第60話 揺らぎ
電話の音が、やけに遠く聞こえた。
麻美は、受話器を握ったまま黙っていた。
『……担当の方、ですよね』
静かな声だった。
怒鳴りでもない。責めるでもない。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「……はい」
『今回の件で、供給が止まると聞きました』
「……はい」
喉が、少し詰まる。
『理由を、教えていただけますか』
わかっている。
この質問に、意味がないことくらい。
決定は、もう変わらない。
それでも——
「……申し訳ありません」
それしか言えなかった。
沈黙。
『そうですか』
短い返事。
それで終わりだった。
怒りもない。
恨みも、ぶつけてこない。
ただ——
切れた。
その音が、やけに大きく響いた。
麻美は、しばらくそのまま動けなかった。
(……これでいいの?)
答えは出ない。
昨日から、ずっとそうだ。
切った。
捨てた。
そして今——
別の場所で、動かしている。
矛盾している気がした。
なのに、現場は回っている。
「麻美」
顔を上げる。
恒一だった。
「第二ロット、準備どうなってる」
いつも通りの声。
何も変わっていないように見える。
「……進んでます」
「そうか」
それだけ言って、画面に戻る。
その横顔を、見てしまう。
(どうして)
思ってしまう。
(どうして、そんなに普通なんですか)
あれだけの決断をして。
あれだけのものを切って。
どうして——
「……恒一さん」
気づいたら、呼んでいた。
「何だ」
「……これでいいんですか」
空気が、少しだけ止まる。
「何がだ」
「やってること……です」
言葉を選びながら、続ける。
「切った会社もあって、今動かしてる会社もあって……」
「……うん」
「それって……正しいんですか」
聞いてしまった。
ずっと引っかかっていたこと。
恒一は、少しだけ考えた。
すぐには答えない。
その沈黙が、逆に怖かった。
「正しくはない」
やがて、そう言った。
あまりにもあっさりと。
「……え?」
「全員は救えてない」
視線は、画面のまま。
「だから、正しくはない」
言葉に、迷いはなかった。
でも——
「じゃあ……」
「でも」
そこで初めて、麻美の方を見る。
「間違ってもない」
静かに言った。
「……どういう意味ですか」
「何もしなければ、全部沈む」
一拍。
「それは、もっと間違ってる」
胸の奥に、重く落ちる。
「……だからって」
「選ぶしかない」
言葉を重ねる。
「残す方を」
それが答えだった。
冷たい。
でも——
逃げていない。
それだけは、わかる。
「……納得は、できません」
小さく言う。
「いい」
即答だった。
「納得しなくていい」
「……え?」
「俺もしてない」
一瞬、言葉を失う。
「でもやる」
それだけだった。
それ以上でも、それ以下でもない。
静かだった。
でも、その言葉には——
重さがあった。
「……」
何も言えなくなる。
否定もできない。
肯定もできない。
ただ、残る。
違和感が。
「動いてるぞ!」
別の場所で声が上がる。
「第三ロット、入る!」
フロアがまた動き出す。
現実が、前に進む。
麻美は、その場に立ち尽くしていた。
(……間違ってないの?)
わからない。
(でも……)
振り返る。
動いている。
人が。
仕事が。
流れが。
止まっていない。
(……救われてる人もいる)
それも事実だった。
だから——
(わからない)
結論は、出ない。
でも一つだけ。
昨日とは、違う。
完全には否定できない。
その自分に、気づいてしまう。
麻美は、ゆっくりと息を吐いた。
そして——
「……手伝います」
小さく呟く。
誰に聞かせるでもなく。
ただ、自分に言うように。
答えはまだ出ない。
でも——
立ち止まる理由も、なかった。
麻美は歩き出した。
揺らぎながら。
それでも、前へ。




