第46話 切断
朝は、驚くほど普通に始まった。
通勤電車の揺れも、改札の音も、昨日と何も変わらない。
違うのは、恒一の中だけだった。
デスクに座ると、書類が一つ置かれていた。
見慣れたフォーマット。
見慣れた決裁欄。
ただ、タイトルだけが違う。
——取引先再編計画(案)
誰が置いたのか、聞くまでもない。
手に取る。
紙は軽い。なのに、やけに重く感じる。
ページをめくるたびに、名前が並ぶ。
会社名。担当者名。取引年数。
どれも、ただの文字列のはずなのに、顔が浮かぶ。
頭を下げた夜。
無理を通してもらった朝。
笑って酒を飲んだ、あの席。
——全部、ここにある。
「見てるか」
背後から声がした。
振り向かなくてもわかる。
神谷だった。
「最終版だ」
淡々とした声。
「向こうも待ってる。今日中に返事を出す」
それだけ言って、隣のデスクに腰を下ろす。
急かすでもない。
説明するでもない。
ただ、そこにいる。
「……ずいぶん、あっさりしてますね」
恒一は、書類から目を離さずに言った。
「そう見えるか?」
「見えますよ」
少しだけ間が空く。
「慣れだな」
神谷は、コーヒーに口をつけながら言った。
「こういうのは」
その言葉に、わずかに引っかかる。
慣れ。
つまり、これが初めてじゃないということだ。
「最初は、時間がかかる」
神谷は続ける。
「一つ一つ理由をつけて、自分を納得させようとする」
まるで、今の恒一を見ているみたいに。
「でも、結局は同じだ」
カップを置く音が、小さく響く。
「やるか、やらないか。それだけだ」
恒一は、ページをめくる手を止めた。
「……やらなかったら?」
聞くつもりはなかった質問だった。
神谷は、少しだけ考えるように視線を上げた。
「この案件は流れる」
「それだけですか」
「それだけじゃないな」
淡々と続ける。
「ここまで積み上げたものも、一緒に流れる」
“積み上げたもの”。
それが何を指しているのか、説明されなくてもわかる。
評価。信頼。立場。
そして——
ここまで来た、自分自身。
「……戻れるんじゃないですか」
ぽつりとこぼす。
「まだ」
神谷は、わずかに目を細めた。
「どこに?」
昨日、麻美に言われた言葉がよぎる。
——戻るって、どこにだよ。
答えは出なかった。
「幻想だな」
神谷は静かに言った。
「戻る場所なんてものは、最初からない」
その言い方は、冷たいというより——
どこか、諦めに近かった。
「選んだ時点で、前にしか進めない」
視線が、まっすぐ向けられる。
「違うか?」
否定できなかった。
ここに来るまでに、いくつ選んできた。
小さな判断。
小さな妥協。
その積み重ねで、今ここにいる。
「……そうですね」
小さく、答える。
沈黙が落ちる。
オフィスのざわめきが、遠くに聞こえる。
誰かの電話の声。
キーボードを叩く音。
全部が、やけに現実感を持って響く。
そのとき。
「失礼します」
控えめな声。
顔を上げると、麻美が立っていた。
一瞬、視線が合う。
何も言わない。
ただ、机の上の書類に目を落とす。
気づいている。
昨日の続きだと。
「……それ」
小さく口を開く。
言葉が続かない。
恒一は、わざと軽く言った。
「ただの書類です」
麻美は、少しだけ眉を寄せた。
「そういう言い方、嫌いです」
即答だった。
言葉が、刺さる。
「ただの書類じゃないの、わかってるじゃないですか」
声は強くない。
でも、逃げ場がない。
恒一は、視線を落とした。
紙の上の名前が、やけにくっきり見える。
「……仕事です」
また、その言葉を使っていた。
麻美は、何も言わない。
ただ、じっと見ている。
「昨日も言いましたけど」
ゆっくりと口を開く。
「やめた方がいいと思います」
「理由は?」
思わず聞いていた。
少しだけ困った顔をする。
それでも、言う。
「わかりません」
やっぱり、それか。
そう思ったのに——
「でも」
続ける。
「わからないまま、やっちゃいけない気がするんです」
その言葉で、手が止まった。
わからないから、やる。
じゃない。
わからないから、やらない。
そんな選び方も、あるのか。
「……恒一さん」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「今なら、まだ間に合います」
間に合う。
その言葉が、やけに遠く感じた。
神谷が、静かに立ち上がる。
「時間だ」
短く言う。
決断の時間。
恒一は、ペンを手に取った。
指先が、わずかに冷たい。
名前が並ぶページを、もう一度だけ見る。
顔が浮かぶ。
声が聞こえる。
全部、ここで終わる。
——それでも。
ペン先を、紙に落とす。
一画目。
ゆっくりと、線を引く。
その瞬間。
何かが、静かに切れた。
音はしなかった。
誰にも気づかれなかった。
でも、確かに。
戻れない場所に、踏み込んでいた。
サインを書き終える。
ペンを置く音が、やけに大きく響いた。
麻美は、何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ——目を伏せた。
神谷が書類を手に取る。
中身を確認して、小さく頷く。
「これでいい」
それだけだった。
窓の外では、雨が止みかけていた。
雲の切れ間から、わずかに光が差している。
でも、その光は。
どこか、現実味がなかった。




