第26話 神谷という男
夜の赤坂は、まだバブルの匂いを濃く残していた。
ネオンは濡れたアスファルトに滲み、タクシーの列は長い。
高級クラブの前では、黒塗りの車からスーツ姿の男たちが次々と降りていく。
その光景を、神谷修一は通りの向こう側から静かに眺めていた。
ポケットの中の煙草を取り出し、一本火をつける。
煙は冷たい夜気にゆっくり溶けていった。
店には入らない。
かつては、毎晩のようにここにいた。
だが今は違う。
神谷はネオン街を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「……みんな、まだ夢を見てる」
その声は、どこか遠いものを見るような響きを帯びていた。
神谷が東京に出てきたのは、昭和五十年代の初めだった。
地方の小さな町。
父親は建材の小売をしていたが、商売はうまくいかなかった。
借金。
取引先の倒産。
手形の不渡り。
家の空気はいつも重かった。
ある夜、神谷は台所の戸の向こうで、両親が話しているのを聞いた。
「もう無理だ……」
父の声だった。
「店を畳もう」
母は泣いていた。
その言葉を聞いたとき、神谷は布団の中で目を閉じた。
何も感じないように。
だが、胸の奥で何かが静かに固まった。
負ける側には回らない。
それが、神谷の最初の決意だった。
大学を出る頃、日本は好景気に向かっていた。
土地は上がる。
株は上がる。
会社は拡大する。
商社はその中心にあった。
神谷は迷わず商社に入った。
配属されたのは、不動産部門だった。
最初は地味な仕事だった。
地権者を回り、書類を揃え、役所を歩き回る。
だが神谷は、すぐに気がついた。
この世界は、情報の速い者が勝つ。
土地の値段は、明日変わる。
一週間後には、倍になることもある。
神谷は誰よりも早く動いた。
朝一番で役所に行き、夜は不動産業者と酒を飲み、休日は地権者の家を訪ねた。
そのうちに、名前が売れ始めた。
「あの神谷って男、仕事が早い」
「決断も早い」
評価は上がっていった。
そして神谷自身も、確信を深めていった。
商売は勝った者のものだ。
ある日、神谷は先輩に連れられて銀座のクラブに行った。
分厚いカーペット。
重たいシャンデリア。
グラスの中で氷が静かに鳴る。
先輩は笑いながら言った。
「神谷、お前は向いてるよ」
「何にですか」
「この時代にさ」
先輩はウイスキーを一口飲み、言った。
「これから土地の時代だ。東京は世界一になる」
その言葉を、神谷は信じた。
いや、信じたというより――
信じたいと思った。
バブルは、本当にやってきた。
土地は信じられない速さで上がった。
昨日まで三億だった土地が、半年後には五億になっている。
銀行は競って金を貸した。
担保は土地。
評価額はどんどん上がる。
神谷の机の上には、毎日のように新しい案件が積まれた。
湾岸。
都心再開発。
ホテル計画。
神谷はその中心にいた。
取引額は年々大きくなった。
部下も増えた。
社内でも名前が通るようになった。
「神谷が動いてる案件だ」
その言葉だけで、会議が通ることもあった。
だが、神谷は浮かれてはいなかった。
むしろ逆だった。
この熱はいつか冷める。
そんな感覚を、心の奥でずっと持っていた。
だからこそ、神谷は焦っていた。
この波に乗れるだけ乗る。
勝てるだけ勝つ。
負ける前に、上に行く。
神谷は煙草を捨て、足で火を消した。
ネオンの街の向こうに、夜の東京が広がっている。
遠くのビル群の窓はまだ明るい。
そこにも、きっと同じような男たちがいる。
時代の波に乗ろうとする男たち。
神谷は小さく笑った。
「綺麗事で商売はできない」
それが、神谷の信念だった。
商売は戦いだ。
勝つか、負けるか。
それだけだ。
その瞬間、ふと、神谷の脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。
坂本恒一。
あの男は不思議だった。
欲があるようで、どこか違う。
勝ちを追いながら、何か別のものを見ている。
神谷は小さく首を振った。
「甘いんだよ」
だが、心のどこかで分かっていた。
もしこの時代が終わったとき――
生き残るのは、ああいう男なのかもしれない。
神谷はコートの襟を立て、夜の街を歩き出した。
ネオンはまだ輝いている。
だがその光の下で、誰も気づかないまま、時代はゆっくりと軋み始めていた。




