第48話 代償のかたち
朝のオフィスは、ざわついていた。
声のトーンが、どこか揃っていない。
笑っているようで、笑っていない。
電話の音だけが、やけに多かった。
「まだ繋がらないのか?」
誰かの声が上がる。
「はい、ずっと話し中で……」
「別の回線は?」
「それも同じです」
恒一は、自席でそのやり取りを聞いていた。
昨日と同じ机。
同じ景色。
なのに、空気だけが違う。
机の上には、例の書類の控え。
自分のサインが、そこにある。
ポケットの中で、携帯が震えた。
着信。
見慣れた名前。
——国内取引先
一瞬、指が止まる。
それから、出た。
「……はい、恒一です」
相手の声は、いつもより低かった。
挨拶も、前置きもない。
『今回の件、聞きました』
心臓が、一つだけ強く打つ。
「……はい」
『うちは、切られた側でいいんですよね』
言葉は丁寧だった。
でも、その奥にあるものは、はっきりしている。
恒一は、少しだけ目を閉じた。
「今回の再編で——」
言いかける。
だが、相手が遮った。
『理由は、結構です』
短い沈黙。
『ただ、一つだけ』
その声が、わずかに変わる。
『あのとき、あなたは違ったと思ってました』
胸の奥に、鈍いものが落ちる。
『残念です』
それだけ言って、電話は切れた。
ツー、という音が、やけに長く続いた。
受話器を戻す。
手のひらに、うっすら汗が滲んでいる。
周りでは、同じようなやり取りが続いていた。
声を荒げる者。
無言で電話を切る者。
ただ立ち尽くす者。
その全部が、同じ方向を向いている。
——切った結果。
「……来たな」
背後から、神谷の声。
振り向くと、いつも通りの表情だった。
「想定内、ですか」
恒一が言う。
「想定通りだ」
神谷は迷いなく答える。
その言葉に、少しだけ救われる自分がいる。
同時に、何かが削れる。
「これで、向こうに入れる」
神谷は続けた。
「タイミングとしては悪くない」
悪くない。
その言葉が、妙に遠く感じた。
「……かなり、反発出てますよ」
「出るだろうな」
あっさりしている。
「しばらくは続く」
神谷は淡々と言う。
「だが、そのうち止む」
「本当に?」
思わず聞いていた。
神谷は、少しだけ視線を向ける。
「止むさ」
短く言う。
「止まなかったら?」
ほんのわずかに、間。
「そのときは、そのときだ」
答えになっていない。
でも、それ以上でもなかった。
そのとき。
「恒一さん」
声がした。
振り向くと、麻美が立っていた。
顔色は、昨日より少し悪い。
でも、目は逸らさない。
「……大丈夫ですか」
その一言に、少しだけ詰まる。
「大丈夫に見えます?」
苦笑まじりに返す。
麻美は、すぐには答えなかった。
それから、小さく首を振る。
「見えません」
正直すぎる答えだった。
「ですよね」
恒一は、少しだけ息を吐く。
「さっき、電話……」
麻美が言いかける。
「ああ」
それだけで、通じた。
少しの沈黙。
「……間違ってた、と思いますか」
麻美が、静かに聞く。
昨日とは違う問い。
恒一は、少しだけ考えた。
「わかりません」
正直に言う。
「まだ、結果が全部出てるわけじゃないです」
麻美は、それをじっと聞いている。
「でも」
続ける。
「戻りたいとは、思ってないです」
言葉にした瞬間、自分でも少し驚いた。
麻美の表情が、わずかに揺れる。
「そう、ですか」
否定しない。
肯定もしない。
ただ、その言葉を受け止める。
「……ただ」
恒一は、小さく付け足す。
「思ったより、重いです」
その一言に、麻美は少しだけ目を伏せた。
「ですよね」
小さく、同意する。
それ以上の言葉はなかった。
窓の外では、雲が低く垂れ込めていた。
光はあるのに、明るくならない。
電話は、まだ鳴り続けている。
選んだ結果は、もう動き始めていた。
止めることはできない。
ただ——
向き合うしかなかった。




