に入っていたのは。
小さな箱。
開ける。
「……ピアス?」
「うん!」
シンプルなデザインのピアスだった。
派手ではない。
けれど、クレイドに似合いそうなものを、ルシアなりに一生懸命選んだのだと分かる。
「お小遣い、結構使ったんだからね」
「馬鹿。そんな使うなよ」
「誕生日なんだからいいの!」
「自分のために取っとけよ」
「嫌だった?」
その瞬間。
ルシアの表情が少しだけ曇る。
クレイドはすぐに箱を閉じた。
「……嫌じゃねぇ」
「本当?」
「ああ」
「じゃあ付けて」
「今?」
「今!」
「お前そればっかりだな」
文句を言いながらも、クレイドはピアスをつけた。
ルシアが顔を近づける。
「似合う!」
「近ぇよ」
「ちゃんと見えないもん」
「見えるだろ」
「やっぱりこれにしてよかった!」
嬉しそうに笑うルシアを見て。
クレイドは少しだけ顔を逸らした。
「……ありがとな」
「うん!」
その日の夜は、小さな誕生日会になった。
ルシアが買ってきたケーキ。
アルベルトが用意した料理。
エリーゼとミアも呼ばれていた。
そして。
「お邪魔します」
「何でお前まで来るんだよ」
遅れてゼノンまで現れた。
「誕生日だって聞いたから」
「誰に」
「ルシア」
「言うなよ」
「何で!?」
「別に祝われたくねぇ」
「じゃあ帰ろうかな」
「お前は帰れ」
「酷いな」
ゼノンは笑いながら部屋へ入った。
ミアが辺りを見回す。
「ねえ、クレイド」
「何だよ」
「男友達は呼ばないの?」
「いらねぇ」
「一人も?」
「いらねぇ」
「寂しくない?」
「うるせぇ」
「学校で友達いないの?」
「いるわ!」
「じゃあ呼べばよかったのに」
「男集めて誕生日会なんかするかよ」
「する人はするよ?」
「俺はしねぇ」
ルシアが笑う。
「クレイド、照れてるんだよ」
「違ぇよ」
「昔からこういうの恥ずかしがるもん」
「勝手なこと言うな」
アルベルトからのプレゼントは腕時計だった。
「壊すなよ」
「子供じゃねぇんだから壊さねぇよ」
「お前は戦うとき周りを見なくなるから言ってるんだ」
「……高そうだな」
「値段は気にするな」
「ありがと」
ゼノンから渡されたのは、小ぶりな短剣だった。
鞘から抜けば、扱いやすそうな細身の刃が現れる。
「護身用」
「俺に護身用って必要か?」
「必要だよ」
ゼノンが答える。
「相手がヴァンパイアなら、絶対必要だよ」
クレイドは刃を確認した。
軽い。
握りやすい。
実用品だった。
「……ありがと」
「どういたしまして」
「でも家には帰れ」
「それとこれとは別?」
「別だ」
笑い声が上がった。
ルシアがケーキを切る。
ミアが勝手に大きいところを取ろうとして、エリーゼに止められる。
アルベルトが呆れ。
ゼノンが笑い。
クレイドは面倒そうな顔をしながらも。
最後まで席を立たなかった。
そして。
季節は少し進んだ。
今度は。
ルシアの誕生日がやってきた。
十七歳。
「お誕生日おめでとう、ルシア」
朝一番。
ゼノンにそう言われた。
「ありがとう!」
「十七歳だね」
「うん!」
嬉しそうに笑うルシアとは対照的に。
ゼノンはほんの一瞬だけ、複雑な表情を見せた。
「ゼノ兄さん?」
「何でもないよ」
すぐにいつもの笑顔へ戻る。
「プレゼントがあるんだ」
「本当!?」
「目を閉じて」
「何で?」
「いいから」
ルシアは素直に目を閉じた。
髪の毛を避けられ、首元へ、ひやりとした感触が触れる。
「もういいよ」
目を開ける。
鏡を見ると。
首元に綺麗なネックレスが輝いていた。
「……可愛い!」
「気に入った?」
「うん!」
ルシアは何度も鏡を覗く。
「ありがとう、ゼノ兄さん!」
「どういたしまして」
「大事にする!」
「毎日つけてもいいよ」
「学校にも?」
「もちろん」
「じゃあつける!」
ゼノンは嬉しそうに微笑んだ。
その日の夕方。
家では誕生日会の準備が始まった。
ミアが来るなり、ルシアへ小さな包みを押しつける。
「ルシア! おめでとう!」
「ありがとう!」
中には可愛らしいキーホルダーが入っていた。
「これ、私とお揃い!」
「私もミアから貰ったのでお揃い」
「本当?」
ミアが自分の鞄を見せる。
同じ形で、少しだけ色の違うキーホルダーがついていた。
「可愛い!」
「でしょ!」
「鞄につける!」
「絶対ね!」
エリーゼからは、白いリボンのついた髪飾りだった。
「ルシアに似合うと思って」
「可愛い……!」
早速髪につけてもらう。
「どう?」
「とても似合っている」
「ありがとう、エリーゼ!」
アルベルトからは一本のペン。
「ペン?」
「書いてみろ」
渡された紙へ名前を書いてみる。
「わ、すごい。書きやすい!」
「お前、学園長代理の仕事でよく書類を書くからな」
「実用的!」
「悪かったな」
「褒めてるよ!」
そして。
最後にクレイドが差し出したのは。
「……何これ」
「見りゃ分かるだろ」
「クマ」
「そうだよ」
小さなクマの人形だった。
抱き枕ほど大きくはないが、両腕で抱えるにはちょうどいい。
柔らかな毛並み。
少しだけ不愛想な顔をしている。
「可愛い!」
ルシアがすぐに抱き締めた。
「クレイドがこれ選んだの?」
「悪いかよ」
「可愛いもの選ぶんだね」
「返せ」
「やだ!」
「なら余計なこと言うな」
ルシアは笑いながらクマを抱き締める。
そのとき。
クレイドが少しだけ声を落とした。
「それ、録音できるから」
「録音?」
「腹んとこ押せば聞ける」
「何録音したの?」
「……今聞くな」
「何で?」
「あとで聞け」
「気になる!」
「一人になってから聞け」
妙に真剣だった。
ルシアは首を傾げる。
「分かった」
「絶対今押すなよ」
「そんなに言われたら押したくなる」
「やめろ」
「冗談だよ」
「お前の場合、信用できねぇ」
そのあと。
皆で食事をして。
ケーキを食べた。
ミアが歌い出し、ルシアが笑い、エリーゼも小さく手を叩く。
アルベルトが十七本の蝋燭を立て。
ゼノンが火をつけた。
「願い事してから消すんだよ!」
ミアに言われ。
ルシアは目を閉じた。
何を願おう。
少し考えて。
決めた。
来年も。
再来年も。
その先も。
こうしてみんなで笑っていられますように。
息を吹きかける。
十七本の火が消えた。
拍手が起きる。
「おめでとう、ルシア」
「ありがとう!」
楽しかった。
本当に。
ずっとこんな日が続けばいいと思えるほど。
夜になり。
誕生日会が終わった。
ミアとエリーゼが帰り。
アルベルトも自室へ戻る。
ゼノンは今日も泊まるらしい。
「やっぱり帰らねぇのかよ」
廊下からクレイドの声が聞こえた。
「今日はルシアの誕生日だから」
「もう終わっただろ」
「日付が変わるまでは誕生日だよ」
「じゃあ日付変わったら帰れ」
「嫌だ」
「お前、本当に家なくなったんじゃねぇの?」
そんな声を聞きながら。
ルシアは笑って自分の部屋へ戻った。
机の上には、今日もらったプレゼントが並んでいる。
ネックレスは首につけたまま。
白いリボンの髪飾り。
お揃いのキーホルダー。
書き心地のいいペン。
そして。
ベッドの上にはクマの人形。
「……そうだ」
クレイドに言われたことを思い出す。
一人になってから聞け。
ルシアはクマを抱き上げた。
「ここかな?」
腹の辺りを探す。
小さなボタンのような感触があった。
押す。
少しだけ雑音が流れ。
クレイドの声が聞こえた。
『……ルシア』
「クレイドだ」
思わず笑う。
録音の中でも、少し不機嫌そうな声だった。
『こういうの、直接言うの無理だから入れた』
少しの沈黙。
『十七歳、おめでとう』
ルシアはクマを抱いたまま聞く。
『お前は昔から勝手に人の部屋入ってきたり、勝手に隣で寝たり、勝手に俺のこと心配したり……本当に鬱陶しい』
「酷い」
思わず口を挟む。
もちろん録音なので返事はない。
『でも』
クレイドの声が少しだけ変わった。
『お前がいたから、俺はここにいられた』
ルシアの笑みが止まる。
『俺が自分のこと嫌いでも、お前だけはずっと普通に接してきただろ』
幼い頃。
部屋に閉じこもっていたクレイド。
何も話してくれなかったクレイド。
夜中に魘されていたクレイド。
それでもルシアは、毎日のように部屋へ行った。
『あの頃のこと、俺は忘れてねぇから』
静かな声だった。
『だから』
長い沈黙。
録音するだけなのに。
クレイドが言うのを躊躇っている姿が目に浮かぶようだった。
『これから先、何があっても俺はお前の味方でいる』
ルシアはクマを抱く腕へ力を込めた。
『お前が人間でも』
一瞬。
間が空く。
『……何でもねぇ』
ルシアが首を傾げる。
『とにかく、困ったら俺を呼べ。ゼノンより先に』
「最後それ?」
思わず吹き出した。
『あいつばっか頼んな』
やっぱり。
クレイドらしい。
『あと』
まだ続いていた。
『来年も祝ってやる』
ルシアの笑顔が柔らかくなる。
『十八歳も。その次も』
少し照れたような声。
『……だから、ちゃんと元気でいろ』
そこで録音は終わった。
部屋が静かになる。
ルシアはしばらくクマを見つめた。
「……直接言えばいいのに」
そう呟きながら。
顔は笑っていた。
クマを胸へ抱き締める。
嬉しかった。
ゼノンからもらったネックレスへ触れる。
エリーゼの髪飾り。
ミアとのお揃いのキーホルダー。
アルベルトのペン。
クレイドのクマ。
全部、大切だった。
「十七歳かあ……」
何が変わるのだろう。
きっと何も変わらない。
明日も学校へ行って。
ミアと話して。
エリーゼと一緒に帰って。
家にはアルベルトとクレイドがいて。
最近なら、ゼノンまでいるかもしれない。
そんな毎日が続くのだと思っていた。
ルシアは何も知らなかった。
十七歳を迎えた自分の身体の奥で。
十年前から眠り続けていたものが。
少しずつ。
目を覚まそうとしていることを。




