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第4話 慣習という名の地雷

 王宮の小会議室に、午後の光が斜めに差していた。


 卓の上座にガルム伯爵が座り、その向かいに、ヴェルダン大使オズワルド・カイが浅く腰を下ろしている。傍らには補佐としてミレーユ・サンクが控え、白い手を膝の上で重ねていた。


 定例の儀礼的な会合――条約更新を控えた、顔合わせの席である。本来であれば、緊張など要らないはずの場だった。


 ガルムは上機嫌だった。


「さあ、大使閣下。難しい話は抜きにして、まずは打ち解けましょう。外交とは、結局のところ人と人の心ですからな」


 彼は手ずから、自分の前に置かれた茶器を持ち上げ、先に一口、含んだ。


 オズワルドの目が、わずかに細くなる。


 その所作を、ガルムは見ていない。


 ヴェルダンの礼法では、客である使節が最初に茶を口にする。主人が先に飲むのは、毒見の意――すなわち「客を疑っている」という無言の表明になる。少なくとも、彼らはそう受け取る。


 オズワルドは何も言わなかった。ただ、出された茶を、口へ運ばなかった。


「閣下、どうぞ。冷めてしまいますぞ」


「……結構」


 短い拒絶に、ガルムは気づかない。気づかぬまま、機嫌よく話を継いだ。


「ところで、こちらの茶は王都でも評判の品でしてな。ヴェルダンの方のお口にも合うかと」


 卓に置かれていたのは、香りの強い、王国産の赤茶だった。


 オズワルドは、その湯気を一瞥した。


 彼が好むのは、ヴェルダン北方の〈灰緑かいりょく〉――くすんだ緑の、香りの薄い茶である。ヴェルダンの上位者は、客を遇するとき、必ず二煎目を供する。一煎目は香りを開くために捨て、二煎目を「客のために淹れ直した」しるしとして出す。それが彼らの敬意の形だった。


 強い香りの一煎目を、そのまま出す。それは彼らの作法では、客を「その程度の相手」と値踏みしている、ということになる。


 オズワルドは、椅子の背に深くもたれた。値踏みされたのは、自分のほうではない、とでも言うように。


 ミレーユが、空気の冷えを察して口を開いた。


「大使閣下。ヴェルダンの言葉で、なにか、お好みのものを伺いましょうか。わたくし、北方の訛りも、少しは」


 彼女はヴェルダン語で、丁寧に問いを重ねた。発音は澄み、文法にきずはない。


 オズワルドは、初めて彼女を見た。そして、ヴェルダン語で短く返した。


「……綺麗な言葉だ。学校で習ったような」


 ミレーユの頬が、わずかに緩む。褒められたと思ったのだ。


 だがオズワルドの言葉には、続きがあった。


「我が国では、客間の言葉と、台所の言葉は違う。あなたが今お使いになったのは――客間の言葉で、台所の用を足そうとしている」


 その含意を、ミレーユはすくえなかった。


 言葉は通じている。意味も訳せる。だが、その語がどの卓で、誰に向けて、どんな顔で使われるべきものか――そこにある重さの差は、辞書には載っていない。


 彼女は微笑んだまま、何を返せばいいのか分からず、口を閉じた。


 ガルムは、二人のやりとりを「和やかな会話」と見ていた。


「ははあ、さすがはミレーユ嬢。言葉が通じれば、心も通じる。これでこそ外交だ」


 オズワルドは、その言葉に、薄く笑った。


 笑いながら、彼は卓の上を、ゆっくりと検分した。茶の色。茶器の置かれた向き。誰が先に飲んだか。誰が誰の隣に座っているか。供された皿の数。


 一つ残らず、彼は読み取っていた。そして、その一つ残らずが、彼の流儀において「侮り」を意味していた。


 (この国は)と、オズワルドは胸の内で値を付ける。


 (足元を、まるで固めていない)


 以前、この卓には別の人間が座っていた。アーレンスの令嬢。彼女と向き合うとき、オズワルドは常に、卓の上に隙を探して見つけられなかった。茶は二煎目で、香りは薄く、彼の座る向きは窓を背にしてあった。一言ごとに、退路と面子を計られている感触があった。


 あれは、容易な相手ではなかった。容易ではないからこそ、対等だった。


 だが、今この卓にあるのは、香りの強い一煎目と、客間の言葉で台所の用を足す娘と、自分が先に茶を飲んだことにすら気づかぬ伯爵である。


 くみしやすい。


 オズワルドは、ゆっくりと立ち上がった。


「本日は、顔合わせということで」


「お、もうお発ちですかな。話はこれからでしょうに」


「ええ。これからです」


 彼は丁重に、しかし一切打ち解けることなく、頭を下げた。打ち解けないことが、すでに一つの答えだった。


「更新の話は、改めて。――こちらにも、こちらの作法というものがありますのでね」


 その一言のとげを、ガルムは聞き取れなかった。ミレーユは聞き取れたが、訳せても、何が起きたのかは分からなかった。


「いやはや、上々の手応えだ」


 扉が閉まると、ガルムは満足げに腹をさすった。


「大使も、なかなか気さくな御仁だったな。茶も褒めてくれた」


 ミレーユは、答えなかった。


 彼女の語学は、たしかに六カ国に届く。だが届くのは言葉の表面までで、その下に沈んでいる慣習や、誰が先に飲むかという数センチの順序や、香りの一煎と二煎の差――そういうものには、決して手が届かない。


 それを、彼女は今日、初めて知った気がした。知ったが、まだ言葉にはできなかった。


 卓の上で、誰も口をつけなかった赤茶が、ゆっくりと冷めていく。


 香りの強い、一煎目のままで。


 ――同じ頃。


 国境を遠く越えた自由交易都市フリーセン。ロート商会の帳場に、一人の商人が噂を持ち込んでいた。


「聞いたかい。旧市街と新市街の水利の話、一文で片づけた交渉人がいるってさ」


 帳場の奥で算盤そろばんを弾いていた女商人イレーネが、顔を上げた。


「女だろ。アーレンスの」


「知ってたのか」


「はっ。この街で、あたしの耳より先に届く噂はないよ」


 イレーネは算盤を置き、卓の上の茶器を、客の前へ、向きを直して滑らせた。取っ手が、ちょうど相手の右手に来るように。


 それは、誰に教わったわけでもない、この街の商人なら息をするようにやる所作だった。相手がどの国の人間で、どの手で杯を取るか。供す前に、ひと呼吸で読む。


「あの令嬢はね」と、イレーネは茶を一口含んでから言った。


「卓に着く前に、相手が何で機嫌を損ねるかを、ぜんぶ知ってる。あんな手帳、見たことがないよ。――どこかの国は、それを紙くずだと思って捨てたらしいけどね」


 彼女は、痛快そうに鼻を鳴らした。


「いい気味だ、とは言わないけどさ。茶ひとつ出せない卓で、これから条約を更新するんだとよ。さあて、どうなることやら」


 帳場の窓の外で、フリーセンの市が賑わっていた。


 その喧騒のどこかで、アーレンスの令嬢の名が、また一つ、誰かの口にのぼっていた。


 ――王宮では。


 冷めた茶を前に、ガルムが上機嫌で次の予定を語っている。


 誰も知らない。


 今日この卓で、香りの一煎目とともに供されてしまったものが、来月の更新交渉の卓に、そのまま運ばれていくことを。


 オズワルドは、もう、頭を下げる気でいない。


 では――硬化した大使の前に、王宮は、何を差し出せるのだろうか。


 お読みいただき、ありがとうございます。


 茶を先に飲む。香りの強い一煎を出す。たったそれだけのことが、相手の国では「あなたを侮っています」という宣言になる――言葉が通じても、卓の作法は訳せません。


 次話、ミレーユの「通じる言葉」が、いよいよ実務でほころび始めます。


 続きが気になる方は、ブックマーク・評価で応援いただけると、とても励みになります。それでは、また次の卓で。


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