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営業成績最下位の俺がバブル時代の商社にタイムスリップしたら、昭和の気合営業に現代マーケティングを持ち込んだら出世してしまった  作者: かーすけ


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第45話 その一歩の前で

 夜の空気は、昼間のざわつきが嘘みたいに静かだった。

 会社を出てしばらく歩いたところで、恒一は足を止めた。


 振り返ると、少し遅れて麻美が追いついてくる。

「……帰らないんですか?」

 軽く息を弾ませながら、そう言った。

「ちょっと」

 それだけ返すと、言葉が続かない。

 沈黙が、妙に長く感じた。

「さっきの、あれ」

 麻美が先に口を開いた。

「本気なんですか?」

 何が、とは言わない。

 それでも、十分だった。

「はい」

 短く答える。

 それ以上の言葉が、うまく出てこない。


 麻美は少しだけ俯いて、アスファルトを見つめた。

「……変ですよね」

 ぽつりとこぼす。

「何が?」

「わからないんです。ちゃんと説明できないんですけど」

 顔を上げる。

 迷っているようで、でも目は逸らさない。

「でも、あれ……やっちゃいけない気がするんです」

 風が、ふっと通り過ぎる。

 その言葉は、軽いのに、やけに残った。


「理由は?」

 自分でも意地の悪い聞き方だと思った。

 麻美は、少しだけ困った顔をする。

「だから、それが……」

 言葉を探して、止まる。

「数字はいいし、条件もいいし、たぶん会社としては正しいんだと思います」

「でも」

 小さく首を振る。

「誰かが、置いていかれる感じがするんです」

 その言い方が、妙に引っかかった。

 置いていく、じゃない。

 置いていかれる。


 恒一は、視線を外した。

 頭では、もう何度も整理している。

 この案件の意味も、リスクも、得られるものも。

 それでも——

「……仕事だから」

 出てきたのは、そんな言葉だった。

 自分で言っていて、薄いと思う。

「仕事、ですか」

 麻美は、ゆっくりと繰り返した。

 責めるような声じゃない。

 ただ、確かめるような響き。

「恒一さんって」

 一瞬、言いかけて止まる。

 それでも続けた。

「そんなふうに割り切る人でしたっけ」

 胸の奥で、何かが引っかかる。

「割り切ってるわけじゃない」

 少し強めに返していた。

「じゃあ、何ですか」

 間髪入れずに返ってくる。

 言葉に詰まる。

 何だろうな、これは。

 正しいことをやっているはずなのに、こうして問われると、足場が揺れる。

「……進むしかないんだと」

 やっと絞り出した。

「ここで止まったら、全部中途半端になると」

 過去も、今も、積み上げてきたものも。

 全部。


 麻美は、それを聞いて、少しだけ目を伏せた。

「それって」

 静かに言う。

「“進みたい”ってことじゃなくて、“止まれない”ってことですよね」

 核心だった。

 あまりにも、まっすぐで。

 恒一は、何も言えなかった。

 否定できない。

 でも、肯定したら、何かが決定的に変わる気がした。

「……私、怖いです」

 麻美がぽつりと言った。

 その声は、弱くはなかった。

 ただ、正直だった。

「何が、ですか」

「わかりません」

 すぐに返ってくる。

「でも、あのまま進んだら」

 少しだけ、言葉を選ぶように間を置いて——

「恒一さん、戻ってこなくなる気がするんです」


 その一言で、時間が止まったみたいだった。

 大げさな言い方じゃない。

 責めてもいない。

 でも、妙に現実味があった。

「……戻るって、どこに?」

 苦笑まじりに言う。

 誤魔化すように。


 麻美は、少しだけ考えてから答えた。

「今の、恒一さんのまま、いられる場所です」

 シンプルで、曖昧で、でも逃げ場のない答えだった。

 沈黙が落ちる。

 遠くで、車の音が流れていく。

「……それでも」

 恒一は、ゆっくりと言った。

「行くしかないんです」

 言い切る。

 自分に言い聞かせるみたいに。


 麻美は、すぐには返さなかった。

 しばらく黙って、それから小さく息を吐く。

「……そうですか」

 それだけ。

 引き止めるでもなく、否定するでもなく。

「でも」

 少しだけ顔を上げる。

「間違ってると思ったら、言いますから」

「遠慮なく」

「遠慮しません」

 ほんの少しだけ、口元が緩んだ。

「……あと」

 ためらうように、付け足す。

「無理は、しないでください」

 その言い方が、仕事相手へのそれじゃなかった。

 恒一は、一瞬だけ目を逸らした。


「できる範囲で」

 軽く返す。

 軽く返したつもりだった。

「それ、信用していいんですか?」

 すぐに返ってくる。

 今度は、少しだけ笑っていた。

「……さあ」

 肩をすくめる。

 二人の間に、少しだけ柔らかい空気が戻る。

 でも、それは長くは続かない。

 どこかでわかっていた。

 この先にあるものは、もう決まっている。


 雨は、まだ降り続いていた。

 止む気配はない。

 そして——

 その一歩は、もうすぐそこまで来ていた。

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