第23話 揺れ
秋の東京は、どこか乾いた匂いがする。
丸の内の銀行本店。
重い木の扉の奥に、融資審査室があった。
長いテーブルの上には、分厚い資料が並んでいる。
湾岸地区再開発計画。
地図の上には、未来の街が描かれていた。
高層ビル、ホテル、ショッピングモール。
だが、その絵の上を、鉛筆の先がゆっくりと動く。
「この数字だが」
部長が資料を叩いた。
「本当に成立するのか」
若い審査担当が答える。
「地価が維持されれば問題ありません」
「維持されれば、か」
部長は窓の外を見る。
皇居の森が遠くに見えた。
「最近、売りが増えている」
別の役員が言う。
「湾岸の土地です」
部屋の空気が少し変わる。
誰もすぐには口を開かなかった。
やがて部長が静かに言う。
「もう一度、審査をやり直せ」
若い担当が顔を上げる。
「しかし、この案件はすでに…」
部長は首を振った。
「いいからやれ」
その声には、いつもとは違う重さがあった。
窓の外では、秋の風が木を揺らしていた。
一方、神谷は苛立っていた。
高層ビルのオフィス。
夜の窓から東京の光が見える。
机の上には契約書。
電話の受話器を握りしめる。
「だから言ってるだろう」
神谷の声は低かった。
「今決めなきゃ終わる」
受話器の向こうで、相手が何か言う。
神谷は机を叩いた。
「銀行が慎重になってる?」
短く笑う。
「そんなのはいつものことだ」
そして声を落とす。
「土地はまだ上がる」
「分かってるはずだ」
受話器を置く。
しかし神谷の眉は、わずかに寄っていた。
窓の外のネオンが揺れている。
東京はまだ浮かれていた。
だが、その光のどこかに、影が混じり始めていた。
その夜、恒一は新橋の居酒屋にいた。
カウンターの向こうで煙が上がる。
サラリーマンの笑い声。
昭和の夜だった。
向かいに座っているのは山本。
ジョッキを持ち上げる。
「お前、最近顔が暗いぞ」
恒一は苦笑した。
「そんなことありません」
山本は笑う。
「営業の嘘はな」
ビールを一口飲む。
「三秒で分かる」
恒一は黙る。
山本は焼き鳥をかじりながら言う。
「土地か?」
恒一は驚いた。
「どうして分かるんです」
山本は肩をすくめる。
「今の若い営業はみんなそれだ」
店のテレビからニュースが流れていた。
「都心部の地価は依然として高値圏にありますが、一部の金融機関では不動産融資を見直す動きも出ています」
キャスターの声は落ち着いていた。
だが、画面の下に流れる文字はどこか硬い。
“銀行、不動産融資を慎重化”
山本はそれをちらっと見た。
「ほらな」
ビールを飲む。
「銀行がびびり始めた」
恒一が聞き返す。
「びびる?」
山本は笑う。
「銀行が先に逃げる」
少し間を置く。
「そうすると」
ジョッキを置く。
「祭りは終わりだ」
恒一はジョッキを握る。
「会社も必死です」
「不動産で勝たないと生き残れないって」
山本は笑った。
「会社はそう言う」
そして少しだけ真顔になる。
「でもな」
恒一が見る。
山本は箸を置いた。
「土地はな」
少し間を置く。
「人を幸せにもするが」
「人を壊しもする」
恒一は黙る。
山本はまた軽い調子に戻った。
「まあ」
ビールを飲む。
「俺はワインの方が好きだけどな」
恒一が笑う。
「覚えてるんですか」
山本はニヤリとする。
「お前、最初はワイン屋だったろ」
「レストラン回って」
「顔真っ赤にして」
恒一は苦笑した。
あの頃の夜を思い出す。
小さな店。
グラスの音。
人の笑い声。
山本は言う。
「商売はな」
恒一が顔を上げる。
山本はジョッキを持ち上げた。
「人が笑う方がいい」
それだけだった。
だがその言葉は、妙に重かった。
店を出ると、夜風が冷たかった。
新橋のネオンが揺れている。
遠くで電車の音がした。
麻美が歩いてきた。コートの襟を押さえながら。
「待った?」
恒一は首を振る。
二人は並んで歩き出す。
少し沈黙。
麻美が言う。
「最近忙しそう」
恒一は笑う。
「まあね」
「土地が動いてる」
麻美は夜空を見上げる。
「みんな急いでる」
「どこへ?」
恒一は答えなかった。
ネオンの光が道路に落ちる。
麻美が聞く。
「この仕事、好き?」
恒一は少し考えた。
湾岸の土地。
巨大な契約。
神谷の焦り。
そしてワインを売っていた頃。
人の顔を見ていた営業。
「まだ」
恒一は言う。
「分からない」
麻美は少し笑う。
「分からないなら」
風が吹く。
「探せばいい」
二人は歩き続けた。
その夜、東京の街はまだ明るかった。
だがどこかで、小さな音がしていた。
それはまだ誰にも聞こえない。
バブルが、ゆっくりと軋み始める音だった。




