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ミアからのお願い

「ルシア、お願い! 一生に一度のお願い!」


放課後、教室を出たところで両手を合わせたミアを見て、ルシアは嫌な予感がした。


ミアがこういう顔をするときは、大抵ろくなことがない。


「先に聞くけど、何?」


「今日、一緒に出かけない?」


「いいけど、どこ?」


「夜会!」


「夜会?」


「そう! レティシアさんに招待されたの!」


ミアは鞄の中から、綺麗な封筒を取り出した。


封蝋には、見覚えのある紋章が刻まれている。


「レティシアさんから?」


「うん。少し前に手紙をもらったの。夜会に興味があるなら、友達を連れて遊びに来てって」


「それなら、最初からそう言ってくれればいいのに」


「だって、ルシアは絶対に駄目って言うと思ったから」


「駄目だよ」


「まだ何も言ってないのに!」


「ヴァンパイアの夜会でしょ?」


「そうだけど……」


ミアは封筒を胸に抱えた。


「でも、レティシアさんが正式に招待してくれたんだよ。人間の私でも参加していいって」


「本当に?」


「本当。手紙にもちゃんと書いてあるもん」


ミアが封筒の中から招待状を取り出し、ルシアへ見せる。


そこには確かに、ミアの名前と夜会への招待が記されていた。


「……レティシアさんがミアを招待したなら、私が勝手について行くのは大丈夫なの?」


「友達も一緒にどうぞって書いてあるよ」


「そうなの?」


「うん!」


ミアは嬉しそうに頷いた。


「だから一緒に行こうよ!」


そこまで聞いて、ルシアは少し興味を持った。


アルベルトと暮らすようになってから、誕生日やちょっとした祝い事は経験している。


けれど、本格的な夜会など行ったことがない。


「でも私たち制服だよ?」


「大丈夫大丈夫。向こうで何とかなるって!」


「本当に?」


「本当!」


妙に勢いがある。


それでも、正式な招待状があるなら、以前のように勝手に忍び込むわけではないらしい。


ミアがあまりにも楽しそうなので、ルシアは深く考えなかった。


「じゃあ少しだけね。遅くなるとアルに怒られるから」


「やった!」


その頃。


ルシアたちの教室から少し離れた廊下に、エリーゼが立っていた。


アルベルトから、今日はルシアの護衛につくよう命じられている。


夜会へ向かうことを知ったとき、エリーゼはすぐに反対した。


人間であるルシアが、ヴァンパイアばかりの集まる場所へ行く。


危険がないはずがない。


できることなら、行かせたくなかった。


けれど、アルベルトからの命令は明確だった。


ルシアが外出するなら、必ず護衛すること。


エリーゼはルシアたちの会話を聞きながら、静かに息を吐いた。


ミアはルシアを夜会へ連れていくつもりらしい。


ルシアはまだ、夜会の危険性を十分に理解していない。


エリーゼは少し距離を置いて、その後を追った。


ルシアに気づかれないように。


ミアにも声をかけずに。


人混みに紛れ、時には柱や壁の陰へ身を隠しながら、ルシアたちを見失わない距離を保つ。


そして。


目的地へ着いた瞬間。


ルシアは立ち止まった。


目の前には巨大な屋敷があった。


門の前には黒塗りの車が次々と停まり、そこから美しいドレスや正装に身を包んだ男女が降りてくる。


人間離れした美貌。


暗闇でも僅かに光を反射する瞳。


そして、ルシアでも分かる。


ほとんどがヴァンパイアだった。


「……ミア」


「な、何?」


「これ、ヴァンパイアの夜会じゃない?」


「うん」


「本当に来るんだね?」


「招待されたからね!」


「……帰る」


「待って!」


踵を返した瞬間、ミアに腕を掴まれた。


「お願い! 一回だけ!」


「無理だよ! 私たち人間だよ!?」


「だから見てみたいの!」


「見る場所じゃないでしょ!」


「でも今日、すごい人いっぱい来るんだよ!」


「誰?」


ミアが目を輝かせた。


「ゼノン先輩とか!」


ルシアの動きが止まった。


「……ゼノ兄さん?」


「うん!」


「聞いてない」


「言ったら絶対来ないと思ったから!」


「騙したの!?」


「ごめん!」


「帰る!」


「待って待って!」


ミアが必死にしがみつく。


「レティシアさんに招待されてるんだから、少しくらい大丈夫だよ!」


「ゼノ兄さんに見つかったら絶対怒られる!」


「見つからなければいいの!」


「その考え方がもう駄目だよ!」


「お願い!」


ルシアは門の向こうを見た。


ゼノンがいる。


それを知った瞬間、少しだけ興味が湧いてしまった。


学校ではない場所で。


ヴァンパイアだけが集まる夜会で。


ゼノンがどんなふうに過ごしているのか。


少しだけ見てみたい。


「……本当に少しだけだからね」


「やった!」


エリーゼは物陰から二人を見つめ、静かに息を吐いた。


帰ってほしかった。


けれど、行くと決めた以上は守るしかない。


ルシアたちが屋敷へ入るのを見届けてから、少し遅れて中へ入った。


屋敷へ入った途端、ミアのテンションは限界を突破した。


「ルシア見て! あの人絶対ドラクロワ家の人!」


「声大きい!」


「あっちの人、雑誌で見たことある!」


「ミア!」


「すごい! 本物の夜会だ!」


「静かにしてって!」


何人かのヴァンパイアが二人へ視線を向ける。


エリーゼは少し離れたところから、そのすべてを確認していた。


ルシアは必死にミアを引っ張り、人の少ない廊下へ逃げ込んだ。


「もう帰ろうよ」


「まだ会場もちゃんと見てないよ!」


「充分見たよ!」


「ゼノン先輩も見てない!」


「ゼノ兄さんは学校でも家でもよく会ってるでしょ!」


「夜会仕様のゼノン先輩は別!」


「何が違うの!?」


「服!」


「そこ!?」


言い争っていると。


「あなたたち、何をしているの?」


背後から女性の声がした。


二人同時に固まった。


ゆっくり振り返る。


そこには美しい金髪の女性が立っていた。


華やかなドレスを身に纏い、整った顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。


「……人間?」


女性がルシアたちを見比べた。


ミアがルシアの後ろへ隠れる。


「しかも、その格好」


制服姿の二人を見て、女性が目を細める。


「招待客なのに、ドレスも着ていないの?」


「すぐ帰る予定なので……」


「駄目よ」


「え?」


「せっかく招待したのに、その格好では勿体ないわ」


女性が微笑んだ。


「いらっしゃい。二人とも綺麗にしてあげる」


「いや、でも……」


「遠慮しなくていいのよ」


「ルシア」


ミアが袖を引っ張った。


目が輝いている。


「ドレスだって」


「駄目だよ」


「着たい」


「ミア」


「一回だけ!」


「さっきも聞いた!」


女性がくすくす笑った。


「私はレティシア。レティシア・ドラクロワよ」


「ドラクロワ……」


ルシアはその名前に聞き覚えがあった。


純血三家の一つ。


「ほら。いらっしゃい」


結局。


ルシアはミアに押し切られた。


案内された部屋には、何着ものドレスが並んでいた。


「すごい……」


思わず声が漏れる。


レティシアは楽しそうに二人を眺めた。


「あなたはこれね」


ルシアへ渡されたのは、淡い色合いの華やかなドレスだった。


細かな刺繍と小さな宝石が散りばめられ、動くたびに柔らかく光を反射する。


「こんなの着ていいんですか?」


「もちろん」


「汚したら……」


「気にしなくていいわ。ドレスは差し上げる」


着替えを終え、鏡の前へ立つ。


ルシアは自分の姿を見て目を丸くした。


「……私じゃないみたい」


「綺麗!」


隣ではドレス姿になったミアが飛び跳ねている。


「ルシア、すっごく綺麗!」


「ミアも可愛い!」


「でしょう!?」


「自分で言うんだ」


「だって本当だもん!」


そこへレティシアが化粧道具を持ってきた。


「まだ終わっていないわ」


髪を整えられ、薄く化粧を施される。


頬へ色を乗せられ、唇にも艶が加えられた。


普段ほとんど化粧をしないルシアには、それだけで別人のようだった。


「わあ……」


鏡を覗き込む。


嬉しかった。


少し恥ずかしい。


けれど、それ以上に胸が弾む。


「すごい……!」


「気に入った?」


「はい!」


ルシアは素直に笑った。


「ありがとうございます、レティシアさん!」


「どういたしまして」


レティシアも笑った。


ただ。


鏡越しにルシアを見るその瞳だけが、笑っていなかった。


部屋の外から様子を確認していたエリーゼは、僅かに目を細めた。


綺麗だと思った。


けれど、それ以上に不安だった。


この姿を見たヴァンパイアたちが、ルシアへどんな視線を向けるのか。


ルシアたちが会場へ戻ると、先ほどとは違う視線が集まった。


特にルシアへ。


何人ものヴァンパイアが振り返る。


「……見られてる」


「だってルシア綺麗だもん!」


「恥ずかしいよ」


「堂々として!」


「無理!」


ルシアは周囲を見回した。


そして。


少し離れた場所に黒髪を見つけ、慌てて柱の陰へ隠れた。


「ミア!」


「何!?」


「ゼノ兄さんいる!」


「どこ!?」


「見ないで!」


「見たい!」


「見たらバレる!」


ゼノンは数人のヴァンパイアと話していた。


普段の制服とも、家へ遊びに来るときの服とも違う正装。


いつもなら近くにいることが当たり前のゼノンが、少しだけ遠い人に見えた。


「……格好いい」


思わず呟いた。


「でしょ!?」


「何でミアが自慢するの」


「推しだから」


「意味分かんない」


もう一度だけ見ようとして。


ゼノンがこちらを向きかけた。


「隠れて!」


二人で慌てて柱の裏へ引っ込む。


「危なかった……」


「楽しいね!」


「全然楽しくない!」


そう言いながらも、ルシアは少し笑っていた。


その様子を。


少し離れた場所からレティシアが見ていた。


やがて彼女はミアへ近づく。


エリーゼはその動きを見逃さなかった。


すぐに近づこうとしたが、そのとき別の客がルシアへ声をかけた。


エリーゼは反射的にルシアの前へ出る。


「失礼。こちらの方へ何か?」


「いや、少し声をかけようとしただけだ」


「申し訳ありません。今は控えてください」


その一瞬。


レティシアはミアの耳元へ顔を寄せた。


「ミア」


「はい?」


「来てくれてありがとう。あなたを招待して正解だったわ」


「え?」


「少しだけ、私のお願いを聞いてくれる?」


「お願い?」


「ええ。とても簡単なことよ」


レティシアはミアの手を取り、瞳を覗き込んだ。


「今から私が話すことは、ルシアには聞かせてはいけないわ」


「どうして?」


「驚かせたくないの」


穏やかな声が、ゆっくりとミアの意識へ入り込んでいく。


「だから、私の声が聞こえたことも、今からすることも、ルシアには話さないで」


ミアの瞳から、少しずつ感情が消えていく。


「……分かりました」


「いい子ね」


レティシアの声がさらに低くなる。


「今から私の言うことだけを聞いて」


「……はい」


「ルシアを傷つけるの」


ミアの瞳が僅かに揺れた。


「……ルシアを?」


「ええ。あなたの手で」


「どうして……?」


「理由を考えなくていいわ。あなたはただ、私の言葉に従えばいいの」


レティシアはテーブルの上に置かれた細い装飾用の金具へ視線を向けた。


「それで、ルシアの腕を傷つけなさい」


「でも……」


「大丈夫。ほんの少し傷つけるだけよ」


「ルシアが痛がる……」


「あなたは心配しなくていいの」


レティシアはミアの手を離した。


「この会話を忘れなさい。私が何を言ったのかも、私と話したことも」


「……はい」


「さあ、戻りなさい」


ミアはゆっくりとルシアのもとへ戻った。


「ミア?」


ルシアが振り返る。


「どうしたの?」


ミアは笑った。


「ううん。何でもないよ」


声も表情も、いつものミアと変わらなかった。


だからルシアは何も疑わなかった。


やがてミアはテーブルへ向かい、装飾用の金具を手に取った。


「ミア?」


「どうしたの?」


「何か持ってる?」


「これ? 落ちてたから拾ったの」


「そうなんだ。見せて」


「うん」


ミアが一歩近づく。


エリーゼが異変に気づいた。


「ミア、それは……」


けれど。


その声より早く。


ミアが小さく呟いた。


「……ごめんね」


次の瞬間。


金具の先が、ルシアの腕を切った。


「痛っ!」


赤い線が走った。


すぐに血が滲む。


「え……?」


ミアの手から金具が落ちた。


カラン、と音を立てる。


エリーゼがすぐにルシアの前へ出た。


「ルシア!」


「……ルシア?」


ミアは自分の手を見る。


それからルシアの腕を見る。


顔から血の気が引いた。


「なんで……?」


「ミア?」


「私……今……」


周囲が静かになった。


一人。


二人。


三人。


周囲にいたヴァンパイアたちが、一斉にルシアの腕へ視線を向ける。


正確には。


そこから流れている血へ。


空気が変わった。


今のルシアの血に、純血の力やヴァルディエの香りがあるわけではない。


完全な封印によって、それはただの人間の血としてしか感じられない。


けれど。


ここはヴァンパイアばかりが集まる夜会だった。


その真ん中で、生身の人間が血を流している。


それだけで充分だった。


エリーゼはルシアの腕を布で押さえながら、周囲を睨みつけた。


「下がって」


血の香りに反応したヴァンパイアたちが、ゆっくりと距離を詰めてくる。


エリーゼはルシアを背後へ庇った。


「これ以上近づく者は、敵と見なす」


「……ルシア」


ミアの声が震える。


「私、なんでルシアを傷つけたの……?」


「分かんない。でも大丈夫だから」


「違う、私……そんなことするつもり……」


誰かが一歩近づいた。


瞳が赤い。


その隣のヴァンパイアも、喉を鳴らした。


「……まずい」


ルシアが呟いた瞬間。


「ルシア!」


聞き慣れた声が響いた。


次の瞬間には、黒い影が目の前にいた。


ゼノンだった。


ルシアを背中へ隠し、周囲のヴァンパイアを見渡す。


エリーゼがすぐに頭を下げた。


「申し訳ありません、ゼノン。私がついていながら……」


「今はいい」


ゼノンの声は低かった。


空気が重くなる。


「下がれ」


たった一言。


それだけで。


近づきかけていたヴァンパイアたちの身体が止まった。


純血の命令。


逆らえる者はほとんどいない。


「ゼノ兄さん……」


「何で君がここにいるの」


振り返ったゼノンの顔は笑っていなかった。


「それは……」


「ルシアちゃん!」


今度はラビが駆けてきた。


「血の匂いがしたからまさかと思ったけど……何してるの!?」


「ごめんなさい……」


「とりあえず移動しよう」


ゼノンはルシアの腕を確認すると、すぐに自分の上着を傷口へ押し当てた。


「痛い?」


「少しだけ」


「誰にやられたの」


声が低い。


「ミアが……」


ゼノンの視線がミアへ向く。


ミアが青ざめる。


「違うの!」


ルシアがすぐにゼノンの袖を掴んだ。


「ミア、変だったの。わざとじゃないよ」


「私、本当に分からないんです……! 気づいたらルシアを……」


「ラビ」


「うん」


「ミアを頼む」


「分かった」


ゼノンはルシアを連れ、会場を離れた。


案内されたのは、夜会の間だけゼノンへ与えられている個室だった。


扉が閉まる。


ようやくルシアは息を吐いた。


「座って」


「うん」


ソファへ腰掛ける。


ゼノンが目の前へ膝をつき、傷ついた腕を取った。


「結構切れてる」


「でもそんなに痛くないよ」


「痛いかどうかじゃない」


ゼノンは傷を見つめた。


「……舐めるよ」


「うん」


以前にも傷を治してもらったことがある。


だからルシアは素直に腕を差し出した。


ゼノンが傷口へ舌を這わせる。


血を拭いながら、傷がゆっくり閉じていく。


最後には赤い線さえ残らなかった。


「すごい……」


「もう痛くない?」


「うん。ありがとう」


ルシアが笑う。


ゼノンも微笑んだ。


「どういたしまして」


いつも通りだった。


けれど。


ゼノンはルシアから少し距離を取った。


「ゼノ兄さん?」


「何?」


「何か怒ってる?」


「怒ってるよ」


「……ごめんなさい」


「ミアに騙されて来た?」


「何で分かったの?」


「君一人なら絶対来ないから」


「……はい」


「あとで話そうね」


笑っている。


怖い。


「はい……」


ゼノンは立ち上がった。


「少しここで休んでいて」


「ゼノ兄さんは?」


「会場に戻らないといけないんだ」


「そっか」


「絶対に一人で出歩かないでね」


「分かった」


「本当に?」


「本当に!」


ゼノンはルシアの頭を撫でた。


「いい子」


そう言って部屋を出ていった。


扉が閉まる。


廊下へ出た瞬間。


ゼノンは壁へ片手をついた。


「……っ」


喉が焼けるように渇いていた。


空腹だったわけではない。


夜会へ来る前にも必要な血は摂っているし、普段ならこの程度で渇きに苦しむことなどない。


原因は分かっていた。


ルシアだ。


傷を治すために舐め取った、ほんの僅かな血。


たったそれだけの味が、舌から消えてくれない。


もっと欲しい。


もう一度あの腕を取って。


今度は傷を治すためではなく、自分の牙を立てて。


流れてくる血を、満足するまで飲みたい。


そこまで考えた瞬間、ゼノンは強く目を閉じた。


「……駄目だ」


十年間。


一度も飲まなかった。


ルシアが六歳で封印されてから今日まで、どれほど近くにいても、一度だって自分から牙を立てたことはない。


欲しくなかったからではない。


逆だった。


欲しすぎるから。


一度でも自分の意思で飲めば、次も欲しくなる。


一度で満足できる自信など、最初からなかった。


今のルシアは、自分を人間だと思っている。


自分がヴァンパイアであることも、ヴァルディエの血を引いていることも、ゼノンと本当はどんな関係なのかも知らない。


そんなルシアに、自分の渇きを満たすためだけに血を求めることなどできなかった。


それに。


ゼノンが本気で欲しいと言えば、ルシアはきっと困った顔で笑いながら血を差し出す。


ゼノ兄さんが必要なら。


そう言って。


だからこそ、言えない。


ルシアの優しさにつけ込んでまで、自分の欲を満たしたくなかった。


「……戻れないな」


今の状態でルシアのところへ戻るのは危険だった。


傷はもう塞がっている。


それでも、あの腕を見れば血の味を思い出す。


もう一度欲しくなる。


ならば、その前に身体だけでも満たしておくしかない。


ルシア以外の血で飢えを鎮めてしまえば、少なくとも理性を保ったまま彼女のそばへ戻れる。


その前に。


ゼノンには確認しておかなければならないことがあった。


大広間へ戻り、レティシアの姿を探す。


彼女は何事もなかったように客と話していた。


「レティシア」


背後から声をかけられ、レティシアが振り返る。


「まあ、ゼノン。どうしたの?」


「少し話がある」


「今? 夜会の最中よ」


「構わない」


ゼノンはレティシアの腕を掴んだ。


「何故、ミアを招待した」


「何故って?」


「彼女は人間だ。お前が個人的に招待する理由はない」


「夜会に興味があると聞いたからよ。人間の友人を招くことが、そんなにおかしい?」


「ミアを操ったのはお前か?」


レティシアの瞳が僅かに揺れた。


けれど、すぐに笑みを戻す。


「私じゃないわ」


「知らない、と?」


「ええ。私は何も知らないわ」


「ミアは、何の理由もなくルシアを傷つけたと?」


「そういうこともあるのではなくて?」


ゼノンの目が細くなる。


「ふざけるな」


低い声が響いた。


「ミアはルシアを傷つける理由がない。あの子は自分が何をしたのか理解していなかった」


「それだけで私を疑うの?」


「お前以外に誰がいる」


「証拠は?」


レティシアは一歩近づいた。


「私がミアを操ったという証拠はあるの?」


ゼノンは黙った。


ミアには、レティシアに何を言われたのかという記憶が残っていない。


周囲にいた者たちも、二人の会話を聞いていない。


レティシアがミアへ触れたことは事実だ。


しかし、それだけでは証拠にならない。


「……証拠がなくても、僕はお前を信用しない」


「酷い言い方ね」


「ルシアに何かしたのなら、必ず明らかにする」


「だから、私ではないと言っているでしょう?」


レティシアはそう言いながら、ゼノンの腕へ手を伸ばした。


そのまま、彼の腕に抱きつく。


「それよりも」


「離れろ」


「どうして? 昔から私はあなたのことが好きなのに」


「今はその話をしていない」


「いいえ。今だからこそ話すのよ」


レティシアはゼノンを見上げた。


「私と結婚してほしいわ、ゼノン」


周囲の視線が集まる。


ゼノンは冷たい目でレティシアを見下ろした。


「断る」


「即答なのね」


「当然だ」


「どうして?」


「お前に興味がない」


レティシアの笑顔が僅かに歪んだ。


「私より大切なものがあるの?」


ゼノンは答えなかった。


けれど、その沈黙だけで十分だった。


レティシアの視線が、ルシアがいる個室の方角へ向く。


「……あの人間?」


「余計なことを言うな」


「あなたがあの子を特別扱いしていることは、皆が知っているわ」


「レティシア」


「私と結婚すれば、あなたはもっと自由になれる。ドラクロワ家とヴァルディエ家が結びつけば、誰もあなたに逆らえない」


「興味がないと言った」


ゼノンはレティシアの腕を振りほどいた。


「ミアを操った証拠はない。だから今は、お前を犯人だと断定しない」


「なら、私を疑う理由もないでしょう?」


「だが、次にルシアへ手を出したら」


ゼノンはレティシアを冷たく見据えた。


「証拠がなくても、お前を敵と見なす」


レティシアは黙った。


ゼノンはそれ以上何も言わず、その場を離れた。


レティシアはその背中を見つめる。


「……私と結婚すればいいのに」


小さく呟いた。


その声には、先ほどまでの柔らかさはなかった。


レティシアから離れたゼノンは、もう一度喉へ手を当てた。


渇きは消えていない。


むしろ、苛立ちで余計に強くなっている。


このままルシアのところへは戻れない。


ゼノンは会場にいた顔見知りの女性へ声をかけた。


「少し、血を貰ってもいい?」


女性は驚いたように目を見開いた。


ゼノンが誰かへ直接血を求めることなど滅多にない。


けれど、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべた。


「もちろんです」


夜会には、吸血を必要とするヴァンパイアへ血を提供する者も参加している。


互いの同意の上で行われることであり、この場では珍しいことでもない。


普段のゼノンなら、わざわざ誰かから直接飲むことは少なかった。


保存された血で充分だからだ。


けれど今は、少量の保存血で収まる程度の渇きではない。


早く。


確実に。


身体を満たしてしまいたかった。


そうしなければ、ルシアのところへ戻れない。


二人は人目を避け、ルシアが休んでいる部屋の隣にある個室へ移った。


ゼノンは女性の身体を支え、その首筋へ牙を立てた。


温かな血が口の中へ流れ込む。


一口。


二口。


喉を通るたびに、身体を苛んでいた渇きが少しずつ静まっていく。


確かに身体は満たされている。


それなのに。


「……違う」


無意識に声が漏れた。


女性が僅かに顔を動かす。


「ゼノン様?」


ゼノンは牙を抜き、目を伏せた。


「……何でもないよ」


違う。


欲しかったものではない。


身体は満たされている。


空腹も消えていく。


それなのに、先ほど舌へ触れたほんの僅かな血の味の方が、ずっと鮮明に残っている。


今のルシアの血から、ヴァルディエの純血としての力や香りが漏れているわけではない。


封印は完全だ。


他のヴァンパイアが飲んだところで、ただの人間の血としか感じない。


それでも。


ゼノンにとっては違った。


ルシアだから。


愛している相手の血だから。


十年間、欲しいと思いながら一度も自分から口にしなかった血だから。


誰の血を飲んでも。


ルシアの代わりにはならない。


それでも、これでいい。


身体の飢えさえ満たしておけば、ルシアの前で理性を失わずに済む。


欲しいものを我慢するだけで、ルシアを傷つけずにいられるのなら。


その方がずっといい。


ゼノンは必要な量だけ飲むと、女性の首筋から離れた。


残った傷を舐めて塞ぐ。


「ありがとう。もう大丈夫」


「もうよろしいのですか?」


「うん。充分だよ」


身体の渇きは収まっている。


これならルシアのところへ戻れる。


そう思った。


このときのゼノンは知らなかった。


一番見られたくなかった相手が、すぐ近くまで来ていたことを。


一方。


部屋に残されたルシアは、しばらく大人しくしていた。


けれど。


十分。


二十分。


さすがに暇になってきた。


「……ミア、大丈夫かな」


心配になった。


ラビがついているから大丈夫だとは思う。


それでも顔を見たい。


少しだけなら。


そう思って部屋を出た。


隣の部屋から、女性の声が聞こえた。


ルシアは足を止めた。


扉が僅かに開いている。


何気なく中を見た。


そして。


動けなくなった。


ゼノンがいた。


知らない女性と一緒だった。


女性の身体を腕で支え、その首筋へ顔を埋めている。


何をしているのか。


すぐに分かった。


血を飲んでいる。


女性は嫌がっていない。


むしろ当然のようにゼノンへ身体を預けていた。


ルシアの胸が、きゅっと痛くなった。


少し前。


自分の腕からも血が出ていた。


ゼノンはそれを舐めて、傷を治してくれた。


けれど。


飲まなかった。


傷が治ったら、すぐに離れた。


自分の血には牙を立てなかった。


今までだって、一度も。


なのに。


知らない女の人の血は飲むんだ。


そう思った瞬間。


胸の奥が、さっきよりも強く痛んだ。


何で。


分からない。


ヴァンパイアなのだから血を飲む。


当たり前のことだ。


知識としては知っていた。


それなのに。


見たくなかった。


ゼノンが知らない女性を抱いているように見えたことも。


その女性の首へ牙を立てていることも。


何より。


自分には一度もしてくれたことがないことを、その人にはしていることが。


嫌だった。


「ルシアちゃん」


小さな声がした。


びくりと肩が跳ねる。


振り返ると、ラビがいた。


「……ラビ先輩」


ラビは扉の向こうを見た。


すぐに状況を理解したらしい。


「見ちゃった?」


「……はい」


「そっか」


ラビはそれ以上聞かなかった。


ルシアは俯いた。


「ゼノ兄さん……女の人の血、飲むんですね」


「飲むよ」


「……そうですよね」


「俺たちはそういう生き物だからね」


ラビの声は優しかった。


「血が必要なんだ。食事みたいなものだよ」


「分かってます」


「うん」


「分かってるんですけど……」


胸がもやもやする。


理由が分からない。


「帰ります」


「え?」


「私、帰ります」


ラビは少しだけルシアを見つめたあと、何も追及せずに頷いた。


「分かった。送るよ」


「でも、このドレス……」


「着替えなきゃね」


ルシアが頷く。


「着てきた服は俺があとで家に届けるよ。今は無理にここにいなくていい」


「……ありがとうございます」


エリーゼがミアを連れて戻ってきた。


「ルシア」


「エリーゼ」


「怪我はもう大丈夫?」


「うん。ゼノ兄さんが治してくれたから」


ミアが俯いたまま、ルシアの手を握った。


「ルシア、本当にごめんね」


「もう大丈夫だよ」


「でも……」


「ミアのせいじゃないってば」


エリーゼが静かに二人を見る。


「帰宅後、アルベルトへ事情を説明する。今回のことは黙っておけないから」


「……うん」


ルシアは渋々頷いた。


着てきた服へ着替えようとしたが、レティシアの姿はもうなく、着替えを置いた部屋にもすぐには戻れなかった。


結局、用意されていた上着だけを羽織り、ドレス姿のまま会場を出ることになった。


「服は俺があとで家に届けるよ」


ラビが言った。


「ありがとうございます」


三人で屋敷を出る。


エリーゼも同行しようとしたが、アルベルトへの報告と会場で起きたことの確認のため、その場に残ることになった。


夜風が頬に触れた。


その瞬間。


「……何だその格好」


聞き慣れた声がした。


ルシアが顔を上げる。


門の近くにクレイドが立っていた。


「クレイド!?」


「何でいるの!?」


ミアまで驚く。


クレイドは答えず、ルシアを見た。


いつもと違う。


華やかなドレス。


綺麗に整えられた白金色の髪。


薄く化粧された顔。


普段なら見慣れているはずのルシアなのに。


一瞬。


言葉が出なかった。


「……クレイド?」


「……何でもねぇ」


顔を逸らす。


耳が少し赤い。


「何でここにいるの?」


「分かんねぇ」


「分からないの?」


「急に……来た方がいい気がした」


クレイドは自分の胸元を押さえた。


「ゼノンに呼ばれてるみたいな感じがして。気持ち悪ぃから来た」


ラビが少し目を細めた。


クレイドは長くゼノンの血を飲んでいる。


本人たちが意識していなくても、血は少しずつ二人を繋いでいる。


ゼノンの眷属に近い状態になっているクレイドなら、遠くにいても主の強い意思を感じ取ることがあってもおかしくない。


クレイドはルシアを見た。


次にミア。


そしてラビ。


「……なるほど」


「何が?」


「こいつを迎えに来いってことだったか」


クレイドは溜息をついた。


「帰るぞ、ルシア」


「うん」


ラビが笑った。


「じゃあ僕はここまででいいかな」


「送ってくれるんじゃ?」


「迎えが来たからね」


ラビはクレイドを見る。


「ちゃんと送ってあげて」


「言われなくても」


「ミアちゃんもね」


「分かってる」


「ラビ先輩」


ルシアが振り返る。


「今日はありがとうございました」


「ううん」


ラビは笑った。


「また学校でね、ルシアちゃん」


「はい」


三人で歩き始めた。


しばらくして。


クレイドが横目でルシアを見る。


またすぐ逸らす。


「何?」


「何でもねぇ」


「さっきからそればっかり」


「……」


「変?」


「は?」


「ドレス」


ルシアがスカートを少し持ち上げた。


「似合ってない?」


「……似合ってる」


「本当?」


「何回も聞くな」


「だって見ないから」


「見てる」


「見てないよ」


「見たから分かるんだろ!」


「顔赤いよ?」


「うるせぇ!」


ミアが後ろでにやにやしている。


「クレイド、ルシア綺麗で緊張してる?」


「してねぇ!」


「絶対してる」


「お前も黙れ!」


ルシアは少し笑った。


けれど。


すぐに思い出してしまう。


知らない女性。


その身体を支えていたゼノンの腕。


首筋へ牙を立てる姿。


胸がまた重くなった。


ミアを家まで送り届けたあと、ルシアとクレイドは二人でアルベルトの家へ帰った。


家に着いてからも、クレイドは何度かルシアを見ていた。


「……何?」


「いや」


「また?」


「その格好見慣れねぇだけ」


「もう着替えるよ」


「……そう」


なぜか少し残念そうに聞こえた。


ルシアは自分の部屋へ戻り、ドレスを脱いだ。


化粧も落とす。


鏡の中の自分が、いつものルシアへ戻っていく。


そのあとクレイドと一緒に遅い夕食を食べた。


お風呂へ入った。


髪を乾かした。


いつもの寝間着に着替えた。


そして。


ベッドへ入る。


目を閉じる。


けれど。


浮かぶ。


ゼノンが知らない女性を抱いている。


首筋へ顔を埋めている。


血を飲んでいる。


「……」


寝返りを打った。


嫌だった。


何で嫌なのか。


自分でもよく分からない。


ゼノンはヴァンパイアなのだから。


血を飲むのは当たり前。


むしろ飲まなければ生きていけない。


知っている。


分かっている。


それなのに。


自分の腕を見た。


少し前まで傷があった場所。


ゼノンが舐めて治してくれた。


あのとき。


ほんの少しだけ。


自分の血にも触れたはずなのに。


すぐにやめた。


今までだってそうだった。


ゼノンは一度も。


ルシアの血を欲しいと言ったことがない。


クレイドは欲しがった。


自分でも怖がるくらいに。


なのに。


ゼノンは。


知らない女の人の血は飲むのに。


「……何で」


布団を鼻のあたりまで引き上げる。


胸が苦しい。


知らない女性に嫉妬しているのだと認めるには、まだルシアは自分の気持ちを理解していなかった。


ただ。


一つだけ。


どうしても気になった。


「……私のは、欲しくないのかな」


小さく呟いた。


答える人はいない。


ゼノンが他の女性の血を飲んでいる姿を思い出すたび、胸の奥がちくりと痛む。


私の血は。


欲しくないの?


ゼノ兄さんにとって。


私はそんなに美味しくなさそうなのかな。


ルシアは布団の中で丸くなった。


その夜。


ゼノンが自分の血を欲しがらないことに、なぜこんなにも胸が痛むのか分からないまま。


少しだけ不機嫌な気持ちで、いつの間にか眠りへ落ちていった。

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