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第6話 名前のない信頼

 フリーセンの朝は、鐘より先に荷車の音で始まる。


 ロート商会の二階、レオノーラに割り当てられた小さな卓の前に、その日の最初の客が立った。仕立てのよい外套。襟に、メーア都市同盟の組合章。


「アーレンス公爵令嬢でいらっしゃいますか」


「今は、ただのレオノーラです」


 男は安堵したように肩の力を抜いた。メーアの交易監督官、ハーロ・ヴェントと名乗る。卓の向かいに腰を下ろし、声をひそめた。


「実は、リーゼン王国との関税の取り決めで、こちらの解釈と王宮の解釈が食い違っておりまして。王宮に問い合わせても、要領を得ぬ返事ばかりで」


「条文の何条ですか」


「第九条の、再輸出の扱いです」


 レオノーラは少し考え、それから答えた。


「あの条項は、四年前に私が起草しました。再輸出を関税の対象に含めない、という一文は、メーアの組合が冬の備蓄を切らさぬための例外です。王宮の写しには、その但し書きが欄外に落ちているはずです」


「……欄外」


「正本の但し書きを写し損ねた控えが、出回っています。御社の手元の写しに、その一行を補えば、争いは起きません」


 ハーロは長く息を吐いた。


「やはり、あなたに伺ってよかった。王宮ではなく」


 (……王宮ではなく、私に)


 レオノーラは、その言葉を一秒だけ手帳に留めた。


 ハーロが帰ると、入れ替わるように次の客が来た。サヴァル連合の使者だという、髭の濃い壮年の男。面子の国の人間らしく、まず長い挨拶があり、贈り物の干し杏が卓に置かれた。


「サヴァルの族長会議は、リーゼンの新しい外務卿とやらに、書状を送った。だが返事の文面が、こちらの作法を踏んでおらん。族長の名を、序列の下に並べてあった」


 レオノーラは目を伏せた。サヴァルでは、名の並び順が誇りそのものだ。序列を違えた書状は、宣戦に等しい侮辱になりうる。


「その書状、まだ族長会議には回しておられませんね」


「あんたに見せてからにしようと、押さえてある」


「賢明です。返書を一通、こちらで作法どおりに整え直しましょう。元の書状は、行き違いの写しということにすれば、面子は立ちます」


 使者は破顔した。


「これだ。これを聞きに来た」


 彼が去ったあと、戸口で一部始終を聞いていたニコが、砕けた敬語で口を開いた。


「レオノーラさん。みんな、王宮を飛ばして直接ここに来ますね。……これって、まずくないんですか。本当は、国と国の話なのに」


「まずいかどうかは、私の領分ではありません」


 レオノーラは手帳を閉じた。


「ただ、事実として——彼らが信じているのは、リーゼン王国ではなく、私の手帳です」


 ニコが黙った。


 奥の帳場から、ヴェルナー・ロートがこちらを見ていた。算盤の手を止め、何も言わない。ただ、品定めをするのとは違う目で、しばらくレオノーラの横顔を眺めていた。やがて低く、独り言のように言う。


「……名前のない信頼、か」


 その声は、レオノーラには届かなかった。


 *


 王宮では、ガルム伯爵が一通の書面を握りつぶしていた。


「断られた、だと?」


 卓の向かいで、若い文官が背を丸めている。


「メーア都市同盟が、関税協議の正式な席を……王宮ではなく、フリーセンで開きたいと。それも、アーレンス公爵令嬢が同席するなら、と」


「公式の協議を、なぜあの女の都合に合わせねばならん」


「先方の言い分では、王宮の出す条文の控えが、たびたび本文と食い違うと。確かな写しを持つ者と話したい、と申しておりまして」


 ガルムは答えなかった。半年前、交易許可の差配をあの女に断られた日の苦さが、喉の奥にこびりついている。だが今、苦いのはそれだけではなかった。


「……確かな写しを持つ者」


 文官は声を落とした。


「サヴァル連合からも、返書がございません。こちらの書状に、不備があったのではと」


 ガルムは窓の外へ目をやった。心でするものだと、自分はあの場で言い放った。外交は紙ではなく、人の心でするものだと。


 その心が、今、自分ではない誰かに向いている。


 別室では、ロデリック・リーゼンがミレーユ・サンクと向き合っていた。


「ミレーユ。サヴァルの返書を、君の言葉で書いてみてくれないか。君は六カ国を話せるのだろう」


 ミレーユの筆が、止まった。


「……話すことは、できます。けれど、書状の作法は、その、習いそびれていて」


「作法?」


「サヴァルでは、名の並べ方に、決まりがあるそうなのです。私は、それを、誰からも教わっていません」


 ロデリックの顔から、いつもの柔らかさが消えた。


「教わっていない……レオノーラなら、知っていたのか」


 ミレーユは答えられなかった。


 ロデリックは無意識に、いつもの言葉を口にしかけた。助かったよ、と。だが、その言葉を向ける相手は、もうここにいない。彼は途中で口をつぐみ、自分でも理由のわからない焦りに、卓の縁を指で叩いた。


 (聞いていない、という言葉を、私は何度言うのだろう)


 彼自身は、まだその問いに気づいていない。


 *


 フリーセンに、夕暮れが落ちた。


 その日、レオノーラを訪ねた要人は、三国にわたって五人。誰も、王宮の名を出さなかった。皆、彼女個人の名を呼び、彼女個人の手帳を頼った。


 イレーネが葡萄酒の瓶を片手に、階段を上がってきた。


「聞いたよ。王宮が、メーアに協議の席を蹴られたって。はっ、いい気味だね」


「私の領分ではありません」


「あんたの領分じゃない、ねえ」


 イレーネは瓶を卓に置き、肩をすくめた。


「けど、おかしな話さ。国と国の約束ってのは、本来、人が代わっても回るもんだろう。それが——あんた一人がいなくなっただけで、回らなくなってる」


 レオノーラは、窓の外を見た。フリーセンの灯りが、ひとつ、またひとつと点っていく。


 (信頼は、制度に紐づいていなかった)


 四年分の約束は、条文の形をしていながら、その実、彼女ひとりの頭の中だけで生きていた。それを紙に移そうとした最後の試みが、あの引き継ぎ書だった。だが、誰も読まなかった。


 王宮はまだ、自分たちが何を失ったのかを、言葉にできずにいる。協議が一つ断られ、返書が一つ滞る。その小さなほころびを、彼らはまだ偶然だと思っている。


 それが偶然ではないと気づくとき、王宮は初めて、ひとつの問いに行き当たる。


 ——公式の外交が、なぜ、一人の令嬢を欠いただけで止まるのか。


 レオノーラは手帳を開き、今日訪ねてきた五人の名を、静かに書き留めた。

 ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

 今回、レオノーラは何もしていません。ただ、座っていただけです。それでも国は、彼女のもとへ歩いてきました。

 次話、王宮はついに「彼女がいないと回らない」という事実を、口に出さざるを得なくなります。

 続きが気になる方は、ブックマーク・評価で見守っていただけると嬉しいです。それでは、次の卓で。


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