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第5話 通じない言葉

 王宮の小書庫に、ミレーユ・サンクの声が朗々と響いていた。


「ご覧ください。これがヴェルダンの古い詩集です。原文のまま、すらすら読めますの」


 彼女はガルム伯爵の前で、ヴェルダン語の一節を諳んじてみせた。発音はなめらかで、抑揚も美しい。ガルムは満足げにうなずいた。


「やはり君に任せて正解だった。六カ国語とは、まことに頼もしい」


 ミレーユは頬を染め、誇らしげに胸を反らす。


 そこへ、書記官が一枚の書状を運んできた。ヴェルダン側から届いた、条約更新にまつわる照会状である。


「ミレーユ様。こちらの訳を、お願いできますでしょうか」


「ええ、もちろん」


 彼女は受け取り、目を走らせる。一行目は、なんなく読めた。二行目も。だが三行目で、指が止まった。


「……これは」


 文中に、見慣れない言い回しがあった。〈卓を改める〉という語。日常の会話では使わない。だが宮廷の文書では、しばしば現れる。


 ミレーユは知っていた。〈卓〉は食卓のことだ。〈改める〉は新しくすること。ならば――席を整え直す、という意味だろうか。


「卓を、新しく……? 茶会の支度の話、でしょうか」


 ガルムが眉をひそめた。


「茶会? 条約の照会状だぞ」


「ですが、文字どおりに読めば、そう書いてありますの」


 ミレーユは困惑していた。一語一語は、たしかに読める。読めるのに、つながらない。文が、自分の知っている世界の外を指している気がした。


 ――〈卓を改める〉。


 それは、交渉そのものを白紙に戻し、条件を一から問い直す、という外交上の決まり文句だった。ヴェルダンが照会状にこの語を使ったということは、現行の条約を前提とせず、更新の条件をすべて見直す構えだ、という宣告に等しい。


 ミレーユは、その含意をひとつも掴めなかった。


「とにかく、訳しておきます。〈茶席を改めたく〉――こんなところでしょうか」


 ガルムは深く考えず、うなずいた。


「うむ。先方は儀礼にうるさいというからな。茶の支度を整えよ、ということだろう。手配しておけ」


 書記官だけが、わずかに眉を寄せた。だが、新任の外務卿と評判の才女がそろって言うのだ。口を挟むのは、はばかられた。


 書状は、そうして握り潰された意味のまま、棚に戻された。


 ミレーユは、もう一度文面を見た。読めるはずの言葉が、なぜか手のひらをすり抜けていく。流暢に喋れることと、文の裏を読むことは、どうやら別の技らしい。その気づきが、胸の底に小さな影を落とした。


 (私は、何を、見落としているのかしら)


 だがその影を、彼女はまだ言葉にできなかった。


 *


 謁見の間では、別の困りごとが起きていた。


 メーア都市同盟の使者が、交易の更新について王太子ロデリックと向き合っている。同席するのは、ガルムとミレーユ。


「殿下。今期の関税について、こちらの提案を申し上げたい」


 使者はメーア語で切り出し、ミレーユがすぐに訳した。会話は淀みなく流れる。挨拶も、世間話も、彼女の口を通せば滑らかだった。


 ロデリックは、ほっと息をついた。少なくとも、言葉は通じている。


 だが、使者が一枚の覚書を差し出した瞬間、空気が変わった。


「では、こちらの条項を。〈従前の慣例に従い〉と」


 ミレーユが訳す。


「〈これまでどおりに〉、と申しております」


「ふむ、これまでどおりなら結構」


 ガルムが軽く請け合おうとした。ロデリックは、しかし、なぜか引っかかった。


 ――これまでどおり、とは、いつの「これまで」だ。


 メーアとの交易慣例は、五年前に一度、大きく書き換えられている。〈従前の慣例〉が指すのが、書き換え前なのか後なのか。そこで関税の額が、丸ごと変わってしまう。


 ロデリックは外交が得意ではない。だが、こういう「言葉のあいだに落ちている何か」が、過去に何度もあったことだけは、覚えていた。そのたびに――


 誰かが、すっと口を開いて、火種を消していた。


「ミレーユ。その〈従前〉は、どの取り決めを指している?」


「え……?」


 ミレーユは、訳した文面をもう一度見た。〈従前の慣例に従い〉。文字は読める。だが、それが「いつの慣例」かは、文面のどこにも書かれていない。


「……書いて、ございません」


「書いていない言葉を、どう読めばいいんだ」


「そ、それは……これまでどおり、としか」


 ロデリックは黙った。使者が静かに彼を見ている。この覚書を曖昧なまま受ければ、メーアに有利な「これまで」が後から差し込まれる。それくらいは、彼にも嫌な予感として分かった。


 だが、では何と言って押し返せばいいのか。それが、出てこない。


 (こういうとき……いつも、どうしていた)


 *


 同じ刻限。フリーセンの宿の二階で、レオノーラ・アーレンスは窓辺に立っていた。


 書記のニコが、机に広げた地図から顔を上げる。


「レオノーラ様。さっきからずっと思ってたんすけど、ひとつ訊いていいすか」


「どうぞ」


「言葉が分かれば、外交ってのは、できるもんなんすか? その、六カ国語ぺらぺら、みたいな」


 レオノーラは、わずかに振り返った。


「喋れることと、通じることは、別です」


「……別?」


「たとえば」と彼女は窓の外を指す。「あの市場で、商人が『また今度ね』と言ったとします。同じ言葉でも、メーアの商人なら『この値では買わない』の合図。サヴァルの民なら、本気で次を約束しています。文字は同じ。意味が、国ごとに違う」


 ニコは目を丸くした。


「うへえ。じゃあ、辞書だけ持ってても駄目ってことすか」


「辞書は、言葉の表しか載せません。裏は、その国の歴史と面子と、過去の揉め事の上に積もっています。条約の一語が、十年前の戦の傷を踏むこともある」


 レオノーラは静かに続けた。


「言葉が国を動かすのではありません。言葉の選び方が、相手に『こちらは分かっている』と伝える。分かっている相手とだけ、人は本気の取引をします」


 ニコは、しばらく考えてから、ぽつりと言った。


「……それ、誰かに教わったんすか」


「いいえ。踏んで、覚えました。火種を、いくつも」


 彼女は、それ以上は語らなかった。


 (今ごろ、王宮の卓では、どの言葉が宙に浮いているでしょうね)


 *


 夜、ロデリックは執務室にひとり残っていた。


 昼の覚書が、机の上にある。〈従前の慣例に従い〉。結局、決を持ち越した。ガルムは「先方を信じればよい」と言ったが、信じる、で済む話でないことだけは、肌で分かる。


 彼はペンを置き、こめかみを押さえた。


 ――こういうとき。


 以前なら、隣に控えた誰かが、書面を一瞥して、淡々と言ったはずだ。短く、過不足なく。条件と、書き換えと、段取りだけで。


「……あの覚書を見たら」


 ロデリックは、つぶやいた。誰もいない部屋に向かって。


「レオノーラなら、何と――」


 言いかけて、口をつぐむ。


 その名を、自分が今、無意識に呼ぼうとしたことに。


ミレーユは嘘つきではありません。本当に六カ国語を話せます。ただ、外交が必要としていたのは「話す力」ではありませんでした。


ロデリックが思い出しかけた一言を、彼はまだ最後まで言えません。次話、その続きを書きます。

ブックマークや評価をいただけると、夜の執務室の灯りが少し長く灯ります。

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