第18話 まだ熱の残る街で
初夏の風が、東京の街をゆっくり流れていた。
夕方の銀座はまだ明るい。
デパートの屋上から流れる古い歌謡曲。
歩道には肩パッドの大きいスーツ姿のOLたち。
景気は、まだ終わっていない。
少なくとも街はそう信じている。
タクシーは相変わらずつかまりにくいし、接待帰りのサラリーマンは赤い顔で笑っている。
だが、どこか空気が変わっていた。
新聞の数字。
銀行の態度。
土地取引の電話。
それらが、ほんの少しだけ鈍っている。
その夜、恒一は銀座の古い喫茶店にいた。
木の椅子。
黄ばんだランプ。
壁には昭和四十年代の東京の写真。
待ち合わせだった。
「待った?」
麻美が店に入ってくる。
ベージュのスカート。
少し大人びた表情。
「いや」
コーヒーが二つ運ばれてくる。
この店では、まだ紙の伝票だ。
「最近、忙しそう」
麻美が言う。
「まあね」
恒一は苦笑する。
「波が変わりそうで」
麻美はその言葉を聞き逃さない。
「崩れる?」
「まだ分からない」
正直な答え。
少し沈黙。
店の奥ではサラリーマンが将棋を指している。
ラジオからは古い歌が流れる。
昭和は、まだここに残っている。
「ねえ」
麻美が言う。
「その宗一郎さんって人」
恒一は顔を上げる。
「怖い?」
「怖いというか……」
言葉を探す。
「海みたいな人」
麻美は少し笑う。
「深い?」
「うん」
そして静かに言う。
「でも、嘘がない」
麻美はその言葉を聞いて、少し安心する。
恒一が尊敬する人間は、だいたい信用できる。
恒一と麻美は喫茶店を出た。
終電前の駅。
ホームには酔ったサラリーマン。
スーツの男たちが新聞を折りたたむ。
カラオケ帰りの若者が笑っている。
電車の風が吹く。
麻美が言う。
「東京って不思議だね」
恒一が振り向く。
「どうして?」
「みんな急いでるのに、どこへ行くのか分からない」
少し沈黙。
電車のライトが近づく。
麻美が言う。
「私ね」
線路の先を見ながらつぶやいた。
「あなたの人生に残りたい」
数日後。
宗一地所の応接室。
宗一郎は、珍しくお茶を出した。
湯のみ。
急須。
高級ではないが、丁寧な道具。
「飲め」
恒一は少し驚く。
いつもは話だけで終わる。
「ありがとうございます」
茶の香りが静かに立つ。
宗一郎は窓の外を見ている。
湾岸の空は、まだ明るい。
「君は、なぜ不動産をやる」
突然の問い。
恒一は少し考える。
「街を作れるからです」
宗一郎は何も言わない。
「人が住んで、働いて、暮らす場所」
「綺麗だな」
宗一郎が言う。
否定ではない。
ただ、確認。
「だがな」
宗一郎は続ける。
「土地は、人の欲で値段が変わる」
静かな声。
「夢で買う者もいれば、恐怖で売る者もいる」
湯のみを置く。
「だから面白い」
恒一は少し笑う。
「怖いですね」
宗一郎もわずかに笑う。
「怖くない仕事は、長く続かん」
その言葉は重い。
その頃、神谷は赤坂の店にいた。
以前と同じクラブ。
同じネオン。
だが、客が少ない。
「最近どう?」
ママが聞く。
神谷はグラスを回す。
「銀行がな」
それだけで、ママはうなずく。
「みんな同じこと言うわよ」
カウンターのテレビでは、バブル特集。
若い評論家が言う。
「日本の土地はまだ上がります」
神谷は笑う。
だが、少しだけ苦い。
風が強くなる。
海がゆっくり鳴る。
遠くで、トラックのラジカセから松田聖子の曲が流れていた。
昭和の夕暮れだ。
まだ誰も、本当の崩壊を知らない。
だが確実に、何かが近づいている。




