第27話 狂騒の街
昭和六十三年の冬。
東京の夜は、まるで眠ることを忘れた街のようだった。
六本木通りをタクシーが列をなして走る。
黒塗りの車から降りてくるのは、皆よく似た紺色のスーツを着た男たち。
ネクタイは太く、肩パッドは大きい。
靴は磨き上げられ、腕時計は海外ブランド。
そして、どの顔にも同じ表情が浮かんでいた。
高揚。
世界はこれからもっと大きくなる。
日本はまだまだ伸びる。
そんな確信が、街全体に漂っていた。
「坂本、今日は付き合え」
神谷が恒一に声をかけたのは、そんな夜だった。
「どこへですか」
「社会勉強だ」
神谷はそう言って笑った。
二人が向かったのは銀座だった。
夜の銀座は、昼とはまるで別の街だった。
ネオンの光が路地まで溢れ、クラブの前には客を待つ女性たちが並んでいる。
店の扉を開けると、甘い香水と煙草の匂いが混ざった空気が流れてきた。
「いらっしゃいませ、神谷さん」
ママがすぐに席へ案内する。
テーブルにはすぐにウイスキーが並び、
グラスの中で氷がゆっくり音を立てた。
神谷は煙草に火をつけながら言った。
「この街が、今の日本だ」
恒一はグラスを手にしながら、周囲を見渡した。
隣の席では、銀行の男たちが大声で笑っている。
「この土地、来年には倍ですよ」
「いやいや、三倍だろう」
その会話に、誰も疑問を持っていない。
別のテーブルでは、不動産会社の男が地図を広げていた。
「ここからここまで、全部買う」
「地権者は?」
「説得すればいい」
笑い声が上がる。
その空気に、恒一は少しだけ違和感を覚えた。
数日後。
会社の会議室でも、同じ熱気があった。
壁には大きな地図が貼られ、赤いマーカーで土地の区画が囲まれている。
「湾岸地区はこれから伸びます」
若い社員が説明している。
「外資系ホテルも計画されています」
「金融センター構想もあります」
役員たちは満足そうに頷いた。
神谷が言う。
「土地は確保しておけ」
「値段は気にするな」
その言葉に、会議室は静かに頷いた。
恒一はメモを取りながら思った。
本当にそこまで上がるのか。
だが誰も、そんなことは口にしない。
この時代には、ひとつの言葉があった。
土地神話。
土地は必ず上がる。
それが日本の常識だった。
街では、別の狂騒も始まっていた。
ゴルフ会員権の価格が、毎月のように上がる。
リゾートマンションの広告が新聞に並ぶ。
若い会社員が、高級車を買う。
海外旅行も当たり前になった。
会社の同僚が言った。
「来年、ハワイに別荘買うんだ」
冗談のような話が、冗談ではなくなっていく。
ある夜、恒一は山本と居酒屋にいた。
店のテレビでは、ニュースが流れている。
『都心部の地価、今年も大幅上昇』
アナウンサーが明るい声で言った。
『日本経済は世界でも突出した成長を続けています』
店の客たちがそれを聞きながら笑う。
「まだ上がるな」
「東京は世界一だ」
山本は焼き鳥をかじりながら、静かに言った。
「坂本」
「はい」
「世の中が一方向に走るときはな」
山本はグラスを置いた。
「気をつけろ」
「え?」
「商売も、人間もな」
少し間が空く。
「走りすぎると、止まれなくなる」
恒一はその言葉を聞きながら、店の外を見た。
通りにはまだ多くの人が歩いている。
ネオンは明るく、
タクシーは途切れない。
街はまだ、終わりを知らない夢の中にいた。
だがその頃、金融街の小さな会議室では別の空気が生まれ始めていた。
銀行の融資担当者たちが、資料を前に沈黙している。
地価のグラフは、あまりにも急角度で上がっていた。
一人が小さく言った。
「……これ、どこまで続くんだ」
誰も答えなかった。
外ではまだ、街が輝いている。
だが見えない場所で、最初の疑問が生まれ始めていた。
そしてそれは、やがて大きな波になることを、まだ誰も知らなかった。




