第17話 熱のあと
バブルが崩れた、という言葉はまだ使われていない。
新聞は「調整」「一服」「健全化」と書く。
テレビも、どこか楽観的だ。
だが、東都物産の空気は明らかに違っていた。
営業フロアから灰皿が消えた。
経費削減。
コピー用紙の使用枚数まで管理される。
それが何より象徴的だった。
かつてはタクシーチケットが机に山積みだった。
深夜の六本木で領収書を切るのが当たり前だった。
今は違う。
「終電で帰れ」
総務から通達が出る。
昭和の熱が、音もなく冷えていく。
神谷は自席に座っていた。
机の上は整理されている。
以前のように資料が乱雑に積まれていない。
動きが止まっているのだ。
役員会の決定は重かった。
湾岸案件の責任は、形式上は“部門全体”。
だが実質は、神谷。
裏契約の件は公式には処分保留。
しかし昇進は白紙。
それだけで十分だった。
「部長」
若手が声をかける。
神谷は顔を上げる。
目の奥の炎が、弱い。
「……何だ」
「宗一地所との再設計案、進めるそうです」
一瞬、表情が固まる。
「坂本が?」
「はい」
沈黙。
悔しさか、安堵か、自分でも分からない感情が胸を通る。
神谷は窓の外を見る。
以前なら、自分が立っていた場所に、別の影が立ち始めている。
会議室。
恒一は資料を広げていた。
共同開発の再設計案。
短期転売型から、段階分譲・保有型へ。
収益は落ちる。
だが、耐久性がある。
「夢がないな」
役員の一人が言う。
「はい」
恒一はうなずく。
「でも、潰れません」
空気が止まる。
潰れない。
今、最も現実的な言葉。
武田部長が言う。
「宗一地所の条件は?」
「収益配分は低めです。ただし——」
一枚の紙を出す。
「土地の評価は固定しない。再評価条項付きです」
役員が眉をひそめる。
「下がる可能性もある」
「はい」
恒一は言う。
「現実を共有します」
その言葉が、静かに響く。
幻想ではなく、現実。
会議は長く続き、やがて結論が出る。
「進めろ」
それは大きな一歩だった。
夜。
麻美はアパートの台所で味噌汁を温めていた。
テレビでは、湾岸再開発特集。
「一部計画見直しへ」
アナウンサーの声は落ち着いている。
だが画面の空撮映像は、どこか寂しい。
電話が鳴る。
「もしもし」
「進んだ」
恒一の声。
「うまくいった?」
「まだ分からない。でも、進んだ」
麻美は小さく笑う。
「それが一番だね」
少し沈黙。
「怖くない?」
麻美が聞く。
「怖いよ」
恒一は正直に言う。
「でも今は、逃げたくない」
麻美は窓の外を見る。
昭和の街は、まだネオンが光っている。
でも、その光は以前ほど眩しくない。
「一緒にいるよ」
その言葉は、重い。
支える、ではない。
並ぶ、だ。
恒一は受話器を握りしめる。
未来は保証されていない。
だが、選び続けることはできる。
翌日。
宗一地所。
宗一郎は契約書に目を通している。
秘書が言う。
「東都物産、覚悟が見えます」
宗一郎は静かにうなずく。
「熱が引いたあとの顔だ」
「信用できますか」
宗一郎は少しだけ笑う。
「信用は、結果のあとだ」
ペンを置く。
「だが、あの若者は逃げなかった」
それが何より重要だった。
そして、夕暮れ。
湾岸の風は冷たい。
鉄骨の影が長く伸びる。
恒一は現場を歩いていた。
派手さはない。
だが、地面は確かにある。
後ろから声。
「立っているな」
振り向く。
宗一郎。
「はい」
「怖いか」
「はい」
正直に答える。
宗一郎はうなずく。
「怖さを知った者は、欲に溺れにくい」
風が強まる。
海が低く鳴る。
「これからはな」
宗一郎は続ける。
「増やす時代ではない」
「では?」
「残す時代だ」
その言葉が、胸に刻まれる。
増やすのではない。
残す。
会社を。
信用を。
未来を。
遠くで、古いラジカセから流れるサザンの曲が風に混じる。
昭和は、まだ終わっていない。
だが、確実に次の時代が来ている。
神谷は自席で静かに考え始めた。
麻美は、隣に立つ覚悟を固めている。
宗一郎は、次の一手を読んでいる。
そして恒一は——
守るために攻める。
本当の試練は、“失わないこと”だ。




