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第3話 一文で、水は流れる

 ロート商会の二階、来客用の卓に、二組の客が背を向け合って座っていた。


「で」


 ヴェルナー・ロートが、両者のあいだに茶を置きながら言った。


「うちが間に入って、もう三度目だ。三度とも、あんたら同じ顔で帰っていった。今日は何が変わる?」


 答えはない。


 卓の右手に座るのは、フリーセン旧市街の運河を握るカルツ商会の老主・ベルント。左手は、新市街の井戸と配水を束ねるメーア系の小邦、シュタイク同盟の代理人・オットー。長年、用水路の取り分でいがみ合っている、とニコが事前に耳打ちしていた。


「もう十年だってさ」


 ニコが、レオノーラだけに聞こえる声で続けた。


「街の長老が三人、間に立って、三人とも匙を投げた。下手にどっちかの肩を持つと、運河の水も、新市街の畑も、両方止まる。だから誰も触りたがらない。——ヴェルナーさんが、これをあなたに振ったんだ」


「承知しました」


 レオノーラは短く返した。誰も解けなかったから難しいのか、誰も本気で解こうとしなかったから残っているのか。卓に着くまで、それはわからない。


「レオノーラ」


 ヴェルナーが、卓の端に控えた彼女を見た。


「あんた、契約文は読めるんだろう。読んでみな」


 レオノーラは、卓に広げられた古い水利協定の写しを、指先で追った。


 (取り分は六対四。十年前のまま。揉めているのは数字ではない)


 彼女は二人の顔を順に見た。ベルントは胸の前で腕を組み、視線を合わせない。オットーは何度も写しの「分量」の行を指で叩く。


 (片方は面子。片方は実利。欲しいものが、そもそも違う)


「失礼ですが」


 レオノーラは、ベルントに向かって口を開いた。


「カルツ商会さまは、水の量そのものは、もう足りておいでですね。新市街に多く流れること自体は、構わない。お困りなのは、協定の文面で、あなた方が『譲った側』として書かれていることでは」


 ベルントの腕が、わずかにほどけた。


「……古い家が、新参に頭を下げたと、市場で言われる。それが我慢ならんのだ」


「承知しました」


 レオノーラは今度はオットーに向き直る。


「シュタイク同盟さまは、面子はどうでもよろしい。とにかく今より一割、水が要る。畑が増えた。違いますか」


「そのとおりだ」オットーが身を乗り出す。「面子の話は、もう聞き飽きた」


 ニコが、控えめに口を挟んだ。


「えっと……つまりこういうこと? 片方は『損してもいいから恥をかきたくない』。もう片方は『恥はどうでもいいから水が欲しい』。——欲しいものが、ぶつかってない?」


「ぶつかっていません」


 レオノーラは静かに頷いた。


 (だから、これは纏まる)


 彼女は懐から手帳を取り出した。フリーセンに着いた日から書き溜めてきた、薄い綴り。王宮に置いてきた分厚い引き継ぎ書の、ほんの始まりにすぎない一冊だ。それでも最初の数頁には、この街の商家の禁句と、卓の席次の癖が、もう細かく並んでいる。


 ベルント・カルツ——「譲」「引いた」の語を市場で嫌う。


 シュタイク同盟——格式の語を好まず、数字を最優先。


 レオノーラは目を上げた。


「ヴェルナーさま。協定の写しに、こう書かれています。『カルツ商会は、シュタイク同盟に対し、水量の一割を譲渡する』」


「ああ。それが争点だな」


「この一文を、書き換えます」


 彼女は卓に紙を引き寄せ、筆を取った。


 間があった。


 ベルントもオットーも、彼女の手元を見ている。


「では、こう書きましょう」


 レオノーラは、ひと息で書いた。


「『カルツ商会は、新市街の発展に資するため、自らの裁量により、水量の一割を新市街へ振り向ける』」


 卓が、静かになった。


「譲渡、という語を消しました。代わりに、カルツ商会さまが『自らの裁量で』『街のために』そうなさる、と書いてあります。水の流れる量は、一割。一字も変わりません」


 ベルントが、写しと新しい一文を、何度も見比べた。


「……儂が、街のために、自分で決めて、振り向ける」


「左様です。頭を下げて譲ったのではない。古い家が、度量を見せた。そう読めます」


 オットーは、もう写しの数字の行を見ていた。


「一割。減らないんだな」


「減りません。あなた方が手にする水は、一滴も」


 ニコが、ぽかんと口を開けてから、早口で言った。


「つまり……同じ水が同じだけ流れるのに、片方は『恥をかかずに済んだ』、片方は『水を手に入れた』。文字を一行変えただけで、二人とも勝った、ってこと?」


「勝ち負けの卓ではありません」


 レオノーラは筆を置いた。


「両方が、欲しかったものを持って帰る。それだけです」


 ベルントが、ふっと肩の力を抜いた。長く張っていた糸が切れたような顔だった。


「……この一文でいい。これでいいなら、儂は判を押す」


「私もだ」オットーが頷く。「水が来るなら、文言は好きに書け」


 ヴェルナーが、声を立てずに笑った。それから、いつもの口癖を、半分だけ言いかけて——やめた。値段の話を、今は挟まなかった。


 二組の客が、はじめて互いに会釈をして、階段を降りていく。


 ヴェルナーは、空になった卓を見下ろして言った。


「十年だぞ。十年、誰も解けなかった結び目だ。あんたは、それを茶が冷める前にほどいた」


「結び目ではありませんでした」


 レオノーラは手帳を閉じる。


「二人とも、別々の紐を、同じ結び目だと思い込んでいただけです」


 (火種、消去。次は——)


 そこまで考えて、彼女はふと手を止めた。手帳の最初の頁。王宮で書き込んだ、ヴェルダンとの条約の更新期限。来月。


 (……あれは、誰が段取りをつけるのか)


 彼女は、その頁を、もう一度だけ見て、閉じた。


 *


 同じころ、リーゼン王国の王宮では、別の卓が軋んでいた。


 ヴェルダンとの定例交渉。新任外務卿ガルム伯爵が、上座から朗々と語っている。


「我が国とヴェルダンの友誼は永きにわたる。今後の関係も、心と心で——」


「外務卿」


 大使オズワルド・カイが、ゆっくりと茶器を持ち上げた。一口含み、眉をひそめる。


「この茶は、ぬるい。それに、私の席は、なぜ西を向いている」


 ガルムが言葉に詰まった。隣のミレーユ・サンクが、ヴェルダン語で慌てて何か取りなす。流暢だった。発音は美しかった。


 だがオズワルドは、ほんの少しだけ、目を細めた。


「……令嬢。あなたの言葉は、よく回る。だが、私が今、何に気を悪くしたか——それは、おわかりかな」


 ミレーユは、答えられなかった。


 茶の温度。席の向き。それらが何を意味するのか、彼女の六カ国語の中には、書かれていなかった。


 オズワルドは茶器を置き、薄く笑った。


「続きは、また次の機会に」


 席を立つその所作に、ガルムは「友誼の確認ができた」と満足げに頷いた。何かが傾き始めていることに、まだ誰も気づいていない。


 *


 フリーセンの夕暮れ。イレーネが酒杯を片手に、ロート商会の戸口から顔を出した。


「聞いたよ。カルツの爺さんとシュタイクが、揃って判を押したって? あの二人を同じ卓で笑わせたやつがいるって、もう市場じゅうの噂だ」


 彼女は、レオノーラを上から下まで眺めた。


「『フリーセンに、話の早い交渉人がいる』——だとさ。あんた、名前を売る気がなくても、名前のほうが勝手に歩き出すよ」


 レオノーラは、手帳を抱えたまま、窓の外を見た。


 運河の水が、夕日を割って、新市街のほうへ流れていく。一割多く。誰も損をしないまま。


 (噂は、水と同じ。低いほうへ流れる)


 その流れが、いずれどこへ届くのか。


 彼女は、まだ知らない。


水は、量を変えなくても、一文で流れ方が変わります。

レオノーラの仕事は、誰かを負かすことではなく、全員に「持って帰るもの」を作ること。


その噂が、やがて思わぬ卓へ届きます——たとえば、王宮で茶をぬるくされている、あの人たちのもとへ。

続きが気になった方は、ブックマーク・評価をいただけると、次の卓を整える励みになります。

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