偽物兄さん
休日の朝。
ルシアはアルベルトの家の居間で、ソファに寝転がりながら雑誌を読んでいた。学校もなく、学園長代理の仕事もなく、ミアと出かける約束もない。久しぶりに何の予定もない一日だった。
「暇……」
テーブルの向こうでは、アルベルトが珈琲を飲みながら新聞を読んでいる。クレイドは朝から出かけていて、家にはルシアとアルベルトしかいなかった。
「暇なら部屋の掃除でもしたらどうだ」
「昨日したもん」
「なら、剣の稽古をしろ」
「休日だよ?」
「身体を動かすのに休日は関係ないだろ」
「アルって、たまに厳しいよね」
「お前がだらけすぎなんだ」
「今日はだらける日なの」
そう言って雑誌へ視線を戻したとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
「誰だ?」
「私、出る!」
暇を持て余していたルシアは、勢いよくソファから立ち上がると玄関へ向かった。そして扉を開け、そこに立っていた人物を見た瞬間、ぱっと表情を明るくした。
「ゼノ兄さん!」
黒い髪。整った顔。見慣れた赤い瞳。休日らしい落ち着いた服装。どう見てもゼノンだった。
「おはよう、ルシア」
「おはよう。どうしたの?」
「暇?」
「すっごく暇!」
「じゃあ、買い物に付き合ってよ」
「買い物?」
「うん。王都まで行こうと思って」
ルシアは少し驚いた。ゼノンから買い物へ誘われること自体は珍しくない。むしろ、服や靴を見に行こうと言い出すのは大抵ゼノンだった。
「いいよ!」
即答してから、ルシアは居間へ顔を向けた。
「アルー! ゼノ兄さんと買い物に行ってくる!」
「ゼノンと?」
アルベルトが新聞を畳みながら玄関までやってきて、そこにいるゼノンを見た。
「珍しいな。今日は仕事がないのか?」
「今日は空いてるよ」
「そうか」
目の前にいるのは、どう見てもゼノンだった。姿だけではない。声も、表情も、話し方も、アルベルトが長年知っているゼノンそのものだった。少なくとも、玄関先で短く会話を交わしただけでは、疑う理由などなかった。
何より、ゼノン本人が迎えに来ているのなら、エリーゼへ護衛を頼む必要はない。ルシアを守るという一点において、ゼノン以上に信用できる相手などいなかった。
「夕方までには帰せよ」
「分かってる」
「ルシアも、あまり買わせるなよ」
「私が買わせてるんじゃないもん! ゼノ兄さんが勝手に買うの!」
「はいはい」
ルシアは急いで支度をすると、小さな鞄を持って玄関へ戻った。
「お待たせ!」
「行こうか」
「うん!」
ルシアは何の疑いもなく、その隣へ並んだ。扉が閉まり、アルベルトは二人の背中を見送ったあと、エリーゼへ連絡することもなく家の中へ戻った。
こうしてルシアは、護衛を一人もつけずに家から連れ出された。
王都へ着く頃には、ルシアはすっかりいつもの調子に戻っていた。
「見て、ゼノ兄さん! あのお店、新しくできたんだって!」
「入りたい?」
「いいの?」
「そのために来たんでしょ」
「やった!」
ルシアが先に店へ入っていく。その背中を追いながら、ゼノンの姿をしたレティシアは薄く笑った。
簡単だった。あまりにも簡単に、アルベルトさえ疑わなかった。
レティシアの異能は、まだ誰にも知られていない。彼女がどのような力を持っているのか、ゼノンたちは知らなかった。ただ、レティシアは以前からゼノンをよく観察していた。姿だけではなく、声や表情、話し方、仕草まで時間をかけて真似ていた。
相手をよく見て、丁寧に再現すれば、短い会話の間なら本人と見分けがつかないほど似せることができる。
もちろん、血まで変わるわけではない。ゼノンの純血としての力も、ヴァルディエの血も、あの圧倒的な気配も、本物と同じにはならない。長時間、近距離で警戒されれば、いずれ違和感を持たれる可能性はある。
だから長居はしなかった。
玄関先で、ほんの数分。
それだけで充分だった。
何より、ルシア自身が一切疑っていない。
「ゼノ兄さん、こっち!」
「はいはい」
レティシアは笑顔で後を追った。
服を見て、雑貨を見て、菓子を買う。途中でカフェへ入り、二人で昼食を食べた。ルシアは楽しそうだった。
先日の夜会で、自分がミアを操ったことなど何も知らない。目の前にいる相手がレティシアだということさえ知らず、何度も笑いかけてくる。
「ゼノ兄さん、これ美味しいよ」
「そう?」
「食べる?」
ルシアが自分の皿から一口分を差し出す。レティシアは一瞬それを見つめたあと、ゼノンらしい笑みを浮かべた。
「ルシアが食べなよ」
「じゃあ食べる」
ルシアはあっさり自分の口へ運んだ。
警戒心がない。本当に、何も疑っていない。
その頃、アルベルトの家では再び玄関の呼び鈴が鳴っていた。
「今日はよく来るな……」
アルベルトが玄関を開ける。
「アルベルト」
「……は?」
そこに立っていたのは、ゼノンだった。
「ルシア、いる?」
アルベルトは無言でゼノンを見た。
「何?」
「……お前」
「うん?」
「ルシアと、さっき出て行ったんじゃないのか?」
ゼノンの表情が止まった。数秒の沈黙が落ちる。
「……何を言ってるの?」
「一時間くらい前だ。お前が来て、ルシアを買い物に連れて行っただろ」
ゼノンの顔から、完全に笑みが消えた。
「それは僕じゃない」
アルベルトの瞳が見開かれる。
「……何?」
「今日はここに来ていない」
「待て。俺はお前と話したぞ」
「僕じゃない」
「ルシアは、お前と王都へ……」
そこまで言って、二人は同時に顔を見合わせた。
「誰かが僕の姿を使った?」
ゼノンが呟く。
アルベルトの顔色が変わった。
「変身能力を持つ者か」
「可能性はある」
「心当たりは?」
「今のところ、ない」
ゼノンはすぐに踵を返した。
「エリーゼに連絡して」
「ああ」
「クレイドにも」
「分かった」
「僕は王都を探す」
「待て、ゼノン。一人で動くな」
「待てると思う?」
振り返ったゼノンの瞳は、鮮やかな赤へ変わっていた。
アルベルトは何も言えなかった。
数分後、エリーゼとクレイドにも事情が伝えられた。
「ルシアが……?」
エリーゼの顔が青ざめる。
「申し訳ありません。今日はゼノン本人と出かけたものだと……」
「お前のせいじゃない。俺もそう思った」
アルベルトが言う。
クレイドは苛立ったように舌打ちした。
「どこへ行った」
「王都へ買い物、とだけ聞いている」
「範囲が広すぎるだろ」
「手分けする」
アルベルトがすぐに指示を出した。
「エリーゼは中央通り。クレイドは東側。俺は西側を探す。ゼノンは――」
「もう行った」
「……だろうな」
エリーゼもすぐに走り出し、クレイドもその後を追った。
誰がゼノンの姿を使ったのか。何の目的でルシアを連れ出したのか。まだ何も分からない。
ただ一つ確かなのは、ルシア本人だけが、自分が探されていることを何も知らないということだった。
昼食を終えたルシアは、偽物だと気づかないまま、ゼノンの姿をしたレティシアと並んで王都を歩いていた。
最初は楽しそうに店を見ていたが、ふと足を止める。宝飾店のショーウィンドウに、自分とゼノンの姿が映っていた。
その姿を見て、先日の夜会を思い出す。
知らない女性。その女性を抱くように支え、首筋へ牙を立てていたゼノン。
胸の奥に、また痛みが生まれた。
「どうしたの?」
隣から声をかけられ、ルシアは首を振った。
「何でもない」
「そう?」
「……うん」
歩き出したものの、せっかく二人きりなのだから聞いてみたいと思った。本物のゼノンには聞けなかったことを、目の前にいる相手が本物だと信じているからこそ、ルシアは勇気を出して口にする。
「ゼノ兄さん」
「何?」
「この前の夜会のことなんだけど」
レティシアの目が僅かに細くなる。
「夜会?」
「私、見ちゃったの」
「何を?」
「……ゼノ兄さんが、女の人の血を飲んでいるところ」
「……」
ルシアは俯いた。
「ラビ先輩にも言われたよ。ヴァンパイアはそういう生き物だって」
「そうね」
レティシアは一度そう答えてから、すぐに言い直した。
「……そうだね」
ルシアは気づかなかった。
「分かってるんだけどね」
少しだけ迷ってから、ルシアは続けた。
「ゼノ兄さんって……私の血は飲みたくない?」
レティシアの足が止まる。
「どうして?」
「だって、一回も欲しいって言わないから」
ルシアは自分の腕を見た。
「この前、怪我を治してくれたときも舐めただけだったし。クレイドは私の血を欲しがったことがあるのに、ゼノ兄さんは一回もないから」
胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ言葉になっていく。
「私の血って、美味しくなさそう?」
レティシアは答えなかった。
「変だよね。飲まれたら痛いだろうし、怖いはずなのに。でも、知らない女の人の血は飲むのに、私のはいらないんだって思ったら……何か嫌だった」
レティシアは黙って聞いていた。
ルシアはさらに続ける。
「それに、ゼノ兄さんはヴァンパイアだから……やっぱり私とは違うよね」
「違う?」
「うん」
「何が?」
「時間」
ルシアはショーウィンドウに映る二人を見た。
「ゼノ兄さん、六十歳なのに全然そう見えないでしょ?」
「……そうだね」
「私は人間だから、普通に歳を取るんだよね」
十年後。二十年後。五十年後。
ゼノンの姿は、ほとんど変わらない。けれど、自分だけが変わっていく。
「私だけおばあちゃんになるのかなって、最近ちょっと考えるの」
ルシアは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「ゼノ兄さんやアル、クレイドもずっと今のままなのに、私だけ歳を取って……いつか死んじゃうんだよね」
レティシアの瞳が静かに細められる。
「怖い?」
「……ちょっと」
ルシアは正直に頷いた。
「死ぬのも怖いけど」
一度言葉を止める。
「ゼノ兄さんを置いていくのが、嫌かも」
その言葉に、レティシアは笑った。
「じゃあ」
ルシアを見る。
「ルシアもヴァンパイアになる?」
ルシアが目を瞬いた。
「……え?」
「ヴァンパイアになればいい」
「そんな簡単に言わないでよ」
「嫌?」
「嫌っていうか……」
ルシアは戸惑った。
「でも、そうすれば歳を取らない」
「……ゼノ兄さんと同じ?」
「同じ時間を生きられるよ」
甘い声だった。ルシアの心の奥にある不安へ、ぴたりと入り込むような声だった。
「ずっと一緒にいられる」
「ずっと……」
「ルシアは僕と一緒にいたいんでしょ?」
ルシアは黙った。否定できなかった。
「……いたいよ」
「なら、簡単だ」
ゼノンの姿をしたレティシアが手を差し出す。
「おいで」
ルシアは、その手を取った。
連れて行かれたのは、人通りの少ない路地を抜けた先にある古い建物だった。
「ここ?」
「人に見られない方がいいからね」
「でも……アルに相談しなくていいの?」
「あとで話せばいいよ」
「怒られない?」
「僕がいるから大丈夫」
ゼノンが言うなら。そう思ってしまう。
レティシアは建物の奥へルシアを連れていった。そこには小さな机があり、その上に一本の小瓶が置かれていた。中には赤黒い液体が入っている。
「……血?」
「そう」
ルシアが瓶を見つめる。
「誰の?」
レティシアは微笑んだ。
「君と血の繋がった人のものだよ」
「私と?」
ルシアの顔が強張る。
「でも私、家族のこと覚えてないよ?」
「大丈夫」
レティシアは瓶を手に取った。
「これを使えば、ルシアはヴァンパイアになれる」
レティシアはドラクロワの血を引いている。けれど、彼女は愛人の子であり、純血ではない。そのため、自分の血だけでルシアを眷属へ変えることはできなかった。
だからこそ、ヴァルディエの血でルシアを目覚めさせるために、エドモンド・ヴァルディエの血を用意した。
本来なら、すでに純血のヴァンパイアであるルシアを、新たにヴァンパイアへ変えることなどできない。けれど今のルシアは、封印によって完全に人間として生きている。
そこへヴァルディエの純血を流し込めば、封印が解け、眠っている純血の姫としての血の力と記憶が目覚める。ルシアは新たにヴァンパイアになるのではない。本来の姿へ戻るのだ。
純血の姫、ルシア・ヴァルディエとして。
レティシアにも、それがどのような形で起きるのかは分からない。人間として積み重ねてきた十年間の記憶がどうなるのか、封印が解けた瞬間にルシアの身体と心へどれほどの負担がかかるのかも分からない。
それでも、試す価値はあった。
エドモンドが望んでいるのも、それだった。ルシアの中へ自分の血を入れ、封印を壊し、純血の姫を目覚めさせること。
「どうする?」
レティシアが尋ねる。
ルシアは迷った。
「……痛い?」
「少しだけ」
「噛むの?」
「そうだよ」
その言葉で、先日の夜会が頭を過った。
知らない女性の首筋へ牙を立てるゼノン。ずっと気になっていた。どうして自分にはしてくれないのか。
もし、ヴァンパイアになれば。
「ゼノ兄さんも……私の血、飲んでくれる?」
レティシアは一瞬黙った。それから、とても優しく笑った。
「もちろん」
ルシアの瞳が揺れる。
「本当に?」
「うん」
その答えは、本物のゼノンなら絶対に言わなかった。けれど、ルシアには分からない。
「怖かったら、目を閉じて」
ルシアは少し迷ってから、目を閉じた。
レティシアの口元に牙が覗く。片手には、エドモンドの血が入った小瓶がある。
まず傷を作り、そこへ血を流し込む。そして、レティシアがルシアの首筋へ顔を近づける。
あと少し。
その瞬間、建物の壁が激しい音を立てて吹き飛んだ。
「ルシアから離れろ!!」
ルシアが目を開ける。
「え……?」
聞き慣れた声だった。
けれど、目の前にもゼノンがいる。壊れた壁の向こうにも、ゼノンがいる。
「……え?」
ルシアの頭が真っ白になる。
「ゼノ……兄さん?」
本物のゼノンは、見たことがないほど怒っていた。赤い瞳が燃え、凄まじい圧力が周囲へ広がっている。窓が一斉に震えた。
「その子に触るな」
低い声だった。
目の前にいるもう一人のゼノンが、笑った。
「あーあ」
ルシアの肩を抱いたまま、楽しそうに続ける。
「いいところだったのに」
「……え?」
ルシアが隣を見る。同じ顔。同じ声。なのに、笑い方が違う。
「誰……?」
偽物のゼノンは答えなかった。ただ楽しそうに笑う。
「続きはまた今度ね、ルシア」
「待て!」
本物のゼノンが踏み込む。
その瞬間、偽物の身体が揺らいだ。黒髪が金へ変わり、赤い瞳が別の色へ変わっていく。
一瞬だけ、ルシアは見た。
夜会で自分にドレスを着せてくれた女性。
「……レティシアさん?」
次の瞬間には、その姿は消えていた。
もうどこにもいない。
残されたのは、ルシアと本物のゼノン、そして床へ落ちた小さな血の瓶だけだった。
「……ゼノ兄さん?」
ルシアの声が震える。
ゼノンはすぐにルシアへ駆け寄り、肩、首、腕と全身を確認した。
「噛まれてない?」
「う、うん」
「血は?」
「出てない」
「何か飲まされた?」
「何も……」
「本当に?」
「本当だよ」
ゼノンがルシアを抱き締めた。強い抱擁に、ルシアは少し息苦しさを覚える。
「ゼノ兄さん、苦しい……」
「少しだけ」
「……うん」
ゼノンの身体が僅かに震えていることに気づいた。怒っているのだと思った。けれど、違う。
怖かったのだ。
「ごめんなさい……」
「ルシアは悪くない」
「でも私、ゼノ兄さんだと思って……」
「分かってる」
「全然気づかなかった」
「……うん」
「アルも気づかなかったの?」
「アルベルトも騙された」
それを聞いて、ルシアは少しだけ安心してしまった。自分だけではなかった。
「でも……」
ルシアは床を見る。
「何であの人が?」
ゼノンの視線が小瓶へ向いた。近づかなくても、それが血であることは分かる。しかも、同じヴァルディエの血だった。
ゼノンの表情が変わる。
「……まさか」
小瓶を拾う。蓋を開ける必要すらなかった。
「誰の血?」
ルシアが尋ねる。
ゼノンは答えなかった。答えられなかった。
そのとき、建物の入口から足音が響いた。
「ルシア!」
アルベルトだった。その後ろから、エリーゼとクレイドも入ってくる。
「アル!」
アルベルトがすぐにルシアへ駆け寄った。
「怪我は!?」
「ないよ」
「噛まれたか?」
「噛まれてない!」
「何か飲んだか?」
「ゼノ兄さんにも同じこと聞かれた!」
「答えろ!」
「何も飲んでない!」
ようやくアルベルトが息を吐く。エリーゼも明らかに安堵していた。
クレイドだけは、床に落ちた瓶を持つゼノンを見ていた。
「……何だ、それ」
ゼノンは答えない。
アルベルトが近づき、瓶から漂う匂いを感じた瞬間、表情を変えた。
「ゼノン」
「うん」
「これ……」
「ヴァルディエの血だ」
ルシアが瞬きをする。
「ヴァルディエ?」
ゼノンはすぐに瓶を閉じた。
「今は知らなくていい」
「またそれ?」
「今は、ね」
「私の家族の血だって言ってた」
空気が止まった。
ゼノンがルシアを見る。
「……何て?」
「偽物のゼノ兄さんが言ってたの。私と血が繋がった人のものだって」
アルベルトとゼノンが視線を交わす。
「誰の血なの?」
「……」
「ゼノ兄さん?」
「今は答えられない」
「どうして?」
「ごめん」
ルシアは納得していなかった。けれど、ゼノンの顔を見て、それ以上聞くことはできなかった。
ルシアは、自分が何をされそうだったのかを正確には把握していない。
ただ、偽物のゼノンにヴァンパイアにされそうだったのだと思っている。
それが、どれほど危険なことなのか。なぜ皆が何も話してくれないのか。瓶に入っていた血が誰のものなのか。どうしてゼノンがあれほど怒っているのか。
ルシアには、何も分からなかった。
ただ、皆が黙っているから、きっと聞いてはいけないことなのだろうと思った。
家へ戻ったあと、玄関の扉には一枚の紙が挟まっていた。
アルベルトがそれを取る。文字を読んだ瞬間、顔色が変わった。
「何?」
ルシアが覗こうとする。
「見るな」
クレイドが先に紙を取った。
「……何だ、これ」
ゼノンも読む。
そこには、短い文章が書かれていた。
『今日は失敗したけれど、次はどうかしら? 早く目覚めさせたほうが良いわよ。エドモンド様は目覚めた』
その下に、もう一行。
『あなたたちがどれだけ守っているつもりでも、私はいつでもルシアを連れ出せる』
そして最後に。
『その気になれば、いつでもこの子をヴァンパイアにできる』
ルシアは息を呑んだ。
アルベルトが紙を握り潰す。エリーゼの顔から表情が消え、クレイドが低く舌打ちした。
けれど、一番静かだったのはゼノンだった。
「ゼノ兄さん……?」
返事がない。
「怒ってる?」
「うん」
穏やかな声だった。だからこそ、怖かった。
「すごく怒ってる」
ゼノンは握り潰された紙をアルベルトから受け取った。
「僕の姿でルシアを連れ出した」
誰に言うでもなく呟く。
「僕の声でルシアに嘘をついて」
紙を持つ指に力が入る。
「僕を信じているルシアを利用した」
「ゼノ兄さん……」
「しかも」
ゼノンの視線が血の小瓶へ向く。
「エドモンドの血まで使おうとした」
アルベルトが目を細める。
ルシアだけが、その名前を知らない。
「エドモンド?」
ゼノンは答えなかった。
「誰?」
「……ルシア」
ゼノンが近づき、両手でルシアの頬を包んだ。
「これから、僕が迎えに行ってもすぐについて来ないで」
「え?」
「僕にしか答えられないことを聞いて」
「でも……」
「約束して」
真剣な表情だった。
ルシアはゆっくり頷く。
「……分かった」
「アルベルトがいても駄目」
「アルも騙されたもんね」
「そう」
「じゃあ、合言葉を決める?」
その場にいた全員が一瞬黙った。
クレイドが先に吹き出す。
「ガキかよ」
「だって、一番分かりやすいじゃん!」
「忘れたらどうすんだ」
「忘れないもん!」
「お前なら忘れる」
「忘れない!」
いつものように言い返すルシアを見て、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
けれど、ゼノンだけは笑わなかった。
今回、間に合った。
ほんの僅かだった。
あと数秒遅ければ、レティシアはルシアの身体へエドモンドの血を入れようとしていた。
封印されたルシアに、同じヴァルディエの純血を。
何が起きたかなど、誰にも分からない。
そして何より、レティシアは証明してしまった。
ルシアを守るために築いてきた日常へ、ゼノンの顔一つで簡単に入り込めることを。
その夜、ゼノンはなかなか帰ろうとしなかった。
「ゼノ兄さん、今日泊まるの?」
「うん」
「珍しいね」
「今日は帰りたくない」
「何で?」
「ルシアがいるから」
「私、逃げないよ?」
「知ってる」
ソファへ座ったゼノンの隣へ、ルシアも腰を下ろした。
少し迷ってから、ルシアは尋ねる。
「……ねえ」
「何?」
「今日、偽物のゼノ兄さんに話したことって」
「うん」
「本物のゼノ兄さんには言わなくてもいい?」
ゼノンはルシアを見る。
「何を話したの?」
「……秘密」
「気になるな」
「恥ずかしいから駄目」
「そっか」
ゼノンは無理に聞かなかった。
ルシアは膝を抱える。
偽物に話してしまった。
私の血は欲しくないのか。
自分だけ歳を取るのが怖い。
ゼノンを置いて死ぬのが嫌だ。
ヴァンパイアになれば、ずっと一緒にいられるのか。
あれは全部、本物のゼノンに聞いてほしかった言葉だったのかもしれない。
けれど、今さら言えない。
「……ゼノ兄さん」
「うん?」
「ずっと一緒にいてね」
ゼノンは少しだけ目を見開いた。それから、ルシアの頭を自分の肩へ寄せる。
「いるよ」
「私がおばあちゃんになっても?」
一瞬、ゼノンの動きが止まった。
ルシアは気づかなかった。
「……うん」
ゼノンは静かに答えた。
「僕はずっとルシアといるよ」
ルシアは安心したように目を閉じた。
けれど、ゼノンの視線はテーブルの上に置かれた、エドモンドの血が入った小瓶へ向けられていた。
レティシアの目的は、ただルシアを攫うことではない。ただ自分への嫌がらせをすることでもない。
エドモンドが、動き始めている。
そして、ルシアを狙っている。
ゼノンは眠そうに目を閉じるルシアの髪を撫でた。
あんな汚れた叔父の血で、ルシアを目覚めさせたくない。
エドモンドの血など、ルシアの中へ一滴たりとも入れさせない。
ルシアが何も知らないまま、ただの人間として笑っていられる時間を、ゼノンは守りたかった。
今度は、絶対に触れさせない。
たとえそのために、今までの日常を壊すことになったとしても。




