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営業成績最下位の俺がバブル時代の商社にタイムスリップしたら、昭和の気合営業に現代マーケティングを持ち込んだら出世してしまった  作者: かーすけ


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第25話 最初のひび

 春の終わりだった。

 東京の空気は、まだどこか浮かれていた。

 銀座のネオンは相変わらず明るく、タクシーは深夜でも行列をつくり、ゴルフ会員権の値段は新聞の経済欄で毎日のように話題になっていた。

 それでも、どこかで何かが変わり始めている——そんな感覚が、恒一の胸の奥に残っていた。

 商社のオフィスの窓から見える街は、いつもと同じように騒がしかった。だが、社内の空気は微妙に違っていた。

 営業部のフロアでは、電話の声が少しだけ小さい。

 笑い声も、どこか遠慮がちだった。


 机の上の新聞を、恒一はもう一度見た。

「金融機関、不動産融資に慎重姿勢」

 小さな記事だった。

 だが、その文字は妙に重く感じられた。

「見たか、それ」

 背後から声がした。

 振り向くと、山本がコーヒーの紙カップを片手に立っていた。

「新聞ですか?」

「銀行の話だ」

 山本は新聞の見出しを指で叩いた。

「こういう小さい記事が出始めたらな、だいたい空気が変わるんだよ」

 恒一は黙って頷いた。

「まだ上がるって言ってる連中も多いですけど」

「そりゃそうだ」

 山本は肩をすくめた。

「上がってるときは、みんな上がる理由しか見ないからな」

 少し沈黙があった。

 オフィスの奥で、誰かが電話で大声を出していた。

「だから言ってるだろ!今が買いなんだよ!」

 どこか必死な声だった。

 山本はその声を聞きながら、ふっと笑った。

「バブルってのはな」

 カップのコーヒーを一口飲む。

「みんなが同じ方向を向いて走り出したときが、一番危ない」

 恒一は窓の外を見た。

 街は相変わらず輝いている。

 だが、どこか遠くで、見えない歯車が静かに軋み始めているような気がした。


 その夜、恒一は麻美と小さな居酒屋で会っていた。

 新橋の裏通り。

 ネオンはあるが、銀座ほど派手ではない。

 店のテレビでは、ニュース番組が流れていた。

 キャスターが真面目な顔で話している。

「本日、日銀は——」

 常連のサラリーマンたちはあまり興味がないらしく、焼き鳥をつまみながら野球の話をしていた。

 麻美はビールを少しだけ口に運んだ。

「会社、忙しい?」

「まあな」

 恒一は笑った。

「最近は不動産の話ばっかりだ」

「まだ上がるの?」

 麻美の声は、静かだった。

 恒一は少し考えてから言った。

「正直に言うと、わからない」

 麻美は少し驚いた顔をした。

「あなたがそんなこと言うの珍しいね」

「そうか?」

「うん」

 麻美は箸で枝豆をつまみながら言った。

「前はもっと自信ありそうだった」

 恒一は苦笑した。

「山本さんに言われたんだ」

「何て?」

「みんなが同じ方向に走り出したときが一番危ないって」

 麻美は少し黙った。

 店のテレビでは、株価のニュースが流れている。

 バブルという言葉はまだ使われていなかった。

 でも、数字のグラフはどこか不自然だった。

「怖い?」

 麻美が聞いた。

 恒一は、少し考えた。

 そして正直に言った。

「少しな」

 麻美は笑った。

「よかった」

「え?」

「あなたが怖いって言える人で」

 その言葉は、不思議と温かかった。


 その頃、別の場所では、全く違う空気が流れていた。

 六本木の高層ビルのバー。

 ガラス越しに東京の夜景が広がっている。

 テーブルの上には高級なスコッチ。

 氷がゆっくり溶けていた。

 神谷はグラスを手に、窓の外を見ていた。

 隣には、不動産会社の社長が座っている。

「銀行が渋ってるって話、聞いたか?」

 社長が言った。

 神谷は笑った。

「噂ですよ」

「いや、結構本気らしい」

 神谷は氷を回した。

 カラン、と小さな音がした。

「銀行なんて、いつだってそうだ」

 静かな声だった。

「上がってるときは文句を言う」

 グラスを口に運ぶ。

「でも、最後には金を出す」

 社長は笑った。

「さすが神谷さんだ」

 神谷は何も言わなかった。

 夜景の向こうに、東京湾が見える。

 あの湾岸の土地。

 まだ誰も手をつけていない巨大な場所。

 神谷の頭の中では、そこに未来の街が広がっていた。

 ホテル。

 オフィス。

 高層マンション。

 すべてが金になる。

 神谷は小さくつぶやいた。

「時代はまだ終わってない」

 だがその言葉は、夜景の中に静かに消えていった。


 そしてもう一人、静かな場所にいる男がいた。

 宗一郎だった。

 古い商店街の喫茶店。

 木の椅子。

 年季の入ったカウンター。

 テレビでは同じニュースが流れていた。

「金融政策の見直し——」

 宗一郎は黙ってコーヒーを飲んでいた。

 隣の席の老人が言った。

「景気いいねえ、最近」

 宗一郎は少しだけ笑った。

「そうですね」

 窓の外を見た。

 商店街は静かだった。

 バブルの熱は、この辺りまでは届いていない。

 宗一郎は新聞を折りたたんだ。

 そして、ぽつりと言った。

「景気がいいときほど、人は自分を見失う」

 老人は聞いていなかった。

 宗一郎はそれ以上何も言わなかった。

 ただ、遠くを見ていた。

 まるで、これから来るものを知っているように。


 東京の夜は、まだ明るかった。

 だがその光の下で、

 見えないひびが、ゆっくりと広がり始めていた。

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