第21話 金の蛇口
丸の内の朝は早い。
まだ通勤ラッシュ前の時間。
オフィス街の空気は静かで、ビルのガラスが淡い光を反射している。
都市銀行・大京銀行本店。
重い扉の奥に、融資審査部の会議室がある。
壁には地図。
東京の主要地価のグラフ。
長いテーブル。
朝八時半。
会議はもう始まっていた。
「不動産向け融資の残高が増えすぎています」
若い審査役が言う。
資料が配られる。
棒グラフ。
急激に伸びる曲線。
部屋の空気が少し重くなる。
部長が眼鏡を外す。
「これは去年の数字か」
「いえ、先月までです」
沈黙。
「増えすぎだな」
誰かが小さく言う。
だが、別の声がすぐに入る。
「しかし地価はまだ上がっています」
営業側の役員だ。
「担保価値は十分ある」
典型的な対立。
審査と営業。
昭和の銀行ではよくある構図だった。
別の資料が出る。
全国地価指数。
上昇カーブが、わずかに鈍っている。
ほんのわずか。
だが、銀行の目には大きい。
「これは一時的な調整では?」
営業役員が言う。
審査部長はゆっくり首を振る。
「問題は速度です」
グラフを指す。
「上がり方が速すぎる」
誰も反論しない。
その事実は、皆わかっている。
壁の時計がカチッと鳴る。
会議室の空気は、じわじわ張り詰めていく。
審査部長が静かに言う。
「担保評価の見直しを提案します」
それは重い言葉だった。
担保評価が下がる。
つまり——
融資枠が減る。
営業役員が顔を上げる。
「待ってください」
声が少し強い。
「今それをやれば市場が冷えます」
審査部長は答える。
「もう冷え始めています」
その一言で、部屋が静まる。
別の審査役が資料を出す。
「転売案件の増加です」
湾岸地区。
都心。
地方都市。
土地を買って、すぐ売る。
また売る。
その回転で価格が上がっている。
「実需ではありません」
誰も言葉を発しない。
その言葉の意味は重い。
実需がない市場は、長く続かない。
会議室の窓から、丸の内のビル群が見える。
東京は輝いている。
だが、この部屋では別の時間が流れている。
審査部長が言う。
「蛇口を少し閉めます」
その言葉は静かだった。
だが、重い。
銀行の金は水だ。
流れれば市場は膨らむ。
止まれば、しぼむ。
「具体的には?」
営業役員が聞く。
「新規大型案件は再審査」
「既存案件は?」
「担保再評価」
営業役員がため息をつく。
それはつまり——
市場の温度を下げる。
その時、一人の若い審査役が口を開く。
「湾岸地区の案件ですが」
資料をめくる。
「東都物産の開発があります」
部屋の空気がわずかに動く。
「規模は?」
「大きいです」
グラフが示される。
融資額。
土地取得。
開発費。
営業役員が言う。
「優良案件です」
審査役は続ける。
「ただし、転売前提の収益構造です」
沈黙。
審査部長がゆっくり言う。
「再審査に入れます」
その一言。
紙の上では小さな決定。
だが、それは遠くの会社の運命を揺らす。
同じ頃。
東都物産。
営業フロアの電話が鳴る。
恒一が受話器を取る。
銀行の担当者。
声は丁寧だが硬い。
「融資条件を一部見直します」
その言葉で、すべてが伝わる。
恒一は窓の外を見る。
東京の空は明るい。
だが、どこか遠くで
蛇口が閉まり始めている。
夜。
宗一郎は静かに新聞を読んでいた。
小さな記事。
銀行融資、慎重姿勢。
宗一郎は新聞を畳む。
「来たな」
誰に言うでもない。
その目は冷静だった。
「熱が引く」
窓の外には東京湾。
夜の海が黒く揺れている。
神谷はまだ知らない。
銀行の会議室で
自分の案件が再審査に入ったことを。
恒一は気づき始めている。
宗一郎は読んでいる。
そして街はまだ——
浮かれている。
ネオン。
カラオケ。
深夜タクシー。
昭和の最後の熱。
だが、その裏で
金の流れは確実に変わり始めていた。




