第28話 麻美の戦い
冬の朝の空気はまだ冷たかった。
丸の内のビル街には、出勤する人の波が流れている。
濃紺のスーツ、黒いコート、革の鞄。
その流れの中を、麻美も歩いていた。
商社の受付前は、朝になると独特の緊張感がある。
電話が鳴り、コピー機が回り、社員たちが慌ただしく行き交う。
麻美はデスクに鞄を置き、コートを脱いだ。
隣の席の先輩が言う。
「昨日、神谷さんまた接待だったみたいよ」
「そうなんですか」
「銀座のクラブ、三軒はしごしたって」
先輩は少し呆れたように笑った。
「すごい時代よね」
麻美は小さく笑ったが、何も言わなかった。
この会社では、男たちの世界がはっきりしていた。
営業。
接待。
ゴルフ。
その輪の中に、女性が入ることはほとんどない。
女性の仕事は、資料を作り、電話を取り、営業のサポートをすること。
それが「普通」だった。
昼休み。
社員食堂はいつもより賑やかだった。
窓の外には皇居の緑が見える。
同僚の女性たちがテーブルで話している。
「友達が結婚するんだって」
「また?」
「銀行の人と」
別の女性が笑った。
「この会社にいるより、そのほうが安定かもね」
笑い声が上がる。
誰も悪気はない。
ただ、この時代の常識を口にしているだけだった。
女性は、いつか結婚する。
会社はその前まで働く場所。
麻美は箸を置きながら、窓の外を見た。
本当にそうなのだろうか。
夕方。
恒一が資料を持って麻美の席に来た。
「このデータ、助かりました」
「いえ」
麻美は微笑んだ。
「坂本さんの案件、また大きいみたいですね」
「神谷さんの案件ですよ」
恒一は苦笑した。
「私はその手伝いです」
麻美は資料を整理しながら言った。
「でも、坂本さんが動くと、皆安心している感じがします」
恒一は少し驚いた顔をした。
「そうですか?」
「はい」
麻美はペンを置いた。
「坂本さん、嘘をつかないから」
その言葉に、恒一は一瞬言葉を失った。
会社では珍しい評価だった。
この時代の商売では、多少の誇張や駆け引きは当たり前だったからだ。
恒一は少し照れたように言った。
「それ、褒めてます?」
麻美は笑った。
「はい」
その笑顔は、静かだった。
その夜。
麻美は一人で帰り道を歩いていた。
東京の街はまだ明るい。
ネオンが光り、店から音楽が流れてくる。
道の向こうでは、スーツ姿の男たちがタクシーを待っている。
皆忙しそうで、皆どこか浮かれている。
麻美は立ち止まり、夜空を見上げた。
都会の空には星が少ない。
でも、その暗い空の向こうに、まだ見えない未来があるような気がした。
彼女は思う。
私はどう生きたいのだろう。
結婚して家庭に入る。
それもひとつの人生だ。
でも――
この街で働き、この時代を見て、何かを残したい。
そんな気持ちが、胸の奥に芽生えていた。
翌日。
会社の廊下で、山本が麻美に声をかけた。
「お嬢さん」
麻美は振り向いた。
「はい?」
山本はいつもの飄々とした笑顔だった。
「坂本のやつ、どう思う?」
唐突な質問だった。
麻美は少し考えた。
「……変わった人だと思います」
山本は笑った。
「そうだろうな」
そして少しだけ真面目な顔になった。
「でもな」
山本は小さく言った。
「これからの時代、ああいう男が必要になる」
麻美は驚いた。
「どうしてですか」
山本は窓の外を見た。
東京の街は今日も輝いている。
「世の中な」
山本はゆっくり言った。
「ずっと上がり続けるもんじゃない」
その言葉は、まるで未来を知っているかのようだった。
麻美はその言葉を胸のどこかにしまい込んだ。
この街はまだ輝いている。
男たちは夢を追い、会社は拡大し、土地は上がり続けている。
だがその中で、麻美は自分の小さな決意を持ち始めていた。
私は、この時代をただ見ているだけでは終わらない。
彼女の戦いは、まだ静かに始まったばかりだった。




