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営業成績最下位の俺がバブル時代の商社にタイムスリップしたら、昭和の気合営業に現代マーケティングを持ち込んだら出世してしまった  作者: かーすけ


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第40話 逃避

 夜は、思ったよりも早く来た。

 オフィスの灯りはまばらで、残っている人間も少ない。

 昼間の喧騒が、嘘のようだった。


 恒一は、机の前に座ったまま動けなかった。

 電話は鳴っていない。

 メールも来ない。

 だがそれは、何も終わっていないことを意味している。

 “止まっているだけだ”


 その感覚が、身体にまとわりつく。

 机の上の書類を見る。

 赤字で書かれた修正。

 取り消し線。

「撤退」

 その文字だけが、やけに濃く見える。

 ペンを持つ。

 だが、何も書けない。


 そのとき、背後で足音がした。

 神谷だった。

「まだいたのか」

「……はい」

 神谷は、恒一の机を一瞥する。

「考えても、答えは出ないぞ」

 その言い方は、いつもと同じだった。

 だが今は、少し違って聞こえる。


「坂本」

 神谷は続ける。

「お前は、どうする」

 問いは、単純だった。

 だが逃げ場がなかった。


「どうする、とは」

 時間を稼ぐように言う。

 神谷は、わずかに笑う。

「残るのか、降りるのか」

 その言葉で、すべてが整理される。

 残る。

 降りる。

 それだけの話だった。


 恒一は、しばらく何も言わなかった。

 頭の中に、いくつもの声が浮かぶ。

「もう無理だ」

「連鎖してる」

「責任はどうする」

 昼間の声。


 それと同時に、

 神谷の声も浮かぶ。

「止める」

「まだ終わっていない」

 どちらも、正しい。

 どちらも、間違っている。


「……分かりません」

 やっと出た言葉だった。

 神谷は頷いた。

「そうか」

 それだけ。


 責めない。

 否定もしない。

 そのことが、逆に重かった。

「分かるまで、離れろ」

 神谷は言う。

 恒一は顔を上げる。

「中途半端が一番危ない」

「迷ったまま残るな」

 静かな声。

「逃げるなら、きちんと逃げろ」

 その言葉は、突き放しているようで――

 どこか、守っているようでもあった。

 恒一は、何も言えなかった。


 夜風が、少し冷たい。

 ビルの外に出る。

 街は、いつも通りだった。

 ネオンが光り、人が歩き、車が走る。

 何も変わっていない。

 だが、自分だけが違っている。


 歩き出す。

 行き先は決めていない。

 ただ、オフィスから離れる。

 頭の中が、少しずつ静かになる。

 ――逃げている。

 その自覚はあった。

 だが同時に、ほんの少しだけ、楽だった。

 “決めなくていい”

 それが、こんなにも軽いとは思わなかった。


 気づくと、川沿いに出ていた。

 水は暗く、流れは見えない。

 ただ、街の光だけが揺れている。

 手すりに寄りかかる。

 息を吐く。

「……何やってるんだ」

 小さく呟く。

 ここにいても、何も変わらない。

 それでも、戻れない。

 そのとき、ふと声を思い出す。

「中途半端が一番危ない」

 神谷の言葉。


 苦笑が漏れる。

 “逃げるなら、きちんと逃げろ”

 そこまで言われて、

 ここに立っている自分は、

 いったい何なんだ。


 目を閉じる。

 浮かぶのは、昼の光景。

 崩れていく数字。

 声。

 視線。

 そして、

 神谷の背中。

 あの場所で、ただ一人、

 立ち続けていた男。


 恐怖はなかったのか。

 あるはずだ。

 それでも、立っていた。

「……ずるいな」

 思わず口に出る。

 あそこに残るのは、怖い。

 だが、

 ここにいるのも、同じくらい怖い。


 ゆっくりと目を開ける。

 水面に映る光が、揺れている。

 その揺れを見ているうちに、ふと、気づく。

 “止まっていない”

 流れている。

 見えないだけで。


 胸の奥で、何かが動く。

「……そういうことか」

 完全に理解したわけじゃない。

 だが一つだけ、はっきりする。

 自分は、

 “逃げ続ける側”ではない。


 深く息を吸う。

 振り返る。

 街の光が、さっきよりも強く見える。

 歩き出す。

 足取りは、まだ重い。

 それでも、

 さっきとは違っていた。


 オフィスに戻る頃には、

 夜は深くなっていた。

 灯りは、ほとんど消えている。

 だが、一つだけ。

 会議室の灯りが、ついていた。


 ドアを開ける。

 神谷がいた。

 机に向かい、一人で数字を追っている。


 顔を上げる。

「戻ったか」

 それだけ。

 責めない。

 驚かない。

 まるで、分かっていたように。


 恒一は、ゆっくりと頷く。

「……残ります」

 短い言葉。

 だが、それで十分だった。

 神谷は、ほんのわずかに口元を緩める。

「そうか」

 それだけ言って、

 また視線を落とす。


 何も変わらないようでいて、確実に何かが変わっていた。

 逃げた。

 迷った。

 そして、戻った。

 その事実だけが、

 恒一の中に残る。

 もう、後戻りはできない。


 崩壊の中に、自分の意思で立つ。

 それがどういうことかは、まだ分からない。

 だが――

 もう、目は逸らさない。

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