第16話 崩落の音
四月の東京は、妙に明るかった。
桜は散り始め、花びらがアスファルトに貼りついている。
春なのに、空気は軽くない。
朝九時。
東都物産の営業フロアに、一本の電話が入った。
総務部経由で、役員室へ。
その十分後、神谷が呼ばれた。
フロアはざわつく。
「あの銀行だろ」
「まさか…」
灰皿の煙がゆらりと揺れる。
役員室の空気は冷えていた。
「追加融資は全面停止だ」
専務が短く言う。
神谷は一瞬、言葉を失う。
「……一時的な措置でしょう」
「違う」
書類が机に滑らされる。
内部通達の写し。
不動産向けエクスポージャー、緊急縮小。
「既存案件の再査定も入る」
その一文が、刃のように刺さる。
「再査定……?」
「担保評価が見直される」
神谷の顔から血の気が引く。
それは、連鎖の始まりだ。
担保評価が下がれば、追い証。
資金繰りが狂えば、転売。
転売が増えれば、価格下落。
波ではない。
崩落だ。
営業フロアに戻った神谷の顔は、いつもの自信に満ちたものではなかった。
「坂本」
声が低い。
「今すぐ、宗一地所に接触しろ」
恒一は息を呑む。
「共同開発の件で?」
「違う」
神谷は吐き捨てる。
「一部、引き取らせる」
空気が凍る。
宗一地所に“押しつける”ということだ。
長期保有を前提にしている相手に、急場の処理を頼む。
「無理です」
恒一は即答する。
神谷の目が燃える。
「何が無理だ」
「今持ち込めば、足元を見られる」
「見られて何が悪い!」
声が割れる。
フロアが静まり返る。
神谷は気づく。
自分が、追い込まれていることを。
「坂本、お前はどっちだ」
低い声。
「会社か、宗一地所か」
その問いは乱暴だ。
だが本音だ。
恒一は一瞬、迷う。
そして言う。
「会社です」
神谷の目がわずかに緩む。
だが次の言葉で、再び硬直する。
「だからこそ、今は売らない」
静寂。
「今売れば、底を作る」
神谷の拳が机を叩く。
「理屈だ!」
「現実です」
その瞬間、別の社員が飛び込んでくる。
「部長!湾岸C区画、買い手が撤退です!」
空気が割れる。
「理由は?」
「銀行の融資内示が取り消しに」
神谷の顔が歪む。
もう隠せない。
波は、崩れている。
午後。
株式市場が荒れた。
不動産関連株、急落。
ニュース速報が流れる。
「過熱感への調整か」
キャスターは落ち着いている。
だが画面の数字は赤い。
東都物産の株価も、わずかに下がる。
小さな数字。
だが心理は大きい。
湾岸の現場。
風が強い。
クレーンがきしむ。
神谷は一人、海を見ていた。
灰色の水面が荒れている。
そこへ、背後から声。
「早かったな」
振り向く。
宗一郎。
偶然ではない。
神谷は苦く笑う。
「笑いに来たか」
「いや」
宗一郎は海を見る。
「音が変わった」
神谷は言い返せない。
「まだ終わらん」
「そうだな」
宗一郎は静かに言う。
「だが、熱は冷える」
神谷の喉が鳴る。
「助ける気はあるか」
ついに、本音が出る。
宗一郎はしばらく黙る。
「条件次第だ」
それは冷酷ではない。
現実だ。
神谷は初めて理解する。
自分は、欲に乗っていた。
だがこの男は、波を待っていた。
立場が逆転している。
夜。
麻美は会社のロビーで恒一を待っていた。
テレビではバブル特集の再放送が流れている。
「土地は永遠に上がる」
過去の評論家が笑っている。
その映像が、今は滑稽に見える。
恒一が現れる。
疲れている。
「崩れた?」
麻美が小さく聞く。
「音を立てて」
短い答え。
二人は無言で歩く。
夜風が冷たい。
「怖い?」
麻美。
「正直、怖い」
恒一は答える。
「でも、逃げない」
その目に、揺れはある。
だが、芯はある。
麻美はそっと言う。
「一緒に考える未来、だよね」
恒一は頷く。
その言葉が、踏みとどまらせる。
翌朝。
緊急役員会。
神谷の裏契約が議題に上る。
追加取得の一部が、取締役承認を経ていなかった。
追撃の材料。
会議室は冷たい。
「説明を」
専務が言う。
神谷は黙る。
やがて、低く言う。
「間に合うと思った」
それは嘘ではない。
本気だった。
だが、読めなかった。
波を。
会議室の窓から、春の光が差す。
明るいのに、寒い。
神谷は初めて、敗北を感じる。
市場にではない。
自分の読みの浅さに。
そしてその夜。
宗一郎が恒一に電話をかける。
「来なさい」
短い。
指定されたのは、湾岸の埋立地。
夜の海は静かだった。
「崩れたな」
宗一郎が言う。
「はい」
「これからが本番だ」
その言葉は重い。
「欲が去った後に、何が残るか」
恒一は海を見る。
暗い。
だが、遠くに灯りがある。
「未来です」
宗一郎はわずかに笑う。
「やっと同じ目になったな」
波は崩れた。
神谷は追い込まれた。
市場は恐怖を覚え始めた。
だが——
ここからが、本当の試練が始まる。




