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第8話 読まれなかった四十二頁

 その綴りは、思いのほか呆気なく出てきた。


 外務卿の執務室、奥の引き出しの底だった。鍵はかかっていない。書類押さえの下でもない。ただ、奥に押し込まれていただけだった。誰かが隠したわけではなく、誰も取り出さなかったというだけのことだった。


 若い書記が表紙の埃を払い、ガルム伯爵の卓に置いた。

「閣下。お探しの引き継ぎ書が、見つかりましてございます」

 ガルムは羽根ペンを止めなかった。

「そこへ」

 書記が一礼して下がる。分厚い綴りが、卓の端で日に照らされていた。背の角が擦り切れている。何度も繰られた本の擦り切れ方ではなく、棚で押し合わされて潰れた擦り切れ方だった。


 ガルムはしばらく、それを見なかった。

 見たくなかったわけではない。見る必要をこれまで感じてこなかった、その続きのなかにいただけだった。


 扉が叩かれ、ロデリックが入ってきた。

「ガルム。例の、ヴェルダンとの……更新の件は、進んでいるか」

 王太子の声には、半月前にはなかった硬さがあった。

「ご案じめさるな」

 ガルムはようやくペンを置いた。「書は、ここに。あの女の手柄話も、これで実体が知れましょう。所詮は紙でございます」

 彼は綴りを引き寄せ、頁を繰った。指は途中で止まらず、目当ての数字を探した。四十二頁。


 そこにあったのは、思っていたものではなかった。


 頁は罫の隅まで字で埋まっていた。条約本文の写しではない。更新の「手順」だった。誰に、いつ、何の形で申し入れるか。受け取りの確認をどう取るか。署名の場をどこに設けるか。その一つ一つに、ただの段取りではない注が添えられていた。


 ――先方は窓を背にする席を求める。これを違えれば交渉は始まる前に終わる。

 ――申し入れの茶は灰緑かいりょく。香りの強き赤茶は出すべからず。

 ――一煎目は供さぬこと。それは侮りと取られる。


 ガルムは眉を寄せた。

「席だの茶だの。これが外交か」

 声に出して笑おうとして、笑えなかった。注の意味が、彼には読めなかったからだ。なぜ窓を背にするのか。なぜ一煎目を出してはいけないのか。理由は書かれていない。書かれていないのではなく、書く必要のない者にだけ宛てて書かれていた。


「ロデリック殿下」

 ガルムは頁を指で押さえたまま言った。「ここに、手順は確かにございます」

「では、進められるな」

「……ヴェルダンへの申し入れは、宮廷の作法に通じた者を立てねばなりませぬ。先方の儀礼を心得た者を」

「ミレーユは六カ国語を話す」

「話すことと、座らせ方を知ることは、別でございました」


 ロデリックの顔が曇った。彼は言葉の意味の半分しか掴めていなかったが、掴めなかったという事実そのものが、彼を不安にさせた。


「では誰が」

 ガルムは答えなかった。

 手順は、手元にあった。頁に、確かに記してある。だがその頁を実行に移すには、ヴェルダンの誰に話を通せばよいかを知る者が要る。先方の宮廷で名と顔の通った者が要る。窓を背にする席を、向こうの作法どおりに整えてみせる者が要る。


 その人脈は、王宮のどこにもなかった。

 あったとすれば、それは半月前にこの城を出ていった。


 ガルムは、自分が放った言葉を思い出した。

 ――外交は紙ではなく、人の心でするもの。

 あのとき卓に置かれた綴りを鼻で笑った。紙など要らぬと笑った。いま、その紙だけが手元にあり、人の心を動かす手立てだけが無かった。言葉が、空を切ったまま戻ってこなかった。


「ガルム」

 ロデリックが一歩近づいた。「来月だと聞いた。更新の期限は」

「……左様で」

「間に合うのか」


 外務卿は、四十二頁を閉じなかった。閉じれば次に開くとき、また同じ頁を一から読まねばならない気がした。彼は頁の端を、ただ指でなぞった。


 *


 フリーセン。ロート商会の帳場。

 ニコが街道の便りを抱えて駆け込んできた。

「レオノーラさん。リーゼンの宮廷、外務卿がやけに使いを出してるって話っす。ヴェルダン宛てらしいんすけど、どれも返事が来ないとか」

 レオノーラは帳面から目を上げなかった。

「申し入れの宛先を、間違えているのでしょう」

「宛先?」

「相手の宮廷には、話を通すべき順がある。順を飛ばせば、文は届いても読まれない」

 彼女は短く息を置いた。(手順は、渡した。読み方は、渡していない)


 ニコが首をかしげた。

「それ、教えてあげないんすか」

「報酬の話が、まだありません」

 レオノーラは羽根ペンの先を改め、また帳面に戻った。


 *


 王宮の窓は西を向いていた。

 夕日が執務室に差し込み、開いたままの四十二頁を赤く染めた。ガルムはその色を、しばらく見ていた。香りの強い赤茶を出してはならぬ、と頁は言っていた。なぜなら、と理由を尋ねる相手は、もうこの城にいなかった。


 手順は、手元にあった。

 それでも、王宮は最初の一歩を踏み出せなかった。

 紙は残っても、紙を生かす者は残らなかった――王宮はようやく、その意味に触れ始めます。

 次話、フリーセンに思わぬ筋から「リーゼンの噂」が届きます。引き続きお付き合いいただけますと嬉しいです。ブックマーク・評価が次を書く力になります。


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