第41話 対峙
夜は、まだ終わっていなかった。
会議室の空気は、張り詰めている。
時計の針の音だけが、やけに大きい。
神谷は、資料から目を上げない。
ペンを走らせる音だけが、静かに続く。
恒一は、その向かいに立っていた。
座らない。
まだ、その距離がある。
「どこまで見えてる」
神谷が言う。
顔は上げないまま。
「半分くらいです」
恒一は答える。
「残りは」
「……これから見ます」
その返しに、神谷の手が一瞬だけ止まる。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
初めて、正面から視線が合う。
「いいな」
神谷は小さく言った。
それは評価でもあり、確認でもあった。
「じゃあ見ろ」
資料を一枚、滑らせる。
恒一はそれを手に取る。
数字。
並んだ数字。
だが、すぐに気づく。
「……これ、消えてますね」
「消えた」
神谷は即答する。
主要な一本だった。
まだ“残っている側”のはずのライン。
「いつですか」
「さっきだ」
静かな声。
「連絡は?」
「来ない」
恒一は顔を上げる。
「来ない、って」
神谷は肩をすくめる。
「飛んだな」
その一言で、空気が変わる。
“撤退”じゃない。
“保留”でもない。
消失。
「そんな……」
言葉が出ない。
あの規模の相手が、
何の連絡もなく消える。
あり得ない。
だが、現実だった。
「よくある話だ」
神谷は言う。
「よくは、ないでしょう」
恒一は思わず返す。
その瞬間、
神谷の目がわずかに細くなる。
「これが現実だ」
低い声。
「契約も、信用も、関係ない」
「崩れる時は、一瞬だ」
その言葉は、重かった。
昼間までの崩壊とは、質が違う。
“連鎖”ではない。
断絶。
「……まだ、追えますか」
恒一の問い。
神谷は少し考える。
「無理だな」
あっさりと言う。
「もういない」
その割り切りが、恐ろしい。
「じゃあ、この穴は」
「埋める」
即答だった。
恒一は思わず笑う。
乾いた笑い。
「どうやって」
神谷は、ほんの少しだけ笑う。
「考えろ」
突き放す。
だが、それは命令ではなかった。
“同じ場所に立て”という合図だった。
恒一は、資料に目を落とす。
穴は大きい。
埋められる規模じゃない。
だが、
視線を動かす。
残っているライン。
細い線。
弱い繋がり。
「……寄せるしかない」
口に出る。
神谷は何も言わない。
「小さいのを束ねて」
「時間を稼ぐ」
「その間に、新しい線を引く」
言いながら、自分で分かる。
苦しい。
だが、ゼロじゃない。
神谷が、ゆっくり頷く。
「やっと見えてきたな」
その一言で、
胸の奥が少しだけ熱くなる。
そのときだった。
ドアが、ノックもなく開く。
麻美だった。
顔色が違う。
「神谷さん」
その声で、分かる。
まだ終わっていない。
「来ました」
「何がだ」
一瞬の沈黙。
「親会社が……手を引きます」
言葉が、落ちる。
時間が止まる。
「正式に、です」
誰も動かない。
音が消える。
さっきまでの“穴”が、一気に意味を失う。
土台が、消える。
恒一は、何も言えなかった。
これまで積み上げてきたものが、一瞬で崩れる感覚。
足場が消える。
神谷を見る。
その表情は――
変わらない。
わずかに、息を吐く。
「……そうか」
それだけ。
だがその声には、ほんの少しだけ、疲れが混じっていた。
初めてだった。
「理由は」神谷が聞く。
麻美は首を振る。
「市場全体です」
それ以上でも、それ以下でもない。
“逃げた”のではない。
“降りた”。
全体が。
神谷は、目を閉じる。
数秒。
そして、開く。
その目は、また戻っていた。
あの、冷たい現実を見る目に。
「坂本」
呼ばれる。
「ここからだ」
その一言。
狂っている。
だが――
逃げ場は、もうない。
恒一は、ゆっくりと頷く。
「はい」
短い返事。
だが、もう迷いはなかった。
すべてが崩れていく中で、それでも立つ。
その意味が、少しだけ分かり始めていた。
夜は、まだ終わらない。
そして崩壊も、まだ終わっていなかった。




