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営業成績最下位の俺がバブル時代の商社にタイムスリップしたら、昭和の気合営業に現代マーケティングを持ち込んだら出世してしまった  作者: かーすけ


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第44話 代償

 会議室の空気は、やけに乾いていた。

 冷房が効きすぎているわけじゃない。

 誰も口を開かないせいで、湿度だけが抜け落ちたような感覚だった。


 テーブルの中央に置かれた資料は、たった三枚。

 数字は少ない。

 だが、その意味は重かった。

「……これが、最終条件です」

 海外ラインの担当者は、日本語を選びながらそう言った。

 発音は丁寧だが、温度がない。


 恒一は、紙をめくる手を止めた。

 ——やっぱり、来たか。

 利益率は申し分ない。いや、むしろ異常だった。

 この市況、このタイミングで、ここまでの条件。

 普通なら、飛びつく。

 だが——


「一点、確認させてください」

 声を出したのは、神谷だった。

 穏やかで、いつも通りの調子。

 だが、その目だけが、紙の奥を見ている。

「この“整理”というのは」

 担当者は、わずかに間を置いた。

「現在の取引先との関係を、再構築するという意味です」

 言葉は柔らかい。

 だが、意味は一つしかない。

 ——切れ、ということだ。

 恒一の視線が、無意識に神谷へ向く。

 神谷は、動じていなかった。

「再構築、ですか」

「はい。より効率的で、持続可能な形に」

 持続可能。

 その言葉に、恒一は内心で苦笑した。

 ——誰にとっての、だ。


 今まで積み上げてきた国内の取引。

 顔を合わせ、頭を下げ、酒を酌み交わして築いた関係。

 それを、この一枚で。

「……リスクは?」

 恒一が聞いた。

「短期的には、御社の評価に影響が出る可能性があります」

 “短期的には”。

 つまり、長期的には問題ないとでも言いたいのか。

「ただし」

 担当者は続けた。

「このラインに入れば、その“評価”自体が意味を持たなくなります」

 部屋が、さらに静かになる。

 価値基準そのものを、乗り換えろ。

 そう言っている。


「——やりましょう」

 神谷が言った。

 あまりにも自然で、あまりにも早かった。

 恒一は、息を呑む。

「神谷さん」

 思わず名前を呼ぶ。

 神谷は、ゆっくりとこちらを見た。

 その目には、迷いがなかった。

「ここまで来て、引けると思うか?」

 静かな声だった。

 責めるでもなく、煽るでもなく。

 ただ、事実を置くような声。

「これは、選択じゃない。確認だ」

「何の、ですか」

「俺たちが、どこまでやる人間かっていう」

 一瞬、言葉が出なかった。

 正しいとか、間違ってるとか。

 そんな次元の話じゃない。

 ——“そういう世界に入るかどうか”。

 それだけだ。


 そのとき、ドアがノックされた。

 短く、控えめに。

 振り向くと、麻美が立っていた。

「失礼します。資料の追加を——」

 言いかけて、空気に気づく。

 そして、テーブルの上の紙を見た。

 一秒。

 二秒。

 彼女の表情が、わずかに変わる。

「……それ、受けるんですか?」

 誰に向けた言葉でもなかった。

 だが、はっきりと届いた。

 神谷が答える。

「受ける」

 即答だった。

 麻美は、ゆっくりと息を吐いた。

「そうですか」

 それ以上は、何も言わない。

 ただ、資料を置いて、静かに一歩下がる。

 その動きが、やけに重く見えた。


 恒一は、まだ紙を見ていた。

 数字は、変わらない。

 条件も、変わらない。

 変わるのは——自分たちの側だ。

「……神谷さん」

 ようやく、口を開く。

「これをやったら、戻れませんよ」

 神谷は、わずかに笑った。

「戻る気があるように見えるか?」

 その言葉に、返せなかった。


 外では、雨が降り始めていた。

 気づいたときには、もう止められない種類の雨だった。

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