第24話 風向き
第24話 風向き
三月の終わりだった。
東京の空は、春なのにどこか乾いていた。
霞んだ青空の下で、ビルの窓ガラスが鈍く光っている。
道路にはまだスーツ姿の人間が溢れているのに、街のどこかに、わずかなざわめきが混じり始めていた。
恒一は銀座の交差点を歩いていた。
ネクタイを少し緩めながら、手に持った封筒を見下ろす。
中には、湾岸開発の資料が入っている。
大型案件だ。
成功すれば、会社の未来を変える。
だが、胸の奥に妙な引っ掛かりがあった。
そのとき、ポケットのポケベルが鳴った。
――銀行からの呼び出しだった。
「至急、来店願います」
短い文字が、妙に冷たく見えた。
銀行の会議室は、いつもより静かだった。
分厚いカーテンの隙間から、午後の光が細く差し込んでいる。
長いテーブルの向こう側に、三人の銀行員が座っていた。
恒一が椅子に腰を下ろすと、支店長が書類を閉じた。
「今日はですね」
声が慎重だった。
「湾岸の件ですが……少し状況が変わりまして」
恒一は黙ってうなずいた。
支店長は一瞬だけ視線を落とし、それから言った。
「本店の判断で、不動産関連の新規融資は当面、慎重にすることになりました」
部屋の空気が止まった。
恒一は言葉を探した。
「……つまり」
「この案件も」
支店長はゆっくり続けた。
「現段階では、融資を進められません」
外では、車のクラクションが鳴っている。
だが、この部屋には届かない。
恒一は資料の封筒を見つめた。
まだ誰にも話していない。
麻美にも、神谷にも。
胸の奥で、何かが静かに動いた。
「理由を聞いてもいいですか」
支店長は苦笑した。
「はっきりした理由はないんです」
少し間を置く。
「ただ……」
声が低くなる。
「本店が、風向きを気にしている」
その言葉が妙に現実味を帯びていた。
銀行が「風」を見るとき。
それは、市場の季節が変わるときだ。
その夜。
新橋の小さな居酒屋。
赤い提灯が揺れ、昭和歌謡がラジオから流れている。
山本はいつもの席でビールを飲んでいた。
恒一が座ると、山本はちらっと顔を見ただけだった。
「顔が暗い」
「そうですか」
「銀行だろ」
恒一は苦笑した。
「どうしてわかるんですか」
山本は肩をすくめる。
「この時期に営業の顔が曇る理由なんて、だいたい一つだ」
ジョッキを傾ける。
「融資」
恒一は黙ってうなずいた。
山本は少し笑った。
「で?」
「湾岸案件が止まりました」
「ほう」
「本店が慎重になっているそうです」
山本はジョッキを置いた。
そして、ゆっくり言った。
「始まったな」
恒一は顔を上げた。
「何がですか」
山本はテレビの方を顎で示した。
ニュースが流れていた。
「都心部の地価は依然として高値圏ですが、一部金融機関では不動産融資を見直す動きも出ています」
キャスターは落ち着いた声だった。
だが、テロップが流れる。
「銀行、不動産融資を慎重化」
山本は小さく笑った。
「銀行がびびり始めた」
恒一は言った。
「まだ一部です」
「そうだな」
山本は頷く。
「でもな」
ビールを一口飲む。
「銀行が先に逃げる」
間を置く。
「そうすると」
ジョッキを置く。
「祭りは終わる」
店の奥で笑い声が上がった。
だが、恒一の胸には重い沈黙が落ちていた。
そのころ。
神谷は六本木のバーにいた。
グラスの中で氷が静かに回っている。
向かいに座る男が、低い声で言った。
「銀行が少し慎重になっているらしいですね」
神谷は笑った。
「銀行はいつも臆病だ」
グラスを持ち上げる。
「だから儲かる」
男は書類を差し出した。
「裏契約です」
神谷は目を通す。
湾岸開発。
表の契約とは別の土地取得。
もし成功すれば、巨額の利益。
「いい」
神谷はペンを取った。
「進めろ」
男は少し迷った。
「ですが……市場が」
神谷は遮った。
「市場は強い」
窓の外の夜景を見ながら言う。
「東京の地価はまだ上がる」
ゆっくり続けた。
「今降りるやつは、ただの臆病者だ」
ペンが紙を滑る。
契約書に名前が書かれた。
神谷のサインだった。
同じ夜。
宗一郎は古いワインを開けていた。
ラベルは色褪せている。
昭和の終わり頃のものだ。
グラスに少し注ぐ。
香りを確かめる。
そのとき電話が鳴った。
短い会話だった。
宗一郎は受話器を置き、窓の外を見た。
東京の夜はまだ明るい。
だが、遠くの空に、薄い雲が流れていた。
宗一郎はグラスを持ち上げた。
小さくつぶやく。
「さて」
ワインを口に含む。
「どこまで残るかな」
グラスの中の赤い液体が、ゆっくり揺れた。
まるで、これから来る時代の波のように。




