第7話 更新期限は、来月です
王宮の執務室に、朝の光が差していた。
新外務卿ガルム伯爵は、机の上に積まれた書状を順に開いては、また閉じていた。どれも内政の陳情で、外交に関わるものは一通もない。彼はそのことに、むしろ安堵していた。
外交とは、人と人の心でするもの。半年前にそう言い切ったとき、それは威勢のいい台詞だった。だがこの一月、王宮を訪れた他国の使節は、一人もいなかった。
「静かなものだ」
ガルムは独りごちた。静かなのは、平穏だからではない。誰も、こちらに用がないからだ。そのことに、彼はまだ気づいていない――いや、気づきかけていることを、認めたくなかった。
扉が開き、ロデリックが入ってきた。王太子の足取りは、どこか落ち着かない。
「ガルム。少し、いいか」
「これは殿下。何か」
ロデリックは窓辺に立ち、しばらく外を見ていた。やがて、振り返らずに言った。
「先月、あの者が去り際に言ったことを、覚えているか」
あの者、とだけ言った。名は出さなかった。
「……はて」
「ヴェルダンとの条約だ。更新の期限は来月だと、確かにそう言った」
ガルムの指が、書状の端で止まった。
「殿下。あれは、去り際の捨て台詞でしょう。役目を解かれた腹いせに、不安を残していっただけのことです」
「だといいのだがな」
ロデリックは机に近づき、声を落とした。
「昨夜、古い暦を確かめた。先王の代に結ばれた条約だ。確かに――今年の、来月だった」
部屋の空気が、わずかに重くなった。
「あの者は、嘘を言う女ではなかった。少なくとも、職務の上では」
ガルムは何か言おうとして、言葉が出てこなかった。それが事実だと、彼自身がいちばんよく知っていたからだ。
「では、更新を進めればよろしい」
ようやく、そう言った。
「どう進める」
「は」
「条約を、どう更新する。文面はどこにある。相手国に、いつ、誰が、何を持って行く。手順を、お前は知っているか」
ガルムは答えなかった。知らなかった。条約という紙が、どこにしまわれているのかさえ。
「……調べさせます」
声が、わずかにかすれた。
ロデリックは、それ以上は責めなかった。責めれば、自分の足元も同じだと知っていたからだ。彼は窓の外へ目を戻し、低くつぶやいた。
「ミレーユに、聞いてみたのだ」
「あの令嬢に」
「ヴェルダンの言葉なら、彼女は話せる。だから、文面くらいは読めるかと」
ロデリックの肩が、わずかに落ちた。
「だが、条約というものを見たことがないと言われた。話すのと、書くのと、段取りを組むのは、別の業だと。……あの娘は、正直だった」
ガルムは口を結んだ。語学の才女。六カ国の言葉を操ると評判の少女。だが評判は、卓の上では一行も働かない。
「ともかく」
ロデリックは執務室を出る前に、もう一度だけ言った。
「来月までに、手順を揃えよ。隣国との約束を切らすわけにはいかん」
扉が閉まると、ガルムは深く息を吐いた。胸の内で、何かがざわついている。それを焦りと呼ぶことを、彼はまだ拒んでいた。
彼は控えの書記官を呼んだ。
「先の外務担当が遺した書類があるはずだ。分厚い綴りだ。各国の慣習やら、席次やら、条約の手順やらが、すべて書いてあるという。探してこい」
「綴り、でございますか」
「ああ。あの女が……いや、前任が、卓に置いていったものだ。どこかにあるだろう。書庫か、引き出しか」
書記官は一礼して下がった。
ガルムは椅子に深く腰を沈めた。あの綴りを、自分が鼻で笑って受け取らなかったことを、彼はもちろん覚えていた。だが、今さらそれを口にするわけにはいかない。
(外交は、人の心でするもの――)
その言葉が、今は妙に空々しく響いた。
窓の外で、王宮の旗が風に鳴っていた。来月という言葉だけが、机の上に置き去りにされたように、重く残っていた。
――そのころ、フリーセン。
自由交易都市の一角、ロート商会の二階。レオノーラは窓辺の机で、各国から届く商況の便りを読んでいた。穀物の値、関税の改定、使節の往来。事実だけが並んだ紙の束を、彼女は淡々とめくっていく。
ニコが書状を一通、卓に置いた。
「レオノーラさん。リーゼンからの、商人筋の噂です。王宮が、急に古い書類を探し始めたとか」
「そう」
レオノーラは、便りから目を上げなかった。
「何を探しているか、までは書いていません」
「いいのよ」
彼女は静かに紙を伏せた。
(来月)
その一言だけが、頭の片隅で、正確に時を刻んでいた。
条約には、更新の期限がある。期限を一度逃せば、条約は破られるのではない。ただ、静かに失効へ向かう。誰かが声を荒げるわけでもなく、文面が一行ずつ意味を失っていく。それを止める手順は、相手国の慣習に沿って組まなければ通らない。
その手順を、今この大陸で知っているのは――おそらく、彼女ひとりだった。
「言わないんですか」
ニコが、遠慮がちに尋ねた。
「教えてあげれば、王宮も助かるんじゃ」
「私の領分では、もうないわ」
レオノーラは、それだけ言った。声に、責める色はなかった。恨む色も。ただ、事実を置くように。
「読む読まないは、あちらが決めたこと」
彼女は窓の外を見た。フリーセンの空も、よく晴れていた。
(さて――綴りは、今どこにあるのかしら)
あの分厚い綴りを、ガルムは受け取らなかった。とすれば、あれは王宮のどこかに、置き去りにされている。書庫の隅か、引き出しの奥か。あるいは、もう。
四十二頁。そこに、すべての段取りが書いてある。
それを開く者がいなければ、来月は、ただ静かに過ぎていく。
レオノーラは便りの束を揃え、机の端にそろえて置いた。何も言わず、何もしなかった。
ただ、時計の針だけが、王宮とこの街とで、同じ速さで進んでいた。
王宮が、ようやく「来月」の重さに気づき始めました。けれど、肝心の手順を記した綴りは、今どこにあるのか――探し始めたのは、それを鼻で笑って受け取らなかった当人です。
次話、その綴りの行方が、少しだけ見えてきます。
静かに進むこの逆転を、ブックマーク・評価で見守っていただけると励みになります。それでは、次の卓で。




