第20話 速い男
雨の朝だった。
六月の東京。
湿った風がビルの谷間を抜ける。
東都物産の営業フロアでは、電話の音がいつもより少ない。
それが一番不気味だった。
以前なら朝から鳴りっぱなしだった。
「土地ありますか?」
「買い手がいます」
今は違う。
受話器を持つ時間より、新聞を読む時間の方が長い。
神谷はデスクで日経新聞を広げていた。
小さな記事。
――都市銀行、不動産向け融資に慎重姿勢。
記事は短い。
だが意味は重い。
神谷は新聞を畳んだ。
「坂本」
低い声。
恒一が振り向く。
「はい」
「銀行の空気、どうだ」
「硬いです」
正直な答え。
神谷は少し笑う。
「だろうな」
その笑いは、自嘲だった。
昼休み。
神谷は一人で外に出た。
会社の近くの立ち食いそば屋。
以前なら接待ランチだった。
だが最近は、こういう店が増えた。
テレビではワイドショー。
司会者が笑いながら言う。
「土地はまだまだ上がりますよ」
店の客は誰も反応しない。
皆、新聞を読んでいる。
神谷はそばをすすりながら、遠い記憶を思い出していた。
昭和四十年代。
神谷は地方の町で育った。
父は町工場の職人。
家は小さい。
裕福ではない。
だが、神谷は頭が良かった。
学校の先生が言った。
「東京へ行け」
それが人生の分岐点だった。
大学進学。
初めて見る東京。
人の多さ。
ビルの高さ。
そして、金の匂い。
「ここには何かある」
神谷はそう思った。
東都物産に入社したのは昭和五十年代。
高度成長の余韻が残っていた。
営業部は戦場だった。
先輩が言う。
「不動産は速い奴が勝つ」
土地は待たない。
情報も待たない。
「迷うな」
それが教えだった。
神谷は、それを徹底した。
誰より早く動く。
夜でも電話する。
朝一番で現場に行く。
若い頃の神谷は、鬼のように働いた。
そして結果を出した。
土地を安く押さえ、
高く売る。
会社は喜んだ。
神谷は昇進した。
昭和六十年代。
バブルの始まり。
土地の値段が跳ね上がる。
それまでの常識が壊れた。
「買えば上がる」
そんな空気が街を覆った。
神谷は最初、警戒していた。
だがある日、数字を見て思った。
(これは本物だ)
地価のグラフは右肩上がり。
銀行は金を貸す。
企業は土地を欲しがる。
神谷はアクセルを踏んだ。
「速く」
「もっと速く」
会社の誰よりも速く。
神谷はスター営業になった。
接待は高級クラブ。
タクシーチケットは束。
赤坂の店では、神谷の名前が通じた。
「神谷さん、いつもの席どうぞ」
夜は長かった。
だが神谷は信じていた。
これは努力の結果だと。
立ち食いそば屋のテレビがニュースに変わる。
「不動産株、軟調」
神谷は箸を止める。
隣のサラリーマンがつぶやく。
「ちょっとおかしいな」
小さな声。
だが神谷にはよく聞こえた。
夜。
神谷は久しぶりに赤坂のクラブに行った。
ネオン。
シャンパン。
香水。
だが客は少ない。
ママが言う。
「最近みんな早いのよ」
終電帰り。
それが今の流れ。
神谷はウイスキーを飲む。
「神谷さん、元気ない?」
ホステスが聞く。
神谷は笑う。
「そんな顔してるか」
「ちょっと」
神谷はグラスを見る。
氷が溶けている。
昔、先輩が言った言葉を思い出す。
――不動産は速い奴が勝つ。
神谷は、ずっと速かった。
誰よりも。
だが、今ふと思う。
(速すぎたのか)
数日後。
湾岸の現場。
風が強い。
クレーンがゆっくり動く。
恒一が歩いていると、神谷が立っていた。
海を見ている。
「坂本」
振り向かないまま言う。
「お前、宗一郎と話してるんだろ」
「はい」
「どんな男だ」
恒一は少し考える。
「遅い人です」
神谷が振り向く。
「遅い?」
「十年とか二十年で考える」
神谷は笑う。
だが、その笑いは静かだった。
「俺は逆だな」
海を見る。
「三か月で勝負してきた」
沈黙。
波の音。
神谷は言う。
「なあ坂本」
珍しく穏やかな声。
「速いのと、正しいのは違うのか」
恒一は答えない。
答えられない。
神谷も分かっている。
それでも聞いた。
風が強くなる。
遠くでラジカセから長渕剛の曲が流れている。
昭和の終わりの音だ。
街はまだ輝いている。
だが、誰も知らない。
この熱が、もう長くは続かないことを。




